秘密のラブマスター
研究所は、静かだった。
いや、正確には「静かすぎた」。
いつもなら鳴っている警告音も、ピヨ助の騒音もない。
「……逆に怖いですね」
白石ももかは、廊下の真ん中で立ち止まる。
桃瀬りくは周囲の端末を確認しながら言う。
「全システムが一時停止している。理由不明」
「え、また私のせいじゃないですよね?」
「……まだ調査中だ」
そこへ、ゆっくりと拍手の音が響いた。
パチ……パチ……
「素晴らしい。実に素晴らしい」
桜井教授だった。
しかしいつものハイテンションではない。
どこか落ち着いた声。
「ここまで“感情干渉”が進むとはね……想定以上だよ」
「教授……これ、何が起きてるんですか」
ももかが不安そうに聞く。
教授は少しだけ目を細めた。
「恋愛実験の“第二段階”だ」
教授は歩きながら話し始める。
「この研究所はね、“萌え”や“恋愛感情”を科学的に解析するために作られた」
「それは知ってますけど……」
ももかが眉をひそめる。
教授は続ける。
「でも本当は違う」
一瞬、空気が変わる。
りくの視線が鋭くなる。
「違う……とは?」
教授は笑った。
「“感情そのものが世界に与える影響”を観測している」
「は?」
ももかは完全に理解できない顔。
ゆうたも遅れて入ってきて固まる。
「え、スケール急にでかくない?」
教授は端末を起動する。
そこに映るのは波形データ。
ももかの反応、りくの微細な揺れ、ゆうたの安定した線。
「人間の感情はね、ただの気分じゃない」
「エネルギーなんだよ」
「……」
りくが低く言う。
「それは仮説の域を出ていない」
教授はニヤリと笑う。
「そう。でも君たちは今、それを証明しつつある」
ももかは一歩後ずさる。
「え、私たち実験動物なんですか?」
「違う」
教授は即答する。
「“共鳴点”だ」
画面が切り替わる。
そこには赤く強調されたデータ。
『白石ももか:感情干渉指数 異常値』
「君の存在はね、周囲の感情を“増幅”する」
「えぇ……」
ももかは顔を引きつらせる。
「つまり私がいると、みんな変になるってことですか」
「そうだね」
「笑顔で言わないでください!!」
りくが静かに言う。
「だからシステムが壊れたのか」
「その通り」
教授は頷く。
「彼女は“トリガー”だ」
一瞬、沈黙。
りくがももかを見る。
いつもの無表情。
だがほんの少しだけ、違う。
「……それが事実なら」
「私は彼女を観測対象として扱うべきだ」
ももかは一瞬、胸がちくっとする。
「観測……って、なんかひどくないですか」
ゆうたがすぐに割り込む。
「まぁまぁ! でもももかって昔からそういうとこあるし!」
「ゆうたまでひどい!」
でも、ゆうたは笑っているだけ。
その“軽さ”が逆に救いになっていた。
桜井教授は少しだけ声を落とす。
「この研究はね、“恋愛を再現する”ものじゃない」
「“恋愛そのものが世界をどう変えるか”を見る実験だ」
ももかはぽかんとする。
「スケール大きすぎてついていけないです」
教授は続ける。
「君が中心にいるのは偶然じゃない」
「適合率が高すぎたんだ」
「……適合?」
教授は微笑む。
「感情干渉型個体としてね」
研究所の電源が少しずつ復旧し始める。
ピヨ助の声が遠くで聞こえる。
「システム再起動……完了」
しかし空気は戻らない。
ももかは小さくつぶやく。
「私、ただの高校生なんですけど……」
りくが一瞬だけ間を置く。
「それはもう、違う可能性がある」
「え?」
だがそれ以上は言わない。
夜。
研究所の灯りが戻る。
いつもの騒がしさが少しずつ戻っていく。
でも、どこか違う。
ももかは窓の外を見る。
「なんか……よくわかんない世界ですね」
少し離れた場所で、りくがデータを見ている。
『感情干渉:上昇継続』
「……制御できるのか?」
その声は、誰にも届かないほど小さい。
さらにその奥で、ゆうたが笑っている。
「まぁ、面白いからいいんじゃない?」
研究所はまだ壊れていない。
でももう、“元のまま”でもなかった。




