第92話 友の居た家
誰よりも早く木々の生い茂る道を駆け抜けたトレイルは緩やかな傾斜の丘に出た。樹木は生えておらず、丘の頂上まで透き通るようによく見える。しかし、シシーが口にしていたものはどこにいない。
爆走を見せていたトレイルは丘の始まりを境に諦めるかのように足取りを重くし、すぐに後続の二人が追いついた。
「居た?」
「いや……見てない」
答えが返ってくるや否や、丘の頂上に向けて再疾走を行おうとするシシーだが、先行の役割を渡すまいとするトレイルが肩を掴む。
「待ってくれ……」
初速から一気に静止させられたシシーは疑問よりも不満を感じながら振り返るが、トレイルの緊迫した表情を目の当たりにし、言葉を失った。
「俺が行く」
まるで、恐怖に縮こまっているかのように強張った肉体を一歩一歩進ませるトレイル。微々たる坂に頂上の見えない山岳を登るほどの覚悟を刻みながら進むが、すぐに呼吸が乱れてしまい、足が止まる。
進みたくない否定的な想いの中に進まなくてはならない使命的な想いが入り乱れ、葛藤する。否定的な想いが優りそうになるとつい背中を見てしまうが、その先にいるシシーとアルゴルンの喝を入れてくるかのような視線が歩みを助力する。
更に歩み続け、頂上と頭部の位置関係が同等を迎えそうになった時、丘の先にトレイルの望まないものが頭を出した。
雨水を流し落とす為の突起が施されていない、平面な屋根。震える足腰を急かした先に、凍える血の気に追い打ちをかける光景が広がっていた。
ツタの絡まった木造の小屋の――アルゴルンが踏み込むのを嫌うであろう小さな小屋の扉が、半ば壊れながらに開いている。
「ミーナスッ!」
腹の底――いや、心の底から発せられた怒声がその名を口にすると、鉛を括られたかのように鈍足だったトレイルが駆けだした。
怒声の圧に後れを取ったシシーも急ぎトレイルの後を追うが、瞬く間に距離が離れていき、なんとか小屋の前まで来た頃にはトレイルの姿が小屋の中に消えていた。
「スィスィル、俺は辺りを見張ってる。お前は中に」
小屋の狭さからか、または外部に何者かの気配を感じたのか、アルゴルンは小屋に背を向けながらシシーに告げた。
シシーはアルゴルンがなぜ小屋に入らないのか、気にはならなかった。アルゴルンの事情を熟知しているからではなく、単にそこまでの配慮を行う余裕がなかったからだ。
激痛に耐えるかのような呻き声を上げるトレイルの元に駆け寄ろうと、シシーは小屋の内部に踏み込み、眼前の異様な光景に息を呑んだ。
怯え隠れるように四隅に追いやられた家具全般や、それを追いやった者がいかに粗暴であるかを物語るように天井から床、そして隅を除いた壁に刻まれた痕。
書物の敷き詰められた棚や、悪筆書きの紙が無造作に散りばめられている机なら、壁に隣接していることはむしろ自然だが、食卓までもが隅に追いやられている。それはやはり小屋内部の全面に刻まれた切り裂くような鋭い痕から逃れるためだろうか。
しかし、シシーが何よりも恐怖を覚えたのはトレイルが膝を付き、呻き声をさらけながらに抱いている拘束具の数々。鋼で出来た鎖や、細い糸を繊細に纏めた縄や綱。先に重しが括られてある手枷、足枷もある。
小屋のちょうど中心で、トレイルはそれら拘束具を愛撫するかのように抱いている。
「ミーナス……ミーナス……どこに隠れたんだ、姿を見せてくれ、頼むよ……」
声を掛けようとシシーが傍まで寄るが、トレイルは瞳は虚ろとしており、視界に移っているはずのシシーに見向きもしようとしない。
呆れよりも嫉妬よりも心配が先に立ったシシーは瘡蓋の剥がれ掛けた背中を優しく撫でるが、トレイルは稲妻が全身を走ったかのように肉体を痙攣させ、拘束具の絡まった腕のままシシーを抱いた。
「ここに居たのかミーナス! 勝手に外に出たらダメじゃないか……」
未だに虚ろとしているトレイルの瞳をシシーを別人と認識し、力強く抱きしめている。シシーは自分とトレイルの心拍音と聞き比べることに数秒の猶予を払い、後に耳打ちをした。
「トレイル、あたしよ。シシーよ」
聞こえなくとも良いと思ったためか、えらく微かで、どこか色めいて口調になっていた。
「シシー……? シシー……」
困惑の振り払えていないトレイルに、シシーは優しく背中を撫でる。今度は痙攣を起こしたりはせず、しゃっくりにも似た不規則な呼吸を徐々に整えていく。
「シシーだ……」
暗示のような呟きを最後にトレイルからしゃっくりのような呼吸が無くなり、縄やら鎖やらが喰い込む程にシシーを抱きしめていた腕からも、すっと力が抜ける。
「痛くなかったか?」
手にした物を剥がした後で、それをシシーに押しつけていたことに気付いたトレイルは心配そうな目をするが、シシーは優しく首を振った。
「大丈夫よ、あたしの背中は綿みたいにフワフワしてるから」
呪いのおかげだと言わんばかりの笑顔を見せる。それが作り物の笑みなのか自然と零れた笑みなのかトレイルにはわからなかったが、その笑みがあるだけで、トレイルも笑みを作ることができた。
「それよりも、この小屋はなんなの? それにミーナスって……」
逃げるように目線を有らぬ方向に飛ばすトレイルだが、シシーの痛いほどの視線に考えを改め、再度シシーの瞳を覗き込むと、二度三度の戸惑うを経て、ようやく口を開いた。
「この小屋は俺たち三人の家だった。トレイル、ミデルム、ミーナスの三人が仲良く暮らすための……」
「ミデルム?」
頭の片隅に浮かび上がった名前をシシーは繰り返すが、どうしてもどこで聞いたのか思い出せない。後少し、とすら言えないほどに複雑に沈んだ記憶を掘り起こすのを、トレイルが待つことはなかった。
「ここは俺にとっての故郷なんだ。掛け替えのない思い出がたくさん詰まった家だったんだ!」
歯を食いしばり、傍に置いておいた杖を潰すほどに握り絞める。
「でも……この惨状を見る限り、とても人が住めるようには……。それに、そこら中に落ちてる鎖や縄は一体……」
傷痕だらけの部屋。中央に溜まっている拘束具の数々。これらを踏まえ、シシーはここを暴君を縛りつける牢獄と推測した。しかし、トレイルはここを家と呼んだ。それがシシーには理解できなかった。
「家だ……家だったんだ。だけど、いつからかここは愛する友を拘束するだけの施設になっていたんだ」
「それって――」
聞き覚えのある単語にシシーが反応しかけた時、どこからか――そう遠くない何処かから馬にも似た甲高い鳴き声が聞こえた。
「ミーナスッ!」
それを境に、再びトレイルの怒声が辺りに轟いたが、今度シシーもそれに耐えることができ、脱兎の如く駆け出したトレイルの後を追うことも出来た。




