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ゼンマイの朝  作者: 蒼月よる


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9/18

語らない女

 人々がライラを「先生」と呼ぶようになっていた。


 ルイが最初に使った呼び方だ。博物館の時代からの呼び方。それがいつの間にか集落全体に広がっていた。「先生、水の配分はどうしますか」「先生、南の見張りの交代を」「先生、セドリックさんが新しい食用植物を見つけたそうです」。

 ライラはそのたびに否定したかった。私は先生ではない。審査官だった。正しいかどうかを判断する仕事をしていた。教える仕事ではない。導く仕事ではない。——しかし否定しなかった。否定しても呼び方は変わらない。人々は誰かを必要としている。判断を下す誰かを。方針を示す誰かを。カイは実務を仕切り、ルイは技術を教え、イレーネは哲学を語る。しかし全体の方向を決める人間がいない。その空白に、ライラが——吸い込まれるようにして、はまっていた。


 断絶から八十五日。ノアの「あの出来事」から一週間。


 集落は動揺の中にあった。ノアが獣を弾いた——あるいは弾いたように見えた——あの日から、人々の目がノアに向くようになった。好奇の目。恐怖の目。期待の目。ノア自身はあれ以来、何も起きていないと言っている。頭痛もない。視覚異常もない。手のひらからは何も出ない。しかし——あの日、全員が見た。獣が空中で軌道を変えたことを。何かが起きたことを。


 ライラだけが、その「何か」の正体に心当たりがあった。


 ナノマシンとの新しい接続。環境ナノマシンが自律活動を始め、植生に入り込み、空気中にも漂っている。人体内に残存するナノマシンと、環境中のナノマシンが——何らかの共鳴を起こしている。ノアの体は特殊だ。思考放棄者だった。脳の使用領域が極端に少ない。空っぽだった脳が、ナノマシンとの新しいインターフェースを——受け入れた。管理インターフェースとは異なる、原始的な、しかし直接的な接続。

 ライラは審査官として、ナノマシンの仕様書を読んでいた。環境ナノマシンの自律プログラム。生態系促進機能。そしてその副次的効果として記録されていた、「生体との共生可能性」。理論上の可能性として。実現した例はなかった。

 ——今まで。


 ライラは知っている。しかし語れない。語れば、なぜ知っているのかを説明しなければならない。なぜナノマシンの仕様書を読んでいたのか。なぜ環境管理用ナノマシンの自律プログラムを知っているのか。それを説明すれば——ライラが断絶に関わった人間であることが、露わになる。

 語れない。

 語れないまま、人々に「先生」と呼ばれている。


          *


 朝の巡回を終えて、共有棟に戻った。カイが地図を広げていた。ルイの収蔵品の紙の地図。書き込みが増えている。カイとルイが共同で更新している。装甲猪の目撃場所、青牙の狼型生物の出没範囲、碧蔦の密生地帯——集落の周囲に危険が増えている。


「先生」


 カイが言った。カイまで「先生」と呼んでいる。最初は「ライラ」だったのに。


「南からの報告。昨夜も遠吠えがあった。二方向から。——数が増えてる」


「北は?」


「北は静か。碧蔦が密生してるから、動物もあまり入ってこない。ただ——碧蔦自体が問題になりつつある。畑の作物に巻きついて、枯らし始めてる」


 植生と獣。二つの脅威が同時に迫っている。環境ナノマシンが生態系を暴走させている結果だ。ライラにはわかっている。しかし——


「ライラ先生」


 名前も知らない女性が声をかけてきた。三十代。博物館のコミュニティにいた人。顔は覚えているが、名前を聞いたことがない。——いや、聞いたかもしれない。覚えていないだけだ。九十人近い集団の中で、ライラは全員の名前を覚えられていなかった。


「あの動物——昨日の夜、小屋の近くまで来てたんです。足跡があって。あの動物は何なんですか。どこから来たんですか」


 何なのか。ライラは知っている。旧文明の環境管理計画で作られた遺伝子操作生物だ。生態系のバランスを維持するために、特定の役割を持たせて設計された生物。捕食者としての役割を持つ狼型。大型草食動物としての役割を持つ猪型。全てが管理下で行動を制御されていた。制御が外れた今、野生に戻りつつある——いや、そもそも「野生」を知らない生物が、初めて自由に動いている。人間と同じだ。管理を失って、自分で動き方を探している。


「わからない。でも——群れで動く。夜行性。火を嫌う」


「嫌う? 昼間も出てきましたよね」


「……夜行性のはずだけど、行動パターンが変わってきている可能性がある。警戒は昼間も必要」


「"はず"って——先生、あの動物のこと知ってるんですか?」


 ライラの心臓が一瞬止まった。


「記録で読んだことがある。管理時代の環境報告書に——大型の野生動物の記述があった。詳しくは覚えていないけど」


 嘘ではなかった。記録で読んだことは事実だ。ただし「環境報告書」ではなく「遺伝子操作生物管理マニュアル」だった。「詳しくは覚えていない」ではなく「詳しく覚えているが言えない」だった。

 女性は頷いた。納得したのか、それとも——疑っているが追及しないだけか。


          *


 午後。ノアがライラのところに来た。


 ノアの顔色は悪くなかった。一週間前の出来事以来、体調に異常はないと言っている。しかしライラはノアを見るたびに、別のものを見ていた。ノアの体内のナノマシン残存量。代謝が遅い思考放棄者は排出も遅い。つまり体内のナノマシン密度が高い。環境ナノマシンとの共鳴が起きやすい条件が揃っている。

 ノア自身はそのことを知らない。


「先生」


「先生はやめてって言ったでしょう」


「すみません。——ライラさん」


 ノアは焚き火のそばに座った。ライラの隣に。


「聞いてもいいですか」


「何を」


「ライラさんは——前の世界で、何をしてたんですか」


 ライラは炎を見つめた。この問いが来ることは予想していた。ノアは鋭い。思考放棄者だったはずなのに——いや、だからこそかもしれない。空っぽだった頭に、新しい回路が形成されている。観察力が育っている。ライラが何かを隠していることに、ノアは気づいている。


「……正しいかどうかを決める仕事よ」


「正しいかどうか?」


「審査官。人間の行動が適切かどうかを判断して——承認するか、しないかを決める仕事」


「承認……」


 ノアはその言葉を噛んだ。承認。ノアはAIに全てを承認されていた側の人間だ。AIが食事を承認し、行動を承認し、睡眠を承認した。ノアの人生は承認の連続だった——ノアが承認するのではなく、AIがノアを承認する。


「じゃあ——ライラさんは、AIと一緒に、人を管理してたんですか」


 直球だった。ライラの胸に痛みが走った。


「……そうよ。そう言われても否定できない」


「否定できない?」


「私の仕事は、AIの判断を追認することだった。AIが『この人の行動は非準拠だ』と言えば、私が審査して——ほとんどの場合、AIの判断を承認した。二十五年間、一度も不適合判断を出さなかった。一度も」


 ノアは黙って聞いていた。


「AIの判断を覆す勇気がなかったのか、それとも覆す必要がなかったのか——わからない。たぶん、両方。AIの判断は正確だった。データに基づいていた。私の主観より、AIのデータのほうが正しいに決まっている——そう思い込んでいた」


「でも——三十七人のことは、保留にしたんですよね」


 ライラは驚いた。ノアがその話を知っている。カイから聞いたのか。


「カイさんに聞きました。『あの審査官が保留にしてくれたから、俺たちは矯正されなかった』って」


「……そう。保留にした。あの一件だけ」


「なぜ」


「わからない。——いや、わかっている。三十七人の行動記録を見た時、何かが引っかかったの。彼らは自分で食事を作り、自分で道を歩き、自分で寝る時間を決めていた。AIはそれを『非準拠』と分類した。矯正すべきだと。でも私は——彼らの行動記録を見て、これは矯正すべきものではないと感じた。感じただけ。データではなく、直感で」


「直感が正しかった」


「結果的にはね。でも——保留にしなかった何万件ものケースは? 私が承認ボタンを押した何万人は? あなたと同じように、管理に押し戻された人たちは」


 ノアは炎を見た。長い沈黙。


「俺を管理に押し戻した審査官がいたかもしれない、ってことですか」


「いたわ。確実に。あなたの案件を処理したのが私かどうかはわからない。でも——あなたのような人間の案件は、何度も見た。思考放棄者。全てをAIに委ねている。AIは『正常』と判定する。矯正の必要なし。そのまま管理を続ける。——私はそれを承認していた」


「ライラさんは——今の世界は正しいと思いますか」


 ライラは長い間、黙っていた。火が弾けた。薪が崩れた。


「わからない」


 正直な答えだった。


「でも——あなたが自分で水を探しに行った日のことは、正しかったと思う」


「水を——」


「最初の日。あなたが水たまりの水を飲むかどうか、自分で決めた日。あの選択は——正しかった」


 ノアの目が揺れた。あの日のことを覚えている。五本の建物を回って水が出なくて、水たまりの前でしゃがみ込んで、汚れた水を手ですくって飲んだ。あの日が——正しかった。


「小さな選択かもしれない。でも、あなたが自分で決めたということが——大事なの。管理ではなく。誰かの指示でもなく。あなたの体が、あなたの判断で。それが——私がこの世界に『正しさ』を見つけるとしたら、そこにある」


 ノアは頷いた。何かを理解したような、まだ理解できていないような顔。しかし——ライラの言葉を受け取った顔だった。


          *


 夜。セドリックとの二人の時間。


 小屋の中で、ランプの灯りの下。ルイが組み立てた油ランプ。収蔵品の一つ。微かな光が壁に揺れる影を落としている。


「ライラ」


 セドリックの声だった。最近のセドリックの声には、確信がある。言葉を選ぶ慎重さはまだあるが、自分の言葉で話す力が戻ってきている。植物の記録をつけ、碧蔦に名前をつけ、畑の管理を任されるようになった。人の役に立っている。役に立つことが、回復を加速させている。


「ライラ。君は何か知っているんだろう」


 ライラは手を止めた。時計のゼンマイを巻いていた。毎晩の習慣。カチカチとゼンマイを巻く音が、小屋の中に響いていた。


「何のこと」


「わからない。でも——君の目が、昔の目に戻っている」


「昔の目?」


「何かを抱えている時の目だ。審査室で遅くまで仕事をしていた頃の目。家に帰ってきても、ここにいないような目。何かを考え続けている目」


 ライラは息を止めた。セドリックが——覚えている。七年間の空白の前のライラを、セドリックの体が覚えている。言葉ではなく、感覚として。妻の目の色を。妻が何かを隠している時の表情を。

 セドリックの回復は——ライラにとって嬉しかった。同時に——怖かった。回復するほど、セドリックはライラの嘘を見抜くようになる。


「あの動物のことも知ってる。植物のことも。ノアに起きたことも。——全部じゃないかもしれないけど、少なくとも心当たりがある。違うか」


 ライラは時計を握りしめた。カチカチという音が止まった。


「……全部は話せない」


「今は、か」


「今は」


「いつか話してくれるか」


「いつか」


 セドリックは頷いた。怒っていなかった。傷ついてもいなかった。ただ——待っている。ライラが話す時を。

 五週間前のセドリックは「何が起きたんだ」としか言えなかった。今のセドリックは「いつか話してくれるか」と聞ける。問いの質が変わっている。相手を待てるようになっている。それは——回復以上の何かだった。


「セドリック」


「うん」


「碧蔦の件——名前をつけた時、嬉しかった?」


「嬉しかった。七年ぶりに——新しいことを知った。新しいものに名前をつけた。植物学者としての自分が戻ってきた気がした」


「戻ってきた——」


「完全にじゃない。まだ怖い。自分の判断が間違ってるかもしれないと思う。でも——間違ってもいい、と思えるようになった。ルイが言ってた。不完全でいい。間違えたら直せばいい。壊れたら——」


「直せばいい」


「そう」


 ライラは時計のゼンマイを巻き直した。カチカチ。カチカチ。不完全な音が小屋に響いた。


「ライラ。一つだけ聞いていいか」


「何」


「君が知っていることが——何であれ。それを知っていることで、君が苦しんでいるなら。——俺は、君の隣にいる。それだけは言っておきたかった」


 ライラの目が熱くなった。

 泣かない。泣く資格がない。八十五日間、一度も泣いていない。承認した人間が、結果の前で泣くことは許されない。

 しかし——目が熱い。涙腺が反応している。体が泣こうとしている。ナノマシンが抑制していた涙。管理が外れた体が、泣きたい時に泣こうとしている。

 ライラは目を閉じた。涙は流さなかった。しかし——一滴だけ、睫毛の先に溜まった。落ちなかった。ぎりぎりで、落ちなかった。


「……ありがとう」


 小さな声だった。


 ポケットの中の石の鳥が、体温で温まっていた。欠けた翼。ヴァレンが彫り、ヴァレンが忘れたもの。ライラだけが覚えている。

 もう一つのポケットの中で、時計がカチカチと鳴っている。

 二つの重さを抱えて、ライラは目を閉じた。


 審査はまだ終わっていない。

 しかし今夜は——隣に誰かがいる。それだけで、重さが少しだけ軽い。


 カチ。カチ。カチ。


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