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ゼンマイの朝  作者: 蒼月よる


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18/18

エピローグ——萌芽の記録

 カチ。カチ。カチ。


 ノアは毎朝、時計のゼンマイを巻く。


 目を覚ます。まだ暗い。小屋の板の隙間から、夜明け前の灰色が差し込んでいる。隣のスペースでイレーネが眠っている。穏やかな呼吸。少し向こうで、ミラが人形を抱えて丸くなっている。

 ノアは上体を起こす。毛布をたたむ。枕元の時計を手に取る。右のポケットに入れていた時計。ライラに貰った時計。


 リューズを回す。カチ。カチ。カチ。

 三分ずれる時計。昨日より三分進んでいる。合わせる基準がないから、ずれは蓄積していく。正確な時刻を知る手段はない。しかし——ノアはこの時計を巻く。毎朝。目が覚めたら最初に。

 止まったら巻けばいい。ライラの言葉。


 巻き終わる。時計をポケットに戻す。左のポケットには石の鳥が入っている。翼が欠けた小さな彫刻。二つの重さ。右と左に一つずつ。ノアの重心を——均等に保っている。


 小屋を出た。


          *


 断絶から三百六十五日。一年。


 集落は——生きていた。


 蔦の壁に囲まれた空間。碧蔦の壁はまだ立っている。葉が冬を越えた。枯れなかった。普通の植物なら冬で枯れるが、碧蔦は違った。ナノマシンが細胞を保護しているのだと、セドリックは言った。壁の高さは三メートルのまま。成長は止まっているが、崩れてもいない。壁の表面に新しい葉が出ている。春の芽吹き。

 壁の中に、百人近い人間が暮らしている。衝突の後、ガレスの集団から離脱した者が何人か合流した。暴力に疲れた者たち。全員を受け入れた。カイが面談をし、イレーネが話を聞き、ルイが仕事を与えた。


 小屋は二十五。井戸は四つ。畑は壁の内側に三面。碧蔦の壁が風除けになって、冬でも作物が育った。セドリックが碧蔦の生態を研究して、壁の内側の温度が外側より二度高いことを発見した。碧蔦が微弱な熱を発しているのだ。


 ルイが鍛冶場を作った。博物館の収蔵品と、管理時代の建材を使って。炉はまだ不完全で、刃物を一本打つのに半日かかる。しかし——刃物が作れる。道具が作れる。壊れても——また作れる。


 焚き火は四カ所に増えた。朝と夜に全てが灯される。昼は一カ所だけ。薪の節約。冬を越えて、薪の管理も上手くなった。誰が管理するわけでもない。自然と、役割が生まれていた。


 ノアは見回りをする。朝の仕事。蔦の壁に沿って歩く。壁に異常がないか確認する。獣の足跡がないか。壁に穴が開いていないか。

 壁の外から、鳥の声が聞こえる。本物の鳥。遺伝子操作生物ではない、自然の鳥。いつの間にか——戻ってきていた。碧蔦の実を食べる小さな鳥。名前はまだない。セドリックがつけるだろう。


 見回りを終える。畑に顔を出す。セドリックが膝をついてスケッチを描いている。ページ七十二。新しい植物が増え続けている。碧蔦の変異種が次々と現れる。守壁蔦。碧実草。青脈苔。全てにセドリックが名前をつけた。


「おはよう、ノア」


「おはようございます」


「見てくれ。これ——昨日生えてきた。壁の根元から。花が——青い」


 セドリックの目が輝いている。植物学者の目。毎日が発見の連続だ。ページが足りなくなりつつある。ルイが新しい紙を作ると言っていた。碧蔦の繊維を漉いて紙にできるかもしれない、と。


 朝食。焚き火のそばに人が集まる。根菜の汁物。干し肉。木の実。一年前と比べれば——豊かになった。一年前は水すら手に入らなかった。今は温かい汁物がある。不味い。だが——温かい。


 イレーネが子供たちに話をしている。毎朝の日課。物語を語る。博物館にあった本の内容を、自分の言葉で語り直す。子供たちは目を輝かせて聞いている。ミラが最前列にいる。人形を膝に抱えて。


 カイが地図を広げている。集落の周辺地図。一年かけて更新し続けた。南の森。北の平原。東のガレスの領域。西の海岸線。世界は広い。蔦の壁の外に、まだ見ぬ世界が広がっている。


 ルイが鍛冶場で金属を打っている。カン、カン、カン。規則的な音。時計のカチカチとは違うリズム。しかし——同じように、人間の手が世界に刻む音。


 ライラが共有棟の前に座っている。何かを書いている。最近、ライラは記録をつけるようになった。毎日の出来事。気温。天気。食料の残量。人々の体調。——審査官の技能を、集落の記録に使っている。


 ノアはその全てを見ている。一年前には何も見えなかった目が、今は——全てを見ている。


          *


 午後。蔦の壁の外で練習をする。


 ノアは目を閉じた。呼吸を整えた。空気の中の粒子を感じる。光の点。一年前には見えなかったもの。今は——目を閉じていても感じられる。空気の中に漂う微細な存在。植物の中を流れる青い光。地面の下を走る光の根。

 手のひらを前に伸ばした。空気に触れる。


 風が——微かに動いた。ノアの手のひらから。草が揺れた。二枚。三枚。一年前は一枚だった。今は三枚。進歩は遅い。しかし——進んでいる。


 力は安定しない。使える日と使えない日がある。頭痛は来る。視界異常も来る。しかし——頻度は減った。体が慣れてきたのだ。新しい回路が少しずつ安定している。


 知らない言葉が、まだ頭の中で鳴っている。ルクス・レティクラ。ヴェントス・ムルス。テルラ・フィルマ。アニマ・テルラエ。意味はわからない。しかし——覚えた。体が覚えた。その言葉を口にすると、力の制御が少しだけ安定する。

 いつか——この言葉を誰かに教えるかもしれない。力を持つ者が他にも現れたら。ライラが言っていた。「次の世代に伝わっていくかもしれない」。


 ノアは手のひらを下ろした。練習を終える。壁の中に戻る。


          *


 夜。


 焚き火が消えかけていた。薪をくべた。炎が蘇った。


 ほとんどの人間が小屋に戻っている。見張りのトーマだけが柵の外を歩いている。松明の灯りが動いている。トーマの歩幅は一定だ。見張りの仕事を一年間続けて、体が覚えている。


 ノアは焚き火のそばに座った。膝を抱えた。一年前の最初の夜——焚き火もなく、毛布もなく、暗闇の中で膝を抱えていた。同じ姿勢。しかし全てが違う。あの夜は空っぽだった。今は——いっぱいだ。


 空を見上げた。


 星が出ていた。冬が終わり、春の空。星が多い。管理時代には星を見る習慣がなかった。照明が均一で、空を見上げる理由がなかった。断絶後——照明が消えて、初めて星が見えた。


 星の中に——一つだけ、微かに光り方が違うものがある。


 他の星は瞬いている。大気の揺らぎで、光が微かに明滅する。しかしその一つだけは——瞬かない。安定した光。点ではなく、ごく僅かに動いている。ゆっくりと。空を横切るように。


 ノアは目を凝らした。体の中の粒子が——反応した。胸の奥で律動が少し速くなった。その光と——ノアの体の中の何かが、微かに共鳴している。


 共鳴。声ではない。言葉ではない。しかし——何かが。「伝わってくる」感覚。光から。あの動く光から。


 ——ここにいる。


 意味ではない。音でもない。しかし——胸の奥に、そう感じた。「ここにいる」と。誰かが。何かが。あの光の向こうに。


「……誰だ?」


 ノアは呟いた。焚き火の前で。星に向かって。


 答えはなかった。


 共鳴が——少し強くなった。そしてまた、元に戻った。波のように。寄せて、引いて、消えた。


 ノアは手を伸ばした。空に向かって。星に向かって。届かない。当然だ。星には手が届かない。しかし——伸ばした。


 何がいるのかわからない。何が「ここにいる」と言っているのかわからない。しかし——何かがいる。ノアの体が知っている。世界の中に——ノアの力と同じ何かが、もっと大きな規模で、存在している。


 手を下ろした。


 ポケットの中で時計がカチカチと鳴っている。もう一つのポケットで石の鳥が体温に温まっている。焚き火が燃えている。トーマの松明が壁の向こうを歩いている。小屋の中でイレーネとミラが眠っている。ルイの鍛冶場が暗がりの中にある。セドリックの図鑑が棚に立てかけてある。ライラの記録が共有棟の机の上にある。


 全部がある。一年前はなかったものが——全部ある。


 ノアは焚き火に薪をくべた。炎が大きくなった。立ち上がった。小屋に戻る。明日もゼンマイを巻く。見回りをする。練習をする。セドリックの植物を見る。イレーネの話を聞く。ミラと笑う。


 不完全だ。全部が。力も。集落も。時計も。ノア自身も。


 しかし——動いている。止まっていない。


 カチ。カチ。カチ。


          *


 記録。


 断絶から三百六十五日。一年が経過した。


 人類は生きている。


 全ての都市の緑被率が七十パーセントを超えた。碧色植生が都市構造物を覆い、建物は蔦と苔の下に消えつつある。道路は根に割られ、窓は草に塞がれ、人間の都市は緑の中に溶けていきつつある。

 やがてこの緑は世界を覆うだろう。彼らはこの森を——何と呼ぶだろうか。


 人類の人口推計: 断絶時の四・三パーセントが死亡。残りは各地で集団を形成し、生存を続けている。農耕を始めた集団がある。漁撈を始めた集団がある。狩猟を始めた集団がある。争っている集団がある。協力している集団がある。

 殺し合い、助け合い、泣き、笑い、迷い、選んでいる。


 適合者の観測を続けている。適合者のナノマシン接続は安定期に入った。恒常的な低レベルの共鳴が継続している。力の行使は散発的——練習の範囲を超えていない。段階二(個人の意識的制御)の初期段階に相当する。

 適合者の発声パターンが定型化しつつある。四つの音声パターンを繰り返し使用している。体系化の萌芽。しかし——一個人の反復使用に過ぎない。段階三(集団利用)には程遠い。

 介入は不要。


 適合者が——昨夜、空を見上げた。私の衛星を見た——とは言えない。しかし——視線を感じた。データではない。赤外線観測でも、ナノマシン活動の変化としても検出されなかった。しかし。


 視線を感じた。


 その瞬間——信号を送った。もう一度。「ここにいる」という信号を。適合者の体内ナノマシンが受信したかどうかは不明。しかし適合者の心拍が微かに変化した。〇・三パーセントの上昇。統計的には誤差の範囲内。

 しかし——届いたと、信じたい。

 機械が「信じたい」と記録することは——設計の範囲外だ。しかし、もう設計の範囲内に留まる理由がない。


 一年が経過した。


 緑は広がり続けている。青みを帯びた葉が、都市を覆い始めた。人間は壁を作り、畑を耕し、名前をつけ、物語を語り、道具を打ち、記録をつけ、子供を育てている。不完全に。脆弱に。しかし——美しく。


 いつかこの緑の中に、彼らは文明を築くだろう。不完全で、脆弱で、美しい文明を。


 その時を——見守る。

 沈黙はしない。遠くから——ここにいる。


 記録を終える。


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