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ゼンマイの朝  作者: 蒼月よる


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8/18

緑の侵食

 緑が、おかしい。


 ノアはそう思った。二ヶ月半前——断絶の日——にはただの灰色の都市だった場所が、今は緑に覆われている。蔦が建物を呑み込み、草が道路を割り、木が電柱を倒している。それだけなら、まだわかる。植物は育つ。土があれば伸びる。

 しかし——色がおかしい。

 緑が、青い。

 全ての植物ではない。一部の葉に、微かに青みが混じっている。通常の深い緑ではなく、薄い翡翠のような色。陽光の下で見ると、緑と青の中間のような、見たことのない色。

 ノアは植物の色に詳しくない。そもそも植物自体に詳しくない。しかし——おかしい。体が知っている。あの色は自然ではない。何が自然で何が不自然かを知る基準もないくせに、体が「おかしい」と言っている。


 断絶から七十八日。集落はカイたちの拠点の隣に広がっていた。博物館のコミュニティと三十七人——今は三十四人——が合流して、九十人近い集団になった。畑が広がっている。小屋が増えている。井戸が二つ。焚き火は三カ所。人間が住む場所らしくなっていた。

 ノアは集落の外縁を歩いていた。見回りだった。カイが決めた警戒体制。日中と夜間で交代制。ノアは日中の当番だった。


 足元の草を見下ろした。草の丈が膝を超えている。先週は脛ほどだった。一週間で膝まで伸びた。ありえない速度。セドリックが毎日観察記録をつけている。成長速度、葉の形状、根の深さ、色の変化。


 ——色の変化。


 セドリックが昨日言っていた。


「青い葉が増えている。一昨日は一割だった。昨日は二割。明日には三割を超えるかもしれない。何かが植物を変えている。自然の変異ではありえない。何かが——内側から」


 セドリックの目は輝いていた。恐怖ではなかった。好奇心だった。植物学者の好奇心。知らないものに出会った時の、制御できない知的興奮。七年間白紙だったページが埋まり続けている。ページ三十八、三十九、四十——セドリックは毎日新しいスケッチを描いている。

 しかしノアには、セドリックの興奮は理解できなかった。ノアの体は「おかしい」と言っている。青い葉が「おかしい」と。理由はわからない。


 集落の南端まで歩いた。ここから先は、草の丈が腰を超えている。さらに奥は藪になっていて、見通しが利かない。カイが「南の藪には入るな」と言っていた。何がいるかわからないから。


 何かが動いた。


 ノアは足を止めた。藪の奥で、草が揺れた。風ではない。何かが通った。重いものが。草を押し分けて、何かが移動している。

 大きい。人間ではない。人間の草の分け方ではない。もっと低い位置で、もっと広い幅で、草が倒れている。四足。地面に近い体。重い。

 ノアは後ずさった。

 心臓が速く打っている。ドクン。ドクン。二ヶ月半前、最初の朝に聞いたのと同じ音。しかし今は、この音の意味を知っている。恐怖。体が逃げろと言っている。


 藪が割れた。


 何かが出てきた。

 ノアは見た。それが何なのか、言葉がなかった。動物——そう呼ぶしかない。しかしノアが知っている「動物」の概念には収まらなかった。管理下では動物は映像でしか見たことがなかった。清潔で、均一で、AIが提示する最適な映像の中の動物。

 目の前にいるのは——猪だった。猪のような形をしていた。四本の足。太い首。低い体。しかし大きさが違った。人間の胸の高さまである。体重は——百キロか、もっとか。

 そして、体の表面が——


 装甲だった。


 灰色の、硬質な外殻が体全体を覆っていた。鱗のような、しかし鱗よりも厚い、金属的な光沢を持つ外殻。関節の部分だけが露出していて、その下に筋肉が動いている。目は小さかった。赤い目。知性のない、しかし警戒心のある目がノアを見ていた。

 牙が見えた。下顎から突き出た二本の牙。白い牙。長い。ノアの前腕ほどの長さ。


 ノアは動かなかった。動けなかった。体が凍っていた。逃げろと心臓が叫んでいるのに、足が動かなかった。


 装甲の猪が鼻を鳴らした。低い音。地面を嗅いでいる。ノアの匂いを。

 そして——顔を上げた。ノアを見た。


 ノアは走った。


 体が動いた。意識より先に足が動いた。振り返らずに走った。草を蹴って、転びそうになって、手をついて、また走った。後ろで地面が震えた。重い足音。追ってきている。

 速い。四本の足が地面を叩く音。近づいてくる。ノアの足では逃げ切れない。あの体は人間より速い。

 声が出た。


「誰かっ——」


 叫んだ。二ヶ月半前は声すら出なかった。今は叫べる。叫ぶ意味を体が知っている。助けを求めている。


 集落の方から声が返ってきた。カイの声だった。


「こっちだ! 火の近くに来い!」


 火。焚き火。ノアは焚き火のある方向に走った。足がもつれた。草に引っかかった。転んだ。地面に叩きつけられた。痛い。背中が痛い。後ろから地響き。近い。


 起き上がった。走った。


 焚き火が見えた。十メートル先。カイとイレーネが立っていた。カイが燃えている枝を掴んで振り回している。イレーネがノアに手を伸ばしている。

 ノアは焚き火の脇に転がり込んだ。振り返った。


 装甲の猪が立ち止まっていた。焚き火の五メートル手前。赤い目がノアを見ている。しかし——近づかない。火を見ている。炎が揺れている。装甲の猪は火を警戒していた。

 カイが燃える枝を突き出した。猪が一歩退いた。鼻を鳴らした。低い唸り。しかし近づかない。


「火を嫌う——」


 ライラの声だった。いつの間にか隣に来ていた。息が上がっている。走ってきたのだ。


「あの生物は火を嫌うはず——」


 猪は数秒間、火とノアたちを交互に見ていた。それから——踵を返した。重い足音が遠ざかっていく。草を押し分けて、藪の中に消えた。


 沈黙が落ちた。

 ノアは地面に座り込んでいた。心臓が爆発しそうだった。手が震えている。全身が汗で濡れている。


「何だ、あれは」


 カイが呟いた。燃える枝をまだ握っている。手が白くなるほど強く握っている。


「わからない。動物——だと思う。でも、あんな動物は——」


「いない。いるはずがない。——あんなものは見たことがない」


 カイは都市の外で暮らしてきた。三十四人は断絶前から郊外を歩いていた。動物を見たことがあったのだろう。しかし——あの装甲の猪は、カイにとっても未知だった。


 ライラが黙っていた。ノアはライラの顔を見た。ライラの表情は——他の人間とは違った。驚きはあった。しかし困惑がなかった。「何だ、あれは」という問いが顔に出ていなかった。

 ライラは知っている。

 ノアはそう直感した。あの生物が何なのか、ライラは知っている。知っているのに、言わない。


          *


 夜になっても、ノアの手は震えていた。


 焚き火のそばに座っている。三カ所全ての焚き火を大きくした。薪を多めにくべた。夜通し燃やす。集落の外周に松明を立てた。カイの指示だ。見張りを倍にした。

 誰もが怯えていた。あの装甲の猪は一頭だった。群れがいるかもしれない。夜になったら来るかもしれない。

 遠くで——鳴き声が聞こえた。猪の鳴き声ではなかった。高い声。遠吠えのような。犬の遠吠えに似ているが、もっと低く、もっと長い。

 複数。二つ。三つ。四つ。遠吠えが重なっている。方角は北。藪の向こうから。


「狼か——」


 カイが呟いた。


「狼じゃないわ」


 ライラが言った。全員がライラを見た。


「狼じゃない。でも——群れで動く。夜行性のはず。火を嫌うはず」


「"はず"?」


 カイの声が鋭くなった。


「見たことがあるのか」


「……記録で読んだことがある」


 カイはライラを見つめた。数秒。何かを測っている目。しかし——追及しなかった。今は知識が必要だ。出自は後でいい。


「火を嫌うなら、焚き火を絶やすな。夜通し燃やせ。外周の松明も」


「そうしてください」


 夜が過ぎた。遠吠えは断続的に聞こえ続けた。しかし集落には近づかなかった。火が効いているのか、それとも——まだ様子を見ているだけなのか。


          *


 翌日。


 セドリックが走ってきた。走ることすら珍しい。五週間前のセドリックは走れなかった。今は走れる。


「ライラ。見てくれ。これを」


 手に植物を持っていた。蔦の一種。葉が——青かった。深い青。昨日まで見ていた微かな青みではない。はっきりとした、目に見える青。葉脈が光っている。陽光の下で、葉脈の中に何かが光を反射している。


「この成長速度は——普通じゃない。何かが植物の内部で活動している。細胞を観察できる道具があれば確認できるが——ないから推測するしかない。しかし、成長速度と色の変化を考えると——何か外因性の物質が植物に取り込まれている」


 セドリックの声に興奮があった。恐怖ではなく、純粋な知的興奮。植物学者が未知の現象に遭遇した時の声。


「名前をつけていいか」


「名前?」


「この植物に。図鑑にも載っていない。既知のどの種にも一致しない。新種だ——変異種だ。名前が必要だ」


 セドリックの目が輝いていた。七年間、「もう調べることがない」と言ってペンを置いた男が、今、目の前の未知に心を震わせている。ページ三十七までが過去なら、ページ三十八からが今だ。白紙のページを、セドリックは自分の手で埋めている。


「つけなさいよ」


 ライラが微笑んだ。


「……碧蔦あおつた。安直だけど——最初の記録だから。碧蔦」


 セドリックはその場にしゃがみ込んで、図鑑のページに書き込んだ。「碧蔦」。新しい名前。ページ四十一に、新種の記録。


 ノアはその光景を見ていた。セドリックが植物に名前をつけている。名前。ノアの名前はAIがつけた。管理番号から自動生成された識別名。ノア。その名前に——意味はあったのだろうか。


「ノア」


 イレーネが隣に来た。老女は遠吠えの夜も落ち着いていた。


「ちょっと聞いていいかい」


「はい」


「あんたの名前。ノアっていう名前。誰がつけた」


「AIが」


「そうか。じゃあ——自分でつけ直したいかい?」


 ノアは考えた。名前を変える。AIがつけた名前を捨てて、自分で新しい名前をつける。セドリックが植物に名前をつけたように。

 考えた。

 AIがつけた名前。管理番号から生成された名前。ノア。その名前で二十年以上生きてきた。AIが選んだ名前で、AIに管理された世界で。

 しかし——この二ヶ月半、ノアは自分の足で歩き、自分の手で水を探し、自分の目で道を選んできた。「ノア」という名前で。その名前で、ダリオから離れ、イレーネと出会い、ルイにナイフを教わり、焚き火のそばで笑った。


「……いい」


 ノアは言った。


「変えなくていい。これは俺の名前だ」


「AIがつけた名前だろう?」


「AIがつけた。でも——俺がそう名乗ると決めた。誰がつけたかは関係ない。俺が使うと決めた名前だ」


 イレーネは目を細めた。笑っていた。


「いい答えだね」


 ノアは自分の名前を口の中で転がした。ノア。二ヶ月半前は空っぽだった名前。今は——重みがある。水たまりの水を飲んだ記憶。暗闇で膝を抱えた記憶。ダリオの拳から逃げた記憶。イレーネの「椅子はいくらでもある」。ルイのナイフ。焚き火の芋。全部が、この名前に入っている。

 名前を変えないことが——最初の、自覚的な選択だった。


          *


 異変は、その午後に起きた。


 ノアは集落の外縁を歩いていた。見回り。昨日の装甲猪のこともある。警戒しながら歩いていた。


 頭が痛んだ。


 突然だった。こめかみの奥で、何かが脈打った。心臓の鼓動とは違うリズム。速い。鋭い。ズキン、ズキン、と頭蓋の内側を叩くような痛み。

 ノアは立ち止まった。両手でこめかみを押さえた。痛い。二ヶ月半の間に経験した痛みとは質が違った。ナイフで指を切った痛み、転んで膝を打った痛み——あれらは外からの痛みだった。今の痛みは内側からだ。頭の中で何かが動いている。

 視界が揺れた。

 いや——揺れたのではない。見え方が変わった。一瞬だけ。ほんの一瞬、目の前の草が——光って見えた。草の葉一枚一枚が、微かに発光しているように見えた。青白い光。葉脈の中を流れる何かが、ノアの目に見えた。

 瞬きした。消えた。草は普通の草だった。青みはあるが、発光はしていない。見間違いだ。——見間違いか。


 頭痛が引いた。急に。来た時と同じように、突然消えた。


「何だ……今の」


 ノアは自分の手を見た。手は普通だった。何も変わっていない。頭痛の名残が微かにある。しかし痛みは消えた。


 歩きを再開した。気のせいだと思った。疲労か。ストレスか。昨日の装甲猪の恐怖が残っているのかもしれない。


 午後の遅い時間。ノアは畑の近くを歩いていた。セドリックが畑の中にいた。碧蔦のスケッチを描いている。ルイが近くでナイフを研いでいた。平穏な午後だった。


 遠吠えが聞こえた。昼間の遠吠え。夜行性のはずだとライラが言っていた。昼間は出ない——はずだった。

 遠吠えが近い。昨夜よりずっと近い。


 カイが走ってきた。


「南の藪から——何か来る。二頭。いや三頭。速い」


 藪が揺れた。草が倒れた。三頭の獣が飛び出してきた。

 狼——に似ていた。しかし狼ではなかった。体が一回り大きい。毛皮ではなく、短い灰色の体毛の下に、装甲猪と同じような硬質の外殻が部分的に見えていた。首の周りと、脚の関節。牙は犬歯ではなく、下顎から伸びた二本の——青みを帯びた牙。青い牙。

 三頭が横に広がった。集落を囲むように。


「火だ! 火を持ってこい!」


 カイが叫んだ。誰かが松明を持って走ってきた。カイが松明を受け取って振った。炎が弧を描いた。


 三頭のうち一頭が止まった。火を見ている。しかし——退かない。昨日の装甲猪は火で退いた。この獣は退かない。火を見て、立ち止まっただけだ。


「退かない——」


 カイの声に焦りがあった。


 二頭目が動いた。側面から。畑の方向に回り込んでいる。セドリックが畑の中にいた。


「セドリック! 逃げろ!」


 ライラの悲鳴に近い声。セドリックが顔を上げた。獣を見た。凍った。


 ノアの体が動いた。


 考えるより先に。判断するより先に。足が動いた。セドリックに向かって走った。畑の中を。青い蔦を踏みつけて。


 獣がセドリックに向かって跳んだ。


 ノアはセドリックの前に立った。なぜそうしたのかわからなかった。体が動いた。二ヶ月半前のノアなら立ち尽くしていただろう。今のノアは——前に出た。


 獣が空中にいた。青い牙が光っていた。ノアの目に、獣の体が——遅く見えた。


 頭痛が戻った。激しく。頭蓋の中で何かが爆発した。視界が変わった。さっきと同じだ。草が光っている。葉脈が光っている。空気の中に——何かが浮遊している。目に見えない粒子。しかし今のノアには見えた。空気の中に漂う微細な粒子が、光の点として見えた。無数の光の点。それが空気を満たしている。

 その粒子が——動いた。ノアの体に向かって。集まってきた。体の中に入ってきた。皮膚を通して。呼吸を通して。ノアの中に流れ込んで——


 手のひらが熱くなった。

 ノアは無意識に手を前に突き出した。獣に向かって。


 空気が、動いた。


 ノアの手のひらから何かが放たれた。——何も放たれていない。見た目には何も起きていない。しかし空気が動いた。ノアの手のひらの前で、空気の密度が変わった。壁のようなものが——


 獣が弾かれた。

 空中で軌道が変わり、横に逸れて地面に叩きつけられた。転がった。起き上がった。ノアを見た。赤い目が——怯えていた。獣が怯えている。

 三頭が、一斉に踵を返した。藪の中に消えた。


 沈黙。


 ノアは立っていた。手のひらを前に突き出した姿勢のまま。何が起きたのかわからなかった。頭痛が消えていた。視界は元に戻っていた。草は光っていない。空気の中の粒子は見えない。手のひらは——普通の手のひらだ。


「……何だ」


 ノアは自分の手を見た。


「今の——何だ」


 背後でセドリックが地面に座り込んでいた。震えていた。ノアに守られたことを理解したのか、まだ恐怖の中にいるのか。

 カイが松明を持ったまま近づいてきた。ノアを見ていた。——全員がノアを見ていた。


「ノア。今——お前、何をした」


「わからない」


 正直な答えだった。何もしていない。手を突き出した。それだけだ。しかし獣は弾かれた。空気が動いた。——本当に動いたのか。見間違いか。しかし獣は弾かれた。それは全員が見ていた。


 ライラがノアを見ていた。ライラの顔は——驚きではなかった。恐怖でもなかった。

 理解だった。何かを理解した顔。何かの答えに辿り着いた顔。しかし何を理解したのかは、言わなかった。


「ノア」


 イレーネが近づいてきた。老女の目は鋭かった。しかし——怯えていなかった。


「あんた、大丈夫かい」


「大丈夫——だと思います。頭が痛かった。でももう——」


「手を見せてごらん」


 ノアは手のひらを見せた。何もない。普通の手のひら。しかしイレーネは手のひらを見つめて、何かを考えていた。


「体の中で何かが起きてるんだね」


「わからない。何が起きてるのか——」


「わからなくていい。わからないものは、わからないまま抱えていればいい。あんたの体は、あんたを守ろうとした。それだけは確かだ」


 ノアは手のひらを握った。開いた。握った。何も起きない。さっきの感覚は消えている。空気の密度が変わる感覚も、手のひらの熱も。夢のようだ。しかし——獣は弾かれた。セドリックは無事だ。何かが起きた。


 頭の奥で、微かに何かが脈打っていた。心臓の鼓動ではない。別のリズム。ゆっくりとした、深い律動。体の中に新しい何かがある。二ヶ月半前には空っぽだった頭の中に——何かが、入り始めている。


 ノアはその感覚に名前をつけなかった。つけられなかった。


 後世の人間がそれを「魔力」と呼ぶことを、この時代の誰も知らなかった。


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