火と牙
夜明け前に来た。
トーマが駆け込んできた。息を切らして。顔が土と汗で汚れていた。
「東から。五十——いや、六十以上。武器を持ってる。——来る」
集落が動いた。
カイの号令が響いた。「配置につけ。柵の内側に集まれ。女と子供は博物館の地下に。槍を持てる者は東の柵に」。声は落ち着いていた。しかし速かった。訓練はしていない。しかし——準備はしていた。
ノアは東の柵に向かって走った。槍を手に取った。ルイが削り、先端に鍛造ナイフを括りつけた槍。握ると——手が震えた。武器を握るのは初めてではない。しかし人間に向けるのは初めてだ。
空が白み始めていた。東の空が薄い灰色に変わっていく。その灰色の中に——人影が見えた。
多い。
五十人。六十人。数え切れない。暗がりの中で、人間の影が列を成して近づいている。松明を持っている者がいる。棍棒を持っている者がいる。金属の棒を持っている者がいる。管理時代の建材を折ったものだろう。武器にはならない——はずのものが、人間の手にかかれば武器になる。
先頭に——大きな影。
ガレス。
声が聞こえた。低く、太い声。
「出てこい。交渉の時間は終わりだ」
ノアの心臓が跳ねた。もう一つの律動も——速くなった。体の中で二つのリズムが重なり、唸っている。
*
カイが柵の内側から応えた。
「帰れ。ここには何もやらない」
「なら——取りに来る」
ガレスの腕が上がった。合図。背後の人間たちが——走り出した。
衝突が始まった。
ノアは柵のそばに立っていた。東の柵。二重の杭。外側は斜めに突き出し、内側は垂直。その間に溝。——ガレスの部下たちが外側の杭に突っ込んだ。杭が数本折れた。しかし内側の杭は持ちこたえた。溝に足を取られた者が転んだ。その上を別の者が踏み越えようとした。
「槍だ! 突け!」
カイの声。柵の内側から、槍が突き出された。ノアも突いた。手が震えていた。穂先が人間の肩に当たった。浅い。切れなかった。相手が叫んだ。痛みの声。ノアの手が止まった。——人を刺した。人間を。
「止まるな! 突き続けろ!」
カイの声が飛んだ。ノアは槍を引き、もう一度突いた。今度は空を切った。相手が避けた。慣れている。暴力に。
北の柵が割れた。
声が聞こえた。北を守っていたルイの声ではなかった。悲鳴だった。ガレスの部下が北から回り込んでいた。柵の弱い部分を——見抜いていた。偵察の成果だ。あの使者が柵の構造を見ていた。
「北が——北が抜かれた!」
カイの表情が変わった。東と北から挟まれる。守りが薄くなる。
「ルイ、北を止めろ! イレーネ——」
「子供は全員地下にいる。大丈夫」
イレーネの声が聞こえた。地下にいるはずの——イレーネが、共有棟の入口に立っていた。杖をついて。
「降りてください——」
「いいから戦いな。私はここで見てる」
イレーネの声は穏やかだった。戦場の中で——穏やかだった。
東の柵に体当たりが来た。三人がかりで。杭が軋んだ。もう一度。杭が折れた。隙間ができた。そこから——人間が入ってきた。
ノアの前に男が立った。棍棒を持っている。振り下ろしてきた。ノアは横に飛んだ。地面を転がった。槍を握ったまま。起き上がった。男が追ってくる。
頭痛。
来た。律動が強まった。視界が——変わり始めた。空気の中に光の粒子が見え始めた。体の中の何かが——反応している。危機を察知して。
ノアは手のひらを突き出した。男に向かって。
風が吹いた。ノアの手のひらから——空気が動いた。男が押し返された。三メートル。地面に尻をついた。立ち上がった。目が——怯えている。
しかし——風はノアの背後にも吹いた。制御が甘い。ノアの後ろにいたカイの仲間が風で転んだ。
「すみません——」
「気にするな! もう一度やれ!」
カイが叫んだ。しかしノアは——迷った。もう一度やれば、また味方を巻き込むかもしれない。方向が定まらない。力は出る。しかし狙えない。散弾のように——全方位に散る。
北から人が流れ込んでいた。ルイが一人で五人を相手にしている。鍛造ナイフ一本で。信じられない動きだった。ルイは戦闘の訓練を受けていない。しかし——道具の扱いが、体に染みついている。ナイフは道具だ。道具の延長として、ルイは——切っている。腕を。肩を。致命傷ではない。しかし動きを止めるには十分な切創。
それでも数が足りない。
集落の中が混戦になった。柵の意味がなくなった。人と人が入り乱れている。誰が味方で誰が敵かもわからない。松明が倒れた。小屋に火がついた。煙が上がった。
「ノア!」
ライラの声だった。ライラが共有棟の前で叫んでいた。
「南に回り込んでる! 食料庫に——」
南。食料庫。ガレスの本当の狙い。東と北は陽動。本命は南の食料庫。冬を越すための備蓄。
ノアは南に走った。
食料庫の前に——ガレスがいた。
*
大きい。
それが最初の印象だった。ノアの一・五倍はある体。太い腕。厚い胸。顔には傷がある。自分でつけた傷か、他人につけられた傷か。目が——暗い。暗いが、空っぽではない。何かが燃えている。欲望でも怒りでもない。もっと——根本的な何か。
ガレスは食料庫の扉に手をかけていた。部下が三人。既に扉をこじ開けようとしている。
「止まれ」
ノアの声は——震えなかった。自分でも驚いた。
ガレスが振り返った。ノアを見た。数秒間、品定めするように。
「お前がノアか」
「……そうだ」
「風を起こす男。——本当か」
「本当だ」
「見せろ」
ノアは手のひらを上げた。力を——意識的に呼んだ。体の中の律動に意識を向けた。光の粒子が見え始めた。空気が震え始めた。
ガレスが——笑った。
「なるほど。本物だ」
ガレスは扉から手を離した。部下に目配せした。三人が下がった。ガレスがノアに向かって——歩いてきた。
「お前は俺と同じだ」
「同じ?」
「力を持った人間が、持たない人間を管理する。それが世界の形だ。AIがやっていた。今度は——俺たちがやる。お前は風で。俺は拳で」
「違う——」
「何が違う。お前は今、その力で俺を止めようとしている。力で力を制する。——管理だ。名前が変わっただけだ」
ノアは反論できなかった。
ガレスの言葉が——刺さった。力で人を圧倒しようとしている自分は、ガレスと何が違うのか。AIと何が違うのか。風で人を押し返すことと、拳で人を殴ることの間に——本質的な差があるのか。
「来い。俺のところに来い。お前の力と俺の力を合わせれば——この街を全部手に入れられる。食料も。人も。全部。——管理できる」
「管理は——」
「終わった? 終わってないよ。お前が何をしようと、結局は強い奴が弱い奴を管理する。AIがいなくなっただけだ。代わりが必要なんだよ」
ガレスの目が——本気だった。狂気ではなかった。論理だった。ガレスなりの、歪んでいるが筋の通った論理。力が秩序を作る。秩序が生存を保証する。AIがやっていたことの人間版。
ノアは何も言えなかった。
*
「力で決めるなら、前の世界と同じだよ」
声がした。後ろから。
イレーネが立っていた。杖をついて。共有棟の前にいたはずの老女が——いつの間にか、ノアとガレスの間に来ていた。
「先生——来ちゃだめだ——」
「黙ってなさい」
イレーネはノアに背を向けた。ガレスを見上げた。老女の首が反り返るほど見上げなければならない。ガレスの体はそれほど大きい。
「あんた。力で人を従わせてるんだね」
「それが何だ」
「それは——前の世界と同じだ。AIが力で人間を管理していた。あんたがやっていることは、AIの真似事だ」
ガレスの目が細まった。
「年寄りが説教か」
「説教じゃない。事実を言っている。——力で決めるなら、どちらが勝っても管理が戻るだけだ。あんたが勝てばあんたの管理。この子が勝てばこの子の管理。結局——同じだ」
「なら——どうする。力を使わないで、俺に食料をよこすか。子供みたいなことを言うな」
「子供みたいでいい。子供は力で解決しない。泣くか、逃げるか、——話すか。大人のほうがよっぽど馬鹿だ」
ガレスの腕が動いた。
速かった。太い腕がイレーネの肩を打った。杖が飛んだ。イレーネの体が横に倒れた。地面に。軽い音。老女の体が地面に叩きつけられた。
「先生っ!」
ノアが駆け寄った。イレーネの頭を支えた。目が開いている。意識はある。しかし——口の端から血が出ていた。肩を打たれた衝撃が頭に来たのか。
イレーネがノアを見上げた。目が——澄んでいた。
「選べ」
老女の声は小さかったが、明確だった。
「力の使い方を——選べ。ノア」
ノアの中で、何かが決壊した。
怒りだった。ガレスへの怒り。イレーネを殴った男への怒り。体の中の律動が爆発的に加速した。頭痛が来た。激しく。視界が——また裂けた。世界の裏側が見えた。光の粒子。網目状の世界。全てが繋がっている。
ガレスを吹き飛ばせる。殺せる。この手で——空気を凝縮させ、ガレスの体を叩き潰せる。わかる。体が教えてくれる。やり方を知っている。ガレスの心臓がどこにあるか、見えている。赤い熱として。そこに——力を集中すれば——
イレーネの声が響いた。
——選べ。
ノアは手のひらをガレスに向けた。怒りが渦巻いている。力が——溢れそうだ。体が「撃て」と言っている。「壊せ」と言っている。
しかし——。
ノアの頭に浮かんだのは——ガレスの部下の顔だった。棍棒を持って突っ込んできた男の、怯えた目。風に押し返されて尻をついた男の、恐怖の顔。あの男たちは——ガレスに従っているだけだ。ガレスを殺しても、あの男たちの恐怖は消えない。別のガレスが現れるだけだ。
ノアの口から——言葉が漏れた。
知らない言葉。ライラに「出すな」と言われた言葉。しかし体が止められなかった。喉が勝手に震え、唇が勝手に動き、音が世界に放たれた。
——ヴェントス・ムルス。
あの日と同じ言葉。装甲猪を弾いた日の言葉。しかし今度は——意味が違った。ノアの意志が違った。
手のひらの前で、空気が凝縮した。しかし——ガレスに向かってではなかった。
壁が——集落を囲むように広がった。
ノアの手のひらから放たれた力が、放射状に広がり、集落の外周に沿って空気の壁を形成した。目には見えない。しかし——ガレスの部下たちが、壁に押し返された。風が渦巻いた。砂埃が舞い上がった。柵の外にいた者たちが——押し出された。柵の中にいた者たちは——押し出されなかった。壁はガレスの人間だけを弾いている。——いや。正確には、ノアが「外に出て行け」と思った者たちを。
ガレスが——壁に押された。後ずさった。太い足が地面を削った。しかし壁の力に抗えない。
「何だ——これは——」
ガレスの声が驚愕に震えた。
ノアの口から、また言葉が漏れた。
——テルラ・フィルマ。
地面が震えた。柵の外側で、碧蔦が地面から噴き出した。蔦が伸び、絡み合い、壁を形成した。杭の代わりに——蔦の壁。人の背丈を超える蔦の壁が、集落の外周を囲んだ。
風の壁と蔦の壁。二重の境界。
ガレスの部下たちが悲鳴を上げた。蔦に足を取られた者がいる。風に押し戻された者がいる。混乱が広がっている。
「出ていけ」
ノアの声だった。震えていた。しかし——届いた。
「出ていけ。ここには入れない。——でも」
ノアはガレスを見た。
「殺さない」
ガレスの目が——動揺した。殺さない。力で圧倒しておきながら、殺さないと宣言する。ガレスの論理では——理解できない行為だ。力を持つ者は、力を行使する。それが世界の形だ。行使しないのは——弱さだ。甘さだ。
しかしノアの目は——甘くなかった。弱くもなかった。真っ直ぐにガレスを見ていた。
「お前と俺は違う」
ノアの声が、自分でも聞いたことのない声だった。
「お前は力で管理する。俺は——ここに線を引く。この先には来るな。それだけだ。お前を支配しない。お前を殺さない。ただ——ここには来るな」
風の壁が——弱まり始めた。ノアの体力が尽きかけている。鼻血が流れていた。視界の端が暗くなっていく。頭痛が轟音のように鳴っている。
壁は——完璧ではなかった。すぐに崩れる。蔦の壁も、既に成長が止まっている。力が切れかけている。
ガレスがそれを見た。壁が揺らいでいる。もう少し待てば——壁は消える。突破できる。
しかしガレスは——動かなかった。
ノアを見ていた。鼻血を流し、膝が震え、しかし立ち続けているノアを。殺す力を持ちながら殺さないと宣言したノアを。
「……甘い」
ガレスの声は低かった。
「甘いから——また来る」
しかし——声が震えていた。
ガレスは踵を返した。部下たちに声をかけた。「引け」。短い命令。部下たちが——従った。混乱の中で、ガレスの声だけが秩序を保っていた。一人、二人と蔦の壁の隙間から退いていく。負傷者を引きずっている者がいる。
最後にガレスが振り返った。ノアを見た。
ガレスの足が——震えていた。
痛覚パーティで痛みを娯楽にしていた男。他人の苦痛を消費していた男。その男が——震えている。ノアが殺さなかったことが、ガレスの理解を超えていた。力を持つ者が力を行使しない。それは——ガレスの世界観では存在しない選択肢だった。
ガレスは去った。部下たちを連れて。東の方向に。
*
風の壁が消えた。蔦の壁が——残った。成長は止まっているが、物理的には存在している。人の背丈を超える碧蔦の壁。集落を囲む緑の壁。
ノアの膝が——折れた。
「ノアっ!」
イレーネの声。いつの間にか隣に来ていた。老女の手がノアの肩を支えた。ノアは地面に膝をついた。手をついた。鼻血が草の上に落ちた。赤い点が青い草の上に。
「大丈夫——」
「大丈夫じゃないだろう。——でも、よくやったね」
イレーネの声が震えていた。泣いているのか。笑っているのか。両方かもしれない。
ノアは地面に座り込んだ。視界が暗い。頭痛が——まだ鳴っている。しかし薄れてきた。嵐の後の余韻。
手のひらを見た。血で汚れている。鼻血が手に伝った。この手で——壁を作った。殺さないと決めた。ガレスを押し返し、しかし殺さなかった。
正しかったのかわからない。甘かったのかもしれない。ガレスはまた来ると言った。次は——壁を作れるかわからない。体力が持つかわからない。
しかし——殺さなかった。
それだけは——ノアが選んだことだった。
「ノア」
ライラの声だった。いつの間にか前に立っていた。ライラの目が——濡れていた。涙ではなかった。何か——もっと深い感情。
「守れたわ。——あなたが」
「俺だけじゃ——みんなが——」
「そう。みんなが。でもあなたが——線を引いた。殺さないという線を。あれは——大事な選択だった」
ノアは頷こうとした。しかし——力が入らなかった。体が倒れそうだった。
「休みなさい」
ライラの手がノアの腕を支えた。イレーネが反対側を支えた。二人に支えられて、ノアは立ち上がった。よろめいた。足が震えている。
集落の中を見回した。小屋が一つ壊れていた。火がついた小屋は消し止められていた。負傷者が何人かいる。しかし——死者はいなかった。誰も死んでいなかった。
ミラが博物館の地下から走ってきた。ノアに抱きついた。泣いていた。ノアは片手でミラの頭を撫でた。力が入らない。しかし——撫でた。
蔦の壁の向こうに、朝日が昇っていた。碧蔦の葉に光が当たって、青く輝いていた。壁は——美しかった。戦いの産物が美しいのは奇妙だった。しかし——美しかった。
ノアは壁を見上げた。
自分が作った壁。殺さないために作った壁。完璧ではない壁。やがて枯れるかもしれない壁。
しかし——今は立っている。
それで十分だった。




