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ゼンマイの朝  作者: 蒼月よる


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14/18

壁の向こう

 使者が来たのは、朝霧の中だった。


 断絶から百八十日。六ヶ月。集落の外周で見張りをしていたトーマが、最初に気づいた。東の方向から——二人の人間が歩いてくる。


「ガレスのところの人間だ」


 トーマの声は低く、硬かった。ノアはトーマの隣にいた。朝の見回り。練習の前の日課。トーマとは最近、よく一緒になる。「空気が変」と指摘した日以来、トーマはノアに時々声をかけてくるようになった。見張りの時間が重なることが多い。偶然なのか、意図的なのかは——わからない。


 二人の人間が近づいてきた。若い男と、もう少し年上の男。どちらも痩せていた。しかし筋肉質だ。暴力に慣れた体つき。目つきが鋭い。


「使者か」


「たぶんな」


 トーマが槍を握り直した。ルイが削った槍。穂先は鍛造ナイフを括りつけただけのものだが、構えるだけで威嚇にはなる。


 二人が立ち止まった。柵の前で。


「ガレスからの伝言だ」


 年上の男が言った。目が動いている。集落の中を観察している。小屋の数。人の数。畑の広さ。食料庫の位置。——偵察を兼ねている。


「話は——カイさんかライラ先生に」


 ノアが言った。自分が対応すべきではないと思った。


「お前がノアか」


 男がノアを見た。目が変わった。品定めするような目。噂を確かめるような目。


「……そうです」


「ガレスの用件は二つだ。一つ。食料をよこせ。お前たちの備蓄の半分。二つ——」


 男はノアを見た。


「お前を引き渡せ。ガレスが管理する」


 ノアの胸が冷えた。


          *


 共有棟に全員が集まった。九十人近い人間が、狭い空間にひしめいている。焚き火の煙が天井に溜まっている。

 ガレスの使者は柵の外で待たせている。トーマとカイの仲間三人が見張っている。


「食料の半分とノアの引き渡し。——それがガレスの要求だ」


 カイが全員に伝えた。声は平坦だった。しかし顔は硬い。


 沈黙。そして——声が上がった。


「食料の半分? 冬を越せなくなる」

「ノアを渡すって——どういうことだ」

「ガレスはノアの力の噂を聞いたんだろう。あの力を手に入れたいんだ」

「渡せば——平和になるんじゃないか」


 最後の声に、ノアの体が強張った。


「渡せば済む話じゃないのか。ノア一人で九十人が助かるなら——」


 誰が言ったのかわからなかった。しかしその声に、何人かが頷いた。恐怖派の人間たちだった。ノアの力を恐れていた人間たち。ノアがいなくなれば——力の脅威もなくなる。ガレスの脅威もなくなる。一石二鳥だ。

 合理的な判断だった。管理時代なら——AIがそう判断したかもしれない。最大多数の利益のために、一人を切り捨てる。最適解。


「渡さない」


 イレーネの声だった。老女は共有棟の隅に座っていた。立ち上がらなかった。座ったまま、しかし声は全員に届いた。


「一人を差し出して平和を買うのは——管理の手法だ。AIがやっていたことと同じだ。最適な犠牲を選んで、残りを管理する。それを私たちがやるのか」


「しかし現実問題として——」


「現実問題として、ガレスはノアを手に入れても食料を要求し続ける。ノアを渡したら次は何だ。食料の全部か。畑か。この場所か。一度従えば、終わりがなくなる」


 カイが頷いた。


「イレーネの言う通りだ。ガレスは力で支配する人間だ。一度差し出せば——エスカレートする。ノアを渡すことは解決にならない」


「じゃあどうするんだ。戦うのか。ガレスのところには——六十人以上いる。元堕落者もいる。暴力に慣れた人間が。こっちは——武器らしい武器もない」


「武器はある」


 ルイが言った。静かな声。


「鍛造ナイフが七本。槍が十二本。道具としては心もとないが——柵と火と地形を使えば、数の差は埋められる」


「埋められるか?」


「わからない。しかし——やるべきことはやれる」


 議論が続いた。ノアは黙って聞いていた。

 自分の名前が何度も出る。「ノアを渡せ」「ノアを守れ」「ノアの力があれば」「ノアの力は危険だ」。ノア。ノア。ノア。全てがノアを中心に回っている。

 五ヶ月前は——誰もノアの名前を呼ばなかった。管理番号で呼ばれていた。AIが処理する数字の一つだった。今は——名前が重い。名前に意味が乗っている。期待も恐怖も判断も、全てが「ノア」という名前に集約されている。


 ノアは手のひらを見た。ミラを守った手。草の葉を揺らした手。嵐を起こした手。


 渡されるのか。

 ノアは考えた。渡されれば——九十人は助かるかもしれない。しばらくは。ガレスの要求がエスカレートするまでは。その間に食料を蓄え、柵を強化し——いや。カイもイレーネも言っている。一度渡せば終わりがない。合理的にも、渡すのは最適解ではない。

 しかし——それとは別の理由で、ノアの中で何かがざわついていた。


 渡される。差し出される。誰かの判断で、どこかに送られる。


 それは——管理だ。


 五ヶ月前の自分だ。AIが決め、AIが動かし、AIが管理する。ノアは何も選ばない。ノアは判断しない。ノアは——差し出される。

 全てが始まった朝を思い出した。目を覚ました。空っぽだった。「指示をくれ」と泣いた。指示は来なかった。水を探した。水たまりの水を飲んだ。自分で決めた。

 あの日から五ヶ月。ノアは自分で決めてきた。どの道を歩くか。誰と話すか。何を食べるか。名前を変えないと決めた。子供を守ると決めた。——全てが、ノアの選択だった。


 渡される、のか。


 ノアは立ち上がった。


 議論が止まった。全員がノアを見た。


「ノア?」


 カイが言った。


 ノアの手が震えていた。声も震えていた。しかし——言葉は出た。


「……俺は、行かない」


 静寂。


「俺は——ガレスのところには行かない。渡されない。差し出されない。——俺が決める。俺は、ここにいる」


 声が震えていた。膝も震えていた。怖い。ガレスが来る。戦いになるかもしれない。人が死ぬかもしれない。ノアのせいで。ノアが残ったせいで。——しかし。

 渡されることは——もうできない。ノアの体が拒否している。五ヶ月かけて掴んだものが——自分で選ぶという行為が——渡されることを許さない。


 イレーネが微笑んだ。老女の目が——潤んでいた。


「言えたね」


「先生——」


「先生じゃないよ。——言えたね。ノア」


「……怖いです」


「怖い。——でもあんたは選んだ。それでいい」


 カイが頷いた。ルイが頷いた。トーマが——腕を組んで、目を閉じて、頷いた。


 恐怖派の人間たちは——黙っていた。反論する者はいなかった。ノアの震える声が、反論を封じていたのかもしれない。あるいは——ノアの目が。空っぽだった目が、今は何かで満ちている目が。


 ライラが立ち上がった。


 全員がライラを見た。「先生」の目。判断を求める目。方針を求める目。ライラは——その視線を、正面から受け止めた。


「守りましょう」


 ライラの声は静かだった。しかし——揺れていなかった。


「この場所を。この人たちを。ノアを。——全部、守りましょう」


「どうやって」


 誰かが聞いた。


「準備をする。柵を二重にする。槍を増やす。火を多く準備する。見張りを強化する。——そしてガレスに返事をする。『渡さない。半分も出さない。来るなら来い』」


「戦うのか」


「戦いたいわけじゃない。でも——差し出すことはしない。差し出したら終わる。この場所が——この人たちが作ったものが」


 ライラの声には——覚悟があった。ノアにはそれがわかった。ライラが初めて見せる顔だった。「先生」でも「審査官」でもない。この場所を守ろうとする——人間の顔。


「カイ」


「ああ」


「防衛の準備をお願い。あなたが一番知っている」


「承った」


「ルイ」


「はい」


「武器を。ありったけ」


「作る」


「イレーネ」


「はいはい」


「子供たちを。避難場所を決めて」


「任せな」


「ノア」


 ライラがノアを見た。


「あなたは——あなたでいなさい。力を使えとは言わない。使うなとも言わない。あなたが決めなさい」


「……はい」


 ノアは手のひらを握った。震えが止まっていた。怖い。しかし——震えは止まっていた。


          *


 ガレスの使者に返事を伝えたのはカイだった。


「渡さない。半分も出さない。以上だ」


 使者の顔が歪んだ。


「後悔するぞ。ガレスは——」


「ガレスに伝えろ。来るなら来い。——しかし、ただでは帰さない」


 使者は踵を返した。走って去っていった。東の方向に。


 ノアは柵の内側から、二人の背中を見送った。


 胸の中で、心臓が速く打っていた。そしてもう一つの律動も——速くなっていた。二つのリズムが重なって、ノアの中で唸っている。


 嵐が来る。


 ノアはそれを——体で感じていた。


          *


 準備が始まった。


 カイが指揮を執った。柵の補強。二重の杭。外側の杭は先端を外に向けて斜めに打ち、突進を防ぐ。内側の杭は垂直に、人間が隠れる壁として。柵と柵の間に溝を掘った。浅いが、足を取る程度には効く。

 ルイが武器を作った。鍛造ナイフを七本。博物館から持ち出した金属を打ち直した即席の槍を十二本から二十本に増やした。盾はない。しかし——木の板を重ねた簡易の盾を五枚。完璧ではない。しかし——ないよりはいい。

 イレーネが子供たちを集めた。博物館の地下室を避難場所に決めた。ミラが泣いた。ノアのそばにいたいと言った。イレーネが「ノアは大丈夫。あの子は強いから」と言って連れていった。ノアは手を振った。ミラも手を振った。


 セドリックが——図鑑を閉じた。


「ライラ」


「何」


「俺も——柵を打つ。手伝える」


「……ありがとう」


「植物学者だが——杭くらいは打てる」


 セドリックは笑った。不器用な笑み。しかし——強さがあった。七年前のセドリックにはなかった強さ。自分で選んで、自分で立っている強さ。


 ノアは準備を手伝いながら——自分の体の中に耳を澄ませていた。


 律動が強くなっている。嵐の前の気圧の変化のように。体の中の何かが——来るべきものに備えている。

 知らない言葉が喉の奥でざわめいている。ライラに「出すな」と言われた言葉。しかし——あの日、出してしまった。ミラを守る時に。そして——力が動いた。言葉と力が連動している。

 言葉を出さなければ力は使えないのか。——わからない。練習では、言葉なしに草の葉を揺らせた。しかしあれは微かな力だ。装甲猪を吹き飛ばすような力には——言葉が必要なのかもしれない。


 ノアは唇を閉じた。

 使わないと決めたわけではない。使うと決めたわけでもない。ライラが言った。「あなたが決めなさい」。

 決める。その時が来たら——ノアが決める。


 柵の向こうに、夕日が沈んでいた。明日か、明後日か。ガレスが来る。


 ノアは手のひらを握った。開いた。握った。

 この手で——何をする。守るのか。戦うのか。壊すのか。

 まだわからない。しかし——この手は、ノアの手だ。

 それだけは——確かだった。


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