平穏を使おうとする手
平穏は、守られている間は価値にならない。
だが、使えると気づかれた瞬間、意味を持ち始める。
天象庁に届いた次の文書は、整っていた。
字面も、構成も、理由付けも。
どこにも無理がない。
だからこそ、引っかかった。
――南部外縁一帯の道路整備計画について。
――近年の気象安定を踏まえ、流通効率の向上を目的とする。
「……来たわね。」
セシリアが、文書の端を指で押さえながら言った。
「“安定しているから広げる”。」
「予測通りだ。」
ソーマは淡々と答える。
「平穏は、余白に見える。」
「余白は、埋めたくなる。」
道路は、人を呼ぶ。
人は、意味を運ぶ。
意味は、流れを固定する。
ガルムが腕を組む。
「反対すんのか?」
「反対はしない。」
ソーマは首を振った。
「条件をずらす。」
昼前、関係部署との打ち合わせ。
否定はしない。
危険も強調しない。
ただ、順序だけを変える。
「着工は、次の季節以降。」
「まずは、試験的な短区間で。」
「人の動線は、既存路を優先。」
理由は、すべて合理的だ。
だが、その合理性は、速度を落とす。
「……慎重すぎるのでは?」
誰かが言った。
「安定しているからこそです。」
ソーマは答える。
「今、速さは必要ありません。」
速さを奪われた計画は、熱を失う。
だが、反発は生まれない。
正論で減速されているからだ。
午後、リュミが窓辺で空を感じていた。
しばらくして、ぽつりと漏らす。
「……触られました……。」
「……空が……
“使われる”……
感じです……。」
「壊されてはいない。」
ソーマは言う。
「だが、形を与えられかけている。」
形は、安定を固定する。
固定は、次の揺れに耐えられない。
夕方、評議会からの追加文。
計画は一部修正の上、継続検討。
即断はしない。
だが、撤回もしない。
「……手応えは半分、か。」
セシリアが息を吐く。
「十分だ。」
ソーマは答える。
「今日は、止める日じゃない。」
「急がせない日だ。」
夜。
屋上。
王都の灯りは穏やかだ。
だが、その下で、人の手が少しずつ伸びている。
ガルムが言う。
「平穏ってのは、
放っとくと勝手に使われるな。」
「だから、見ている。」
ソーマは空を見上げる。
「奪わない。」
「与えない。」
「速度だけを調整する。」
リュミが、静かに頷いた。
「……空は……
急がされるのが……
一番……
苦手です……。」
平穏を使おうとする手は、悪意ではない。
善意でもない。
ただ、余裕に反応しているだけだ。
それを叩けば、軋む。
放置すれば、固定される。
だから、間に立つ。
今日選んだのは、
平穏を消費させないという選択。
明日も、同じとは限らない。
だが、今日の世界は、
まだ自分の速さで呼吸している。




