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ゼンマイの朝  作者: 蒼月よる


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11/18

体の中の嵐

 眠れない夜が増えていた。


 断絶から百三十日。四ヶ月と少し。集落は秋に入りかけていた。朝晩の気温が下がり、焚き火の薪を多めに用意するようになった。畑の作物は碧蔦との競合を乗り越えて、いくつかの根菜が収穫できるようになっていた。井戸は三つに増え、小屋は二十を超えた。九十人近い人間が、ここで——生きている。

 しかしノアの体は、夜になると眠りを拒んだ。


 横になる。目を閉じる。意識が沈んでいく——その寸前で、目が覚める。頭の奥で何かが脈打つ。心臓の鼓動ではない。もっと深い場所で、もっと遅いリズムで、何かが律動している。

 あの日から——獣を弾いたあの日から、ずっとだった。


 最初は気のせいだと思った。興奮が残っているのだろうと。しかし一週間経っても消えなかった。二週間。三週間。一ヶ月。律動は消えるどころか、はっきりしてきた。体の中に、自分のものではない何かが住んでいる。何かが育っている。

 頭痛も増えた。不定期に、前触れなく来る。こめかみの奥が脈打つ。数秒で消える時もあれば、数分間続く時もある。痛みが来ると、視界が——変わる。草の葉が光って見える。空気の中に微細な粒子が見える。青白い光の点が、世界を満たしている。瞬きすると消える。

 ノアは誰にも言っていなかった。


          *


 朝。見回りの時間。


 ノアは集落の外周を歩いていた。東の端。碧蔦の密生地帯に近い区画。この辺りは特に蔦の成長が速く、二日ごとに刈り込まないと小屋の壁を覆ってしまう。

 刈り込んだ蔦の切断面から、青い樹液が滲んでいた。ノアはそれを見つめた。青い。碧蔦の樹液は透明ではなく、薄い青だった。セドリックが「血液のようなものだ」と言っていた。「植物の血液が青いことは自然界ではありえない。何かが——植物の内部で生成されている」。

 ノアは蔦の切断面に指を近づけた。触れる直前——頭痛が来た。


 鋭い。短い。こめかみの奥を針で刺されたような痛み。


 視界が変わった。蔦の切断面から滲む樹液が——光って見えた。青い光。樹液の中を、何かが流れている。微細な粒子。あの日——獣を弾いた日に見たのと同じ光の粒子。空気中にも浮遊しているが、蔦の中には桁違いに多い。樹液の一滴の中に、数えきれない光の点が渦巻いている。

 ノアは手を引いた。視界が元に戻った。頭痛が消えた。


「……また、か」


 独り言が出た。四ヶ月前は独り言も言えなかった。今は——言える。自分の状態を言葉にできる。しかし、この状態を表す言葉がない。

 体がおかしい。壊れ始めている。

 ノアはそう結論していた。ナノマシンの修復機能が失われた体が、四ヶ月かけてゆっくりと壊れていく。頭痛はその兆候だ。視覚異常も。不眠も。いずれ——もっと大きな故障が来る。治す手段がない。

 病気になれば、死ぬ。


 この恐怖は、四ヶ月前の恐怖とは質が違った。断絶の朝、ノアは「何をすればいいかわからない」という恐怖を抱いていた。今は自分の足で歩ける。水を探せる。食べ物を得られる。人と話せる。外の世界では生きていける——しかし、内側が壊れていく。

 自分の体が自分のものではなくなっていく感覚。管理下では、体はAIが管理するものだった。体温も心拍も血液成分も、全てAIが監視し、最適に保っていた。断絶後、ノアは自分の体を自分で管理することを覚え始めた。食べて、動いて、休んで、体を保つ。その術をようやく身につけた矢先に——体が勝手に変わり始めた。

 管理から逃れた先に、別の制御不能が待っていた。


          *


 昼。畑の作業。


 カブに似た根菜を掘り起こしている。セドリックが「食用可能」と判定した五種類の根菜のうちの一つ。名前はまだない。セドリックが名前をつけるのを楽しみにしている。ページ五十三に分類が記録され、ページ五十四にスケッチが描かれている。名前は——まだ空欄。

 ノアはスコップ代わりの板切れで土を掘った。指が土に触れた。冷たい。秋の土。四ヶ月前に初めて土に触れた時、ノアは土の冷たさに驚いた。今は驚かない。土は冷たいものだ。それを知っている。


 頭痛。


 今度は強かった。板切れを取り落とした。両手でこめかみを押さえた。痛みが波のように来る。

 視界が変わった。地面の下が——見えた。根菜の根。碧蔦の根。地中に張り巡らされた根のネットワークが、青白い光の線として浮かび上がっている。目を閉じても消えない。目ではなく、頭の中に直接、地中の構造が流れ込んでくる。

 吐き気がした。情報が多すぎる。

 そして——音が聞こえた。


 音ではなかった。頭の中に浮かぶ「何か」だった。言葉のようなもの。しかし知っている言語ではない。ノアが話す言葉でも、聞いたことのある言葉でもない。音の断片。意味のない音の連なり。


 ——ルクス・レティクラ。


 何だ。何の音だ。頭の中で勝手に鳴っている。自分が考えたのではない。外から入ってきたのでもない。体の——奥から。骨の中から。血の中から。何かの残響のように、音が湧き上がっている。


 ——カエルム・テクタ。


 意味がわからない。しかし音の響きが、頭痛の律動と同期している。律動のたびに、音の断片が浮かぶ。意味のない——しかし何かの体系の一部であるような音。


 痛みが引いた。音が消えた。視界が元に戻った。地中の光は見えない。


 ノアは地面に手をついていた。額に汗が浮いている。呼吸が荒い。


「ノア?」


 ルイの声だった。近くでナイフを研いでいたルイが、ノアの異変に気づいて立ち上がっていた。


「大丈夫か」


「……大丈夫です。ちょっと——立ちくらみ」


 嘘だった。立ちくらみではない。しかし、何が起きているのかを説明できない。頭の中で知らない言葉が鳴った、とは言えない。


「顔色が悪い。休め」


「いえ、もう——」


「休め」


 ルイの声は穏やかだったが、有無を言わさなかった。ノアは畑を離れた。


          *


 夕方。焚き火のそば。


 ノアは膝を抱えて座っていた。火を見つめていた。炎が揺れている。薪が弾ける音。煙の匂い。四ヶ月前は火の起こし方も知らなかった。今は薪の組み方を知っている。空気の通り道を作ること。細い枝から太い枝へ、段階的に火を移すこと。ルイに教わった。

 火は——安心する。温かいから。明るいから。そして——制御できるから。薪をくべれば燃え、水をかければ消える。単純な因果関係。人間が制御できるもの。

 自分の体は——制御できない。


 頭痛が来た。今日四度目。


 こめかみの奥が脈打つ。ズキン。ズキン。律動に合わせて、視界の端が光る。見ないようにした。目を閉じた。

 しかし——炎の音が変わった。

 パチパチという音に混じって、低い唸りのような音。風がないのに、火が——揺れた。大きく。ノアの頭痛と同期するように、炎が左右に揺れた。律動のたびに。ズキンと頭が痛むたびに、炎が——傾いだ。


 ノアは目を開けた。火を見た。


 炎が不自然に揺れていた。風はない。空気は穏やかだ。しかし炎だけが——ノアの頭痛のリズムに合わせて、左右に振れている。

 まさか。

 ノアは頭痛を意識した。次の律動が来る。来た。ズキン。炎が——右に傾いた。


「……嘘だろ」


 声が漏れた。


 ノアは手のひらを火に向けた。何も起きない。二ヶ月前、獣を弾いた時のような感覚はない。手のひらは冷たい。しかし——頭痛が来るたびに、炎が揺れる。ノアの内側の律動と、外側の炎が、繋がっている。

 頭痛が消えた。炎は普通に戻った。パチパチと薪が弾けるだけの、普通の焚き火。


「あんた」


 声がした。振り返った。


 男が立っていた。三十七人の——今は三十四人の——一人。名前は確か、トーマ。四十代。痩せた男。寡黙で、いつも集落の端にいる。見張りの当番以外では、ほとんど人と話さない。

 トーマがノアを見ていた。焚き火の向こうから。目が——鋭かった。


「最近、あんたの周りの空気が変だ」


「空気?」


「気のせいかもしれないが——あんたの近くにいると、肌がぴりぴりする。静電気みたいな。前はなかった」


 ノアは言葉に詰まった。


「自覚はあるか」


「……わからない」


「嘘をつくな」


 トーマの声は静かだったが、断定的だった。都市の外で三十年以上生きてきた人間の声。嘘を見抜く力が、ナノマシンではなく経験から来ている。


「……少し。体が——おかしくなっている。頭が痛い。目が変になる。でも——何が起きてるのかわからない」


「病気か」


「たぶん。ナノマシンの修復がなくなって——体が壊れてるんだと思う」


 トーマは数秒間、ノアを見つめた。それから——首を横に振った。


「壊れてるなら、弱くなるはずだ。あんたは弱くなっていない。——強くなっている」


 ノアは何も言えなかった。


「気をつけろ。強くなることは、壊れることより厄介だ」


 トーマはそれだけ言って、闇の中に去った。


          *


 夜。眠れない。


 小屋の中で横になっている。隣のスペースではイレーネが穏やかに眠っている。老女の呼吸は規則的だ。安心する音。しかしノアは眠れない。

 頭の奥で律動が続いている。弱く。しかし確実に。心臓とは別のリズム。

 そして——音が、また浮かんだ。


 ——テラ・フルクトゥス。


 意味がわからない。しかし昼間と同じ質の音だ。頭の中で鳴っている。自分の思考ではない。どこかから——体の奥から湧き上がってくる音。


 ——ネクサス・ヴィタエ。


 ノアは目を開けた。天井を見た。暗い。小屋の板の隙間から星が見えた。星は静かだ。星は変わらない。地上がどれだけ変わっても、星は——

 頭痛が来た。強い。今日一番の。


 視界が暗闇の中で変わった。小屋の壁が——透けた。透けたのではない。壁の向こうが「見える」のではなく、壁を構成する木材の中の——何かが見える。木の繊維の中を流れる水分。水分の中に漂う微細な粒子。粒子が発する微かな光。

 世界が——層になっている。表面の下に、もう一つの層がある。光の粒子が満ちた層。ノアの目は、その層を——一瞬だけ覗いている。

 そしてまた、音。


 ——アニマ・テルラエ。


 今度は音だけではなかった。音と一緒に、意味のようなものが流れ込んできた。意味——ではない。感触。この音を発した時、舌がどう動くか。喉がどう震えるか。体がどう共鳴するか。音を「知っている」のではなく、音を「覚えている」。体が。骨が。血が。

 ノアの唇が動いた。無意識に。


「アニマ……テル、ラエ……」


 声に出した。低い呟き。意味のわからない音。しかし——声に出した瞬間、頭痛が弱まった。律動が穏やかになった。音を発することで、体の中の何かが——安定した。


 怖い。


 ノアは毛布を頭まで被った。体が震えていた。恐怖。四ヶ月前の恐怖とは違う。断絶の朝は「外の世界」が怖かった。今は「内側」が怖い。自分の体が、自分の知らないことをしている。自分の口が、自分の知らない言葉を話している。

 管理されていた時、体はAIのものだった。断絶後、体は自分のものになった——はずだった。しかし今、体は再び自分のものではなくなりつつある。誰のものでもない。体は——体自身のものだ。ノアの意志とは無関係に、体が何かに変わろうとしている。


 怖い。しかし——


 ノアは手のひらを見た。暗くて見えない。しかし手のひらがそこにあることはわかる。二ヶ月前、この手で獣を弾いた。セドリックを守った。あの時、体は——ノアを守ろうとした。ノアの意志ではなく、体が勝手に動いて、しかし結果として——守った。

 体は敵ではないのかもしれない。

 しかし味方でもない。体は——体だ。ノアとは別の意志を持ち始めた、もう一つの自分。


 律動が続いている。穏やかに。心臓の鼓動と、もう一つのリズム。二つの律動が、ノアの中で重なっている。

 眠れない。しかし——目を閉じた。律動を聞いている。拒まない。受け入れてもいない。ただ——聞いている。


          *


 翌朝。


 セドリックがノアの額に手を当てた。


「熱い」


「熱がある?」


「ある。でも——おかしい」


 セドリックは首を傾げた。植物学者の観察眼が、人間の体にも向いている。


「風邪の熱じゃない。炎症の熱でもない。手足は冷たくない。汗もかいていない。体の芯だけが——熱い。何かが活性化しているような熱だ」


「活性化——」


「植物で言うなら、発芽の熱に近い。種が殻を破る直前に、内部温度が上がる。エネルギーが集中する。それに似ている」


 ノアは自分の額に手を当てた。確かに熱い。しかし具合が悪いわけではなかった。頭痛はある。不眠はある。しかし——体力は落ちていない。むしろ最近、走るのが前より速くなった。持てる荷物が重くなった。視力も——異常が起きていない時は、前より良い。遠くの木の葉が一枚一枚見える。

 壊れているのか。変わっているのか。


「セドリック」


 ライラの声だった。近くにいたらしい。


「その熱——どのくらい続いてる?」


「わかりません。今朝気づいたのは——」


「違う。ノアに聞いてる」


 ライラがノアを見た。ノアは——少し迷った。嘘をつくべきか。しかしライラの目は、嘘を許さない目だった。審査官の目。何かを見定めようとしている目。


「……一ヶ月くらい前から。体が熱い。でも具合は悪くない。頭が痛くなることがある。目が変になることがある。それから——」


 言うべきか。知らない言葉のこと。頭の中で鳴る意味のわからない音のこと。


「それから?」


「……頭の中で、知らない言葉が聞こえる。聞こえるっていうか——浮かんでくる。意味のわからない音が。昨夜は——声に出してしまった」


 ライラの表情が変わった。一瞬だけ。すぐに元に戻った。しかしノアは見た。ライラの目が——動いたのを。何かを認識した目。恐怖ではなかった。確認だった。そして——焦りに近い何か。


「どんな言葉?」


「わからない。知らない音です。ルクス——とか。テルラエ——とか。意味のわからない——」


「わかった」


 ライラの声は平坦だった。しかしその平坦さが——作られたものだと、ノアにはわかった。ライラは何かを知っている。この症状の意味を知っている。知っていて——平静を装っている。


「ノア。その言葉を——誰にも話さないで」


「え?」


「聞こえた言葉を、声に出さないで。頭の中で鳴っても——口に出さないで。約束して」


「なぜ——」


「今は説明できない。でもお願い。それだけは」


 ノアはライラの目を見た。ライラの目は真剣だった。懇願に近かった。審査官が——懇願している。


「……わかりました」


 ライラは頷いた。背を向けた。去り際に——一度だけ振り返った。ノアを見た。


 その目は、断絶の翌日——初めてノアを見た時の目に似ていた。何かを測っている目。しかし今は、冷静な測定ではなかった。もっと——切実な何か。


 ノアは自分の手のひらを見た。

 体の中で、律動が続いている。静かに。確実に。心臓と、もう一つのリズムと。

 知らない言葉が、喉の奥に溜まっている。口に出すなとライラは言った。出さない。約束した。しかし——言葉は消えない。体の奥から湧き上がり、喉まで来て、唇の手前で止まっている。

 ノアは唇を噛んだ。


 体が変わっていく。内側から。ノアの知らない何かに。


 怖い。

 しかし——四ヶ月前の「怖い」とは違う。あの朝は、何も持っていなかった。今は——名前がある。仲間がいる。焚き火がある。刈り込んだ蔦の切断面の青さを知っている。土の冷たさを知っている。火の温かさを知っている。

 全部が、ノアのものだ。体がどれだけ変わっても——この四ヶ月で掴んだものは、ノアのものだ。

 それだけが、確かだった。


 体の中の嵐は——まだ始まったばかりだった。


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