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沖縄県下鉄道復興IF  作者: ガーレ
歴史短編・琉鉄編
7/15

沖縄電鉄

 1962年の鉄道法施行後、米軍統治下の沖縄本島で興った鉄道敷設計画は2つ存在した。

 1つは前話で取り上げた琉球政府を主体とする「琉球政府鉄道」計画。

 もう1つは前話にて取り上げられなかったバス事業者組合を主体とする「与那原鉄道」計画である。


 琉球政府の推し進めた鉄道計画は財界で大きな後押しを受けていた。その主な業界は建築、電力、海運、不動産などが挙げられる。一方で、県内各地に既にネットワークを構築していたバス業界とは利権の兼ね合いで折り合いがつかなかった。

 その結果、バス業界は独自に鉄道幹線を建設するという野望を抱く。


「――という計画なのですが、どうでしょうか、与那原町長殿、南風原村長殿」

「「乗った!!」」


 この様な会話があったかどうかは定かではないが……。


 戦後、米軍基地と共に発展を続けていた軍道1号沿いやコザ市近辺とは異なり、那覇市以外の本島南部はサトウキビ畑の広がる典型的な農村地帯であった。が、その中でも一応、那覇に次ぐ2番目の街の座を争っていたのが糸満市と与那原町である。

 どちらも歴史ある街であり、プライドは高い。そして何より、戦前に鉄道(ケービン)の終着点となっていた地である。

 両市町共に鉄道誘致に躍起になっていた。が、琉球政府の鉄道計画にはどちらも終着点として選ばれることはなかった。


 しかし、与那原町にバス業界からの声がかかった。これは渡りに船だ。

 こうして経由地の南風原村も巻き込み、自治体とバス業界による「与那原鉄道」計画として始動したのである。


――――――――――


 米軍との兼ね合いでゴタゴタした琉球政府鉄道に対し、距離も格段に短い与那原鉄道計画改め「沖縄電鉄」与那原線は3年ほど早い1965年に無事開業を果たす。

 そのルートは戦前の与那原線ほぼそのまま、政府道44号(現在の国道329号)にずっと沿ったものであり、その開業に合わせて現地の路線バスは全て再編されることになった。

 こうして、沖縄本島で初めての都市近郊型の交通体系が整備されることとなったわけだが……那覇市内中心部の区間では大問題が発生した。


 踏切による大渋滞(・・・)である。


 渋滞を無くすための鉄道が逆に渋滞を生んでしまった結果に、那覇市民の間で鉄道反対派が誕生。タイミング悪く琉球政府鉄道の那覇市内区間の工事が始まる直前だったこともあり、当初の軍道1号(現在の国道58号)横の地上を走らせる計画が頓挫してしまったのである。


 琉球政府鉄道はどうにか那覇市内区間を整備するべく問題解決を模索した結果、とある結論にたどり着いた。

 現時点で反対派が掲げるのは大きく2つである。

 1つに立ち退きの反対。これは埋め立てたばかりの曙駅、安謝駅周辺を広々とした宅地として整備し、そこに移住してもらうことにした。その管理のため発足した琉球政府鉄道住宅局が、後の完全民営化の際に琉鉄不動産となり、グループ中核の一員を担うことになる。

 そして、もう1つが踏切への反対。これは琉鉄那覇区間を高架にすることで解決を図ったが、それでは反対派は折れなかった。

 そこで計画されたのが、「明治橋架け替え計画」である。

 元々、戦後すぐに急造された明治橋は老朽化の折に立たされていた。そして、与那原線の踏切による最大の渋滞スポットは明治橋北詰のすぐ北に存在している。更に、明治橋の代替ルートとなりえる那覇大橋は1970年に完成予定だ。

 そこで、那覇大橋完成後に現在の明治橋を取り壊し、新たな明治橋を高架で整備することで問題を一気に解消しようと考えたのがこの計画なのだ。


 これと鉄道整備による効果を丁寧に説明した結果、反対派を少しずつ納得させることに成功。

 気づけば元の琉球政府鉄道整備計画が完成する前に1972年の本土復帰を迎えることになる。


 因みにではあるが、問題の沖縄鉄道は単独での資金繰りが厳しく、1969年には琉球政府鉄道と琉球旅客電鉄に分割編入されて「琉鉄与那原線」となっている。これにより、始発駅が元々の「那覇港駅」から後に開業する琉鉄の「那覇駅」に直接乗り入れるよう少々路線が変更されている。

 また、この時にようやくバス事業者との間で合意が取れ、大規模なバス路線の再編も行われている(中北部へ向かう路線の多くがコザ十字路駅隣接のバスターミナル発着となった)。


 こうして、部分開業から6年遅れの1974年。紆余曲折あった「琉球旅客電鉄」は途中「沖縄県営鉄道」と名前を変えつつも計画されていた全線が開通した。

 戦前の那覇駅跡地である那覇バスターミナル前の駅名は、「那覇」「那覇中央」「旭橋」「泉崎」「那覇バスターミナル前」の5案まで絞られ、住民投票の結果「那覇駅」となることが正式に決定。

 本土の大規模駅のように開発された那覇駅ビルには沖縄山形屋が入居し、華々しい開業式典が開催されることとなった。

 貨物運行と鉄道施設保有組織の名前は変わったものの、旅客運行をする会社の名は琉球を冠したまま存続することとなり、琉鉄という地元に根付いた名称は生き残ることとなった。


 ここから、琉鉄線は駅の新規開業や踏切の立体化など少しずつ形を変えつつ現代へと向かっていくのだが、1990年代までに2度大きな変化を迎えている。

 次回は、完全民営化と石川市を目指す大規模延伸についての物語である。

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