――第9章・悪夢の記憶――
〈ザリア……わたしの子……〉
〈起きなさい、我が子よ〉
ザリアは目を開けた。
気づけば、キッチンのテーブルについていた。何もかも見覚えがない。金色の絨毯に、上品に仕上げられた壁。ラベンダーの香りまで漂っている。
向かいに座っていたのは、ずっと追い求めてきた、その人だった。
「ママ?」
〝ジア〟は、失望を露わにしていた。
「情けない子ね。ようやく師匠に会えたというのに、見せられるものはこれだけ? その態度の悪さ、なっていない型、世間知らずの子供じみた振る舞い。あなたを娘と呼ぶのが恥ずかしいわ」
「ママ、そんなんじゃ――!」
ジアは立ち上がり、娘の周りを歩き始めた。
「あの男が何者か、わかっているの? わかるはずがないわね。わかっていたら、一緒に旅をするなんて、絶対に承知しなかったでしょうから」
「何言ってんだよ」
「あの男は、わたしたちのようなただの人間より、はるか上の存在。伝説のハンター。千を超えるダンジョンを攻略し、数えきれないドメインボスを屠り、最終階層に立つ者たちとさえ刃を交えてきた。そんな男が、あなたをあっさり見捨てないとでも思う? あの男にとって、あなたに何の価値があるの?」
「ママ、なんでそんなクソみたいなこと言うんだよ。あたしの味方じゃねえのかよ。それに、あたしに何ができるか、あの人に見せてやる! あの人は強いかもしれねえけど、それでも助けは必要なはずだ!」
ジアがテーブルに両手を叩きつけた。
「助け? 助けですって? あの男はあなたの助けなんて求めていない! 誰の助けも求めていないのよ! どうしてわたしを拒んだと思う? どうしてわたしを破滅へ送り出したと思う? あの男が気にかけるのは、自分自身のことだけ。それさえ、ほんのわずかよ」
ザリアは床を見つめた。
「違う。あんたはママじゃねえ。そんなはずねえ。ママは、あんたみたいな性悪ババアじゃねえ。それに、自分の師匠の悪口なんか言わねえ」
「そう? いいわ。伝説のハンターの過去であなたを揺さぶれないのなら、あなた自身の過去を、もっと深く覗いてみましょうか」
場面が移り変わった。
十年前の沖縄。まさに、ザリアの記憶にあるとおりの光景だった。現象もなければ、切迫した気配もない。ただ、一人の母親が、真夜中に三人の幼い子供たちをダンジョンの門へと導いていた。
「ママ」
幼いアオイが目をこすりながら訊いた。
「どこ行くの? もう遅いし、おなかすいた!」
ジアは唇に指を当て、娘の手をぎゅっと握った。
「しーっ。いい子だから、うんと静かにしていてね。ママが、安全な場所に連れていってあげる」
「安全?」
レオが首をかしげた。
「でも、家は安全ではなかったのですか? 何があったのです、母上?」
ジアはレオの髪をくしゃくしゃと撫でた。
「何でもないのよ。ただ、やらなきゃいけないことがあるだけ。みんな、大きく強くなりたいでしょう?」
三人の子供たちはうなずいた。
ジアは子供たちを石の門まで連れていった。やはり門は封鎖され、近くには何人かの警備兵が立っていた。彼らはジアの姿を見た瞬間、動きを止めた。
「タケノさん? なぜここに? このダンジョンは、あなたの階級のカイタンシャには手に負えません。立ち入りが許されているのは、伝説のハンターとカイダン長だけです」
「聞いて」
ジアは食い下がった。
「今すぐ中に入らなきゃいけないの。わたしと子供たちには、事情があるのよ。今、この子たちを守るには、このダンジョンに入るのがいちばんいいの」
警備兵たちは、彼女のそばにいる子供たちに気づいた。
「子供? 幼い子供をダンジョンに連れ込むことはできません! 入場できるのは十八歳からです! いくら免許をお持ちでも、規則を曲げていいことにはなりませんよ!」
「議論している暇はないの! 今すぐ子供たちを中に入れなきゃ! あいつが来る! わからないの? あいつが来たら、ここにいる誰も生き残れない!」
「誰です? 誰が来るんです?」
警備兵たちが抗議を続ける中、ジアはエネルギーをまとわせた蹴りを放ち、一瞬で二人とも気絶させた。恐怖に固まる子供たちを、一人ずつポータルへと連れていく。
「さあ、みんな」
ジアは促した。
「中に入りましょう。きっとセーブフロアがあるはず。中に入れば、やっと何も心配せずに暮らせる。少なくとも、わたしの師匠が力を取り戻すまではね。そうしたら、あの人がわたしたちを外へ出してくれる」
「でも、なんで?」
ザリアが訊いた。
「ママ、まだ本当のこと教えてくれないじゃん!」
「ごめんね。でも、あなたたちに受け止める準備ができたら、全部わかるから。約束する」
子供たちが反応する間もなく、ジアは三人をポータルへと押し込んだ。泥の池に落ち、咳き込み、口に入った泥を吐き出したあの感覚を、ザリアは覚えていた。
兄と妹を泥から引きずり出しながら安全な場所まで這っていったとき、ザリアはたしかに、誰かの会話を聞いた気がした。すぐそばではなく、遠く離れたどこかで交わされている会話を。
〈ジア〉
〈近寄らないで! あの子たちはここにいない、わかった!? ここにはいないの!〉
〈だが、お前はいる。師匠はどこだ〉
〈あんたが気にすることじゃない! あの人のところには、絶対に辿り着かせない。わかった!?〉
〈いずれわかる〉
そして、すべてが静まり返った。
……
レオとアオイは、目を開けないよう気を張りながら、霧の中を歩いていた。アオイはレオの両肩をつかみ、スマホはポケットからはみ出している。
「レオ? あとどれくらいで目、開けていいの?」
「この階層を攻略するまでだ。ニュガワさんとザリアが、私たちよりうまくやっているといいんだが」
「もう! スマホも見られないとか! ほんとイライラする!」
「確認するものなんて何もないだろう。ここにはネットがない。お前が更新しているのは、お前しか見られないブログだ」
「だから? 早めに始めとくのが大事なの。ここを出たら、全世界に発信できるんだから!」
「なるほど、そうか。とにかく、目は閉じていろ。何か変なことが起きても、絶対に開けるな」
二人は前へ進み続け、その途中で何度か木にぶつかった。レオは木の位置を頼りに進路を探り、ぶつかるたびに向きを修正していく。
そのとき、ふと思いついて足を止めた。
「アオイ、お前のスピードで周囲を回って、トーテムを探せないか? 時間の節約になる」
「見えないんだよ! 見えないのに走れるわけないじゃん! レオこそ、檻で道を切り開くとかしてみたら?」
「お前と同じ理由で無理だ。何も見えない。つまり、これといった手はないということか。歩き続けるしかないな」
〈警告! 規則違反!〉
二人は思わず目を開けた。
「え?」
〈ペナルティを執行中……〉
何が起きているのか気づいたときには、二人はすでに闇に呑み込まれていた。先に闇を抜けたのはレオだった。気づけば、第一階層に戻っていた。
「これは……?」
目の前では、幼いレオが木々の間を駆け抜け、蔓を飛び越えながら、ゾンビじみた襲撃者の群れから逃げていた。どいつもこいつも斧を手にしている。その顔さえ見なければ、肉屋と見間違えたかもしれない。
幼いレオは振り下ろされた斧をかいくぐり、木の陰に隠れた。ゾンビたちは足並みを揃えて彼のほうへ行進してくる。いちばん大きな一体が、レオの隠れる木のすぐ裏で止まった。
「こいつ、なかなか強いじゃないか。力が溢れているくせに、腰抜けのように逃げ回る。なぜだ?」
ゾンビが手刀を振るうと、木がなぎ倒され、レオの姿があらわになった。今のレオが見守る前で、幼い自分が片手を突き出す。
「それ以上近づかないでください!」
「近づいたら何だ? ひっぱたくのか?」
ゾンビの一体がレオの腕をつかみ、宙へ持ち上げた。残りのゾンビたちが群がる中、幼いレオはその手から逃れようともがく。
「警告しているんですよ!」
今のレオは、これが何なのか即座に悟った。
(私が呪源に目覚めた日? なぜ、これを見せる?)
ゾンビの一体が、幼いレオの腕に噛みついた。少年の叫びとともに、その体から青いエネルギーが噴き出し――すべてが闇に包まれた。
光が戻ると、幼いレオが立っていた。その足元には、何十体ものゾンビの死体が転がっている。そこへ、幼いザリアとアオイが駆け寄ってきた。
「レオ? 何だよこれ。どうやったらこんなことできんだよ」
「わ……わかりません」
アオイがゾンビの一体をつついた。
「これ、もう二回死んでるじゃん! すごーい、レオって戦えたんだ! 写真撮っとこ!」
こんなときでも、やはりアオイは写真を撮らずにはいられなかった。レオが何が起きたのかを必死に整理する一方で、ザリアとアオイも、まだ状況をのみ込めずにいた。
今のレオの背後に、ジアが現れた。
「ああ、わたしの息子。最初に力に目覚めた子。そして、その力について、いちばん多くのことを隠している子。どうして本当の力を隠すの? 自分が何者なのか、怖いのかしら?」
「え? 母上? あ、あなたが、ここに?」
「いるのかもしれない。いないのかもしれない。でもね、檻を作るだけの子供が、たった一人でゾンビの軍勢を皆殺しにできるとは思えないのよ」
「あれは事故です」
レオは認めた。
「力が溢れ出しただけです。私はもともと戦う人間ではありません。どちらかといえば、交渉役です。ご存じでしょう、母上」
「嘘はやめなさい。暴力が嫌いだと言いながら、あなたはわたしの子供たちの中で、誰よりも暴力的よ。あなたが何者なのか師匠に知られたら、どうなるのかしらね?」
レオには答えられなかった。
顔を上げると、いつの間にかザリアとアオイと同じテーブルについていた。二人とも、彼と同じように困惑している。
「二人とも、何が起きているんだ?」
「あなたたち全員が、自分の罪の代償を払うときが来たのよ」
ジアがテーブルの真ん中に現れた。
「あなたたち三人を産んだことは、わたしの人生最大の過ちだった。伝説のハンターとの間に子供をもうけていれば、ここまで役立たずにはならなかったでしょうに」
「母上!」
「ママ!」
三人は息をのんだ。
「母親なんていないのよ」
女は言った。
「あなたたちにはね」
〈異界より来たる悪夢――クロユメ。レベル:20,000〉
ジアに代わって、顔のない女がそこにいた。何本もの黒い手が、子供たちをつかもうと伸びてくる。最初に動いたのはザリアだった。
「呪源闘士・呪殺槍!」
手の中に槍が形作られる。ザリアがひと突きすると、偽物はテーブルから叩き落とされた。
「こいつはママじゃねえ! ママの真似なんかしやがって、ぶっ殺せ!」
「わたしを殺す?」
クロユメは笑った。
「面白いわね。『師匠』がいなきゃ、ちっぽけな騎士の群れひとつ倒せなかったくせに。あなたがわたしをどうにかできるとでも思っているの?」
ザリアは手の中で槍を回し、クロユメの腹を狙って突き出した。女はそれを片手でつかみ止め、ザリアの目をじっと覗き込む。
次の瞬間、ザリアの世界は闇に沈んだ。
母の姿が、脳裏に次々と閃いた。ジアが自分たちをダンジョンに置き去りにした、あの日の光景。どれほど抗っても、その記憶を頭から追い出せない。
レオがクロユメを檻に閉じ込めた。女は抜け出そうともがいたが、やがて視線を彼へと向けた。
黒い閃光が走り、レオはゾンビを皆殺しにしたあの日――自分が何者なのかを知った日へと引き戻された。
檻が消えた。
だが、女の注意が逸れたその隙に、ザリアがその腹を槍で貫いた。
「ぐっ……厄介な子ね。もっと苦しい記憶の中に放り込んであげる。覚悟なさい!」
ザリアは間髪入れずにクロユメの腕を突き刺し、続けて顎に蹴りを叩き込んだ。クロユメは威嚇するように息を吐いて腕を伸ばし、子供たち一人ひとりに巻きつけると、そのまま宙へと浮かび上がった。
「放せ!」
ザリアが叫んだ。
「ひゃっ! 冷たっ!」
アオイが悲鳴を上げた。
「備えるんだ!」
レオが命じた。
「また私たちの過去を武器にする気だ!」
クロユメが跡形もなく消えると同時に、周囲の景色が歪み、移り変わった。ザリアとレオは、自分たちの体がどんどん小さくなっていくのを感じた。やがて、幼児とほとんど変わらない背丈になる。
今度、二人を待っていたのは病室だった。ベッドにはジアがいて、赤ん坊のアオイを腕に抱いている。
「わたしのかわいい赤ちゃん」
ジアはくすくす笑った。
「あなたの名前は……『アオイ』にしようかな。うん、アオイ・タケノ。あなたにぴったり。髪の毛、パパそっくりね」
その言葉を口にした瞬間、ジアはごくりと唾をのんだ。ザリアとレオが見ていることに気づくと、アオイを抱き上げてみせる。
「ほら、二人とも! 新しい妹よ! すっごくかわいいでしょう?」
言葉を返せたのは、レオだけだった。
「はい、母上」
ジアが娘に見とれていると、扉が開き、フードをかぶった男が入ってきた。その姿を見た瞬間、彼女の表情が曇った。
「……あんた」
ザリアもレオも、その男の声にはどこか聞き覚えがあった。
「やあ、ジア」




