――第1章・沖縄ダンジョン現象――
〈私よりも師匠に忠義を尽くすか。愚かなことだ、タケノ〉
〈絶対にあの人には背かない! 聞こえたか! 師匠を裏切るくらいなら、死んだほうがマシだ!〉
〈いずれわかる。忘れるな、タケノ。人類には期限がある。そして、その名簿にはお前の名も載っている〉
〈違う! 期限があるのはお前のほうだ! いつかあの人がお前を滅ぼしに来る。覚えておけ!〉
〈ほう、そうか。ならば、その時を待つとしよう〉
……
火曜日。午後十時九分。沖縄。
「速報です! 『B-XL』と呼ばれる沖縄ダンジョン現象が沖縄市全域に拡大し、周辺の各地域にまで広がり始めています! 至急、カイダンの出動が必要です!」
「これは……? たった今、情報が入りました! 伝説のハンター、オマリロ・ニュガワが沖縄ダンジョンに入り、現象の攻略に挑むとのことです!」
沖縄市には、何十人もの人々が集まっていた。男も女も、幼い子供たちも。ただ一人の男を見るために。
オマリロ・ニュガワ。
見た目は、小柄なアフリカ人の老人にすぎない。地面を引きずるほど長い灰色のドレッドヘアを揺らしながら、沖縄の通りを歩いていく。
聞き慣れた歓声が、あたりに響く。今さら珍しくもない。
「さすがです!」
あるいは――
「みんなを救って!」
沖縄は惨憺たる有様だった。高層ビルほどもある暗紫色の棘が通りを埋め尽くし、建物を貫いている。店は使い物にならず、家々は破壊されていた。
オマリロの杖が支えているのは、彼自身の体重と、その肩にのしかかる期待の重さだった。記者たちは彼を追いかけ回し、同じ質問を繰り返す。
「ニュガワさん、今回が最後のダンジョン攻略だとおっしゃっていましたね。あなたがいなくなったら、私たちはこの先どうやって生きていけばいいんですか?」
「ここまで進行した現象を、そもそも攻略できるのでしょうか? それに、外部の支援もなしに、どうやって第一万階層まで到達するおつもりですか、ニュガワさん?」
オマリロは気にも留めなかった。優先すべきは、やるべきことだ。そして、今日やるべきことは単純だった。
沖縄を救う。
老人は目的地へと歩いていく。石の門の内側にある、虚無を思わせるポータルだ。周囲は黄色いテープで封鎖され、何人かの警官が、好奇心に駆られた市民が入り込まないよう見張っている。
オマリロが近づくと、案の定、警備に当たっていた警官たちがテープをどけて道を空けた。彼らが口を開く前から、次に何を言われるかはわかりきっていた。
「ご本人だ……!」
「サインをいただけませんか!」
オマリロは鼻を鳴らし、そのまま通り過ぎた。どうでもいい。
門そのものが、かすかに脈打った。まるでオマリロの存在に反応しているかのようだ。入口から紫色の煙が触手のように幾筋も伸び、警官たちへと這い寄っていく。
「下がれ」オマリロは命じた。「ダンジョン、呑む気だ」
「は、はいっ!」
二人の警官が離れ、ようやく進路が空いた。市民たちが見守る中、小柄な老人は頭からポータルへと飛び込み、一瞬で姿を消した。
ポータルは何度か明滅しただけで、そのまま閉じた。残された群衆は、守護者が門へ飛び込んでいった光景の余韻に浸っていた。
……
〈入場を検知――フロアレベル:1〉
〈参加者をスキャン中……〉
オマリロが降り立ったのは、粘りつく泥に覆われた沼地だった。幾重にも折れ曲がった木々が、頭上に覆いかぶさっている。霧が立ちこめ、視界は悪い。
泥で濁った池には、オマリロにも名前のわからない魚が棲んでいた。前方の土の道は、まっすぐ霧の中へと続いている。だが、すぐに歩き出すような愚を、オマリロは犯さなかった。
待つべきものがあった。ほんの数秒で、それは現れた。
〈スキャン完了〉
〈オマリロ・ニュガワ。年齢:97。人種:アフリカ系。レベル:???〉
スキャナーが彼を読み取れなかったのは初めてではないし、これが最後でもないだろう。だが、オマリロが待っていたのは、その先――この階層の全容を知るための情報だった。
それはすぐに現れた。
〈規則:振り返るな〉
〈モディファイア:石像。全参加者の速度を80%低下させる〉
〈開始〉
フロア規則。オマリロにとって見慣れたものだ。何百、何千と見てきた。重い息を吐き、歩き出す。
案の定、足を交互に前へ出すことすらままならない。一歩ごとに、大きな石を引きずっているかのようだった。
霧も厄介だった。前にあるものは見えず、後ろを振り返って確かめることもできない。それでも、木々の間から聞こえる不気味な囁きが、ここにいるのは自分だけではないと告げていた。
オマリロは動じなかった。杖を頼りに、ゆっくりと歩みを進める。足元に打ちつけられる蔓を避け、道をふさぐ棘の茂みを迂回しながら。
骨の折れることだ。
一歩が十歩に感じられる。一分が二十分に感じられる。霧は刻一刻と濃くなっていった。オマリロが試しに手で払ってみると、小さな切れ目ができ、わずかに視界が開けた。
目ぼしいものはない。木と蔓が続くだけだ。やがて終わりの見えない歩みに嫌気が差し、オマリロは杖を掲げた。
「呪源送運者・呪われた動き」
稲妻が彼の体を打ち、周囲の木々が砕け散って灰と化した。脚に力がみなぎる。霧が再び道をふさぐよりも速く、その脚が彼を奥へと運んでいく。
蔓。茂み。泥の池。
どれも関係ない。
オマリロは道を進み、ついに中間地点へとたどり着いた。目の前には、黒いトーテムが浮かんでいた。彼の何倍もある巨大なものだ。
小さな泥の池の水面から、数センチ浮いている。オマリロが触れた瞬間、それはねじれた。この過程はよく知っている。まず伸び、次に膨らみ、最後に小さな黒いシジルへと凝縮して、オマリロの手に張りつく。
そして閃光とともに、トーテムは消えた。
〈シジル獲得〉
〈チェックポイント到達〉
先へ進もうとしたオマリロを、ある声が引き留めた。彼は足を止め、次の行動を考え直す。
荒っぽく、怒気を帯びた声だった。まるで世界そのものに腹を立てているかのような。
「はあ? まだ一匹残ってたのかよ」
別の声が答えた。こちらは落ち着いていて、揺らぎがない。
「全員片づけたと思っていたが。どうやら最後の一体を取りこぼしたらしい。まあいい、私が対処する」
三つ目の声が割り込んだ。その口ぶりだけで、オマリロには、これまた気の強そうな相手だとわかった。
「ちょっと。マジで。ありえないんだけど! 早くしてってば! そいつが誰だか知らないけど、あたしのトーテム盗ったんだから! 今すぐ返してもらわないと困るんですけど!」
枝の間で、何かが動く音がした。振り返れないオマリロは目を閉じ、耳で襲撃者の位置を探る。
後ろだ。
振り向く必要はない。
オマリロは片手を掲げ、槍の穂先を受け止めた。穂先は掌を擦り、肉を貫こうとしたが、ほとんど食い込まない。襲撃者は槍を引いた。その姿は、依然として彼の背後に隠れたままだ。
呼吸の音が消えた。相手がその場から姿を消したのだと、オマリロにはわかった。
代わりに、木々の間から一人の青年が現れた。金髪に青い瞳。どこかで見覚えのある顔だったが、誰に似ているのか思い出せない。
「速いですね。このダンジョンの規則は、入った者すべての速度を落とす。それなのに、あなたは妹の攻撃を防いでみせた」
青年は、さらにじっくりとオマリロを見た。
「魔物ではない。では何者です? 人間? いや、ありえない。その速さと頑丈さで、人間のはずがない」
「小僧、邪魔」オマリロは返した。「どけ」
「失礼ですね。少し話をしませんか? 私はレオ。レオ・タケノです。あなたは?」
その姓に、オマリロの動きが止まった。青年の顔立ちと、その姓。さっきまでは確信が持てなかったが、今ならわかる。
「タケノ……」オマリロはつぶやいた。
「ん? その名前をご存じで?」
オマリロは目を細めた。
「ダンジョン、小僧の来る場所ではない。去れ。小僧、怪我する前に」
「そこが問題なんです。出ていこうにも、出られない。母にこの地獄へ放り込まれましてね。それきり、母は戻ってきませんでした。ここを出るには、四人のパーティが必要なんです」
レオは顎をさすった。
「ですが、あなたは一人で入ってきた。四人という条件をご存じなかったのですか?」
オマリロは答えなかった。
そのとき、再び槍が首を狙ってきた。オマリロは振り返りもせずにつかみ、使い手を前へと引きずり出す。
若い女だった。見たところ、十代後半といったところか。黒い瞳に、左目を覆う黒髪のボブ。
オマリロは槍を脇へ放り捨てた。少女は間髪入れず、絶妙なタイミングで頭を狙って蹴りを放つ。
だが、あいにく、オマリロの思いどおりに事は運んだ。彼女の勢いを逆に利用し、ひと押しで仰向けにひっくり返したのだ。
「ザリア!」レオが叫んだ。「やめろ! その人は人間だ!」
ザリアは跳ね起き、拳を構えた。
「もうしゃべりすぎなんだよ、バカ! こいつが人に化ける魔物とか、なんかヤバいやつだったらどうすんだよ!」
「ここを出たいのか、出たくないのか? ご老人に襲いかかるのは、仲間を作るうえで適切なやり方ではない!」
ザリアはオマリロを指さした。
「は? 本気で言ってんの? あんな動きができるジジイなんかいるわけねえって。しかもモディファイア付きで!」
槍を拾い上げ、その切っ先をまっすぐオマリロの首に向ける。
「何しに来たか言え、怪しいおっさん。じゃなきゃ、魚みたいに腹かっさばいてやる!」
オマリロは一度、瞬きをした。もう一度。
微動だにせず、一言も発しない。むしろ、少女がそこにいること自体を鬱陶しく思っているようだった。もっとも、彼女のほうはまるで気にしていなかったが。
もう一人の少女が、茂みから現れた。白い髪をポニーテールにまとめている。緑の瞳がオマリロに向ける視線には、これまで見たこともないほどの侮りがあった。
「はあ。さっさとその魔物片づけてよ。あたしの物、返してほしいんだけど。先に見つけたの、あたしだし」
ザリアがオマリロに突きを繰り出した。
男はたじろぎもしない。
数秒後、彼はザリアの横をそのまま通り過ぎた。彼女が突き刺そうとすると、手をひと振りして武器を奪う。
レオが、その前に立ちふさがった。
「お待ちください、ご老人――いえ、どうお呼びすればよいでしょうか。とにかく、ぜひ力を貸していただきたいんです! あなたにもパーティがいないようですし。私たちと……手を組みませんか?」
「無礼な子供、いらぬ」オマリロは唸った。「失せろ」
「申し訳ありません。ですが、わかっていただきたい。このダンジョンで十年も過ごしていると、そう簡単に人を信用できなくなるんです。では、改めて。私の名前はもうご存じですね、レオです。こちらが妹のザリア。あちらの子がアオイです」
ザリア――襲ってきた少女。そしてアオイ――こちらは何者なのか、よくわからない。
どちらの名にも聞き覚えはあったが、オマリロは気に留めなかった。そのまま歩き続ける彼を、レオが追う。
「断言します。私たちは足手まといではありません。このダンジョンを一人で進むのは、あなたも避けたいはずでしょう?」
レオがザリアをにらむと、彼女はしぶしぶ槍を背中に収めた。
「ふん。そいつが正体現して化け物になったら、あたしが殺すからな」
アオイは顔にかかった髪を払い、スマホを取り出して何やら打ち込み始めた。十一年以上前の機種だ。彼らがここに閉じ込められて相当経っているのは、間違いない。
「マジでさあ、あたしたち、ジジイについてくわけ? こんなの、あたしのファンページじゃウケないんだけど」
「お前にファンページなどない」レオが言った。「いつか持ちたいなら、スマホを置いて、この方に従うことだ」
「もう! わかったってば! あたし、ただ家に帰りたいだけなんだけど!」
オマリロは歩き続け、子供たちも歩調を合わせてついてきた。もちろん、三人の先頭にいるのはレオだ。
「まだお名前を伺っていません。教えていただけますか?」
「名はない」オマリロは言った。「お前に教える名、ない」
「そうおっしゃらずに。長い旅になりますし、第一万階層にはそう簡単にたどり着けません。せっかくですから、知り合っておきませんか? 私は二十一歳。妹のザリアは十九。末の妹のアオイは十八ですが、振る舞いは八歳です」
オマリロは黙ったままだった。
「あんましゃべんねえな」ザリアが言った。「だから言ってんだろ、魔物だって」
「しっ!」
アオイがスマホを掲げ、画面を何度かタップした。
「はーい、みんな! アオイだよ! ついに、このムカつくダンジョンから出られそう! 外の空気! ファンも増える! 十代全部こんなとこで終わるとか、マジ無理だから!」
オマリロは、今どきの若者がどうのと小声でぼやき、構わず歩き続けた。霧など敵ではない。厄介なのは、新たに背負わされた重荷のほうだった。
しかも、その重荷は離れるつもりなどさらさらないらしい。
「で、ジジイ」ザリアが問いかけた。「魔物じゃないなら、何なんだよ?」
「過去の残骸」オマリロは言った。「じきに消える」
「は?」
それ以上、彼は語らなかった。
霧の中をさらに数分歩いたところで、一行は二本の木の間に浮かぶ、大きな金色のトーテムを見つけた。その下には、祭壇のようなものがある。
オマリロがトーテムに触れると、ほかの三人もそれぞれ手を触れた。黒いトーテムのときと同じ変化を経て、それは金色のシジルとなり、オマリロの手へ飛び込んで消えた。
そして、地面が揺れた。
オマリロが入ってきたときと同じような石の門が現れ、その中心には金色の渦が巻いていた。
子供たちの顔を見て、オマリロは彼らが嘘をついていなかったと悟った。三人とも、幽霊でも見たかのような顔をしていた。
「来い」オマリロは命じた。「ダンジョン、待っている」
彼は真っ先にポータルへと飛び込んだ。
「自由だ……」アオイがつぶやいた。
「まだ自由ではない」レオが訂正した。「先へ進むだけだ。このダンジョンを攻略してこそ、私たちは自由になれる」
「なんでそんなにあのジジイを信用してんだよ、レオ」ザリアが訊いた。
「あの動きを見なかったのか? 構えを見ただけでわかった。あの人は手を抜いていた。それに、一人でここに来たということは、よほどの愚か者か、とてつもなく強いかのどちらかだ。そして、私の妹をあそこまで手玉に取れる男が、愚か者だとは思えない」
ザリアは地団駄を踏んだ。
「うるせえ!」
レオは、ポータルの像が不規則に乱れるのを見つめた。
「いずれにせよ、今はどうでもいいことだ。行こう。あの人が本当に私たちをここから導いてくれるのか、自分たちの目で確かめるんだ」
そう言って、三人もポータルへと飛び込んだ。門は崩れ、粉々に砕け散った。




