プロローグ
1945年、かの戦争は終わった。
中国大陸から太平洋全域へと急速な広がりをみせた戦火は、膨らんだ風船が萎むように徐々に押し戻されていき、遂にその炎は日本本土をも焼き尽くさんとしていた。
沖縄戦
──歴史に詳しくなくとも一度はそのワードを聞いたことがあるだろう。
連合国軍からは主要な飛行場のある地域のみを制圧していく「飛び石作戦」の標的とされ、日本軍からは本土決戦に備えての時間稼ぎの場「捨て石」とされた沖縄。
大戦末期の両者の思惑が絡み合い、この島では住民を巻き込んだ凄惨な地上戦が繰り広げられることとなる。
では、それが終わった後はどうなったのだろう。
沖縄戦の凄惨さは映画などを通じて広く知れ渡っているが、その後のアメリカ軍統治時代に目を向ける者は少ない。
物語を始める前に、ここでは軽く戦後沖縄の背景に触れてみようと思う。
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ニミッツ海軍元帥によって沖縄本島上陸直前に公布された「米海軍軍政府布告第1号」。これに基づき、米軍上陸の地──読谷にて「米国軍政府」が開設された。南西諸島における米軍の占領政策は、この軍政府の主導で展開されていく。
米軍に投降した民間人や日本兵らは捕虜収容所へと護送され、戦火から解放される代償に過酷な労働義務を課された。前線付近のいつ死ぬとも分からない極限状態に比べればマシとはいえ、収容所の環境は良いものとは言えなかった。
その後、軍政府から全ての捕虜へと帰還の許可が下るまでには、最長で3年もの時間を要することとなる。
いざ帰還の許可が下り元いた集落や街へ帰れたとして、戦前の状態を保っているということはまず無い。戦闘時の破壊や略奪によって見るも無残な状態であることが専らであった。
その為、多くの集落では物資不足の中、マイナスからの戦災復興を余儀無くされた。
ただ、たとえ原形を留めていなかったとしても、故郷に戻れた者は幸運である。
伊江島、宜野座、胡屋、読谷、嘉手納、普天間、牧港、天久、そして那覇、小禄──故郷があったはずの土地は既にフェンスによって仕切られ、立ち入りを禁じられ、米軍の重機が元から我が土地とばかりに闊歩していた。
このような事は上に挙げた地名のみならずほぼ島内の全域で起こっている。
平地は飛行場に、山原の雨林は射撃訓練場に、美しい海岸は上陸訓練場や軍人軍属専用ビーチに作り変えられ、締め出された住民は険しい丘陵地を無理やり切り拓いて住まわざるを得ない状態だった。
食料をはじめとする様々な物資の不足は密輸や闇市といった違法行為を活発化させ、ゲートの付近では軍人相手の接待業が発展した。
米軍憲兵による取り締まりも追いつかず、治安は日を追うごとに悪くなるばかりであった。
そんな状況の中、時代は1950年代に入る。
日本本土ではサンフランシスコ平和条約が調印され、高度経済成長期へと突入する時代。
沖縄でも終戦直後のカオスといえる状況は次第に落ち着いていくのだが、本土から切り離されたこの島の特殊な政治的環境はこの頃その全貌を顕にする。
沖縄に地政学的優位性を見出した米軍は、戦後の一時的な「占領」から長期的な「統治」へと方針を転換。それに伴い統治権も今までの軍政府から新たに設立された「米国民政府」へと移管された。
戦時下で蒸発した旧沖縄県庁に代わり戦後各地で乱立していた自治組織も、軍政府の統制下で二転三転した後、最終的には「琉球政府」へと全ての権限が統合された。
この2つの政府の成立を以て、50年代前半ごろに琉球諸島の統治体制は完成に至る。
統治体制は固まれど、現地住民の立場は不安定なままである。むしろ日本国と合衆国、どちらの憲法適応も受けることができなくなった彼らには基本的人権が存在せず、非常に危機的な状態であった。
その上、彼らの民主的な自治組織であるはずの琉球政府に対して米国民政府は絶対的上位の権限を有しており、最高位の裁判所や電力事業、果ては琉球政府その行政主席任命権までもが民政府の所管であった。
その強権を以てして、米国民政府は琉球政府や住民に対し常に抑圧を続けたのだ。
特に苛烈だったと言われるのが60年代前半、第3代高等弁務官の時代である。その男の数々の横暴について当時の地元民で知らない者はいない。
「旋風」とまで言われたその男の強引なやり方は、米国資本のお陰で復興、発展の最中にあった財界を失望させ、同時にこれまで政界で一定の勢力を維持してきた親米派を急速に弱体化させてしまう。
行政主席とは異なり琉球政府の立法院議員は選挙による民選である。議会はこの時から、反米を掲げる本土復帰派閥が大多数を占めるようになった。
政財界に団結が生まれた60年代後半。丁度ベトナム戦争末期と重なるこの頃から、米軍人軍属による凶悪犯罪が大きな社会問題となり始める。
治外法権がまかり通るこの地では、軍人軍属が現地人相手に犯罪を犯したとしても正当に裁かれることはない。
たとえ強盗や強姦を働いた凶悪犯であったとしても、それが軍人軍属であれば琉球警察はただ見ていることしかできなかった。
もちろん米国の法においても犯罪者であることに変わりはなく、現行犯であればMP(憲兵)に逮捕こそされるものの、民政府裁判所で簡易的な手続きを経た後はあっさりと釈放され、娑婆でのうのうと暮らしていけるというのが当たり前に横行していた。
現行犯ではなかったり、交通事故の場合に至っては、そもそも逮捕、起訴されること自体がごく稀であった。
この地元住民にとって理不尽極まりない状況の中、戦況の悪化に伴い軍人軍属による犯罪数は急増。最悪の年には1日あたり3件以上も凶悪犯罪が発生していたというのだから、不満が爆発するのにさほど時間はかからなかった。
70年代、1件の交通事故がきっかけで発生した「コザ暴動」と後に呼ばれる事件。これは日米両政府に大きな衝撃を与えた。
69年から始まった日米の沖縄返還交渉はこの1件の後に大きく進展。現地の復帰運動「島ぐるみ運動」がピークに達した頃、遂に悲願が実現することとなる。
1972年、沖縄は日本へと復帰した。
遂に念願叶った──かに思われた出来事だが、その実態は現地の人々が望んだものではなかった。それが徐々に明るみになるにつれ、復帰への希望は一転、深い失望へと変わることになる。
通貨切替直前に起こったドル暴落や、高度経済成長、列島改造ブームに乗り遅れたことに起因する大きく開いた経済格差。
復帰後も依然残り続けた広大な米軍基地と、その周辺で日々起こる事件事故での不平等な取り扱い。
沖縄の諸問題が現在まで混迷を極める政治的なトピックの1つで有り続けていることは、皆さんもご存知であろう。
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さて、ここまで戦後沖縄の負の歴史をつらつらと書き連ねてきたが、今現在この地はどうなっているのだろうか。
実は、空前絶後の絶頂期を迎えている。
日本各地が人口減少による衰退に苛まれるなか、本土に追いつけ追い越せとばかりに2000年代から開発が加速。
東アジアと東南アジアの中間という立地を活かした物流拠点の整備によって、その価値と国際的な存在感は日に日に増大、それに伴い国内外から多額の資本が流入したのだ。
日本最南端の政令指定都市となった那覇市はその恩恵を一番に受けており、島という孤立した地理的条件にも関わらず市内は何処も人通りに溢れ、オフィス街には高層ビルが建ち並び、抱えきれなくなった人口は周囲に複数のベッドタウンを形成している。
その他、東海岸側の複数自治体に跨る中城港は国際クルーズ観光拠点として大きな存在感を放ち、北部名護市は豊かな自然に近接した観光拠点として国内人気宿泊地の最上位をキープし続けている。
そんな、日本の中の新興国とも呼ばれるようになった沖縄だが、それを力強く支えている存在がある。それは何か。
鉄道である。
元の名を「琉球旅客電鉄」、現在は「琉鉄グループ」──琉鉄と呼ばれ島民から愛される準大手私鉄である。
ここまでの長話は全て前座。漸くここから物語は始まる。
これは、戦後沖縄に誕生した小さな鉄道が、動乱の時代に揉まれながらも地域を代表する企業へと成長し、この地の経済発展を支える大黒柱になるまでの波乱万丈を記録したものである。
勿論のことではあるが、一応。この歴史は全て作者の空想である。