【書籍化進行中】白い結婚で捨てられたので、閉ざされた街道を開きます――辺境を食い物にしていた悪徳商人は産地直送で破滅しました
7/11 タイトル、あらすじ、本編大幅改稿
「白い結婚で捨てられた女に、この土地の腹を満たせるとでも?」
ヴィクトル・ゴダールは、断りもなく救護院へ入ってきた。
太い指に、いくつもの指輪が光っている。
この町へ入る穀物も、塩も、油も、鉄も、その大半が彼の荷馬車で運ばれていた。
先代領主である私の元夫が、借金の見返りに商いの権利を与えた御用商人。
私と夫婦として暮らすことは一度もなかった男が、この土地だけは、少しずつゴダールへ売り渡していた。
「ご用件を、手短に」
私は薬草を量る手を止めなかった。
「では、手短に申し上げましょう」
ゴダールは勝手に椅子を引き、腰を下ろした。
「流民を屋敷へ入れたそうですな。二十人も」
「ええ」
「今すぐ追い出しなさい」
声は穏やかだった。
だからこそ、その言葉に逆らう者が少なかったのだろう。
「この町の食料には限りがある。よそ者へ食わせれば、腹を空かせるのは、もとからここで暮らしてきた者たちです」
筋は通っているように聞こえた。
人々を守るための忠告のように。
「今、領内の穀物庫にある麦は、平年なら二十七日分」
ゴダールは指輪のついた指で、台を軽く叩いた。
「ですが、流民を養えば、二十三日。薬草院の粥を増やせば、二十一日。次の荷が届かなければ、それで終わりです」
この男は、屋敷の備蓄まで把握している。
「次の荷は、いつ届く予定ですか」
「さあ」
ゴダールが笑った。
「私にも、荷馬車をどこへ向かわせるか選ぶ自由がありますので」
私は、ようやく彼を見た。
「食料を止めると?」
「追い出せば、これまでどおりです」
「契約に基づく停止でしょうか」
「先代領主アルヴィン様は、我が商会にこの土地の優先販売権をお与えになった。誰から何を買い、どこへ売るかは、私が決めます」
ゴダールは椅子へ深くもたれた。
「二年前の大雪を、お忘れではないでしょう。街道が閉ざされたとき、私の荷馬車がなければ、この町では何人も死んでいた」
それは事実だった。
彼は悪徳商人である前に、優れた商人でもあった。
雪の降る時期を読み、荷を備蓄し、危険な峠を越える御者を抱えている。
だからこそ、誰も彼を切れなかった。
必要とされる力を、支配へ変えた男だった。
「三日差し上げます」
ゴダールは立ち上がった。
「ご自分の慈善が、誰の食卓からパンを奪うのか。よくお考えになることです」
扉へ向かいかけた彼が、部屋の隅へ目を向けた。
「王都からのお客様も、よくご覧になっておくといい。この女が領主の真似事をして、何人飢えさせるのかを」
灰色の旅装をまとった男が、窓辺に立っていた。
王家の監察官、オズワルド卿。
元夫が王家に裁かれたあと、この土地を誰に委ねるべきか見定めるため、ひと月前から滞在している。
彼は何も答えなかった。
ゴダールが去ると、ようやく口を開いた。
「二十一日分という数字に、間違いは?」
「ありません」
老家令ギルバートが答えた。
「このまま次の荷が来なければ、町では先に油と塩が尽きます」
「流民を追い出しますか」
監察官が私に尋ねる。
「いいえ」
「では、何か代案が?」
「まだありません」
正直に答えた。
監察官の眉がわずかに動く。
「代案もなく、二十人を受け入れたのですか」
「門の前で倒れかけている人を見ながら、明日以降の帳尻が合うまで待てとは言えませんでした」
「善意で領地は回りません」
「存じております」
私は薬草の包みを閉じた。
「ですから、これから回る仕組みを作ります」
「三日で?」
「三日で、始めます」
監察官は何も言わなかった。
ただ、小さな帳面へ何かを書きつけた。
*
流民たちが門を叩いたのは、三日前の夜だった。
二十人ほどの人影が、冷たい風の中に立っていた。
痩せ、埃にまみれ、幼い子どもの手を引いている者もいた。
「隣領から、山を越えてきました」
前に立った若い娘が言った。
「畑はあるんです。でも、作っても、まともな値では買ってもらえなくて」
声が震えていた。
「動けない母が、自分はいいから、お前だけでも行け、と。……置いてきました」
レナという名の娘だった。
うしろの者たちも、皆うつむいている。
それでも、ここまで歩いてきた。
北の辺境なら、食い詰めた者にも仕事がある。
その噂だけが、彼らを運んできたのだろう。
「ギルバート。蓄えは、どれくらい保ちますか」
「夏で、療養中の者は少のうございます。数日なら」
「その先は?」
「算段が必要です」
「今夜、門を閉じなければならないほどですか」
「いいえ」
ギルバートは静かに首を振った。
「まず眠っていただくべきかと」
余裕がないからと門を閉じる冷たさを、私は知っている。
一度、その外に立たされた側だったから。
「北の翼を開けましょう」
かつて、冬の騎士たちが休んでいた客殿。
夏のあいだは使われていない。
「寝具を二十人分。温かい粥もお願いします」
「かしこまりました」
その夜、北の翼に灯りがともった。
夫婦のふりをするためだけに整えられていた部屋を、最初に騎士たちの仮眠室へ変えた。
そこから、使われていない客間を一つずつ開けてきた。
今度は、行き場をなくした人々のために。
眠る場所はできた。
けれどゴダールの言うとおり、眠らせるだけでは、人は生きていけない。
*
翌朝、町のパン屋の前には長い列ができていた。
流民が食料を食い尽くす。
ゴダールが荷を止める。
そんな噂が、一夜で町中へ広がっていた。
「奥様」
パン屋の女主人が、声を抑えて言った。
「気の毒だとは思います。でも、うちにも子どもがいます」
「分かっています」
「分かっておられるなら――」
「三日以内に、追加の麦を入れます」
言い切った。
女主人は、不安そうに私を見る。
「入らなければ?」
「屋敷の備蓄を町へ出します」
「冬の分まで?」
「私が開けた門です。責任を、町の方へ押しつけるつもりはありません」
監察官は少し離れたところから、そのやり取りを見ていた。
ここで失敗すれば、流民だけではない。
町の者まで飢えさせる。
ゴダールの脅しは、ただの脅しではなかった。
*
流民たちは、一つの村から来たのではなかった。
逃げる途中で出会い、集団になった者たちだ。
味噌を仕込む女がいた。
豆や菜を育てていた男がいた。
鍋や鍬を直せる老人もいた。
繕い物のできる者、薬草を見分けられる者もいる。
「故郷には、作物が残っているのですね」
私が尋ねると、一人の男がうなずいた。
「あります。作る者も、まだ残っています。ただ、ゴダールの紋の荷馬車にしか売れない」
「ほかへ売れば?」
「次から塩も油も売らないと言われます」
ゴダールは作物を安く買うだけではない。
村に必要な品を押さえ、逆らえないようにしているのだ。
「ギルバート。昔、村と町を直接つなぐ道はありませんでしたか」
「ございます」
古い交易帳を開く。
「東の旧街道です。先代のさらに前までは使われておりました。ただ、橋が一つ落ち、道も荒れております」
「直すには?」
「人手があれば、荷車一台が通れる程度には。ただし――」
ギルバートがためらう。
「道を直しても、村が我々を信じるとは限りません」
当然だった。
ゴダールに搾られ続けた村が、別の屋敷の言葉を簡単に信じるはずがない。
「レナ」
私は、部屋の隅にいた娘を見た。
「あなたの村は、その街道沿いですか」
レナの顔が強張った。
「……はい」
「案内をお願いできますか」
「無理です」
即座に返ってきた。
「私は、母を置いて逃げました」
「逃げなければ、あなたも動けなくなっていたかもしれません」
「それでも」
レナは両手を握りしめた。
「村の人たちは、私を見たら、逃げた女だと思います」
「そうかもしれません」
慰めだけで否定することはできなかった。
「ですが、あなたにしか届けられない話があります」
「何を」
「村の作物を、正当な値で買いたいという話を」
レナが顔を上げる。
「口約束ではありません。最初の荷は、こちらが先に代金を払います。運ぶ途中で傷んでも、村へ返金は求めません」
「そんなことをしたら、奥様が損をします」
「最初の信用を買うための費用です」
監察官が口を挟んだ。
「屋敷の財を使うおつもりですか」
「私個人の宝飾品を売ります」
白い結婚のために用意された装飾品。
夫が一度も見なかった首飾りや耳飾りが、まだ箱に収められている。
「使われないまま眠らせるより、道を開く資金にした方がましです」
レナは、長く黙っていた。
やがて小さくうなずく。
「……行きます」
*
東の旧街道は、道と呼ぶのも難しい有り様だった。
木の根が張り出し、橋は中央が落ちている。
「三日では無理です」
ルーク様が、崩れた橋を見て言った。
辺境騎士団の副団長。
冬には魔物から町を守り、夏の今は街道の警備を担っている。
「荷車一台だけでも」
「通すだけなら可能です。ただし、門を開くのと同じです」
「同じ?」
「道を作れば、荷だけでなく、賊も来る」
彼は私をまっすぐ見た。
「開くと決めることと、開いたまま守ることは別です」
「守れますか」
「あなたが必要な人員と金を出すなら」
無条件に大丈夫とは言わない。
だから、彼の言葉は信じられた。
「出します」
「承知しました」
騎士と流民、町の人夫が一緒になって道を直した。
橋には仮の板を渡し、荷車一台がようやく通れる幅を作った。
レナは、その道を通って故郷へ戻った。
*
村人たちは、私たちを歓迎しなかった。
「今度は、そちらが安く買いたたくのか」
村長の老人が、契約書を見もせずに言った。
「最初は高く買い、そのあと値を下げる。ゴダールも、同じことをした」
「疑うのは当然です」
私は契約書を二通、机へ置いた。
「一通は、村に残します。買い取り価格を変える場合は、双方の同意が必要です」
「領主が替われば、紙など反故にされる」
「ですから、王家の監察官にも証人として署名をお願いします」
監察官を見る。
彼は、すぐには筆を取らなかった。
「私は、あなたの計画が成功するとは保証しません」
「成功の保証ではありません。契約が存在したことの証明を」
監察官はしばらく私を見たあと、契約書へ署名した。
村人たちの空気が少し変わる。
「最初の荷は、収穫前に半金を払います」
「途中で腐ったら?」
「こちらの損です」
「売れ残ったら?」
「こちらが引き取ります」
「ゴダールが塩を止めたら?」
そこで、私は答えに詰まった。
作物を買うだけでは足りない。
村は売る先だけでなく、生きるために必要な品もゴダールに握られている。
村長が苦く笑う。
「ほらな。結局、あの男からは逃げられない」
「三日ください」
また、その言葉を口にした。
「今度は、何をなさるおつもりで」
監察官が尋ねる。
「町から村へ向かう荷車を、空で帰さないようにします」
村から作物を運ぶ。
帰りには塩、油、布、農具を積む。
別の領地から仕入れなければならないものもある。
それでも、片道だけの荷より運賃は抑えられる。
「ゴダールを消すのではありません」
私は村長へ言った。
「ゴダールしかない状態を、終わらせます」
*
最初の荷は、失敗した。
町へ着いたとき、菜の半分が傷んでいた。
仮の橋で荷車が傾き、予定より一日遅れたのだ。
市場へ並べられないほど潰れたものも多かった。
「ゴダールの荷なら、こんなことにはならなかった」
町の者の一人が言った。
反論できなかった。
彼の荷馬車には覆いがあり、御者は道を知り、途中に荷を休ませる倉庫もある。
中間にいる者を飛ばせば、すべて解決するわけではない。
ゴダールが担っていた仕事まで消えるわけではないのだ。
「村への代金は、約束どおり支払います」
私は宣言した。
「ですが、このまま続ければ、屋敷の財が先に尽きます」
監察官が冷静に言う。
「分かっています」
「計画を諦めますか」
「作り直します」
傷みやすい菜は、すぐに運ばない。
村で漬物に加工する。
豆は味噌にする。
麦や根菜など、保存の利くものから始める。
旧街道の途中に、空き小屋を荷の中継所として整えた。
流民の中にいた鍛冶職人が、荷車の車輪を直した。
騎士団は護衛の人数を減らす代わりに、決まった日にまとめて荷を運ぶ方法を提案した。
町では、市場の使用料を最初のひと月だけ免除した。
ゴダールの店の半値にはならなかった。
けれど村へ払う値は、これまでの倍。
町で売る値は、三割ほど安い。
運ぶ者にも、加工する者にも、働いた分の金が残る。
誰か一人だけが、大きく儲けない仕組みだった。
*
市が続くにつれ、流民たちは町に馴染んでいった。
鍬を直す老人の周りには、子どもが集まった。
味噌を仕込む女は、町の女房たちから作り方を尋ねられるようになった。
レナも、村と町を往復した。
故郷へ戻った日、母親はまだ生きていた。
寝台から起き上がることはできなかったが、娘の顔を見ると、ただ一言、
「逃げてくれて、よかった」
と言ったという。
それからレナは、村に残る病人の様子を確かめ、必要な薬を町から運ぶようになった。
逃げた道が、帰る道へ変わっていった。
*
ゴダールも、黙ってはいなかった。
御者たちへ圧力をかけ、こちらの荷を運べば二度と雇わないと脅した。
町の商人には、市へ品を出せば塩を卸さないと通告した。
一時は、本当に油が足りなくなった。
私たちは旧街道だけでなく、西の河港へ続く道も使わなければならなくなった。
「ゴダールの代わりになるのは、簡単ではありません」
夜遅く、帳簿を見ながら私が言うと、ルーク様は向かいの椅子へ腰を下ろした。
「代わりになる必要はないでしょう」
「ですが、彼が運んでいたものは、誰かが運ばなければ」
「一人にすべてを握らせないよう、分ければいい」
村から町へ作物を運ぶ者。
河港から塩を運ぶ者。
冬の峠を越えられる者。
倉庫を管理する者。
「一人の強い商人を、別の一人に替えるだけでは、また同じことになります」
私は帳簿を閉じた。
「そうですね」
ゴダールを倒すことが目的ではない。
彼がいなければ何も届かない土地を、変えなければならない。
*
村から三台の荷車が来る日、襲撃が起きた。
日が落ちる前、一人の騎士が屋敷へ駆け込んできた。
「東の旧街道で、賊が出ました」
「荷は」
「ルーク副団長が守っています。ただ――」
私は立ち上がった。
すぐにでも向かいたかった。
けれど剣の交わる場所へ行っても、私には何もできない。
「救護院を空けてください。湯と包帯を」
傷ついた者を迎える。
それが、今の私にできることだった。
待つ時間は、ひどく長かった。
*
ルーク様が戻ったのは、夜更けだった。
自分の足で歩いていた。
けれど左肩から、袖が赤く染まっている。
「座ってください」
「荷は無事です」
「先に、座ってください」
上着を脱がせると、肩に刃の走った傷があった。
浅くはない。
「賊は六人。五人は捕らえました。一人は逃げています」
「誰か、ほかに怪我は?」
「軽傷が二人です」
傷口を洗う。
ルーク様の指が、わずかに動いた。
「痛いのでしょう」
「この程度なら」
「軽いと言わないでください」
私は包帯を強く引きすぎないよう、慎重に巻いた。
「あなたが傷を負うたび、私は、それを荷の損失のようには考えられません」
彼が私を見る。
「荷は替えられます」
包帯を結ぶ。
「あなたは替えられません」
ルーク様は、少しだけ視線をそらした。
「……次からは、もう少し上手く避けます」
「必ず、そうしてください」
*
捕らえた賊の一人は、以前ゴダール商会の荷運びをしていた。
懐から、商会の東倉庫で賃金を受け取るための鉄札が出てきた。
だが、それだけではゴダール本人の指示を証明できない。
「五人とも、倉庫番のボレルに雇われたと話しています」
監察官が調書を閉じる。
「ボレルは?」
「姿を消しました」
「ゴダールは、部下が勝手にしたと言うでしょう」
「そのとおりです」
「では、どうする」
私は、荷を失ったという噂を町へ流した。
三台すべて焼かれ、市は閉じた。
賊も全員逃げた。
そう思わせた。
「ゴダールが来ると?」
「来ます」
「なぜ」
「失敗した私を、見に来るからです」
*
二日後、ゴダールは救護院へ現れた。
「いやはや、とんだ災難でしたな」
以前と同じように、勝手に椅子へ座る。
「三台とも焼かれたそうで。せっかく村から運ばせた麦も、味噌も、種豆も、全部灰になったとか」
私は彼を見た。
「種豆が積まれていたことを、どなたから?」
ゴダールの笑みが止まった。
荷の内容は、公表していない。
村と屋敷、護衛の騎士しか知らない。
「噂で聞いただけだ」
「三台だったことも?」
「町中で話題になっている」
「町へ流したのは、荷が襲われたという話だけです」
ゴダールの指が、椅子の肘掛けをつかむ。
「東の崖道は危険だ。三台も連ねれば、狙われて当然だろう」
「襲撃場所が東の崖道だったことも、公表していません」
沈黙が落ちた。
「謀ったな」
「確認しただけです」
隣室の扉が開く。
監察官と、捕らえられた賊の一人が入ってきた。
その後ろには、逃げていた倉庫番ボレルがいた。
両手を縛られている。
「ボレルは昨夜、東倉庫の帳簿を焼こうとして捕らえられました」
監察官が言った。
「帳簿には、襲撃前日に六人分の支払いが記録されている。名目は街道整備費。だが、金額は賊の証言と一致した」
「私は知らん!」
ゴダールが立ち上がる。
「部下が勝手に――」
「あなたの署名があります」
監察官が一枚の紙を広げた。
ゴダールの顔から、血の気が引く。
「蔵と商会の帳簿を、すべて検めます」
「ふざけるな。私は、この町を何十年支えてきたと思っている!」
初めて、彼の声に本当の怒りが混じった。
「大雪の年も、飢饉の年も、荷を運んだのは私だ! 村人も町人も、私がいなければ――」
「その功績があるから、何をしても許されると?」
私は尋ねた。
「功績?」
ゴダールが私を睨む。
「役立たずの夫に捨てられただけの女が、私を裁くつもりか」
「いいえ」
私は首を振った。
「あなたを裁くのは、王家です」
「では、お前は何をした」
「閉ざされていた道を、一つ開いただけです」
*
ゴダール商会の大蔵が開かれたのは、翌朝だった。
監察官、町の代表、村長たちが立ち会った。
重い扉が開く。
中には、穀物の袋が天井近くまで積み上がっていた。
村ごとの荷印が押されたままの豆。
品薄だと言われていた塩。
値上がりを待つために隠されていた油。
救護院で不足していた薬草まである。
「こんなに……」
町のパン屋の女主人が呟いた。
食料がなかったのではない。
高く売るために、出されなかったのだ。
村長が、自分の村の荷印へ手を触れた。
「これは、去年の麦だ」
買い叩かれ、村人が冬を越せずにいた頃のもの。
ゴダールはそれを売らずに貯め込み、品薄を作っていた。
人々の視線が、一斉に彼へ向く。
ゴダールは何も言わなかった。
もう、言葉で覆い隠せるものは残っていなかった。
*
ヴィクトル・ゴダールは、王都へ送られた。
街道襲撃の教唆。
村々への不当な買い叩き。
虚偽の品薄による価格操作。
領内の物流を利用した強要。
商会の営業権は取り上げられ、財産の多くは被害を受けた村と町への賠償に充てられた。
彼の商会が持っていた荷馬車や倉庫は、一つの商会へ渡さなかった。
町の運送組合。
村々の共同倉庫。
河港の商人。
複数の者へ分けて貸し出された。
一人を倒し、別の一人へすべてを渡せば、また同じことになる。
だから道を増やした。
選べる相手を増やした。
*
レナは、町の救護院で働くことになった。
同時に、週に一度、故郷へ薬を運んでいる。
「ここが、居場所になりましたか」
ある日、私が尋ねると、レナは少し考えた。
「まだ、分かりません」
以前なら、その答えを聞いて不安になったかもしれない。
「でも、行って帰ってこられる場所には、なりました」
レナはそう言って、笑った。
居場所は、最初から一つに決めなくてもいい。
帰れる道があれば、それでいいのかもしれない。
*
王家からの沙汰が届いたのは、秋の終わりだった。
私は正式に、この土地の領主代行を命じられた。
「おめでとうございます」
ルーク様が言う。
「不安そうな顔をしていますね」
「今までと違い、失敗した時に、誰かのせいにはできません」
「今までも、していなかったでしょう」
「これからは、なおさらです」
彼の左肩には、薄い傷痕が残っていた。
私がそこへ視線を向けると、ルーク様は困ったように笑う。
「もう痛みません」
「無理をした時は?」
「少しだけ」
「では、まだ治っていません」
「厳しい領主だ」
「領主代行です」
「いずれ同じになります」
ルーク様は、傷のない方の手を差し出した。
「領主になっても、何になっても。その隣が、俺の持ち場です」
私は、その手を取った。
「危険な持ち場ですよ」
「知っています」
*
冬が来る前、北の翼から流民たちの寝具が運び出された。
彼らは町や村に、それぞれの住まいを得ていた。
代わりに、魔物の季節へ備える騎士たちの寝台が並べられる。
冬は兵が眠る場所。
夏は行き場をなくした人々が、生き直す場所。
季節ごとに役目を変えながら、北の翼は誰かの明日を守っていく。
窓の外には、新しく直された街道が見えた。
村へ向かう荷車。
町へ入ってくる荷車。
同じ道を、行きと帰りの荷がすれ違っている。
私はかつて、白い結婚のためだけに用意された部屋の扉を開いた。
その一枚から、すべてが始まった。
使われていない部屋を開き。
閉ざされていた道を開き。
選ぶことを許されなかった人々に、もう一つの行き先を作った。
大きな政をしたつもりはない。
ただ、閉まっている扉を見つけるたびに、開けてきただけだ。
扉の向こうには、いつも誰かの明日があった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
白い結婚シリーズ第四作目投稿しました。
『白い結婚で捨てられた私は、愛する騎士を戦場へ送りました――最後の一人が帰るまで、門は閉じません』
正式な領主代行となったノエルのもとへ、魔物の大群襲来の報せが届く。
愛するルークを、自らの命令で戦場へ送り出したノエル。
砦を守るのか。
領民と守備兵を生かすのか。
そして、最後の後衛を率いるルークが戻らないまま、魔物は第二防衛線へ迫る。
「最後の一人が帰るまで、門は閉じません」
一度は置き去りにされたノエルが、今度は誰一人置き去りにしない物語です。
どうぞよろしくお願いいたします。




