第九話 そしていくつかの春の午後
※この回、R-15的な要素が割としっかりあります。苦手な方はご注意ください。
初夏のような陽気の日だった。四月の末の、とある休日だった。
連休前にようやく、高校にも復帰でき、表向きはまた、桜ヶ丘女子高等学校の生徒としての日々が、帰ってきていた。相馬ひなは、入院中に高校三年の四月を迎えていた。
高校側には、家の用事で家の者と共に品川にいた際に、事件に巻き込まれたと伝えてある。警察庁にもそのようなかたちで処理してもらった。桜ヶ丘の校則からすれば、そのような時間に無届けで出歩いていること自体が校則違反なのだが、それは退院後に保護者を呼び出しての訓告のみで終わった。呼び出された保護者――相馬嶺一郎は、これがお前にしてやる、最後の親らしいことかもな、と苦笑していたが、父親が学校に出向いてくれたこと自体、相馬ひなには驚きだった。
桜ヶ丘学園には、一月に解体した「組織」――神契東天教防人衆――の息のかかった理事が三名いた。組織には学校経営に対する興味はなかったが、良家の子女の集まるいくつかの学園に理事を送り込むことは、パトロンの獲得や大小さまざまな情報収集等を可能とするための、効率のよい手段だった。品川事件は、周知のように宗教がらみの事件だ。以前ならば、相馬ひなと事件との関わりは当然、そうした理事たちによって詮索されたであろうし、そこから教誨師と呼ばれるフリーランスの殺し屋の素姓との照合が行われれば、事態はかなり面倒なことになっていたかもしれない。組織とは取引ができるが、一般の教員や生徒とは、取引は不可能だ。これまでも相馬家は、教誨師に関する情報が表の世界に漏れ出ないよう、細心の注意を払ってきた。
だがその理事たちは、松本での神契東天教の事件直後に、一身上の理由という名目で学園を去っていた。そのため、相馬ひなの正体に辿り着く者は桜ヶ丘にはいなくなり、校則違反の件以外は、おおむね単なる不幸な被害者として、相馬家の令嬢は扱われることになった。
相馬ひなは、自分のとった行動を、今は後悔していない。森田ケイを護るために、自分が敵の銃弾を受けたことを、誇らしくも思っている。もちろん、機能回復のためのリハビリテーションはまだまだ続くし、教誨師の経歴としては大きな瑕瑾にもなる。戦術上の稚拙さについての批判も、きちんと受け止め理解しているが、教誨師ではなく相馬ひな個人としては、そんなことはもう、気にならなくなっていた。
落ち着いて考えれば、教誨師としての自分があのような行動をとれば、後見人である森田ケイとのコンビを解消させられるのは明白だった。森田が屋敷を下がると言わなければ、きっと父親である嶺一郎が、森田ケイとのコンビを解消させていただろう。自らの盾になるべき者の盾になる、そのような甚だしい勘違いを平然と実行するほどの想いを我が娘が抱いているというのならば、二人は引き離しておく必要がある、そうでなければ、またいつか、どこかの戦場で、娘は敵の照準の前に飛び出し、その後見人を庇おうとするだろう。――当主相馬嶺一郎がそう判断するのは、誰にとっても当然のことだった。だからもう、相馬ひなと森田ケイのコンビネーションは、破綻している。森田ケイ自身を含めた大人たちが、そう考えるのも無理からぬことだと、相馬ひなは理解している。
もちろんあのときは、そんなことまで考える余裕はなかった。その思慮の浅さを、九条由佳に批判されもした。でも、たとえ、森田ケイと引き離されることになっても、自分の選択は間違っていなかった、とひなは思っている。
なにより、森田ケイを護れたことが、その確信を支えている。
森田ケイは、あと数日で、相馬の屋敷を去ることになっていた。森田自身がそう、決めた。当主である嶺一郎からの慰留はあったが、森田は真摯に、今回の事態はひとえに、自らの力量不足に寄るものであり、このままお屋敷に置いていただくわけにはいかないと、訴えた。嶺一郎自身は、森田の教誨師後見人としての役目は停止するが、執事としては今後も、雇い続けるつもりであった。しかしそれを、森田ケイ本人が固辞したのだ。それで、森田が相馬家の執事を辞めることは、本決まりになった。嶺一郎の仲介で、今後は人材センター専属のエージェントとして、生きていくことになる。これまで、内向きのことは青木はるみが、外でのことは森田ケイが、というように分業して、教誨師であり相馬家の跡継ぎでもある相馬ひなを護り、育て、支えてきたが、その自らのもりびとの一人を、相馬ひなは失うことになったのだ。
相馬嶺一郎は、森田ケイに何らかの落ち度があったとは思っていない。嶺一郎自身が、そのことを家の者の前で宣言してもいる。だから今は、円満な、引き継ぎの時期ではあった。
その日、相馬ひなは、森田ケイを自室に呼びつけていた。
「お嬢様、森田ですが。」
ノックとともに森田が声をかけると、
「そこで待ちなさい。」
そうひなは答えた。そしてすぐに部屋から出ると、
「はるみさん?ちょっと出かけてきます。」
と隣の部屋に控える青木はるみに一声かけてから、森田を従えて歩き始めた。
「お嬢様、本日のご用は?」
ケイが尋ねると、ひなは少し笑ったようだったが、しばらくは、何も答えなかった。やがて、北棟と南棟を繋ぐ回廊まで来ると、ひなは森田ケイの方に振り返り、そのまま後ろ向きに歩き出した。そして、つとめて明るく、だがやや小声で、
「……引っ越しの手伝いくらい、させてよね。」
そう言った。しかし、今日のひなは、かなりフェミニンな(ある意味正統派の)ジャパニーズ・ゴシック・ロリータだった。つま先の丸く膨らんだ厚底の靴、膝上までのボーダーのソックス、フリルの付いたパニエを重ねた上にミニスカートのワンピース、そして、ヘッドドレス。手には革の黒いバッグを提げていた。およそ引っ越しの手伝いを申し出るような格好ではない。これからどこかに出かけるような様子だ。おそらく家の者が端から見ても、どこかにお出かけされるお嬢様とその執事、としか見えないだろう。そのことを森田ケイは少し、疑問に思ったが、あえて触れないことにした。森田にとっても、この時期、この時間は貴重だ。少しでも主人には機嫌よく過ごしてもらいたい。だからただ、
「引っ越しと言っても、教誨師としてなさるお仕事の資料はすべて置いて参りますし、個人的な持ち物もほとんどないのですが。」
そう答えるだけにした。すると、相馬ひなはやはり小声で、
「でも、掃除くらいはするでしょう?」
そう言って、また前を向いて、厚底の靴ですたすたと歩いていってしまった。
やがて相馬ひなは、森田ケイの居室の前まで来ると、鍵を開けさせた。そして、プロのエージェントとしての性質なのか、辺りに人目がないのを瞬時に確認してから、森田ケイの部屋に足を踏み入れた。壁際にアンティークの部類に入る古びた椅子が一つ。清潔だが、何の安らぎももたらさないようなベッド。必要最低限の家電製品。初めて入る、森田ケイの部屋。時を重ねるうちに染みついた、煙草の匂い。
「ここが、あなたの指定席なのね。」
壁際の椅子の前に立ち、ひなが尋ねる。
「ええ。おかけになりますか?」
「いえ。だってそこは、あなたのための、場所でしょう?」
「それは、違いますよ。おかけになれば分かります。」
「何か変な仕掛けがあるとか?」
「私は小学生ですか?」
「そ、そうね。それじゃ、ちょっと座らせていただくわ。」
少し緊張しているのか、ややぎこちない動作で、相馬ひなは、本来なら執事森田の指定席であるはずの椅子に、腰を下ろす。それに合わせて、森田が椅子の正面にある窓のカーテンを開ける。森田ケイの指定席でありながら、その森田のための場所ではない、その言葉の意味は、ひなにもすぐに理解できた。カーテンの開かれた窓を覗くと、中庭を挟んで自らの部屋がよく見えた。もちろん常時ではないのだろうが、執事・森田ケイは、この北向きの一階の部屋から、中庭を挟んで北棟の二階にある自分の部屋を確認し、自分のことを気遣い、見守っていてくれたのだろう。
「こう自分で言うのもおこがましいのですが、そこは、あなたのための場所です。いえ、正確には、場所でした、ということに、なりますか。」
そう言いながら、森田は一度、窓から向かいの主人の部屋の方を見遣ると、また元のようにカーテンを閉めた。一応は、主人が使用人である自分と同室していることを端から見られないように、気遣っているらしい。
「ありがとう……。今まで、ほんと。……ねえ、森田。」
「はい。」
「ほんとに、出て行っちゃうの?」
「はい。理由は、去年の私の誕生日の時に、申し上げた通りです。」
「そっか。うん。あたしも、覚悟はできてる。あなたとともにあった少女時代は、これでお終いなんだって、分かってる。」
「……。」
「あたし、あなたに感謝してほしいとか、ずっと一緒にいてほしいとか、そんなことを言うつもりはないから安心して。ただ、」
そう言い差して、相馬ひなは、椅子から立ち上がると、森田の前に立ち、くるっとターンして見せた。ひなの髪が、スカートが揺れる。笑顔がこぼれる。
「ねえ。あたし、かわいくないかな。ちょっと無理して、今日はかわいい系の服にしてみたんだけど。」
森田は、何も答えない。主人の行動を見守るようなまなざしだ。
「あたし、今年で一八歳になるんだよ。あなたから見ればずっと子どもかもしれないけど、でももう、そんなに子どもじゃないんだよ。」
何も答えない森田に向かって、ひなはさらに言う。
「教誨師の、殺し屋さんとしてのお仕事は、もう廃業したっていいんだよ?父だってそれは、認めてくれてる。半分は、呆れてたみたいだけど。でも、これからもっと訓練を積んで、あたしもセンターで働いたっていいんだよ?」
「廃業した方がいいなら、あたしだってふつうに大学とか行って、で、職業欄に書ける仕事に就いちゃうよ?そうすればあたしだって、あたしだってきっと、ふつうの人みたいに暮らしていけるんだよ?」
相馬ひなは、どうやら、森田ケイという執事のことは諦めたらしい。だが、森田ケイという男への想いと、己の恋心については、何一つ諦める気はなかったらしい。
「だから、」
さすがにここで、ひなの言葉が一度詰まる。軽く深呼吸をする。視線をもう一度、森田に向ける。
「だから、あたしを彼女にしてください。……それがダメなら、せめて、その、ええと、あの、だ、抱い……」
森田が、ふっと笑う。通じたかな?という期待を込めた目で、ひなが森田を見つめる。
「それは、できません。私はずっと、この家の執事とし……」
「うるさい。」
森田は、言葉を遮られた。
「……あなたはもう、執事じゃなくなるんだよ?」
ひなは、両手を握り締めて立っている。握り締めた両手が、小刻みに震えている。先ほどまでの笑顔が、一瞬で、つらいような、怒ったような表情に変わっている。これが、この顔が、今のひなの、本心なのだろう。
「あたしの気持ちも全部知ってるくせに、あなたは、自分の信じる正しさのために、あたしをこの屋敷に置き去りにして、出て行くって言ってるのよ?分かってる?」
何も答えない森田に向かって、さらにひなは詰め寄る。
「相馬家の執事を辞めるなら、それでもいいの。教誨師としてのお仕事だって、パートナーなしでも続けていけるわ。ほんとに廃業しちゃってもいいんだし……。でも、あたしを、今のあたしを全部放り出すことだけは、許さない。相馬ひなの、いいえ、ただの、ただのひなの相手は、あなたにしかできないの。あたしは、あなたが好き。あなたのいる世界で、あなたと一緒に、まだいろんなことがしたいのよ。」
「いつも一緒にとか、一生一緒にとかは言わない。でも、しばらくは……。今すぐさよならは、絶対、許さないんだから……」
「馬鹿な娘だって、父に見限られ蔑まれたっていい。あなたが、相馬の家とどうなったってかまわない。そんなこと、知らない。それでも、そうだとしても、今のあたしは、あなたを、手放せない。」
呆然としたように立ち尽くす森田の体に、ひなは両腕を廻した。そのまま、どこへも逃がさないとでも言うように、抱きしめる。左肩にまだ残る痛みもかまわずに、強く、抱きしめる。森田の胸に、顔を埋める。
「それとも、誰か好きな人とか、彼女とか、奥さんとか……いるの?」
しがみついたまま、ひなが尋ねる。
「そうなの?」
森田の顔を見上げる。
「……許さない。そんなの、絶対許さない。」
森田の胸ぐらを掴んで、ひなは森田の体を前後に揺さぶり始めた。ひなの言葉が、だんだん、言いがかりのような筋の通らないものになっていく。
「ねえ、相手の人って……」
「公安の吾妻って人?」
「もしかして、はるみさんとか?」
「まさか、由佳さん?」
「それともアルビノの式神ちゃんたちに萌え萌えとか?」
「ねえあたし、人類以外に負けちゃうの?」
「ねえってば!何か言いなさい森田!」
相馬ひなは、限界だった。今にも、泣き出しそうだ。森田ケイはゆっくり微笑むと、ようやく、口を開いた。
「ずっと、人使いの荒いお嬢様の下で執事として務めてまいりましたので。恋人を作る暇など、ありませんでした。」
う、と一瞬怯んだように相馬ひなの動きが止まって、赤面したまま俯いてしまった。それでも必死に口を動かし、返事をしようとした。
「わ、悪かっ」
「でも、それでよかったのだと思います。私はたぶんずっと、こんな日が来るのを、待っていたのだと思いますので。」
その言葉の意味がすぐには理解しきれず、混乱したままでいると、いつの間にか、森田ケイが、森田ケイの指が、自分の髪に触れている。そのまま、左の耳に触れられる。偶然なのか、耳たぶを軽くはじかれる。もうそれだけで、ひなは全身から力が抜けてしまった。目がとろんとして、視線が緩やかに定まらなくなる。対する森田のまなざしは、涼しく、そして愛しいものを愛でるまなざしだった。
「でも、ほんとうに、私なんかでよろしいのですか?」
「き、聞かないでよ……。あたしの気持ち、信じられないの?それに、」
「それに?」
「断ったり逃げたりしたら、軽く殺す。」
「……。」
目つきの怪しいひなの背後で、拳銃をコッキングする音がした。どこかに銃を隠し持っていたらしい。森田はいつものようにため息をつき、そしていつもとは違って、微笑んで見せた。
「かしこまりました、お嬢様。後のことは、後のことといたしましょう。今は、」
「うん。今は、」
ふわっと、ひなの身体が浮き上がる。
「あ、ちょ、ちょっと待って!」
「もう、待ちませんよ。」
「そうじゃなくて、セ、セーフティくらい!」
だが森田は聞かず、そのままベッドの上までひなを運んでから、銃を取り上げた。
「これは、私がお預かりいたします。」
デコッキングの音が聞こえた。
それが、二人の合図だった。
「ねえ?」
「なんでしょうか?」
「な、慣れてるの?……こういう、こと……」
「いえ、全く。」
「そうなんだ、でも……上手な、気が、する」
「そうでしょうか。」
「今日の服とか、面倒なの、着てたのに、すぐ、脱が、されちゃったし、その、なんだかもう、気持ち、いいし、ん――」
ケイの指先が、ひなの腰骨の辺りを滑る。
「でも、ひとつ、お願い、が」
「なんでしょうか。」
「い、今くらい、執事は休業、な、さい、ふ、あっ」
「……照れくさいのですが、ご命令とあらば。」
「もう……。それじゃ、執事のも、森田のま、ん、ままでしょう?」
「ふ、そうですね、いや……。分かったよ。執事は、休業だ。」
「そ、うよ、それが、いい……あと、ね、名前で呼んでも、いい?」
「かまわないけど?」
ケイが、ひなの眼を覗き込む。互いの鼻先が、触れそうな距離だ。
「ば、ばか、ムリムリ、近すぎだって」
「じゃ、これなら?」
ケイが、ひなの鼻先をそっと、唇でついばむ。
「ひゃあ」
間抜けな声が出てしまって、ひなは激しく赤面した。
「赤くなってる……、全身。」
「い、言わなくていいから!」
半分涙目のひなの唇に、ケイは自分の唇を重ねた。それから、少し上体を起こすと、ひなを見下ろした。その視線の先で、さらにひなの肌は紅潮していく。だが、ケイの視線がある一点に留まったのに気づくと、ひなは慌てて両手の平を重ねて、その箇所を隠してしまった。
相馬ひなが品川事件で負傷した左鎖骨下の銃創はもう、外科的なレベルではほぼ、完治している。だが、リハビリテーションの必要性とともに、ひなの肌には、明確にその痕が残ってしまっていた。ケイは、ひなの両手をそっとどけさせると、その傷に優しく口づけ、傷の周りをそっと舐めた。
ケイを庇って受けた銃弾、そして図らずも、主人と執事、教誨師とその後見人という重い軛を打ち壊し、二人にまさにこの「今」をもたらした、その銃弾の痕を、ケイが愛おしんでくれている。
「ご、ごめんね、まだ痕、消えてなくて。見た目、き、たないでしょ?」
「……やっぱり、オレが撃たれてればよかった。」
「ううん、……。あれは、あたしの闘いだったから。教誨師じゃなくて、ね……。ん、ひ、ひなの、たたかいだから、あなたが、ケイくんが撃たれちゃ、ダメな、ん、のよ。」
ケイは、何も言わず、ただ、もう一度口づけながら、ひなの体を抱きしめた。再び、ケイの指先が、ひなの全身を隈なく滑り始める。唇は、右耳をしばらくもてあそんだ後、首筋から鎖骨の方へと降りて行く。
そしてやがて、ひなが生まれてから一度も感じたことのない感覚が、乳房を、その優しく色づいた先端を誰かに吸われる感覚が、全身を駆けめぐった。思わず両脚をきつく閉じると、そこにそっと触れていたケイの指先が、強く、自分の最も敏感な箇所に押し当てられてしまった。
想像を軽く超えた刺激の量にどうしていいか分からず、ひなはケイの頭を胸元に引き寄せ、強く抱きしめた。それに応えるように、ケイの与えてくれる快感も、大きくなる。腕の中の、ケイの髪の感触も、気持ちいい。ケイに、指先で触れられている箇所が、たっぷりと溢れてしまっているのが、自分にも分かる。恥ずかしいとも思うが、嬉しいとも思う。しばらく、そのまま、ケイに身を預ける。でもすぐに、限界が来てしまう。心臓の鼓動も呼吸も跳ね上がってしまい、世界が白くなっていく。これ以上は、自分がどうにかなってしまう。経験のないひなには、この快感を飼い慣らし、さらに育てていく術がわからない。
「ま、待って……ケイくん、お、お願い。」
「ん?」
「うん。く、あ、あの、あ、あたしにも、させて?」
「どうするか、知ってるのか?」
「そんなこ、と、し、知らな、けどっ……、でも、したいの……してあげ、たいの。」
「わかった。」
ようやく、ケイはひなへの愛撫を止めた。そして、ひなの願いに応えるために、体を密着させたまま、そっと仰向けになった。
「あと、もうひと、つ、」
「まだ何か?」
ケイの胸に抱き抱えられるかたちになったひなは、荒い呼吸を一瞬止めて、自分から唇を一度重ねた。そして、少しだけ体を起こし、森田ケイを見下ろしながら、言った。
「うん。あのね。……あたしが泣いても、今日は、最後まで、して。」
そう言って、少しだけ、微笑んで見せた。森田ケイは、その胸にひなを抱きしめると、もう一度、唇を重ねた。
「旦那様、よろしいのですか?」
「よろしいも何も、あの娘は、私にはもう、コントロールできないよ。遅かれ早かれ、二人はそうなっていたはずさ。」
「執事として雇い続けていれば、森田の方はしばらくは抑えられたと思いますが。」
「おいおい、森田が執事を辞めると言い出したら、最後は辞めさせてやってくれと言ったのは、君の方だぞ。」
「ええ。でも旦那様は、それを聞かないこともできたはずです。」
「ふん。それは確かにそうだが。結局、君のシナリオの方がよいように思ったのは事実だしな。」
「シナリオだなんて。別にわたくしが仕組んだわけではありませんわ。森田を自由にすれば、お嬢様はきっと行動を起こされる、だから、お嬢様のお気持ちを優先されるなら、そうしていただきたいと、そう、申し上げただけです。わたくしはそれに、お嬢様が森田とおつきあいされることは、望んでおりませんでしたし……」
「ん?はるみ君、泣いているのか?」
相馬嶺一郎が気づいたときには、青木はるみは声も上げずに大粒の涙をぽろぽろとこぼしていた。嶺一郎に言われて、慌ててハンカチを取り出す。
「も、もうしわけ、ございません。わたくし、わたくしの大切なお嬢さまを失ってしまったような気がして、切なくて仕方がないのです。今までは、何でもわたくしにご相談くださいましたのに、今日のことは、何もおっしゃってくださいませんでした。お部屋にお戻りになってからも、何一つ……。たまたま、森田の車がガレージに停められたままなのに気がついて、それで、状況が確認できただけで……。」
「はるみ君には、あれが子どもの頃からずっと、母親代わりをしてきてもらったからな。感謝している。それは、娘も同じ気持ちのはずだ。」
「いえ、そんな……。奥様の替わりなど、滅相もないことでございます。ただ、お嬢さまのお側に仕えさせていただけるだけで、幸せを感じておりました。」
「森田に続いて、君までいなくなるような口振りだな。……だが、それは私が許さない。君はこれから、娘のメイドとしてだけでなく、教誨師が今後も活動する場合には、そのサポートにもついてもらうつもりだ。」
「……かしこまりました。」
涙に濡れた顔ではあったが、青木は笑顔を浮かべて答えた。
「森田のようにはできない部分もありましょうが、お役に立てると存じます。」
「うむ。よろしく頼むよ。」
「はい。」
「それから、もう一つ、頼みたいことがあるのだが。」
「なんでございましょうか。」
「単刀直入に言うが、この私の、恋人になってくれないか。」
「はぁ?」
「聞こえなかったか?」
「いえ、聞こえておりますが、恋人、でございますか?」
「そうだ。」
「どうしてまた?」
「いや、その、娘の行動力に影響されたわけではない、と思うんだが。前々から、考えていたことだ。もちろん、無理強いはしない。君が望むなら、籍を入れたっていいとも思ってはいるがね。」
「お断りいたします。」
「そうか。やっぱりダメか。」
「はい。籍を入れていただくつもりはございません。」
そう、青木は言うと、嫣然と微笑んで、当主・相馬嶺一郎の膝の上に腰掛けた。
「旦那様、ご覚悟はよろしいのですね?」
そう、耳元で告げると、自らの紅い舌を嶺一郎の首筋に這わせた。
「はるみ君こそ、それでいいのか?」
「はい。お言葉、うれしゅうございます。いつか、このような日が来ることを、はるみは夢見ておりましたから。」
ソファの背にもたれていた主が、がばりと身を起こす。
「いつからだ?」
「お雇いくださった頃から、ずっと。」
先ほどまでとは違う、喜びの涙を、青木は浮かべている。
「なぜ今まで、言ってくれなかった?」
「……今は、お話の時間ではありませんよ?」
そう言って、赤面しつつ軽く唇を重ねると、青木はるみは膝の上からするりと嶺一郎の脚の間に降りた。髪を優しく撫でる嶺一郎に笑顔を向けると、そのベルトを緩め、ボタンを外し、ファスナーを引き下ろした。そして、その間から少し震える手でそっと取り出したものを、いとおしげに口に含んだ。
初夏の日差しに中庭の木々や花々が輝かされる時期となった。森田ケイは屋敷を去り、青木はるみは、相馬ひな専属メイド兼教誨師後見人、という忙しいポストに就いた。教誨師は休業中だが、活動再開に向けての情報収集等はそれなりにある。だが今は、そうした新しい日々の中の小休止、週末の午後、お茶の時間だ。
「はるみさん?あたしに報告しなければいけないことがあるんじゃないかしら?」
「あら、そうおっしゃるお嬢さまこそ、何かわたくしにお隠しになっていることはございませんか?」
「なんのことかしら。」
「こちらこそ、何のことでございましょう。」
「何が何のことでございましょうなんだよもう!悪いけど、最近、夜にはるみさんがいないことが何度かあったから、後をつけさせてもらったわ。……その、ええと、確認するけど、あの、たとえば無理矢理とか、無理強いとか、そういうのはないよね?そのくらいの分別、あの馬鹿親父にもあるよね?」
「そうでございますね、どちらかというと、わたくしの方が毎回押し倒し申し上げておりますが。」
「う、そ、そうなんだ、へ、へえ……。なら、いいんだ。いいんだけどもっ」
そう言いつつ、相馬ひなは自分の頭の前で煙を払うような動作をしている。うっかり、映像で想像してしまったのだろう。女性から見ても魅力的で豊満な体をした自らのメイドと、他でもない、自らの父親の睦み合うシーンを。
「馬鹿親父、前よりまめに帰ってくるし、ずっと独り身で心配もしてたから、その点は、正直ちょっと複雑な気分ではあるけど、まあ、感謝してるわ。」
「お許し、いただけるのですか?」
「はるみさんがそれで不幸せだったら、教誨師として親父の最後の懺悔聞きに行くけど、そうじゃないみたいだから。ちょっと安心した。」
「ありがとうございます。お許しいただけて、ほっといたしました。わたくし、ずっと、嶺一郎様のことをお慕い申し上げておりましたので……。」
「えええええええっ、あんなおじさんのどこがいいのよ!わっかんないー!っていうか、旦那様じゃなくて、レイイチローサマになってるー!」
きゃー、と言いながら勝手に頬を赤らめてじたばたするひなに、青木は極めてふつうの声で尋ねた。
「で、お嬢さまの方は?お話はないんですか?」
ひなの動きは、その一言で止まった。
「あたしの方は、何も、何もないわよ。」
「一声わたくしにご相談いただければ、放課後、わたくしとショッピングでもしていたことにして、その間お二人でデート、なんてこともできますよ?」
「え、ほんとに?」
「ふふふ、ひっかかりましたね?」
「うー、はい、あっさりと。はるみさんのことだから、もう、相手が誰かとか、分かってるんでしょ?」
「分かるも何も、それがわたくしの仕事です。」
「あーもー、やっぱりばれちゃったかー。そもそもこんなに人の多い家の中でこっそり恋愛しようってのが間違いなのよね。」
「今回はでも、ちょっとお嬢さまに出し抜かれそうでしたけれどね。」
「そうなの?」
「インプレッサがガレージに置いたままだったので気づきましたが、それがなければ。……まあ、わたくしが、お嬢さまのご様子から気づいたかもしれませんが。」
「えっ?なんだじゃあ、最初の日からバレてたの?」
「森田の部屋からお嬢さまが出ていかれるのを、確認させていただきました。ですから、それまでの数時間は、お嬢さまの勝ちです。ほんとにお出かけになったものと思っておりました。」
「父には?」
「当然、その日のうちに。お部屋にお戻りになったお嬢さまのご様子も、いつもとは少し違いましたから、お伝えしなければならないと判断しました。嶺一郎様はでも、お二人のことは、最初から諦められていたような、許されていたようなご様子でしたけれど。お嬢さまにも、森田にも、何も言わなくてよい、とのことでしたから。」
「そっか……。」
「で、そのときに、わたくしたちの方も、初めて、はい。」
「ん?えええええ?ちょっと何それ。うちの屋敷、どうなってたのよあの日。親子で使用人を、いや、使用人に?ええええ?いや、自分のことは棚に上げるけどぉ」
そう言いつつも、ひなの顔は真っ赤だ。全然棚には上げられていないらしい。その様子を涼しい顔をして眺める青木が、つぶやくように告げる。
「籍を入れてもいい、ってお言葉もいただいたのですが、お断りしました。」
「ええっ何で?」
思わず身を乗り出してひなが尋ねる。
「そのような大それたこと、他のメイドやお屋敷の使用人たちに示しがつきませんし、何より、お嬢さまと嶺い、いえお父様、そして亡くなられたお母様の間にわたくしなどが入るわけにはまいりません。わたくしはこれからも、一人のメイドとしてお嬢さまにお仕えしていきたいと存じますし、メイドごときが、相馬のお家の籍に入れていただくなど……」
「そっか。でもあたし、はるみさんがお母さんでも、別にいいけどなぁ。……って、あれ?はるみさん?ちょっとねえ、どうしたの?」
青木は、急に固まってしまった。そして、その表情だけが、泣きそうな表情になったり、うれしそうな表情になったりしながら、めまぐるしく変わっていく。
「はるみさん、大丈夫?あたし、変なこと言った?」
「わ、わたくしが、お母さんでも?」
「ええ、それでもいいって、言っただけよ?」
「ほんとうで、ございますか?わたくし、ナイフと足技に自信がある、闘うメイドですわよ?」
「ちょっと、はるみさんの自己認識ってどうなってるの?……でも、チョコ作りとかも教えてくれたじゃない?」
「それは、そうでございますけれど、……」
「だいたいあたし、実の母のこと、涼子ママのことなんて、あんまり覚えていないんだよね。もちろん、大事に思ってるし、一緒にいられないのは、いつも寂しい。高校の制服姿だって、見てもらいたい、見せてあげたいって、嘘じゃなくてほんとにそう思っているけれど。でも、「おかあさん」って思って思い浮かべるのは、もうずっと、涼子ママじゃなくて、はるみさんの方だからさ。って、うわ、ごめん、どうしよ」
青木はるみは、椅子に座ったまま、両手を握り締めて、顔も覆わず泣いていた。慌ててひなが歩み寄り、青木を抱きしめる。
「もう、はるみさんたら、そんなに泣かなくてもいいじゃない?」
「お嬢さま、だって、だって、はるみは、はるみは」
「どうしちゃったのよう。あたしとはるみさんじゃ、七つくらいしか違わないのに、そんなにお母さんになってみたかったの?」
「そういうわけじゃ、ありません。正直に申し上げますと、わたくし、ずっと、いじけておりました。」
「へ?ラブラブで幸せなんじゃないの?」
「それは、そうでございますが、嶺一郎様にも何度か慰めていただいたくらいで……。」
「何があったのよ?」
はるみさんは、涙に濡れた、だがなぜか恨めしそうな目で、ひなをじっと見て言った。
「お嬢さまが、わたくしに何の相談もなく、わたくしに内緒で、大人の階段を」
「気恥ずかしい比喩はやめてー!」
「それでは、あけすけに申し上げた方が?」
「ごめんなさい勘弁して。」
「承知いたしました。でもそれで、そうしたら、何だかもう、お嬢さまがどこかへ行かれてしまったような気がして、寂しくなってしまって。わたくしの出番はもう、ないのでございますね、と思い、」
「寂しくなって、うちの父のところにしょっちゅう、忍んでたってわけ?」
「はい。」
「あたし、ナイスアシストじゃん。」
「ですから、そういうことでは……」
「冗談よ。……いろいろ、心配かけて、ケイくんとのことも、内緒にしてて、ごめんなさいね。」
そう言って、ひなは、もう一度、はるみさんを抱きしめると、そっと顔を近づけ、キスをした。
「これは、今までのお礼。あなたがもし、あたしのお母さんになっちゃったら、もう、できないだろうから。」
「あ、あの、お母さん云々の件は、しばらく、お待ちいただけませんか?お時間をいただいて、ゆっくり考えてみたいと存じます。でもそれより、森田、じゃなくてもう、お嬢さまの恋人ですものね、呼び捨てはいけませんね、ええと、ケイさん以外の人とキスされてもよろしいのですか?」
「うん。あたしの唇は、あたしのものだもの。」
「それじゃ、遠慮なく。」
今度は、はるみさんが、ひなの唇を奪った。言葉通り、遠慮のない、情熱的なキスだった。
(何これ、すごい……。馬鹿親父、ちょっと羨ましいぞ。)
そんなことを思ってうっとりしていたら、はるみさんの手がひなの体を触り始めた。
「か、体はだめー!体は、ケイくんの……」
そう言ってからしまったと思ったが、手遅れだった。青木はるみが、さっきまで泣いていた青木はるみが、満面の笑みだ。
「ふふふ。唇は自分のもの、なんてお嬢さまがかっこつけておっしゃるから、ちょっといたずらさせていただきました。わたくしの大好きな、正直でかわいらしいお嬢さまにお戻りになりましたね。」
「あうーー、なんだか納得行かない!」
「もう、何度か外でお会いになれました?」
間髪を入れず、青木のチェックが入る。
「えええ?えっと、あの、ケイくんの新しい部屋に、えーと、一回だけ、行きました。」
ひなは、だんだん小声になっていく。
「それって、五月の一五日の金曜日ではありませんでしたか?」
「知ってるなら聞くな!」
「いえ、いつもよりお帰りが遅かったのを覚えているだけですわ。嶺一郎様からも、もう特に警護は必要ない、自由に行動させてやってくれ、と承っておりますので、森田、じゃなくてケイさんがお辞めになってからは、お嬢さまのGPSを常時監視している者はおりません。」
「別にうちでは森田でもいいわよ。それより、父がそんなことを?」
「ええ。今のお嬢さまを、ご信頼なさっているのでしょうね。」
「そっか。いろいろ、勝手してる娘なのにね。」
「もう、お嬢さまは独り立ちの時期、これからは自分で考えて行動されていく、そう、嶺一郎様もお認めになったのだと。」
「……。そうね、そう、しなければならない時期、なんでしょうね。」
ひなはふと、品川で別れ際、遠のく意識の中で九条由佳からかけられた言葉を思い出した。
「あなたはまだ、本当の意味で大事なものを、手に入れていない。それが何のことか十分に分かった頃、また、会いましょう?」
その言葉の意味はまだ、正確には分からない。だが、ほんのわずかな期間だったけれど、いろいろなことを経験したと、今はただ、そう感じている。自分が青木はるみの年齢になる頃、そして、九条由佳の年齢になった頃、自分はどんな大人になっているのだろう。今はただ、漠然とした、色のない予感のようなものが胸中を占めるだけだ。
窓の外は、明るい初夏。日差しの中へかけだして、子どものように走り回りたくなった。
「はるみさん、この夏は、女の子だけで海に行きましょう?うちのメイドの皆さんにも声をかけて、大イベントにするわよ。他の人も呼んだっていいし。場所は近場でも海外でも、どこでもいいわ。離島貸し切りとかでも!」
「お嬢さま、どうされたのですか急に。しかもそんなバブリーなことをおっしゃって。滅多に贅沢なさらないのに。でも、そのご提案、はるみも賛成いたします。ご招待する方のリスト、作ってみましょう。」
世界の行方は、教誨師が決める。たとえそれが、自らの血と引き換えの世界だとしても。
相馬ひなはこの春、自らが護るべき世界へと、足を踏み入れた。その先はただ、愛する者たちと歩む、灼けた夏の道が続くばかりだ。
『教誨師、泥炭の上。』第一部、完。
42字×17行の文庫書式で、挿絵もなしに357ページ分という分量です。全9話ですので、1話平均40ページくらいのものですが、長くて読みにくくてすいません。最終9話、もう止める、もう書かないオーラ(?)全開ですし、さらに申し訳ありません。
そのくせ、第二部にあっさり続いたりもします……。
ブログの方では、縦書きpdf、1話1ファイルでアップしています。元データはwordで縦書き状態になっていますが、さらにその前は、アドエス(qwertキーのあるPHS)で横書きで入力していました。やがてこの話、第二部・第三部と進むと文庫本3冊の分量になるんですが、それも全部、元はアドエスでちまちま書いていました。
準備が整ったら、第二部もアップさせていただきますが、この話(第一部)はこれにて終了です。
お読みくださった皆様、ありがとうございました。