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SR満州戦記3  作者: 異不丸
第一章 昭和二〇年
13/31

九 ワシントン


アメリカ合衆国、首都ワシントン北西地区14番街


 ホワイトハウスの間近にあるオールドエビットグリルは九十年の歴史があって、シーフードが売り物だった。二人は、もちろん、牡蠣料理を頼んだ。金髪の若い男は四年前のことを思い出す。初めて会った時は五月で、Rがつかないから牡蠣はやっていなかった。本当は、初めての本格任務で、メニューまで気が回らなかったのだが。

「ビル、もう会わないのじゃなかったか?」

 初老の男が言った。縁なしの眼鏡に口髭、後退した髪で大きな額が強調されて、一目で頭脳明晰とわかる。学者然の彼は、実際に経済学の博士号を持っていて、教壇に立ったこともあるし、本家のケインズを論破したこともあった。しかし、彼は先月まで財務次官補であり、今は国際通貨基金の理事だ。歴とした合衆国政府の高級官僚だった。

「リチャードさん、御指名なのですよ、上からのね」

「ふむ。そうだろうね」

 リチャードは軽く鼻を鳴らした。若いビルにはそれほどの権限があるまいという洞察であり、今回も重要なミッションだろうという予断だ。そして両方とも外れてはいない。

「うちは東地区の会合に入れないのです。八月の入札に遅れたのがまだ響いているようでして、部長はあなたに相談するようにと」

 ビルはそう言って、メモを差し出す。リチャードは一瞥して、メモを返す。最初の時と同じだ。

「なるほど。しかし、東に派遣されている技術者たちは、君の所の眼鏡にも適う人選だよ。施工計画書は見ただろう」

「はい。ありがたいことなのですが、部長は会合に参加したいと」

「それは無理かもしれないな。うちの役員は西地区の進捗を不安視している」

「では、設計書を改訂するのはどうでしょうか」

 リチャードは口髭に手を当てた。それが思案する時の癖であることを、ビルは思い出す。今回もうまくいきそうだ。

「いいだろう。改訂でなく追加だ」

「それでお願いします」


 リチャードと別れたビルは、ホテルの自室に戻った。細巻きの葉巻を燻らしながら待つ。ドアがノックされたのは二十分後だった。入って来たのは、やはり金髪碧眼の若い女性だ。ビルは、ウオッカのグラスを差し出す。

「ありがとう、中佐。彼には尾行がついていました」

「そうか。手が回っているな、考えよう。アーニャ」

 愛称で呼ばれた女性は、上着のボタンをはずしながら男の正面に回る。

「どうするの、ビーチャ」

「まず、ここを出て大使館に入る。FBIも手は出せない」

 女はあからさまに失望する。男はかまわず荷造りを始めた。

「服はあとでもいい。出るよ、オルロワ中尉」

「わかったわ、パブロフ中佐」

 ヴィターリー・パブロフ中佐とアンナ・オルロワ中尉は、コートを着込んで、大使館からの車を部屋で待つ。

「カナダなの?」

「いや、アメリカ共産党だろう。管理官が失策した」

「そう。大使館ではバスタブ付きの部屋でしょうね」

「もちろん。僕らは監察官だ。バスタブも盗聴器も、カメラだってついているさ」

 中佐の返事に中尉は大きく笑った。そして、テーブルの上のウオッカの瓶をコートのポケットに入れる。

「米国製は、ベッドもウオッカも上等だわ」

 部屋の電話が車の来着を告げた。



 ソ連邦NKVD、内務人民委員部の諜報員であるヴィターリー・パブロフの初めての海外勤務はアメリカだった。一九四一年に着任したパブロフの任務は、ワシントンとニューヨークのフロントを使って、米国を対日開戦に誘導することだった。その時点で世論は十分に対日強硬論に傾いていたが、米国政府はまだ慎重だった。陸海軍の戦争の準備が遅れていたからだ。であれば、日本を暴発させればいい。折からワシントンでは日米交渉が進行中である。

 国務省内の党員やシンパから得た情報を綿密に分析したパブロフは、財務省を担当していた『ビル』の名で『リチャード』を呼び出した。当時、財務長官は国務長官より大統領に近く、外交問題に関しても影響力が大きかったからだ。やって来たリチャードは、メモを見て即座に承知した。ビルの依頼は、彼と彼の上司が望むところと完全に一致していたからだ。

「絶対に受け入れられない条件を提示する」

 彼、ハリー・デクスター・ホワイト財務次官補は、楽しそうに繰り返し、具体例を挙げた。パブロフは舌を巻いた。それらはどれも平和に必要な要件で、慎重にかつ完全に日本の面子を潰すものだった。

「最初は妥当で、受け入れも可能な条件を示す」

 ホワイト次官補は、日本政府、日本陸軍、日本海軍、それぞれ個別に向けた例も挙げた。すなわち、政府が受け入れても陸軍が恥辱と受け取る、あるいは海軍の面子が潰れるものだ。日本政府と陸軍、海軍の三者を分裂させ、争わせるというのは、パブロフの想定にもなかった。

「進め方は任せてもらう。秋にははじまる」


 リチャードはうまくやった。あまりに上手くやりすぎて、まるで彼は何もしなかったように見える。大統領に具申して国務長官のステーツメントを操ったのは、彼の上司のモーゲンソー財務長官だ。彼自身は財務省の中だけで動いており、表には出ていない。だから四年ぶりに会った今夜、FBIの尾行がついていたのは意外だった。

 最初の任務であるスノー作戦の成功で、パブロフは昇進する。モスクワの外国諜報部で北米課長を一年間勤めた後、翌年からカナダのオタワ勤務となった。すでにソ連と英国、英連邦は完全な同盟国だったから難しいことはない。事件が起きたのは、終戦後の九月だった。領事館の同僚、イゴーリ・グゼンコが妻子を連れてオタワ警察署に駆け込み、亡命したのだ。

 グゼンコもNKVDだが、館外のアパート住まいで班も違うし、もちろん任務に関して話をすることはない。しかし、パブロフはモスクワに召還され、聴取を受けた。それからワシントン勤務を命じられ、オルロワ中尉と着任したのが一昨日だ。任務は米国内組織の防諜と再編成だが、他にもある。彼女の任務は自分の監視だから、一緒にいるしかない。

「ねぇ、どうするの、ビーチャ」

 浴室から出てきたアンナが、パブロフの前に座って、挑戦的に足を組む。返事はもちろんダーだが、パブロフは三一歳で、大人の男女には駆け引きがなければならない。

「僕らは監察官だ。大使館から警告がなかったことは、問い詰めねばならない」

 アンナは真顔になった。

「そうね。最初にガツンとやらなきゃ」

「でもそれは明日の話だ」

 そう言ってパブロフが立ち上がると、アンナは笑顔になった。

「今は?」

「盗聴者の耳にドカンとくれてやるのさ」




首都ワシントン北西地区16番街


 カールトンホテルは贅を尽した最高級ホテルだが、まだ二十年の歴史しかない。それがワシントンの政界人に知られるようになったのは、昨年秋に勇退したコーデル・ハル前国務長官が居所としたからだ。今年のノーベル平和賞を受賞したハルは、十一年九ヶ月も国務長官を務め、一時期はここが国務省であった。政界人だけでなく、実業家や軍の将軍らも利用する。もちろん、ドゥーマンは何度も出入りしていて、ボーイや支配人とも顔なじみだ。

 ユゥジーン・ドゥーマンは五五歳になる。三十三年間を国務省の外交官として過ごした。通訳学生団から始めたエキスパート、外国専門家である。一九世紀の在外公館勤務は領事団と外交官の二つに分かれていた。領事団は、海外居留国民のビザやパスポートのほかに、海運や商業の実務にもあたり、領事職以外は現地雇用が通常であった。外交官である大使や公使は、大統領が党や民間から選任し、任命した。

 二〇世紀に入って『職業的外交官』、プロフェッショナルの必要性が注目されるようになった。国務省の制度にも数度の改革があり、領事団には採用試験と昇進試験が導入され、実力主義となる。ドゥーマンは二〇歳で通訳学生に合格し、ワシントンから日本へ発った。

「あなたにとっては九年振りの帰国でもあった」

 テーブルの向いに座る男が聞いた。ハリー・カーンはニューズウィークの編集長で、二十歳も若い。

「そう。十三歳まで日本にいた。それから一人で渡米して、オハイオの軍学校に入った」


 カーンは目を見張った。各地にある軍学校は寄宿制のボーディングスクールで、軍事科学を履修する。規律は厳しく、体格や性癖の矯正のために入学する子も多い。首席卒業者にはウエストポイントの入学資格が与えられる。

「僕はフランス人の学校に通ったから、英語が不安だったんだ」

 ドゥーマンが言うと、カーンは何度も頷いてノートに書き込んだ。二人が会うのはもう三回目だが、入省前のことを話すのははじめてだ。

「二一歳で東京に着いた時に、英語と日本語とフランス語を話せたんですね」

「ペルシア語とアラビア語もいくらかはできたよ」

「あ、はい。ご両親はイランのご出身だ。えと、アラビア語は?」

「トリニティカレッジの後、ペンシルバニア大学とコロンビア大学にもいた。一学期ずつだけだがね。僕は中東で考古学をやりたかったんだよ」

 ついにカーンは眼鏡を外して汗を拭った。ドゥーマンは、浮かんでくる笑みを隠すために口髭を撫でた。

「まさにエキスパートにふさわしい。素晴しいです、ドゥーマンさん」

「まだ早いよ、ハリー。東京で通訳学生を二年間、それから、横浜、神戸、台北の領事団を七年間だ」

「一九二一年に東京大使館の書記官補になられた」

「外交局に移るのに九年間もかかったのだよ」



 第一次世界大戦への参戦を境に、職業外交官の必要性が再燃した。一九二一年、国務省再編成の論文が提出され、議会で公聴会が開かれた。そして、一九二四年にドジャース法が成立し、領事局と外交局の人事が一本化、外国専門家の制度が確立する。

「東京の大使館には、三一年までの十年間と、三七年から四一年までの四年間と、二度赴任されています。エキスパートとして、どちらが重要でしたか」

「二度目は衝撃だった。赴任した国との戦争になったのだからね」

 カーンは頷き、黙って先を促す。だが、ドゥーマンは考える。これまでの二回で、開戦に至る経過や、決裂を避けるための苦闘はあらかた話し終えていた。戦時誌面の編集長であった彼には既知のものが多い。ならば。

「しかし、日本との外交においては一度目の方がはるかに重要だ。日本を裏切り、追い込み、突き放した。日本との戦争の原因は我が国にある」

「え、なんですって」

 眼鏡から飛び出るほどに目を見開いたカーンは、新しいノートを取り出した。それから天井を見上げて、何か呟く。一九二一年から三一年までの事件を思い出しているのだろう。しばらくすると顔を下ろし、こちらを見つめる。

「ワシントン会議ですね」

「そう。日英同盟破棄の要求だ」

「しかし、代わりに日英米仏四カ国条約が結ばれた」

「条約であって同盟ではない」

「会議の最終日に九カ国条約も締結されています」

「その条約の義務を怠ったのは我が国だ」

 カーンの表情が変わり、剣呑となった。


「あの時と同じだね」

「何がです」

 開戦後、七十名近くの大使館員と家族は敷地内に幽閉となった。使用人の日本人たちは普通に出勤して来るし、警官が同行すれば外出もできた。外からの訪問も同じだ。しかし、戦争が日本有利に進むに連れて、次第に外出や訪問の回数は減っていく。持て余した時間は、なぜ日米が戦争となったかの議論に費やされた。もちろん開戦は日本の都合によるものだし、直接の原因は日米交渉の不調だ。

「関係の悪化はいつからだろう、その理由はなんだろう」

「それを議論されたんですね。わたしは満州事変からだと思います。理由は日本の野望だ」

「グルー大使をはじめとして、皆がそう言った。僕が持論を話すと、君と同じ目をしたよ」

 ドゥーマンは二十数年前の東京を思い出す。街頭で、訪問先で、レストランやバーの中で幾人もの日本人の声を聞いた。日本専門家であるドゥーマンは、それを拒むことができない。彼らの怒りと憤慨はそっくり心に滲み込み、蓄積されていた。

「前回、君は尋ねた。なぜ日本は満州にこだわるのかと。降伏後に武器と部隊を送ったのはなぜなのかと」

「たしかに」

「それに答える。スポンサーも知りたいはずだ」

 カーンは居住まいを正した。





バージニア州フェアファックス郡


 首都ワシントンの西を流れるポトマック川の対岸はバージニア州で、軍人の姿が目立つ。川を渡ったすぐのアーリントン郡には国立墓地があり、その奥には一昨年完成した陸軍省ビル、ペンタゴンがある。アーリントン郡は米国で最も小さい郡で、独立前は西に広がるフェアファックス郡の一部であった。二つの郡には軍の中枢が集中していて、いわゆる軍都である。

 ジョー・アイオイ陸軍少佐が訪ねるカーター・クラーク陸軍大佐のオフィスは、今日はフォートベルボワールの中にあった。

「ジョー、よく来てくれた。嬉しいよ」

「しばらくです、クラーク大佐。明後日、日本に発ちます」

「うん。座ってくれ」

 暖房が利いた部屋で、二人はバーボンで乾杯する。

「うまくいってるよ、驚くほどにね。君のおかげだ」

「ほんとですか。それはよかった」

 陸軍情報部のクラーク大佐は、戦争中、敵国の情報分析を所管していた。敵の通信を解析し、暗号を解読して、戦略的・戦術的に有利に立つのが目的だ。通信傍受と暗号解読の実作業はアーリントンホールの信号情報局が担当し、女性七千人を含む総勢一万人が従事した。

「ガードナー教授はとても有能だ。君の推薦がなければ、ブレークスルーはもっと後だっただろう」

「では、彼はやったんですね」


 NISEIでKIBEIでもあるアイオイ少佐は、ハーバードロースクールで弁護士資格を得て、法律事務所や民間会社にいた。開戦の年の四月に召集され、三一歳で兵役につく。ロスアンゼルス要塞の車両整備班の下働きに配属されるが、陸軍情報部に見出されて軍事語学学校の講師となった。上等兵のアイオイは将校を指導できないので、現役を解除され民間人として再雇用される。

「やってくれたよ。いったい、教授はいくつの言語ができるのだろう」

「印欧語を中心に二十言語、会話は日独をはじめとして七カ国語」

「梵語が読めるなんて、きっと頭の中には、地図ではなく曼荼羅があるに違いない」

「僕はご免ですね、家に帰りつけない」

「まったくだ。女房に叱られる」

 アイオイのクラスには優秀な学生ばかりが配属された。学生一人一人の適性を見出し、課題を調整して、才能を伸ばすことができたからだ。大学でドイツ語を教えていたメレディス・ガードナーが来たのは一昨年だった。ドイツ班から日本班に異動になって転換教育である。三カ月の日本語コースを四週間で終えた彼に与えた課題は、日本語の暗号解読ではなく、ロシア語の暗号作成だった。

「おかげで僕もロシア語を習得できた」

「二人とも異常だ」

 昨年、アイオイは現役に復帰する。陸軍参謀総長補佐官のビッセル少将が学校に乗込んで来て問責された。中佐相当職の訓練部長を民間人が務めているのは大問題だと、将軍に密告したのはクラーク大佐である。アイオイは現役復帰と同時に少佐となった。



 クラーク大佐は根っからの情報将校で、任務に関しては疑り深い性格である。同盟国も大統領も信用しない。同僚の仕事もそのまま受け取ることはない。例えば、戦争の行方が見えた昨年になって、真珠湾攻撃前の通信の取り扱いの調査を開始した。情報秘匿に落ち度がなかったかの検証である。ほかにも、数年前からソ連大使館の通信を傍受しているらしい。

「東京への赴任に伴い、君の機密アクセスランクを上げた。ここでしか読めないものも多い」

 アイオイはグラスを置く。大佐は引き出しからファイルを出した。

「東京での任務について説明する」

「はっ」

「GHQ/SCAPの情報保安度は最低クラスだ」

「それは幕僚部各局が呼び寄せた民間人が原因ですか」

「違う。彼ら民間人はせいぜいがPINKだ。REDは各省からの出向者と、OSSにいた軍人だ」

「深刻な事態です」

「そうだ、見てくれ」

 上級職員の名簿には、身上調査の結果が記されてあった。社会民主主義者が多いのはニューディーラーだとしても、社会主義者や共産主義者がいる。情報源の欄にはFBIの他に、GIやBEなどのマークもあった。GIはカナダで亡命したイゴーリ・グゼンコだろう。

「SEとは誰ですか」

「エリザベス・ベントレーはアメリカ共産党員だ」

「ふう。多過ぎて覚えきれない、お返しします」

 大佐は笑って、引き換えに一枚の紙片を出した。

「たった四人ですか、クリアしたのは」

「深刻なのだ」


 GHQ/SCAPの東京占領の進捗は満足すべきもので、武装解除と復員、思想警察の解体、政治犯の釈放は終わった。戦犯容疑者の逮捕、軍国主義者のパージも問題ない。経済と教育の民主化もはじまった。

「計画より数か月も早いのは、ニューディーラーのおかげかも知れない」

「彼らなら、軍国主義を破壊するのに躊躇はないでしょう」

「ウガキ内閣が協力的なこともある。先回りされているかのようだ」

「たしかに、待っていたかのように対応は早い、しかし、ポツダム宣言とSWNCC150/4/Aは公表されていますから、不可能ではありません」

「だから、統合参謀本部からの正式指令にしたのだ」

 そう言って、大佐は別のファイルを差し出す。

「追加があったばかりですね。これほど過酷なら、漏洩していれば必ず反応があります」

「君は過酷だと思うかね」

「はい。日本の産業は、工業だけでなく農業も壊滅します。これはドイツに対するものと同じだ」

「原案をモーゲンソープランという。私もやり過ぎと思うよ」

 アイオイは頷く。クラーク大佐は真摯に情報分析に取り組み、導かれた結果と軍事的原理に忠実だった。だから広島への原爆投下には反対したし、牡丹江へは賛成した。

「ジョー、戦前は向こうでビジネスをしてたんだろう。またやりたいと思うか」

「いや、これでは二十年は無理です。満州の方がよほどいい」

「そうだね。石油が出るし、ミスターアマカスもいる」

 二人は再び乾杯する。






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