濃霧魔(のうむま) の襲撃
霧魔 が消え、谷に静けさが戻る。
銀髪の巫女――リュミエールが少年を抱きかかえたまま、霧の薄い方へ歩き出した。ソーマもその後ろに続く。
「少年の家はすぐ近くです。このあたりは 霧魔 の巣が多いので……ひとまず避難させましょう」
「巣、って……さっきの奴ら、そんなに頻繁に出るのか?」
「えぇ。霧が濃くなるほど 残滓 が集まり、魔物の形になりやすいんです。村人も慣れてはいますが……油断すると命を落とします」
残滓――。
彼女が口にしたその言葉は、ソーマにはまるで“世界のノイズ”を示すように聞こえた。
(前世の予報が聞こえるのも、その 残滓 ってやつが関係してるのか……?)
疑問は尽きなかったが、今は目の前の状況が優先だ。
少年の家に着くと、母親が泣きながら抱きしめた。
「ありがとう」「ありがとう」と繰り返される言葉に、ソーマは戸惑いながらも頷くしかできない。
(俺、本当に異世界に来たんだな……)
母親が少年を連れて家に戻ると、リュミエールが静かにソーマの方へ振り向いた。
「……あなた、本当に普通の人ではありませんね」
「いや、普通だよ。日本では、ただの気象会社の新人で――」
言いかけた瞬間、リュミエールの表情が固まる。
「に、ほん……? それはどこの国の名前ですか?」
「……ですよね」
ソーマは額に手を当てた。
(やっぱり通じないよな……。ここは日本じゃない。前世の情報が混ざるはずがないのに)
リュミエールは歩きながら、ソーマの横顔をじっと見つめる。
「先ほど、 霧魔 が動く前に……あなた、霧の流れを“読むように”避けましたね。普通の人は、あれを見ても動けません」
「ただ……嫌な予感がしただけだよ」
曖昧に答えると、彼女は首を振る。
「違います。あれは 《天象同調》 に近い“感応”です。空の揺らぎに反応した証拠」
空の揺らぎ(ゆらぎ)。
その言葉に、ソーマの耳奥のノイズが微かに鳴った。
ザザ……。
(……まただ)
突然、脳の奥で“声”が流れる。
『――午後から雷雨。突風に注意――』
(予報だ……!)
霧の谷にいるのに、前世の天気予報がはっきり聞こえる。
しかも、さっきよりノイズが少ない。
「っ……!」
思わず足が止まる。リュミエールが心配そうに覗き込んだ。
「ソーマさん? 顔色が悪いです。どこか痛むんですか?」
「あ、いや……大丈夫。ちょっと、耳鳴りがしただけで……」
しかし、その時だった。
――ゴウッ……!
霧の奥で、何かが暴れるような音が響いた。
「っ……また来ます!」
リュミエールの金色の瞳が強く輝く。
「霧の濃度が急に上がった……異常です!」
霧が渦を巻き、濃い灰色の影がうごめき始める。
先ほどより遥かに大きい 霧魔 が姿を作りつつあった。
形は狼に似ているが、輪郭が揺れて定まらない。
霧そのものが怒りのように脈動し、周囲の空気を歪ませていた。
「まずい……あれ、さっきの比じゃない!」
「村の避難が間に合いません……!」
リュミエールは光を纏い、手をかざす。
「霧の流れが……乱れすぎて読めないっ……!」
彼女の 同調 能力でも捉えきれないほど、魔力が荒れている。
霧魔が口を開き、風を切り裂く咆哮をあげた。
ソーマの耳に、予報の声が再び流れる。
『……雷雨。急な突風に注意。局地的に――』
(そうだ……!)
霧の流れが乱れているのではない。
――前線の“吹き返し”で、一時的に風向きが急変しているだけだ。
霧魔は風の流れが濃い方向へ移動する。
予報の“突風”は、それが荒ぶる方向を示していた。
「リュミ! 右じゃない、左だ!」
「えっ……!」
「あいつが飛びかかるのは、左の斜面の方だ!」
リュミエールは一瞬迷ったが、ソーマの言葉に従って位置を変えた。
次の瞬間――。
霧魔は、まさにその斜面へ向かって跳んだ。
リュミエールが即座に光の膜を展開する。
「 《風避け(かぜよけ)》 !」
衝突の瞬間、霧魔の輪郭が散り、霧と風が衝突して爆ぜた。
ソーマは腕で顔を庇いつつ、叫ぶ。
「リュミ! いまだ、押し返せる!」
「はい!」
彼女が再び手を突き出すと、霧が裂け、霧魔は形を保てずに崩れ落ちた。
灰色の霧が風に散り――完全に消えた。
静寂。
リュミエールは肩で息をしていた。その額には汗が滲んでいる。
「……凄いです、ソーマさん。あなた、予兆を“読んだ”のですか?」
「違う……俺はただ、予報を……」
そこまで言いかけて、言葉を飲む。
この世界で“天気予報”など存在しない。説明しても理解されるか分からない。
だが、リュミエールは柔らかく微笑んだ。
「あなたの感覚……普通ではありませんね。でも、不思議と怖くありません。むしろ……救われています」
その言葉は、胸の奥にじわりと染みた。
(救われてるのは俺の方かもしれない)
霧魔の残骸が風に乗って消える。
その向こうで、何人かの村人たちが近づいてきた。
「おおい、リュミの嬢ちゃん! 大丈夫か!」
村の男たちが駆け寄り、霧魔を倒した二人を見て驚いた表情を浮かべる。
「なんだあの 霧魔 ……でかすぎるぞ……!」
その時、村の外れから角笛が鳴り響いた。
――ボオオオオッ!
霧の中から、鎧を着た一団が現れる。
「 天象庁 だ……!」
村人の誰かが呟いた瞬間。
先頭を歩く、大柄な男が巨大な斧を担いで叫ぶ。
「おいおい、なんだこの濃霧は! おまけに魔物の臭いがぷんぷんするぞ!」
荒々しい声。
炎のような赤茶の髪。
獣のような気配を纏った男――
ガルム・レオニダス の登場である。




