176 もう一人のアレクシス・4
ああ。夢だ、と思った。
連日見ている夢。夢を見ている間は、まるでそれが現実かのように鮮明で、起きても覚えていなければならないと誓う。しかし、どんなに強く願っても、自分に誓っても、忘れてしまう。
ターヘンで見た白昼夢の、続きであるそれ。
己へ突き刺そうとしていた剣を捨て、男へ近づく。異様に整ってはいるが――不快に感じる顔。
現実でも似た男を知っている。ルスト・バーン。姉上の護衛の騎士となった男。
しかし――違う。あの男と、この目の前の男は、根本的に違うのだとわかっている。それは、これが夢で過去の出来事の再現だからというわけではない。
――存在そのものが。
男の手が、額に触れた。氷のように冷たい。
『この世界はね、君の子孫のために作られた。彼らの幸せのために。君はその幸せを形作る歯車となる役目を担う。それが君の運命だ。いや、――だった、かな? ほら、見るといい』
『ぐああああああっ』
頭に、何かが流れ込んでくる。ここから遠い先の光景。未来のエスフィア。銀髪の王子と黒髪の少年――。
いや、あれは、あれは、姉王の……!
苦痛に膝をついた。
頭を抱える。
垣間見た、幸福に満ちた光景に、深い絶望に襲われる。
『何故奴が!』
血を吐くような叫びをあげた。せっかくこの世から消し去ったというのに。
奴が、幸せに? ……幸せだと? 奴の幸せのための世界だと?
そんなことが、どうして許される。
『へえ?』
少し目を見開いて虚空を見つめた男が、次に面白そうに嗤った。
『……なるほど。そうなんだ? これはぼくが仕組んだわけじゃないんだけどなあ。君が殺した姉上の「従」が彼なんだ? カイレンが主人公ねえ……』
『……黙れ』
カイレン。それは忌むべき名前だった。姉王……女王イデアリアの『従』だった男。
『主』を残し、一人逃げた裏切り者。口にしたくも、聞きたくもなかった。
こちらの心を読んだかのように、男が言葉を紡いだ。
『裏切り者? 君の見方だとそうなるのか。まあ、君からすれば間違いじゃない。じゃあ、カイレンの魂を持つ主人公の、約束された幸せを壊したいかい?』
毒のような、それでいてひどく甘い囁きだった。
『……できるのか』
『簡単だよ。君が勝てばいい。そうなったら、彼の存在を世界から消し去っても良い。そのために、君に運命に抗う力をあげよう』
機嫌良さそうに、男が続ける。
『麻紀ちゃん――。彼女にだけ機会が与えられるのは不公平だ。君は、ぼくの目に留まったという点で充分な資格を得たと言っていい』
――駄目だ、とアレクシスは思った。
警鐘が鳴っている。夢の中で、ウス王でありながら、アレクシスとしての部分が、この男の甘い言葉に乗ってはいけない、と警告しているのに。
続きがどうなるか、知っている。
『代理人の力を与えよう。ただし、君もまた代理人として働かなければならない。君が殺した、これのように』
これ――そう男が形容したのは、うつ伏せに倒れ、絶命した死体だ。男が代理人、と呼ぶもの。
そして、代理人が何なのか、正確なところはわからない。だが、理屈ではなく、わかる気がした。何故なら自分は、それを破壊せんとして来た。
殺せば何か変わるのではないかと思っていた。
男の言う、定められた未来へと導くための存在だったとは、知りもしなかったが。
――自分にとっては、絶望の未来へと。
そのために、働く?
ギリ、と奥歯を噛みしめる。
力を得たところで、そんなものに、何の意味がある?
『話はちゃんと聞かないと』
男が人差し指をゆっくりと左右に振った。
『でも同時に、代理人の力を君の意志次第で正反対の方向に使うこともできる。……罰を伴うけどね。運命に逆らうことだからさ。――運命の履行と反逆が、君に力をあげる条件だ』
毒の囁きが聞こえる。
――最後の選択だ。
さあ、どうする?
駄目だ。止めろ。
――この後に起こることを、アレクシスは知っている。
もう幾度も見た。夢の中にいるときは覚えているのに、忘れてしまう。
だが、常に同じだ。
正反対の答えが、生まれる。
アレクシスは止めろと叫び、しかし、自体には何一つ変化を起こせない。ウス王にも、男にも聞こえてはいない。
ウス王は――。
『――力が欲しい』
そう答えるのだ。
……おそらくは、男が望んでいた通りに。
『歓迎するよ。素晴らしい選択だ』
男の琥珀色の瞳が暗い喜びに輝いた。
『じゃあ――念のために、目に見える形でも残しておこうか』
――夢が、切り替わった。
別の場所に、立っている。
どこだ?
――青い部屋。『空の間』? しかし、これまでの夢で見飽きたその場所とは、似て非なるところだった。
さっきと、時間軸が違うのか?
夢で見るのも、はじめての。
部屋には、握りこぶしほどの、光り輝く青い石が安置されている。
――何故だか、わかった。
これが、男が、「目に見える形で残す」と言っていたものだと。
美しい青い石が、邪悪なものに見えた。
青い石の前に立ち、自分が、呟いた。
「これで――」
違う。過去じゃない。これは、未来?
視線の高さが、異なる。ウス王ではない、アレクシス自身が。
「――アレクシス!」
はっと、目を開ける。
目の前に手をかざされ、アレクシスは瞬きをした。顔を上げると、兄であるセリウスがそこにいた。
「兄上……」
「うなされていたが……。会議が再開するぞ。――眠れていないのか?」
ぼんやりと、状況を把握する。大会議場の王族席。休憩時間に入ったところまでは覚えている。うたた寝していたようだ。……姉上を避けるのを止めてから、気が緩んでしまっているのかもしれない。こんなことでは、いけないのに。
「いえ……」
曖昧な答えを返した。眠れてはいる。正確には、眠りたくない、が正しい。夜中に第二の鍛錬場で身体を動かしていたこともあった。そのために、結果的に睡眠不足になっている。だがある日を境に、ウス王の夢を見なくなった。いや、夢自体はおそらく見ている。寝覚めの悪さと、起きたときの不快感がそれを物語る。覚えていなくとも、夢の余韻が残っている。ひどい夢を見ているに違いないのに、起きたときは何一つ覚えていない。
何一つ?
自分で思ってから、相違点に気づく。
まず、特に寝覚めが最悪だということ。
それに今回は、覚えていることがあった。そのせいか。
――青い部屋と、そこに置かれている部屋と同色の石。
その部屋の中に立つ……ウス王?
そう思ったとき、ひどく嫌な気分になった。首を振る。
あれが過去の再現だとしたら――場所は? 何のための?
「この間、復調したばかりだろう。諸侯会議は何日も続く。無理をして出席する必要はない」
復調……そういうことになっているんだったか、と改めて思う。
自分がターヘンに赴いていたことは伏せられている。ただし、それをこちらを見下ろす兄が信じているかまではわからない。
「どうして私を起こしたんですか?」
昔……兄が子どもだった頃はともかく、長じてからは、兄がアレクシスを気に掛けることは減っていた。別にそれは悪いことではない。アレクシスも何とも思っていなかった。
「うなされている弟を無視し続けるほど、非道ではないつもりだ」
隣の王族席に座った兄が答える。その眼差しは、決して冷たくはない。
……逆に、自分がターヘンからエスフィアに戻ってきてから、兄が少し昔に戻っているような気がして、居心地が悪い。
――逃げ出したくなる。
何故そんなことを思ってしまうのか。
姉上を避けていたときと、行動としては似ている。
ただ、明確に差異がある。感情の差が。
自分でも、謎の感情だった。兄と――もう一人。
護衛の騎士にした、デレク・ナイトフェローと接するとき、自分が罪人のように感じる。
悪いことをしたことが、あるかのような。
負い目、あるいは罪悪感と呼ぶべきもの。
二人がアレクシスに対し優しさを見せるとき、それが重みを増す。
しかし、アレクシス自身には身に覚えがないのだ。
それでいて――空白部分を直視したくはない。
――だって。
胸の前で、作った拳に力を込める。
――姉上に、嫌われたくない。




