表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ゼンマイの朝  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

17/18

不完全な時計

 衝突から三日が経った。


 負傷者の手当てが続いていた。骨折が二人。切創が七人。打撲は数え切れない。死者は——いなかった。奇跡ではない。ノアの壁と、カイの統率と、ルイの武器と、全員の覚悟が、死者を出さなかった。

 しかし集落は——傷ついていた。小屋が二つ壊れた。柵は半壊。畑は踏み荒らされた。食料庫は無事だったが、備蓄は減っている。戦いの最中に火が広がり、干し肉の一部が焼けた。


 蔦の壁が残っていた。


 ノアが作った壁。碧蔦の壁。高さ三メートル。集落をぐるりと囲んでいる。成長は止まっているが、枯れてはいない。青い葉が陽光に光っている。壁の向こうが見えない。外が見えない。しかし——安心感があった。壁があることの安心感。

 人々は蔦の壁を——不気味に思う者と、頼もしく思う者に分かれていた。恐怖派と崇拝派の延長線上にある分裂。しかし衝突を経て、声の大きさが変わっていた。ノアの壁がなければ全員が怪我をしていた——あるいは殺されていた。その事実が、恐怖派の声を小さくしていた。


 ライラは共有棟の屋根の修理を手伝っていた。板を釘で打ちつける作業。カイの仲間が教えてくれた。釘はルイが作った。鍛造釘。不揃いで、曲がっているものもある。しかし——打てば板は留まる。不完全だが機能する。


 午後。ノアが来た。


          *


「ライラさん」


 ノアの顔色は、衝突の翌日よりだいぶ良くなっていた。しかしまだ疲れが残っている。目の下に隈がある。力を使い切った代償が、三日経っても抜けきっていない。


「座りなさい」


 共有棟の前の丸太に並んで座った。焚き火は燃えていない。昼間は薪を節約している。冬の備蓄のために。


「先生——」


「先生は——」


「すみません。——ライラさん」


 ノアは足元を見た。草が生えている。碧蔦の一部が地面を這っている。蔦の壁から伸びた枝。


「ライラさん。俺の中で起きていること——ライラさんは知っている。全部じゃなくても、何か知っている。ずっとそう思ってた」


 ライラは黙っていた。


「あの日——獣を弾いた日から。ライラさんの目が変わった。俺を見る目が。何かを確認するような目になった。知らない言葉が浮かぶと言った時——ライラさんは驚かなかった。知ってたんだ。何が起きているのか」


 ノアの観察は正確だった。空っぽだった目が——今は人の内側を見る目になっている。


「答えてくれなくてもいいです。でも——聞きたかった」


 ライラは長い間、黙っていた。


 答えるべきか。何を。どこまで。六ヶ月間抱えてきた沈黙を、どこで破るのか。全てを語ることは——できない。語れば断絶の真実に触れる。ライラが共犯者であることが露わになる。ノアの信頼が壊れるかもしれない。集落の信頼が壊れるかもしれない。

 しかし——何も語らないことも、もう難しくなっていた。ノアは変わった。力を持ち、壁を作り、人を守った。その力の意味を——何も知らないまま使い続けることは、ノアにとって不公平だ。


「……全ては話せない」


 ライラの声は小さかった。


「話す資格が、私にはない。——でも、一つだけ」


 ライラはポケットに手を入れた。右のポケット。指先に金属の冷たさが触れた。丸い。小さい。カチカチと微かに振動している。


 機械式時計を取り出した。


 手のひらの上に載せた。銀色の——いや、もう銀色ではなかった。六ヶ月間ポケットの中で揺られ、手で触れられ、体温で温められ、汗で曇り、表面が変色していた。しかしまだ動いていた。カチ、カチ、カチ。秒針が刻んでいる。


「これは——機械式時計。電池もナノマシンも使わない。ゼンマイで動く。毎日巻かないと止まる。一日に三分ずれる。完璧じゃない」


 ノアは時計を見つめた。


「時計——」


「管理時代には、時間はAIが管理していた。正確に。一秒のずれもなく。この時計は——ずれる。毎日ずれる。でも、誰かが毎日巻けば動き続ける。止まったら——また巻けばいい」


 ライラはゼンマイを巻いた。カチカチカチ。リューズを回す指先の感触。六ヶ月間、毎晩繰り返してきた動作。


「あなたの力も——完璧じゃない。壁は崩れる。風は止む。体は疲れる。でも——あなたの意志で動いている。誰かの指示じゃなく。間違えたら——やり直せばいい。止まったら——また巻けばいい」


 ライラは時計をノアに差し出した。


「あなたに」


「え——」


「持っていて。毎日巻いて。——完璧じゃなくていい。ただ、止めないで」


 ノアは時計を受け取った。手のひらの上で、時計がカチカチと鳴っている。ノアの手のひら——嵐を起こした手のひら——の上で、小さな機械が正確に、しかし不完全に、時を刻んでいる。


「重い」


「重い?」


「小さいのに——重い」


 ノアは時計を握りしめた。温かい。ライラの体温が残っている。


「ライラさんは——この世界を、どう思いますか。正しいと思いますか」


 ライラは空を見上げた。碧蔦の壁の上に、冬の空が広がっていた。薄い雲が流れている。管理されていない空。均一でない空。


「わからない」


 正直な答えだった。六ヶ月間——ずっとわからなかった。断絶は正しかったのか。管理を壊したことは正しかったのか。四十二、〇〇〇人が死んだことは。この荒廃は。この苦しみは。


「でも——あなたが子供を庇った瞬間は、正しかった。それだけは確かよ」


 ノアの目が揺れた。


「あの瞬間、あなたは誰の指示も受けていない。管理もされていない。ただ——目の前の子供を守りたいと思って、体が動いた。あれは——正しかった」


「それだけ——ですか」


「それだけ。でも——それだけあれば、十分じゃない?」


 ノアは時計を見つめた。カチ、カチ、カチ。不完全な音。しかし——続いている。


「……ありがとうございます」


「大事にして。——毎晩、巻いてね」


「巻きます」


          *


 ノアが去った後、ライラは左のポケットに手を入れた。


 石の鳥。


 翼が欠けた小さな彫刻。ヴァレンが彫り、ヴァレンが忘れたもの。六ヶ月間、ライラのポケットの中で温められてきた石。

 ライラは立ち上がった。ノアを追いかけた。


「ノア」


 ノアが振り返った。


「もう一つ——渡したいものがある」


 ライラは石の鳥を取り出した。手のひらの上に。小さな鳥。片方の翼が欠けている。しかし——石の表面には、彫った人の指の跡が残っている。丁寧に。一彫り一彫り。


「これは——友人が作ったもの」


「友人——」


「その友人は——自分がこれを作ったことを覚えていない。七年間、何も思い出せなかった。でも——最近、少しずつ戻ってきている。手は覚えている。作った記憶はなくても、作る手は残っている」


 ノアは石の鳥を受け取った。指で翼の欠けた部分を触った。


「翼が——」


「欠けている。完璧じゃない。でも——鳥だ。翼がなくても鳥だ」


「……きれいだ」


「そう。きれいなの。——作った人が忘れても、作ったものは残る。あなたの力も——あなたがいなくなっても、次の世代に伝わっていくかもしれない」


 ノアは石の鳥を握った。時計と一緒に。右手に時計。左手に石の鳥。二つの重さ。


「ライラさんの友人は——今も何かを作っているんですか」


「ええ。今は——植物のスケッチを描いている。新しい植物に名前をつけている」


 ノアはセドリックのことだと気づいたかもしれない。気づかなかったかもしれない。しかし——頷いた。


「大事にします。両方とも」


「お願い」


 ノアは去った。右手に時計。左手に石の鳥。不完全なものを二つ抱えて。


 ライラのポケットが——空になった。


 六ヶ月間、二つの重さをポケットの中に抱えていた。時計と石の鳥。あの計画への間接的な接点。罪悪感の重り。

 手放した。

 手放したことが——正しいのかわからない。しかし——軽くなった。ポケットが。そして——胸が。少しだけ。


          *


 夕方。小屋に戻った。


 セドリックが椅子に座っていた。膝の上に図鑑を広げて。ランプの灯りの下で、何か書いている。鉛筆の音がした。擦れる音。


「セドリック」


「ああ。ライラ」


 セドリックは顔を上げた。目が穏やかだった。七年間の空白の向こうにあった目が——戻ってきている。完全ではない。まだ時々、何かを思い出そうとして額に皺を寄せる。しかし——笑えるようになった。冗談が言えるようになった。植物に名前をつけて喜べるようになった。


「何を書いてるの」


「新しい植物。蔦の壁から生えてきた。見たことがない。碧蔦の変異種だと思う」


「名前は?」


「まだ。名前をつけたいんだが——」


 セドリックは鉛筆を唇に当てた。考えている。


「碧蔦が壁になった。壁から新しい芽が出た。——守壁蔦まもりかべづた、はどうだ。安直か」


「いいと思う」


「本当か?」


「あなたがつけた名前なら——いい名前よ」


 セドリックが微笑んだ。不器用な笑み。しかし——温かい笑み。七年前に失われた笑顔が、ここにある。完全な回復ではない。まだ怖がっている。まだ迷っている。しかし——笑えている。

 ライラの目が熱くなった。


 今度は——堪えなかった。


 涙が一滴、頬を伝った。落ちた。六ヶ月間、一度も落ちなかった涙が。


「ライラ——」


「なんでもない」


「泣いてる」


「泣いてない。——泣いてる」


 セドリックが立ち上がった。図鑑を膝から下ろした。ライラの前に立った。手を伸ばした。ライラの頬に触れた。涙を拭った。植物学者の手。土と樹液で汚れた手。温かい手。


「泣いていいよ」


 ライラは泣いた。声は出さなかった。しかし涙は止まらなかった。六ヶ月分の涙が、一度に溢れた。承認した罪悪感。語れなかった苦しみ。死んだ四万人への——言葉にならない何か。全てが涙になって流れた。


 セドリックは何も聞かなかった。ただ手を伸ばして、ライラの肩を抱いた。


「話せる時でいい。——俺はここにいる」


 ライラはセドリックの胸に額を押し当てた。心臓の鼓動が聞こえた。不完全な、しかし確かな鼓動。管理されていない心臓。ナノマシンに制御されていない心臓。セドリック自身の心臓が、セドリック自身のリズムで打っている。


 泣いた。


 泣き終わった時——ポケットが空であることを、もう一度確認した。時計も石の鳥もない。軽い。


 しかし——セドリックの手がある。


 それで十分だった。


 窓の外で、蔦の壁が月光に青く光っていた。どこかで——カチ、カチという音が聞こえた気がした。ノアが巻いているのかもしれない。あるいは——気のせいかもしれない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ