不運の呪い
ダンジョンの最奥は、常に死の香りが満ちている。他人の死ではなく、己自身の死だ。冷たい湿気と、古びた魔力が腐臭を放つその深淵で、剣士の宮本霞は呼吸を整えていた。息を吐き、吸い、そして止める。肺に残った冷たい空気が、研ぎ澄まされた意識を脳髄まで駆け巡らせる。
眼前に浮遊するのは、エルダーリッチ。数百年の時を生き抜いた死霊の王だ。空洞の眼窩に宿る鬼火が、霞の魂を射抜かんと揺らめいている。周囲には解呪されなかった魔術の残骸が、電撃のように紫の火花を散らしていた。
「…行く」
短く呟いた瞬間、霞の肢体が弾けた。長い黒髪をポニーテールに縛り直し、戦いへと赴く。その腰には、二本の日本刀が交叉して収まっている。かつて最強の剣豪と謳われた宮本武蔵の末裔。その血筋は、彼女の背筋と刀筋にこそ宿っていた。
エルダーリッチの枯れ木のような指先が空を切り裂く。詠唱を要せずとも顕現する大魔術。死の光線が、霞の眉間を正確に狙って奔る。
霞は右足を軸に体を半回転させた。流れるような動作で左の刀を抜き放つ。刀身に宿った青白い魔力が、迫り来る死の光を捉えた。火花が散るわけではない。光と光がぶつかり合い、虚無へと相殺される。魔法を剣で弾く。常識外れの所業だが、霞にとっては呼吸と変わらない。
光を弾いた反動を利用し、左足で地を蹴る。距離、わずか三歩。エルダーリッチが次の魔術を構成するより早く、霞は懐へと飛び込んだ。
右の刀が、闇を切り裂く弧を描く。
「ガ…ァ…!」
肉を断つ感触はない。あるのは、凝縮された魔力と呪いの塊を両断した鈍い手応えのみ。右の刀は、エルダーリッチの首を根元から跳ね飛ばしていた。
勝負あった。そう胸中で呟き、霞は着地の姿勢を整えた。しかし、剣士の本能が警鐘を鳴らす。まだだ。まだ、終わっていない。
床を転がるリッチの首が、虚空に浮かぶ体よりも強い呪念を放っていた。空洞の眼窩の鬼火が狂ったように明滅し、霞を睨みつける。
「これで…終わると思うなよォォォッ!」
絶叫と共に、リッチの眼窩から漆黒の光が放たれた。肉眼では捉えられないほどの高速。霞は咄嗟に左の刀を盾にして構えた。魔力を込めた刀ならば、いかなる魔法も斬り伏せることができる。
しかし。
カッ、という乾いた音がした。漆黒の光は刀身を弾くでもなく、消滅するでもなく、まるで幻影であるかのようにすり抜けた。霞の瞳孔が開く。すり抜けた光は、彼女の額の中心に吸い込まれるようにして消えた。
冷たい。骨の髄まで凍りつくような不快感が、背骨を駆け上がった。
「フフ…ハハハ! それは魔法じゃない…呪いだ!」
転がる首が、かしゃかしゃと顎を鳴らして笑う。
「お前の運を…すべて奪ってやったァ! これからは…どんな些細なことでも…お前にとっては…致命的な…不運に…なるのだァァ!」
狂った笑い声を残し、エルダーリッチの首は灰となって崩れ落ちた。最後に残っていた魔力の核さえも砕け、ダンジョンの最奥に静寂が戻る。
霞はしばらくその場を動けなかった。額に残る冷たい感触を拭おうとするが、何もない。物理的な傷があるわけではない。
「何が、運を奪ったよ」
霞は鼻で笑った。彼女は剣士だ。己の剣と技のみを信じ、困難を斬り拓いてきた。運だの不運だの、目に見えないものに縋るつもりはないし、怯える理由にもならない。呪い? ただの負け惜しみだ。そう自分に言い聞かせ、彼女はリッチの魔石を回収すると、ダンジョンからの帰路についた。
***
冒険者ギルドの扉を押けると、喧騒と熱気、そして酒と汗の匂いが押し寄せてきた。ダンジョン攻略を終えた冒険者たちが、互いの武勇伝を語り合い、酔いしれている。
霞が扉をくぐった瞬間、その喧騒がふっと途切れた。視線が一斉に集まる。彼女はそれに慣れていた。いや、慣れきっていた。
長い黒髪はポニーテールにまとめられ、戦いの中で乱れた前髪をさらりと指で梳く。整った顔立ちは氷のように冷たく、感情的な色を浮かべない。スラッと長い足は機能美そのもので、革の防具越しにもそのしなやかさが伝わってくる。胸元は動きを妨げないよう仕立てられた防具に包まれているが、その膨らみは「ちょうどいい大きさ」としか言い様のない、美乳と呼ぶに相応しいものだった。過剰ではなく、しかし確かな女性の曲線がそこにある。
そして、何より目立つのは腰の二刀。かつて最強の剣豪と言われた宮本武蔵を彷彿とさせるその出で立ちは、彼女が只者ではないことを周知させている。宮本武蔵の末裔。それが彼女の背負う栄光と、重圧だ。
視線の中には、尊敬、羨望、そして淫靡な欲望が混在している。霞はそれら一切を無視し、カウンターへと颯爽と歩き出した。その足取りには迷いがない。彼女の歩みは、誰が何と言おうと「最強」への道程なのだから。
受付嬢にエルダーリッチの討伐証明である魔石を提示する。カウンター内の女性が目を丸くし、周囲からどよめきが起こる。エルダーリッチのソロ討伐など、前代未聞に近い。
「宮本さん、またまたとんでもない依頼を達成されましたね…報酬の受け取り、こちらに署名をお願いします」
事務的な手続きを終え、霞は無表情のまま頷き、カウンターを離れた。さあ、宿に戻り、傷ついた身体を休めよう。
彼女は再び、人々の視線を浴びながら歩き出した。背筋は伸び、歩幅は一定。彼女の歩みは、戦場を駆ける時と同じく完璧なはずだった。
その時だった。
足元に、黄色いものがあった。
バナナの皮。
誰がこんなものをギルドの床に置き去りにしたのか。冒険者の食事に果物はつきものだが、床に廃棄物を落とすなど不作法にも程がある。しかし、そんな怒りが湧くより早く、事態は動いた。
「…え?」
霞の完璧な歩みが、完璧に崩れた。
いつもの彼女なら、足元の違和感など数歩前から感知できただろう。剣士としての気配察知、周囲の状況把握。彼女は決して隙を見せない。それが、今日はなぜか足元のバナナの皮だけが視界から消えていた。まるで、目に見えない何かが彼女の意識からそれを排除していたかのように。
靴底が皮の裏側に乗り上げ、摩擦係数がゼロに近づく。
「あ…」
バランスを崩す。身体が空中に投げ出される。長い足が空を切り、ポニーテールが鞭のようにしなった。
ビターーンッ!!
小気味よい、あるいは悲惨な音がギルド内に響き渡った。霞は頭から床に突っ込んだのである。硬い木の床と頭蓋骨が奏でる鈍い音。それは、剣と剣が打ち合う金属音よりも、遥かに痛々しく、そして滑稽な音だった。
一瞬の静寂。
「うわっ!」「おい、今の」「宮本さんが?」
周囲の冒険者たちが何事だとビックリし、椅子を倒す音や酒杯を落とす音が重なる。誰もが信じられないものを見たという顔をしていた。不敗の剣士、宮本霞が、バナナの皮で盛大に転倒したなどと。
霞は床に伏したまま、動けなかった。物理的な痛みよりも、顔が熱い。恥ずかしさという感情が、リッチの呪いよりもよっぽど強烈な毒となって彼女を襲っていた。顔が真っ赤になっているのが自分でもわかる。
(まさかね…)
床に這いつくばりながら、彼女は先ほどのエルダーリッチの言葉を思い出していた。
『お前の運を、すべて奪ってやった』
バナナの皮を踏む。それはただの不注意だ。今日は戦いで疲れていた。それだけだ。そう言い聞かせる。
しかし、心の奥底に刺さった小さな棘は、どうしても抜けなかった。もし、これから先、こんな些細なことが重なり、それが死に直結するような事態になったら? 剣で防げない不運を、どうやって斬り伏せるというのか?
霞は震える手で床を掴み、ゆっくりと身体を起こした。周囲の視線が、同情と嘲笑を混ぜて彼女を見下ろしている。それらから目を逸らし、彼女は乱れたポニーテールを直すふりをした。
「…不運だなんて、信じない」
小さく呟き、霞は再び歩き出した。彼女の背中は、いつも通り真っ直ぐだった。だが、その足元は、ほんの少しだけ、いつもよりも慎重に、床の異物を警戒するように歩いていた。
剣士宮本霞の、不運との戦いは、まだ始まったばかりだった。




