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ゼンマイの朝  作者: 蒼月よる


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12/18

目覚め

 その日は、朝から空気が重かった。


 断絶から百七十日。五ヶ月と半月。季節は冬に向かっていた。最低気温が下がり、息が白くなる朝が増えた。畑の根菜は霜に弱い。セドリックが藁で覆いを作り、カイの仲間が毎朝霜を払っていた。食料は——足りていない。九十人の腹を満たすには、畑だけでは足りない。採集と狩猟で補っているが、冬が本格化すれば採集できるものは減る。

 集落は生きているが、綱渡りだった。


 ノアは朝の見回りを終えて、共有棟の前に立っていた。


 体の中の律動は——もう、日常の一部になっていた。心臓の鼓動と、もう一つのリズム。頭痛は相変わらず不定期に来る。視界異常も。知らない言葉も、喉の奥に溜まっている。しかしライラの言いつけを守って、声には出していない。

 一ヶ月前——トーマに「空気が変だ」と指摘された日以来、ノアは人との距離に気を使うようになった。焚き火のそばでは少し離れて座る。作業中は腕一本分の間隔を空ける。理由は説明していない。しかし何人かは気づいている。ノアの周りの空気が——揺れていることを。


          *


 昼過ぎ。


 ルイが食料貯蔵庫の在庫を確認していた。木造の小屋。カイとルイが共同で建てた。根菜、干し肉、乾燥させた葉、木の実。冬を越すための備蓄。

 ルイが顔を上げた。


「足りない」


 カイが隣にいた。二人は最近、よく一緒にいる。実務の相談が多い。


「あと何日分だ」


「このペースなら——四十日。冬が九十日続くなら、半分しか持たない」


「量を減らすか」


「これ以上減らせば、体力が持たない。見張りの回数を減らすことになる。減らせば——」


 獣が来る。カイの仲間が仕掛けた罠に、装甲猪が一頭かかったのは十日前だった。解体に半日かかった。装甲の外殻が硬すぎて、ルイの鍛造ナイフでも関節の隙間からしか切れなかった。しかし肉は食べられた。初めて食べた獣の肉だった。硬くて、臭みがあって、しかし——腹は膨れた。

 罠は有効だ。しかし獣が一頭ずつしかかからない。


「南の藪に——群れがいる」


 カイが言った。


「装甲猪。少なくとも五頭。昨日の見回りで足跡を見た。——ここに来るかもしれない」


「食料庫を狙って?」


「動物は鼻が利く。干し肉の匂いが——届いているかもしれない」


 ノアは黙って聞いていた。食料庫のそばに立って。五頭の装甲猪。一頭でも手に余る。五頭が群れで来たら——


「柵を補強する。槍を増やす。火を多くする。——それしかない」


 カイの声は淡々としていた。しかし目は笑っていなかった。カイは知っている。柵では止められない。槍では装甲を貫けない。火は——一頭は退けても、群れを退けられるかわからない。


          *


 夕方。


 集落の外周に杭を打っていた。ルイが削った杭。先端を火で焦がして硬くした。簡易的な柵。装甲猪を止められるかどうかは——わからない。しかし何もしないよりはいい。

 ノアは杭を打ちながら、周囲の空気を感じていた。最近は——感じられるようになった。空気の密度の変化。温度の僅かな勾配。風の向き。頭痛がない時でも、感覚が以前より鋭い。鋭くなっている。体が変わり続けている。

 足元に子供がいた。七歳くらいの女の子。博物館のコミュニティの一人。名前はミラ。ルイが木の端材で作った人形を抱えている。杭打ちの作業を見物していた。


「ノア、それ何してるの」


「柵を作ってる。動物が来ないように」


「動物、怖い?」


「怖い」


「ノアも怖いの?」


「俺も怖い。でも——柵を作れば、少しは安全になる」


 ミラは人形を握りしめて頷いた。ノアは杭を打ち続けた。


 その時——地面が揺れた。


 最初は足元の振動だった。遠くから伝わってくる、重い何かの足音。一つではない。複数。重なり合った足音が地面を通して伝わってくる。

 ノアは立ち上がった。杭を握ったまま。南の藪を見た。


 草が倒れていた。広い範囲で。何かが——複数の何かが、藪を押し分けて近づいている。


「カイさんっ!」


 ノアは叫んだ。声が集落に響いた。見張りの一人が松明を掴んで走ってきた。カイが共有棟から出てきた。ルイが鍛造ナイフを手に取った。


 藪が裂けた。


 一頭目が出てきた。装甲猪。百日前に見たのと同じ——灰色の外殻、赤い目、下顎の牙。しかし今度は一頭ではなかった。

 二頭目。三頭目。四頭目。

 五頭。

 五頭の装甲猪が横一列に並んで、集落に向かっていた。


 地鳴りがした。五つの足音が地面を叩いている。重い。速い。柵に向かって——来ている。


「火だ! 火を回せ!」


 カイが叫んだ。松明が三本。四本。見張りが走り回っている。しかし五頭——五頭の猪に、松明は足りない。


 先頭の一頭が柵にぶつかった。

 杭が折れた。木の杭が、装甲の頭突きで粉砕された。紙のように。ノアが半日かけて打った杭が、一撃で。


「柵が——」


 声を上げる暇もなかった。二頭目が柵を越えた。三頭目が隙間から入ってきた。五頭が集落の中に入り込んだ。人々が悲鳴を上げて逃げた。


「食料庫だ! 食料庫に向かってる!」


 カイが叫んだ。二頭が食料庫の方向に走っている。鼻で匂いを追っている。干し肉の匂い。根菜の匂い。冬を越すための備蓄が——


 残りの三頭は散った。一頭が畑を踏み荒らしている。一頭が小屋を壊している。装甲の体当たりで、木造の小屋が傾いた。


 そして——一頭が、ミラの方に向かっていた。


 ノアは見た。ミラが動けなくなっている。柵のそばに座り込んでいる。人形を抱えたまま。足が動かない。恐怖で凍っている。装甲猪が——ミラに向かって走っている。


 体が動いた。


 考えるより先に。三ヶ月前と同じだ。体が先に動く。しかし今度は——三ヶ月前より速かった。足が地面を蹴った。距離は——十五メートル。走った。全力で。風を切って。

 ミラの前に立った。装甲猪が五メートル先にいた。赤い目がノアを見ている。突進してくる。百キロ以上の装甲の塊が、全速力で。


 頭痛が来た。


 今までで一番強い。頭蓋が割れるような痛み。視界が——砕けた。いつもの「変わる」ではなかった。壊れた。世界が砕けて、裏側が見えた。


 空気が——光で満ちていた。


 微細な粒子。光の点。あの日からずっと断片的に見えていたもの。今は——全てが見えた。空気の中に漂う無数の粒子。地面の中を流れる光の根。植物の中で渦巻く青い光。全てが——繋がっていた。粒子と粒子が情報の糸で結ばれ、世界全体が一つの網目のように脈動している。

 ノアの体も——その網目の一部だった。粒子がノアの皮膚を通して流れ込んでいる。体の中を巡っている。血液と一緒に。呼吸と一緒に。ノアは世界の一部であり、世界はノアの中に流れ込んでいた。


 装甲猪が跳んだ。牙がノアに向かっている。


 ノアは手を前に出した。反射だった。意識ではない。体が——世界が——反応した。


 喉の奥から、音が漏れた。


 知らない言葉。ずっと溜まっていた言葉。ライラに「出すな」と言われた言葉。しかし——止められなかった。体が勝手に発した。喉が震え、唇が動き、音が——世界に放たれた。


 ——ヴェントス・ムルス。


 意味を知らない。しかし——体が知っていた。その音が何を意味するのか。舌がどう動くか。喉がどう震えるか。空気の中の粒子がどう反応するか。全てを体が知っていた。

 音が空気を叩いた。ノアの手のひらの前で、空気が——凝縮した。


 壁。


 空気の壁。目には見えない。しかし密度が変わった。手のひらの前の空間が、固体のように硬くなった。三ヶ月前に獣を弾いた時の——あの現象の、桁違いに強い版。

 装甲猪が壁にぶつかった。


 音がした。鈍い衝突音。百キロ以上の質量が、空気の壁に激突した。猪の体が——弾かれた。空中に。三メートル。五メートル。地面に叩きつけられた。起き上がろうとして——動かない。脚が折れている。

 ノアの手のひらから放たれた力が、装甲の猪を吹き飛ばした。


 沈黙。


 一瞬の。


 そして——残りの四頭が、ノアを見た。四つの赤い目が、ノアを見ていた。


 頭痛が続いている。激しく。しかしノアは立っていた。手のひらを前に突き出したまま。視界は——まだ「裏側」が見えていた。光の粒子。網目状の世界。四頭の装甲猪の体が、赤い熱として見えていた。心臓の鼓動。筋肉の動き。外殻の下の血流。

 四頭が——同時に動いた。


 ノアに向かって。


 体が反応した。ノアの意志ではなかった。体の中の粒子が、外の粒子と共鳴した。共鳴が波になった。波がノアの手のひらから放射された。


 風が起きた。


 突風。ノアを中心にして、放射状に吹き出した風。砂埃が舞い上がった。草が薙ぎ倒された。四頭の装甲猪が——風に押された。止まった。一歩も前に出られない。百キロの体が、風に押し戻されている。


 ノアの口から、また音が漏れた。知らない言葉が。止められない。喉が勝手に震えている。音のたびに、風が強くなった。音と風が連動している。


 ——テルラ・クラマート。


 地面が震えた。ノアの足元から波紋のように振動が広がった。碧蔦の根が——地中から突き出した。蔦が地面を割って伸び上がり、装甲猪の脚に絡みついた。蔦が生きているように動いていた。ノアの意志ではない。しかしノアの体の中の粒子と、蔦の中の粒子が——同じリズムで脈動していた。


 四頭が暴れた。蔦を引きちぎろうとした。一頭が脚を振り回し、蔦を断った。しかし——断った先から新しい蔦が伸びた。地中から。際限なく。碧蔦の成長速度が異常に加速していた。ノアの体から放たれる何かが、植物を暴走させている。


 装甲猪が後退し始めた。蔦から逃れようと、もがきながら後退している。一頭が蔦を振り払って藪に向かって走った。二頭目が続いた。三頭目。四頭目——脚を折られた一頭だけが動けずに地面に伏していた。


 四頭が藪に消えた。食料庫に向かっていた二頭も、風と蔦に追われて逃げていた。地響きが遠ざかっていく。


 風が止んだ。蔦の成長が止まった。光の粒子が——薄れていく。視界が元に戻りかけている。世界の「裏側」が閉じていく。


 ノアは立っていた。


 手のひらを前に突き出したまま。全身が震えていた。汗が全身を流れていた。鼻血が出ていた。視界の端が暗い。頭痛が——轟音のように鳴っている。


「……あ」


 足から力が抜けた。


 膝が折れた。地面に手をついた。手のひらに草の感触。冷たい。体が——重い。指一本動かすのが辛い。全身の力が抜けていく。バケツの底に穴が空いたように、何かが体から流れ出ている。


「ノア!」


 イレーネの声。遠い。耳鳴りがしている。


「ノアっ!」


 ミラの声。泣いている。ノアのすぐ後ろで。


「大丈……」


 言い切れなかった。視界が暗転した。地面が近づいた。倒れた。頬に草が触れた。冷たい。碧蔦の匂いがした。青い匂い。


 意識が落ちる直前——聞こえた。人々の声。


「何だ——何が起きた——」

「見たか——あいつ——手から——」

「呪いだ。あいつは呪われてる」

「違う。あれは——力だ」

「力? 何の力だ。ありえない」

「装甲猪を吹き飛ばした——風で——蔦が——」


 声が重なっている。混乱している。恐怖と、驚愕と、理解不能が混じった声。


 最後に聞こえたのは——イレーネの声だった。


「黙りな」


 老女の声が、混乱を断った。


「これは呪いでも奇跡でもない。——人間の中に、何か新しいものが目覚めたんだ。怖がるのは後でいい。今はこの子を運ぶのを手伝っておくれ」


 イレーネの手がノアの肩に触れた。乾いた手。温かい手。ノアはその温度だけを感じながら、意識を手放した。


          *


 夢を見た。


 夢の中で、ノアは立っていた。広い平原。草が風に揺れている。空が——青い。碧蔦の青ではない。澄んだ、純粋な青。雲がない。太陽は見えないのに、世界全体が明るい。

 足元に光が流れていた。地面の下を。光の河が、世界の下を流れている。

 耳元で声がした。声ではなかった。振動だった。空気の振動が——言葉のように聞こえた。


 ——聞こえるか。


 誰の声でもなかった。人間の声ではなかった。しかし言葉だった。


 ——ここにいる。


 それだけだった。それだけで——夢が終わった。


          *


 目を覚ました。


 天井が見えた。小屋の中だ。板の隙間から光が差し込んでいる。朝——か。昼か。どのくらい眠っていたのかわからない。

 体が重い。指を動かすだけで疲れる。しかし——痛みはなかった。頭痛が消えている。律動も穏やかだ。嵐の後の凪のように、体の中が静かだった。


「起きたか」


 イレーネの声だった。横を見た。老女が椅子に座っていた。ルイが作った木の椅子。イレーネの隣にミラがいた。人形を抱えて、眠っている。椅子の脚にもたれて、床で丸くなっている。


「ミラは——あの子は来た時からずっとここにいるよ。あんたが守った子だから」


「……どのくらい寝てました」


「丸一日と半分。ほぼ二日間。何度か起きかけたけど、すぐにまた落ちた。体が休息を求めてたんだろうね」


 ノアは体を起こそうとした。——起きられなかった。腕が震えている。力が入らない。


「無理するな。体が空っぽだ。あんたは——あの時、何か大きなものを使った。体の中のものを全部使い切ったんだよ」


「大きなもの——」


「私にはわからない。何が起きたのか。あんたの手から——風が出た。地面から蔦が伸びた。装甲猪が飛ばされた。目で見たけど、理解はできていない。——あんた自身はわかっているのかい」


「わからない」


 正直な答えだった。わからない。何が起きたのか。何をしたのか。手のひらから風が出た——出したのか。蔦が伸びた——伸ばしたのか。意志でやったのか。体が勝手にやったのか。

 しかし——覚えている。あの瞬間、世界が「見えた」ことを。空気の中の光の粒子。地面の下の光の根。全てが繋がっていた。そしてノアの体も——その一部だった。


「怖かった」


 ノアは言った。


「怖かった。でも——ミラが」


「うん。あんたはミラを守った。それだけは確かだ」


 イレーネはノアの額に手を当てた。


「熱は下がったね。——体の中の嵐が、少し落ち着いた」


「嵐——」


「あんたの体の中で、嵐が吹いていた。あの出来事は——嵐のピークだったんだろう。今は凪いでいる。でも——なくなったわけじゃないだろう?」


 ノアは頷いた。なくなっていない。律動はまだある。穏やかだが、確実に。心臓と、もう一つのリズムと。消えていない。消えることはないのだと——体がそう言っていた。


「コミュニティは——どうなってますか」


 イレーネの表情が少し曇った。


「……割れている」


「割れている?」


「あんたを怖がっている人間がいる。あんたを追い出すべきだと言っている人間が。あんたのあの——力を、呪いだと思っている人間が」


 ノアの胸が痛んだ。


「それから——あんたを崇めようとしている人間もいる。あんたに守ってもらえる、あんたに従えばいい、と」


「それは——」


「どっちも間違ってる。呪いでも、神様でもない。あんたは——人間だ。新しい何かを持った、しかし人間だ。私はそう思っている」


 イレーネはノアの手を取った。


「怖がらなくていい。追い出しはさせない。崇めさせもしない。あんたは——あんただ。それ以上でも、それ以下でもない」


 ミラが目を覚ました。ノアを見た。目が——輝いた。


「ノア!」


 小さな体がノアに飛びついた。ノアは腕が震えているのを堪えて、ミラを受け止めた。軽い体。温かい体。生きている体。


「ありがとう。ノア、ありがとう」


 ノアはミラの頭を撫でた。不器用に。ぎこちなく。五ヶ月前は人に触れることすらできなかった。今は——撫でられる。


「……どういたしまして」


 声が震えた。泣きそうだった。——泣いた。涙が一筋、頬を伝った。五ヶ月前は泣き方も知らなかった。今は——泣ける。


 イレーネが立ち上がった。


「さて。泣き終わったら——ライラ先生が話したいことがあるそうだよ。あんたの体のこと。あの人は何か知っているみたいだからね」


 ノアは涙を拭いた。手のひらで。その手のひらが——二日前に嵐を起こした手だ。装甲猪を吹き飛ばした手だ。しかし今は——ミラの頭を撫でた手だ。


 同じ手だった。壊す手と、守る手と、撫でる手と。全部が同じ手だった。


 ノアは手のひらを見つめた。

 何が起きたのか、まだわからない。しかし——この手は自分の手だ。体が変わっても。中身が変わっても。この手で何をするかは——ノアが決める。


 ミラが隣で笑っていた。人形を抱えて。


 窓の外では——碧蔦が陽光に青く光っていた。


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