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エクトールたちの離婚から二か月が経った。
あれからイレーネは、少し外に出ることもあったが、やはり引きこもりがちだった。相当トラウマになっているらしい。
コルネリアも彼から殴られた経験があるだけに、生まれて初めて、ほんの僅かにイレーネに同情した。
そして今日、コルネリアは家を出る。
しかしその前に一つ、片付けなければならない予定がある。エクトールが来るのだ。
応接室で向かい合ったエクトールは、コルネリアをイジメていた時の笑顔のままだった。
「コルネリア、本当にすまなかった」
エクトールは頭を下げた。
「何の謝罪ですか?」
「君を選ばなかったことだ。一時の感情に流され、イレーネと結婚してしまった」
やはり、いじめのことではなかった。
「今からでも遅くはない。僕とやり直してもらえないだろうか」
エクトールの厚顔無恥さ加減に驚いた。
両親もイレーネが暴力を振るわれたのを聞き、かなり警戒心を抱いている。伯爵家が今回の訪問を受け入れたのも、「謝罪のため」と聞いていたからだ。
「それは出来ません」
「何故」
エクトールは心底意外そうに目を見開いた。本当に自分が拒絶された理由を分かっていないようだった。
「僕と結婚すれば君は侯爵夫人、そして宰相夫人になれる。何が不満なんだ」
コルネリアは、一度息を整え、勇気を出して言った。
「あなたは覚えていないかも知れませんが、私たちは昔出会っています。私は、あなたが昔『デブ』と呼んでイジメていた女の子ですよ」
一拍、間があった。
「ああ、そんなことか」
奈落に落ちるような感覚だった。今、彼は何と言った?
自分の受けた痛みは「そんなこと」で片づけられるものではない。
だがエクトールはお構いなしに続ける。
「君がその女の子なのは知っていたさ。でも、昔のことじゃないか」
彼は変わらぬ笑顔で両手を広げ、肩をすくめて見せた。
愕然とした。
エクトールは覚えていた。覚えていて、何の罪悪感も感じず、何食わぬ顔で言い寄って来ていたのだ。彼の感情も思考も理解出来ず、怖すぎて、身体の芯から震えた。
「あの時は少しやんちゃだったかも知れない。でも僕は変わった。それで良いじゃないか」
「あなたが良くても、私は良くありません。私があの時、どんな気持ちで耐えていたか分かりますか? 辛かったか分かりますか? それをやんちゃで済ませるなんて、人としてどうかしています。あなたなんかと結婚するなんて、死んでも嫌です」
エクトールは髪をかき上げた。その表情から、笑顔が消えている。
「うるさいぞ、デブ」
立ち上がり、コルネリアを目前に見下ろす。
「こっちは侯爵家。証人もいない。この部屋で何があったかなんて、幾らでももみ消せるんだからな」
「何をする気ですか!」
「ちょっと昔を思い出してもらおうと思ってな」
歪な笑顔が浮かぶ。
「……やはりイレーネみたいに私も殴る気なのですね?」
「そうだ。あの貧弱なお嬢さんじゃ殴り甲斐がなかったからな。お前ならもう少し良い声で鳴いてくれるだろう!」
エクトールは躊躇なく拳を振り下ろした。
瞬時に昔殴られた記憶がフラッシュバックし、コルネリアは顔を手で覆った。
ぐっ、と衝撃に備える。
中々、拳は振り下ろされてこない。
恐る恐る目を開け、コルネリアはホッと胸をなでおろした。
彼が来てくれたのだ。
エクトールの拳は途中でピタリと止まっていた。
後ろから体格の良い男性に掴まれている。彼は部屋の中に気配を消して潜んでいたのだ。
「くっ、離せ!」
エクトールが身をよじろうとする。
「よー。久しぶりだなぁ、いじめっ子」
その言葉を聞いて、エクトールは懸命に首をひねった。そして誰なのか認識し、「お前……!」と歯ぎしりをする。
その男性こそ、あの日コルネリアを守ってくれていた少年、レオンだった。今はコルネリアの強い推薦で、この伯爵家に召し抱えられている。
エクトールは力をかけてもがこうとするが、全くビクともしない。エクトールも背は高いが、レオンはそれに加えて身体の厚みが戦士そのものだった。
「離せ! お前らまとめて消してやっても良いんだぞ!」
「いやぁ、良い写真が撮れたねぇ」
レオンやエクトールのものでもない声が、部屋の隅から聞こえた。
グランドピアノの背後から出てきたのは、小太りの中年男だ。エクトールの目が驚愕に開かれる。
「お前……いや、あなたは、グレイン公爵……!」
グレイン公爵はニッと笑った。先ほどのエクトールに負けず劣らず邪悪な笑みだとコルネリアは思った。
前歯が一本欠けていて、お世辞にも顔が良いとは言えない。しかし彼はエクトールと次期宰相を争う有力候補だ。
そしてこのグレイン公爵こそ、エクトールのDV騒動を、意図的に広めていた張本人だった。
彼はエクトールがイレーネと離婚して直ぐ伯爵家に現れた。そしてイレーネの話を親身に聞きながら、極限までエクトールの醜聞を搾り尽くした。グレイン公爵にとってエクトールは目の上のたんこぶ。徹底的に排除するつもりだったのだ。
その彼がつい先日、今度はコルネリアを訪ねてきた。
どうやったのか分からないが、エクトールが伯爵邸を訪れる予定であることも知っていた。
「コルネリアちゃん、ちょっとおじさんに協力してよ。もし協力してくれたら、お金、いっぱいあげるから」
グレイン公爵は親指と人差し指で丸を作り、下卑た笑顔で言った。
コルネリアは彼が善人でないと直感した。しかし同時に、この場においては信頼できるとも考えていた。敵の敵は味方である。
彼は有名人だ。長年、財務官として王宮に勤めている。「いつ寝ているのか」と話題になるほどの仕事中毒者で、彼が財務官になってから国家財政は安定し、国王からの信頼も厚い。
グレイン公爵にとって宰相は長年の夢。あと少しで国家の中枢を動かすという野望が叶うのだ。
それを「最年少宰相候補」という訳の分からないガキに邪魔されることは、何があっても許されなかった。
こうしてコルネリアはグレイン公爵の指示通り、わざとエクトールを怒らせることを言い、DVを裏付ける証言も取ったというわけだ。
「さて、『元』若き宰相候補君。君の言動は新聞社に持ち込むとしてだね」
写真機をいじっていたグレイン公爵が顔を上げた。針のように鋭い瞳でエクトールを貫く。
「今後、彼女たちに何か復讐をしようとしてみろ。次は醜聞が載るだけじゃすまないぞ。バックに俺が居ることを忘れるな」
エクトールは必死にグレイン公爵をにらみ返す。しかし既に迫力は感じられなかった。
「どうした、俺に殴りかかる勇気は無いか。あ、そうだ。君は自分より弱い女性しか殴れない卑怯者だったな」
公爵は甲高い声で笑った。笑いに合わせて大きなお腹がプルプル震えている。これが国のトップに立つかもしれない者同士の争いなのかぁと、コルネリアは不思議な感慨を抱いた。
エクトールはその後、一言も発することなく、肩を落として帰って行った。もう宰相候補からは完全に外れただろう。新聞に記事が載れば、もはや貴族として生きていくことも難しいかも知れない。
「じゃあ俺もこれでお暇する。はい、これ今回のお礼金。後日グレイン銀行で引き下ろしてくれ」
そう言って渡された小切手に書かれた金額は、伯爵令嬢のコルネリアでも目が飛び出るほどに多かった。
「それから君たちは交際しているんだよね?」
グレイン公爵はコルネリアとレオンを交互に見ながら言った。彼にレオンとの関係は一言も言っていないのだが、僅かな時間で見抜かれたらしい。
「もし式が決まったら呼んでくれたまえ。俺が来たら箔も付くだろうし、金一封、送らせてもらう。それじゃ」
グレイン公爵は用は済んだとばかりに、凄まじい早足で帰っていった。
レオンとコルネリアは目を見合わせた。
「じゃあ、そろそろ行くか!」
レオンが言う。
「ええ、行きましょう」
二人が目指す地は王都だ。
レオンが実力を認められ、王立騎士団に所属することが決まったのだ。これについては伯爵家と騎士団の間で話がまとまっている。
伯爵家にとって想定外だったのは、コルネリアがレオンについて行くと言い出したことだった。
特に父は必死に引き止めた。
義妹が引きこもりがちになり、今になって伯爵家存続のためにはコルネリアの存在が不可欠だと気付いたらしい。
しかしエグモント伯爵も、義妹のことでコルネリアに散々我慢させていたことは多少なりとも負い目に感じていたらしく、最終的には彼女が家を出ることを了承した。
ずっと貴族令嬢として生きてきたコルネリアにとって、新しい暮らしは大変だと思う。
だがコルネリアは身も心も晴れやかだった。
いじめっ子は消えた。強欲な妹もいない。
貴族という肩書も、侯爵夫人という肩書も不要なのだ。
今、こうして心から信頼できる男性と一緒に、今後の人生を過ごせることが、一番の幸せなのだと感じるのだった。
おわり




