白い結婚で捨てられた女を嘲笑った悪徳商人が、産地直送で地に堕ちるまで
「白い結婚で捨てられた女に、この辺境が救えるとでも?」
その日、ヴィクトル・ゴダールは断りもなく救護院へ入ってきた。
この町の暮らしを、一手に握る御用商人だった。
白い結婚。
夫となった男に、一年で無効にされたあの婚姻のことだ。
私を捨てたその男は、今は北の鉱山にいる。この屋敷を奪おうとして、逆に王家に裁かれた。
その顛末を知ってなお、ゴダールは同じ古傷を指でつつき、私を値踏みしに来ていた。
「ご用件を、手短に」
私は、薬草を量る手を止めなかった。
「つれないですな。私はね、忠告に来たんですよ」
ゴダールは、勝手に椅子を引いて座った。
「よそから流れてきた物乞いどもを、屋敷に入れたそうで。北の翼を、開けて」
「ええ」
「正気ですか。あれは、隣領を食い詰めて逃げてきた連中だ。一人に情けをかければ、十人が寄ってくる」
指輪の手が、台を軽く叩いた。
「この町の食料には、限りがある。よそ者に食わせる余裕は、ありません。……あなたが甘い顔をすれば、腹を空かせるのは、もとからこの町に住む者たちだ」
筋は、通っているように聞こえた。
人々を守るための、正論のように。
「ご忠告は、承りました」
私は、薬研を置いた。
「ですが、あの人たちを入れたことを、後悔はしていません」
*
流民たちが門を叩いたのは、数日前の夜だった。
門番の報せで表へ出ると、二十人ほどの人影が立っていた。
痩せて、埃にまみれて、幼い子の手を引いている者もいた。
「隣領から、山を越えてきました」
前に立つ、若い娘が言った。
「もう、あの土地では、暮らせなくて」
声が、震えていた。
「動けない母が……自分はいいから、お前だけでも行け、と。……母を、置いてきました」
うしろに立つ流民たちも、みなうつむいていた。
それでも、ここまで歩いてきた。
北の辺境なら、食い詰めた者にも仕事があると聞いた――その一心だけが、彼らを運んできたのだろう。
「ギルバート。蓄えは、どれくらい保ちますか」
私は、隣に立つ老家令に聞いた。
「夏で、療養の者は少のうございます。あの人数を数日養う分ならございます。……その先は、算段が要りますが」
「その先は、明日考えれば足りますか」
「足ります」
ギルバートは、静かに答えた。
「まず眠っていただくのが、先かと」
余裕がないから、と門を閉じる冷たさを、私は知っている。
一度、その外に立たされた側だったから。
「開けましょう。北の翼を」
私は言った。
「魔物が活発に動くのは、冬です。夏のあいだは、客殿も空いております」
「かしこまりました。寝具を、二十人分。温かい粥も、すぐに」
ギルバートが、頭を下げた。
その夜、北の翼に、久しぶりに灯りがともった。
冬に騎士が休んだ客殿で、今度は行き場をなくした人々が身を横たえた。
寝る場所は、できた。
あとは、蓄えをどうするかだった。
*
「――で、どうなさるおつもりです」
「二十人の食い扶持を、どう工面するのか。まさか、私に安く食料を回せとでも?」
「いいえ」
私は、彼を見た。
「あなたに頼るつもりは、ありません」
男の機嫌のよさが、少し陰った。
「……ほう。では、どうすると」
「それを、これから考えます。あなたのいないところで」
ゴダールは、鼻を鳴らして立ち上がった。
「せいぜい、お気張りなさい。……この町で、私を通さずに商いができると思っているなら、大間違いですがね」
その言葉を、私は覚えておくことにした。
あとで、そっくり返すために。
*
養う算段は、流民たち自身の中にあった。
彼らは、ひとつの村から来たのではない。
それぞれの村で食い詰め、逃げる道で行き合い、集団になっていた。
だから故郷も、できることも、ひとりひとり違った。
味噌を仕込む女がいた。豆や菜を作っていた男がいた。鍬や鍋を直す老人がいた。繕い物のできる者、薬草を見分ける者もいた。
村で暮らしていた頃の手仕事を、誰もがまだ手放していなかった。
「あなたたちの故郷は、今、どうなっていますか」
私が聞くと、流民のひとりが静かに答えた。
「畑は、残っています。作る者も、まだいくらか。……ただ、作っても、あの紋の荷馬車に買い叩かれるだけで」
まともな値で、買う者がいない。
だから村は、作物を抱えたまま干上がっていく。
作れば買い叩かれる村と、買えば高く売りつけられる町。
その間で、ゴダールが両側から搾り取っている。
――あいだに立つ一人を、飛ばせばいい。
「ギルバート。ひとつ、教えてください」
私は、老家令に向き直った。
「これほどの買い叩きが、なぜ今まで、まかり通ってきたのですか」
ギルバートは、しばらく黙っていた。
「……アルヴィン様が、ゴダールに、頭が上がらなかったのです」
元夫の名だった。
「あの方の放漫な暮らしぶりを、ゴダールが銭で支えておりました。その見返りに、町の商いを、少しずつ手中に。……アルヴィン様は、見て見ぬふりをなさった」
だから、と老家令は続けた。
「家令の私が、いくら証を並べても、届きませんでした。主が庇う相手には、手が出せぬのです」
「その主が、もういない」
「はい」
ギルバートが、私を見た。
「奥様が来られて、その重石が、外れました」
一年前、この屋敷に来た時、私は何も持たない女だった。
けれど今は、閉ざされていた扉を、一つずつ開けられる。
アルヴィンが遺していった澱みも、そのひとつだった。
*
「ギルバート。ヴァレンの頃、隣領の村々と、道はつながっていましたか」
「ございました」
老家令は、古い交易の帳面を開いた。
「五十年、誰も通らぬうちに荒れてはおりますが、道筋は残っております。どの村へ、どの街道で出るかも、ここに」
「その道を、もう一度使います」
街道は、使える。
けれど、本当の壁は、そこではなかった。
ゴダールに買い叩かれ続けた村が、見知らぬ相手の申し出を、そう簡単に信じるはずもない。
だからこそ、交渉に立ったのは、流民たちだった。
同じ商人に、同じように買い叩かれてきた者たちだ。
先に食い詰めて村を出た彼らの言葉には、よそ者の口約束にない重みがあった。
話は、まとまった。
正当な値で、作物を買う。
街道を越えて運ぶ荷には、騎士団が付いた。
夏は迎撃も緩み、騎士たちの手が空いている。
運ばれた作物を、流民たちが引き取って仕上げた。
穀物は餅や濁り酒に。豆は味噌に。菜は漬物に。
村の作物と、流民の手仕事が、一つになった。
北の翼の客殿に、長机を並べた。
並んだのは、ゴダールの店と同じ品ばかり。
買うときも、売るときも、まっとうな値をつけた。
それだけで、ゴダールの半値になった。
間の一人が、いなくなったからだ。
*
流民たちは、みるみる町に馴染んでいった。
味噌を仕込む女は、町の女房たちと立ち話をするようになった。
鍬を直す老人の周りには、子どもらが集まった。
行き場をなくして来た人々が、少しずつ、この土地に根を張り始めていた。
ただ、一人だけ、輪の外にいる者がいた。
レナという、若い女だった。
あの夜、門の前で、最初に口をきいた娘だ。
働きぶりは、誰より真面目だった。
けれど仕事が終わると、いつも一人で離れたところに座っていた。
「馴染めませんか」
ある日、私は声をかけた。
レナは、少しだけ首を振った。
「……ここが、まだ、自分のいる場所だと、思えなくて」
「そうですか」
私は、それ以上は聞かなかった。
眠る場所は、すぐに作れる。
けれど、そこを居場所と思えるまでには、その人なりの時間がいる。
*
市が軌道に乗るほど、ゴダールの店から客が離れていった。
同じ品が、市には安く、豊富に並ぶ。
品薄だという触れ込みは、その前で日ごとに嘘だと知れていった。
商いの根を、断たれたのだ。
それを、ゴダールが黙って見ているはずもない。
追い詰められた男が動くまで、そう長くはかからなかった。
*
村からの荷が街道を越える日、それは起きた。
夕方、一人の流民が屋敷へ駆け込んできた。
「院長さま。街道で、荷が襲われました。ルーク様が、賊と」
私は、立ち上がった。
行きたかった。
けれど、剣の交わる場所へ行っても、私にできることはない。
傷ついた者を迎える支度をして、待つ。
それだけだった。
――待つのは、こんなにも、長い。
*
ルーク様が戻ったのは、夜更けだった。
自分の足で、歩いていた。
けれど、左の肩から、袖が赤く染まっていた。
「その肩……っ」
「大事ありません。荷は、ひとつも渡していません」
彼はまず、そう言った。
私は彼を長椅子に座らせ、上着を脱がせた。
肩に、刃の走った傷があった。
浅くはない。血を拭うと、傷口がはっきりと現れた。
「賊は、五人でした」
手を動かす私に、彼は淡々と話し始めた。
「金で雇われた、ならず者です。荷を運ぶ流民に刃を向けたので、間に入りました。……この肩は、その時のものです」
「庇ったのですね。自分の身で」
「盾は、そのためにありますから」
荷を奪って姿をくらますはずだった五人は、一人残らず縄を打たれていた。
そのうちの一人の懐から、金の包みが出てきた。
包みには、紋が刷られていた。
円の中に、天秤。
ゴダールの、店の紋だった。
「これで、雇い主が知れました」
私は、包帯を巻きながら言った。
「あなたが、この傷で、証を持って帰ってくれたから」
「……なら、なおさら軽傷です」
「軽傷では、ありません」
私は彼の言い分を、初めて遮った。
「あなたが傷を負うたびに、私は、それを軽いと思えたことが、一度もありません」
彼が、少し目を見開いた。
それから、ふっと、視線をそらした。
「……善処します」
包帯の上から、その肩に、そっと手を置いた。
*
荷を守り抜いた翌日、私は、市を閉じた。
襲撃で荷を失い、産地直送は頓挫した――そう、町に流れるよう仕向けた。
実際には、荷は一つも失っていない。
賊は五人とも捕らえ、証拠もこの手にある。
それを伏せて、あえて市を畳んでみせた。
市が潰れたと思えば、あの男は必ず様子を見に来る。
三日と経たず、ゴダールが、救護院へ乗り込んできた。
「いやはや、とんだ災難でしたな」
勝手に扉を開け、勝ち誇った顔で入ってくる。
「聞きましたよ。街道で、荷を根こそぎ、やられたとか。せっかくの市も、畳んだそうで。……だから言ったのです。よそ者を担いだ商いなど、長くは続かんと」
彼は、勝手に椅子へ腰を下ろした。
「どうです。困っているなら、この私が、いくらでも都合をつけて差し上げますよ。……もちろん、それ相応の値で」
足元を、見に来ていた。
産地直送は潰れた。女は行き詰まった。そう信じきった顔だった。
「そのお気遣いは、要りません」
私は、静かに言った。
「荷は、失っていませんから」
ゴダールの笑みが止まった。
「……何を。荷は、街道で奪われたはずでは」
「襲われはしました。けれど、退けました。荷は、その夜のうちに市へ届いています」
ゴダールの目が、わずかに泳いだ。
「賊が姿を消したので、まんまと逃げおおせたと、お思いでしょう。……逃がしていません。五人とも、その場で捕らえました」
ゴダールの、絹の肩が、跳ねた。
手下は成功して姿をくらませた――そう信じていた男の前提が、音を立てて崩れていく。
私は、ひとつの包みを台に置いた。
円の中に、天秤の紋。
「そのうちの一人が、これを持っていました。あなたの紋の入った、手間賃の包み。五人とも、口を揃えています。ゴダール商会に雇われた、と」
ゴダールの額に、汗が噴き出した。
「市を畳んだのは、あなたを、ここへお呼びするためです。……よく、いらっしゃいました」
「は、謀ったな。だ、だが、賊が勝手に私の名を出しただけだ。証拠にはならん」
「五人が、揃って同じ名を口にしました。でまかせで、そこまで揃いますか」
ゴダールが、言葉に詰まった。
「人を雇い、荷を襲わせた。それだけで、あなたは、十分に裁かれます」
「裁く、だと?」
ゴダールの声が、裏返った。
「誰が裁く。この領には、領主がいない。誰も、私を裁けはしない――」
「裁きは、王家が下します」
救護院の扉が、開いた。
灰色の旅装の男が、入ってくる。
「――続けてくれ。調書に、書く」
ヴァレン家の再興と私の処遇を検分するため、ひと月前から辺境に滞在していた王家の監察官だった。
ゴダールの顔から、血の気が引いた。
監察官は、部屋の隅のギルバートへ目をやった。
「ギルバート殿。あの報せは、王都にも届いていた。この町の商いが、一人の手に偏っている、と。……ただ、領主のいない領は、いつも後回しにされる」
「……覚えて、おいででしたか」
「あなたの報せが、ようやく役に立つ」
ギルバートは何も言わず、深く頭を下げた。
その背が、いつもより少しだけ丸く見えた。
監察官の耳に、ゴダールの件を入れていたのが誰なのか。私は、今になって察した。
監察官は、ゴダールへ向き直った。
「荷を襲わせた証。買い叩かれた村々。偽りの品薄。……検めれば、残らず裏が取れる」
「ま、待ってくれ。私は、ただ、商いを」
監察官は答えず、帳面を閉じた。
「蔵を検める。商会の帳簿も、すべてだ。同行を願おう」
ゴダールは、へたり込んだ。
いくつもの指輪の光る手が、床の上で力なく開いていた。
*
ゴダールが引き立てられたあと、監察官は、私に向き直った。
「この夏の一部始終、しかと見せてもらった」
彼は、めずらしく口の端をゆるめた。
「領主のいない領を、誰が回していたか。……王都へ、ありのまま伝える。近いうちに、沙汰があるだろう」
「……私は、ただ、眠る場所を作ってきただけです」
「その一つ一つが、領を支えていた。……世間では、それを領主の仕事と呼ぶ」
監察官は、背を向けた。
「覚悟しておくことだ」
*
ゴダールの蔵からは、買い叩かれた村々の品が、山と出てきた。
村ごとの荷印が押されたまま、町へ出されることなく、積み上げられていた。
品薄は、やはり嘘だった。
ヴィクトル・ゴダールは、王都へ送られた。
買い叩き、品薄の偽り、そして襲撃の教唆。
その一つずつが帳面に書き取られ、裁かれた。
暴利で築いた財はそっくり取り上げられ、干上がらせた村々へ分けて返された。
ゴダール自身は、王都で裁かれたのち、かつて干上がらせた村へ送られた。
村から搾り取った男が、今度は無一文でその土を耕す。
肥えていた男が消えて、村も町も息を吹き返した。
*
流民たちは、北の翼を出て、町に住まいを移していった。
産地直送の道は、そのまま残った。
村は正当な値で作物を売り、流民たちがそれを運んで加工する。
味噌も、餅も、繕い物も、今では町の店先に、当たり前に並んでいる。
産地直送の市は、すっかり町に根づいた。
けれど、その賑わいの中に、レナの姿だけがなかった。
人と向き合って売り買いする輪には、やはり、入れなかった。
私は、彼女に別の仕事を頼んだ。
救護院で、病を得た者や老いて動けない者に寄り添う役だ。
レナはそれを、驚くほど丁寧にこなした。
誰かの世話をしている時だけ、レナの硬さはほどけていくようだった。
「ここが、少しは、居場所になりましたか」
いつか、そう聞いてみた。
レナは、患者の手をそっと握り直した。
「……この人たちは、わたしを、追い出したりしません」
「だから、今度は、わたしが、支えたい」
置いてきた母を、まだ迎えに行けずにいることは、聞かなかった。
いつか、その日が来る。
それまで、ここが彼女の帰る場所であればいい。
――そして、レナだけではない。
夏のあいだ、客殿は流民たちの生きる場所になった。
冬になれば、また兵の眠る場所に戻る。
季節ごとに顔を変えながら、この場所は、これからも誰かの帰る場所であり続ける。
*
ルーク様の肩の傷は、夏の終わりには、薄い痕になった。
包帯が取れた日、私はついその痕に指を触れた。
「もう、痛みませんか」
「あなたが、毎日診てくれましたから」
彼は私の手を、痕の上からそっと押さえた。
温かい手だった。
「……ひとつ、伺ってもいいですか」
「なんでしょう」
「……この先、私の立場が、変わることがあっても」
言いかけて、少し、ためらった。
「あなたと、今のようには、いかなくなるかもしれません」
「なりませんよ」
ルーク様は、こともなげに言った。
「俺は、あなたが夫婦寝室を仮眠室にした、あの日から、ずっと隣にいます」
握った手に、少しだけ力がこもった。
「領主になろうと、何になろうと。……その隣が、俺の持ち場です」
持ち場、という言い方がこの人らしかった。
傷だらけで戻ってきた時と、同じ顔だった。
私は、痕の上に重なった手を握り返した。
*
やがて、北の森に、最初の冷たい風が吹き始めた。
監察官が言い残した沙汰は、まだ届かない。
けれど、届いても届かなくても、やることは何も変わらない。
使われていない場所を、見つけて、開く。
村と町を、まっとうな値でつなぐ。
誰も土地を追われず、誰も暮らしに困らずにすむように。
どれも、大きな政ではない。
人が安心して眠れる場所を、一つずつ増やしていくだけだ。
眠れる場所は、明日を守る場所。
この夏、その言葉は屋敷の壁を越えて、まっすぐ町まで届いていた。
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