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歴史解説 赤壁の戦いその2(全6回)

 ※これは別に連載中の小説『学園戦記三国志』の歴史解説回を独立・編集して掲載するものです。


↓学園戦記三国志リンク https://ncode.syosetu.com/n2756fp/


 三国志で最も有名な戦い、赤壁(せきへき)の戦い。前回は新たに荊州(けいしゅう)の主となった劉琮(りゅうそう)曹操(そうそう)に降伏したところまでを述べた。今回はまずはそれを受けての劉備(りゅうび)の動向から述べていこう。



 ◎劉備(りゅうび)樊城(はんじょう)撤退



 『劉備(りゅうび)(はん)に駐屯していたが、曹操(そうそう)の来攻を知らず、曹操(そうそう)(えん)に到着して初めてこれを知り、自分の軍勢を率いて(はん)を引き払った。途中、襄陽(じょうよう)を通過する時、軍師の孔明(こうめい)劉琮(りゅうそう)を攻撃すれば荊州(けいしゅう)を支配できると進言したが、劉備(りゅうび)は「私には忍びない」といって従わなかった。』[先主(せんしゅ)伝]


 孔明(こうめい)劉琮(りゅうそう)を攻撃すれば荊州(けいしゅう)を支配できるという発言は、安易として批判的な意見が多いが、劉琮(りゅうそう)後継と曹操(そうそう)降伏を、襄陽(じょうよう)にいる蔡瑁(さいぼう)ら一部の重臣たちのみで決定したのであれば、ある程度勝算のある判断だったのではないか。


 劉琮(りゅうそう)を廃しても劉琦(りゅうき)擁立(ようりつ)すれば、正統性を確保することができるし、襄陽(じょうよう)以南の荊州人(けいしゅうじん)劉琮(りゅうそう)後継、曹操(そうそう)降伏を知らない、もしくは承服していないなら蔡瑁(さいぼう)らさえ除けば、元々、対曹操(そうそう)戦で劉備(りゅうび)が中心となることは劉表(りゅうひょう)生前から決まっていたのだから支持を得ることも不可能ではない。


 問題は既に目前まで迫っていた曹操(そうそう)軍の到達が早いか、襄陽(じょうよう)占領が早いかという時間の問題だが、新野(しんや)にいる文聘(ぶんへい)を引き込むことができるのであれば、ある程度の時間稼ぎは可能だろう。


 だが、劉備(りゅうび)には劉表(りゅうひょう)に申し訳ないという気持ちもあっただろうが、やはり時間の無さが問題であったのだろう。


 襄陽(じょうよう)占領するには、少なくとも事前に劉琦(りゅうき)文聘(ぶんへい)の協力を得ておく必要がある。だが、文聘(ぶんへい)には既に劉琮(りゅうそう)から曹操(そうそう)軍と戦わないよう連絡がいっているだろうから、その上で自分に従うよう説得しなければならない。劉琦(りゅうき)が手許に入ればあるいは説得できるかもしれないが、劉琦(りゅうき)は遠く江夏(こうか)の地にいる。


 劉琦(りゅうき)のいる江夏郡(こうかぐん)まで連絡を取り合う時間、文聘(ぶんへい)を説得する時間を考えたら、やはり曹操(そうそう)襲撃前に襄陽(じょうよう)占領を完了するのは難しいと判断したのだろう。


 また、劉備(りゅうび)曹操(そうそう)襲来を劉琮(りゅうそう)に確認したやり取りが『漢魏春秋(かんしんしゅんじゅう)』にある。


 『劉琮(りゅうそう)曹操(そうそう)に降伏を()うたが、劉備(りゅうび)には知らせていなかった。劉備(りゅうび)はしばらくして気がつき、劉琮(りゅうそう)に尋ねた。劉琮(りゅうそう)宋忠(そうちゅう)(本編、ソウチュウ、63話より登場)を派遣して劉備(りゅうび)趣旨(しゅし)を説明させたが、既に曹操(そうそう)(えん)にいると知り、劉備(りゅうび)は驚いて宋忠(そうちゅう)を問いただした。「相談もせず、敵が目前に迫って知らせるのはあまりにもひどいではないか。」さらに宋忠(そうちゅう)に刀を突き付け、「今君の首を斬っても怒りは収まらない。それに君をここで斬るのは男として恥ずべきことだ」といって宋忠(そうちゅう)を帰した。』[先主(せんしゅ)伝]


 また『武帝紀(ぶていき)』には、9月、曹操(そうそう)新野(しんや)に到達すると劉琮(りゅうそう)は降伏したとあり、『劉表(りゅうひょう)伝』には、曹操(そうそう)の軍が襄陽(じょうよう)に到達すると、劉琮(りゅうそう)荊州(けいしゅう)を上げて降伏したとある。


 一見、劉琮(りゅうそう)の降伏時期がバラバラに見えるが、おそらく曹操(そうそう)率いる本隊が新野(しんや)に到達した時点で、張遼(ちょうりょう)らの先遣(せんけん)部隊が既に襄陽(じょうよう)に達していたのだろう。そう考えると劉備(りゅうび)曹操(そうそう)襲来を知った時点で曹操(そうそう)(えん)にいたのなら、その先遣部隊は既に新野(しんや)付近に到達していたのではないだろうか。


挿絵(By みてみん)


 なお、現代のGoogleマップの基準で申し訳ないが、(えん)(現南陽市宛城区なんようしえんじょうけん)から新野(しんや)(現南陽市新野県(なんようししんやけん))までが約62km、新野(しんや)から襄陽(じょうよう)(現襄陽市襄陽区じょうようしじょうようく)までが約67kmとそう距離は変わらない。(劉備(りゅうび)が駐留する(はん)襄陽(じょうよう)漢水(かんすい)(川の名前)を挟んで北隣に位置する)


 また、軍隊が一日に進む単位を一(しゃ)といい、これは三十里の距離である。これより速い行軍(ぎょうぐん)は補給部隊が追い付けなかったり、兵士に脱落者が出たりすることになる。一里は時代によって多少変わるのだが、(かん)代なら約415m、一(しゃ)は約12,4kmとなる。先ほどの距離に換算すると、(えん)から新野(しんや)までが約五日、新野(しんや)から襄陽(じょうよう)までが約五~六日の距離となる。


 これはあくまでも現代の道路事情からの換算なので当時はもう少しかかると思うが、それでもやはり時間はなく、劉備(りゅうび)(あせ)るのは当然と言えるだろう。


 曹操(そうそう)が後10日程で襄陽(じょうよう)に到達する距離にいると知り、さらに劉琮(りゅうそう)も降伏してしまった今、劉備(りゅうび)樊城(はんじょう)で抵抗することを(あきら)め、城を()てて逃走することを選んだ。


 『劉備(りゅうび)襄陽(じょうよう)を通過する時、劉琮(りゅうそう)に呼び掛けたが、劉琮(りゅうそう)は怖れて応じなかった。この時、劉琮(りゅうそう)の側近や荊州(けいしゅう)の人々の多くが劉備(りゅうび)に同行した。』[先主(せんしゅ)伝]


 『先主(せんしゅ)伝』注の『典略(てんりゃく)』によると、劉備(りゅうび)劉表(りゅうそう)の墓に別れを告げて立ち寄り、涙を流して去ったという。『水経注(すいけいちゅう)』によると、劉表(りゅうひょう)の墓は襄陽城(じょうようじょう)の東門の外二百歩(約276m)先にあったという。


 この時、劉琮(りゅうそう)の側近や荊州(けいしゅう)の人々の多くが劉備(りゅうび)に同行したとあるが、側近とは蔡瑁(さいぼう)らに同意できなかった者たちだろう。この時に同行したと思われる人物に伊籍(いせき)(本編、イセキ、63話より登場)らがいる。(この他、新野(しんや)襄陽(じょうよう)付近出身の劉備(りゅうび)家臣では、魏延(ぎえん)(本編未登場)・劉邕(りゅうよう)(本編未登場)・傅肜(ふゆう)(本編未登場)・霍峻(かくしゅん)(本編、カクシュン、63話より登場)・向朗(しょうろう)(本編、ショウロウ、74話より登場)・宗預(そうよ)(本編未登場)・輔匡(ほきょう)(本編未登場)・馮習(ふうしゅう)(本編未登場)らがいるが、(つか)えた時期が不明確なため名を挙げるだけに止める。※龐統(ほうとう)らこの地域出身者でも赤壁(せきへき)戦後に(つか)えたことが明言されている人物は省略する)



 ◎劉備(りゅうび)の逃走と荊州(けいしゅう)の民


 樊城(はんじょう)()て、南へと逃走した劉備(りゅうび)一行の様子を『先主(せんしゅ)伝』と『張飛(ちょうひ)伝』からまずは引用していこう。


 『劉備(りゅうび)一行が当陽(とうよう)に着いた頃には十余万の民衆、数千台の荷車が付き従い、一日の行程は十里余りしか進めなかった。別に関羽(かんう)に命じて数百(そう)の船に乗せ、江陵(こうりょう)にて落ち合うこととした。


 (中略)


 曹操(そうそう)江陵(こうりょう)軍需(ぐんじゅ)物資があることから、劉備(りゅうび)に占拠されることを怖れて、補給部隊を後方に放置し、一足先に襄陽(じょうよう)に到達した。曹操(そうそう)劉備(りゅうび)が既に襄陽(じょうよう)を通過したと知ると、精鋭の騎兵五千を率いて急いで追撃し、一昼夜に三百余里の行程を駆けて当陽(とうよう)長坂(ちょうはん)で追い付いた。』[先主(せんしゅ)伝]


 『劉表(りゅうひょう)が死ぬと、曹操(そうそう)荊州(けいしゅう)に侵攻してきたので、劉備(りゅうび)江南(こうなん)へ逃走した。曹操(そうそう)はこれを追撃すること一昼夜、当陽(とうよう)長坂(ちょうはん)にて追い付かれた。』[張飛(ちょうひ)伝]


 樊城(はんじょう)を棄てた劉備(りゅうび)一行は南郡(なんぐん)南部の都市・江陵(こうりょう)を目指すが、行く先々で民衆を吸収し、行軍は遅れに遅れ、行程の途中、当陽県長坂とうようけんちょうはんにて曹操(そうそう)軍に追い付かれてしまう。


 当陽県長坂とうようけんちょうはん(現当陽市長坂坡とうようしちょうはんは)は襄陽(じょうよう)より南へ、Googleマップの現代道路事情だと約170km先にある地点。


 これを曹操(そうそう)劉備(りゅうび)を追撃するために補給部隊を切り離し、騎兵のみの部隊で三百余里という速さで追撃する。先程算出した速さで計測するなら三百里は約124km、三百“余”なのでこれより幾分(いくぶん)か速いスピードで追いかけたことになり、襄陽(じょうよう)から当陽(とうよう)までを一日半程度で駆け抜けたことになる。『張飛(ちょうひ)伝』に曹操(そうそう)軍は一昼夜(原文『一日一夜』)で当陽(とうよう)長坂(ちょうはん)で追い付いたとあるが、この速度が事実なら『張飛(ちょうひ)伝』の記述も決して誇張(こちょう)ではないことになる。


 対して劉備(りゅうび)一行の移動速度は一日に十里余りとある。これでは日に四、五km程度しか進めておらず、長阪(ちょうはん)に着くには一月以上かかってしまい、曹操(そうそう)軍の移動速度と計算が合わない。おそらく、劉備(りゅうび)一行は行く先々で徐々に民衆を吸収し、移動速度を落としていき、最終的に日に十里余りまで減速してしまったのだろう。


 通常の行軍速度なら長坂(ちょうはん)まで約十四日程度、これより少し遅いぐらいだろうか。曹操(そうそう)の移動が(えん)から襄陽(じょうよう)まで約十日程度+劉琮(りゅうそう)らとの面会時間+襄陽(じょうよう)から当陽(とうよう)まで約一日から二日程度と考えると、合計日数が劉備(りゅうび)とかなり近くなる。なので、長坂(ちょうはん)の戦いは劉備(りゅうび)(はん)より逃走して約十数日後の出来事であったのだろう。



 ◎曹操(そうそう)の計画、劉備(りゅうび)の計画



 曹操(そうそう)襄陽(じょうよう)に軍隊の大多数を待機させているとはいえ、ほぼ通り過ぎる形で劉備(りゅうび)討伐を優先させた。劉琮(りゅうそう)は降伏したが、その真意は未だ不明で、事実、『劉表(りゅうひょう)伝』注の『漢晋春秋(かんしんしゅんじゅう)』によると、王威(おうい)(本編、オウイ、63話より登場)という者が劉琮(りゅうそう)に、今なら曹操(そうそう)も油断しているから捕虜にできると進言している。この意見を劉琮(りゅうそう)は採用しなかったが、降伏に納得できない者がまだ襄陽(じょうよう)に潜んでいる状況であった。


 その状況でも曹操(そうそう)劉備(りゅうび)討伐を優先させたのは、劉備(りゅうび)自体が油断ならない梟雄(きょうゆう)と考えていたこともあるだろうが、もう1つの理由として、『先主(せんしゅ)伝』には劉備(りゅうび)が目指した江陵(こうりょう)軍需(ぐんじゅ)物資があることから、占領されないように急いだとある。


 つまり、曹操(そうそう)にとって戦場が江陵(こうりょう)に移るのは想定外の事態であり、さらに言えば劉琮(りゅうそう)の降伏自体も想定外であった可能性がある。


 しかし、この江陵(こうりょう)にある軍需(ぐんじゅ)物資とはなんだろうか。そもそも劉表(りゅうひょう)曹操(そうそう)と決戦するつもりだったのだから、襄陽(じょうよう)にも武器や食糧はある程度確保されていた可能性が高い。今更劉備(りゅうび)江陵(こうりょう)()もり、武器・食糧を得たところで、曹操(そうそう)に対して逆転するのは難しい。それでも江陵(こうりょう)を目指したのはそれ以上のものがあったのではないだろうか。


 考えるに、江陵(こうりょう)に豊富にあった軍需(ぐんじゅ)物資とはつまり、船だったのではないだろうか。


 ここで荊州(けいしゅう)の地理を少し整理しよう。荊州南郡(けいしゅうなんぐん)の北部にある都市が襄陽(じょうよう)で、ここを劉表(りゅうひょう)は拠点(州治(しゅうち)、州の庁舎(ちょうしゃ)がある都市)としていた。同郡南部にある都市が江陵(こうりょう)で、南郡(なんぐん)郡治(ぐんち)(現代でいう県庁所在地)はこちらである。


 そして襄陽(じょうよう)の北部から東部に沿うように漢水(かんすい)(沔水(べんすい)漢江(かんこう)とも、川の名前)が流れる一方、江陵(こうりょう)の南側には中国最長の河川・長江(ちょうこう)が西から東へと流れている。なお、漢水(かんすい)はそのまま南へ流れるが、当陽県(とうようけん)辺りで東へと()れ、東隣の江夏郡(こうかぐん)内にて長江(ちょうこう)と合流する。


 つまり、大船団を停泊させるなら、襄陽(じょうよう)よりも江陵(こうりょう)の方が適している。


 また、この時、劉備(りゅうび)軍の関羽(かんう)が別行動を取り、水上ルートを移動している。


 『劉備(りゅうび)(はん)より南下して長江(ちょうこう)を渡る計画をたて、関羽(かんう)には別に数百(そう)の船を率いさせ、江陵(こうりょう)で落ち合うこととした。』[関羽(かんう)伝]


 この時、関羽(かんう)が使った数百(そう)の船とは、本来、襄陽(じょうよう)戦で使われるはずだったものではないだろうか。


 一方、荊州(けいしゅう)の水軍について()の武将・周瑜(しゅうゆ)は後に曹操(そうそう)と開戦するにあたって、『「今、曹操(そうそう)荊州(けいしゅう)をそっくり手に入れてしまった。劉表(りゅうひょう)が整備した水軍は、蒙衝(もうしょう)(駆逐艦(くちくかん))、闘艦(とうかん)(戦艦(せんかん))が数千という数に上っていた」』と述べている。[周瑜(しゅうゆ)伝]


 数千という数は誇張(こちょう)があるかもしれないが、関羽(かんう)が率いてた水軍が数百(そう)であり、数が合わない。また、この水軍は関羽(かんう)が率いているのであるから曹操(そうそう)の手に渡ってはいない。そして、関羽(かんう)襄陽(じょうよう)の船を手に入れたのなら、わざわざ曹操(そうそう)のために数千もの船を残していったりはしないだろう。つまり、後に曹操(そうそう)が手に入れることになる数千の船がまだ荊州(けいしゅう)に残っている。そして、それは長江(ちょうこう)に面した江陵(こうりょう)にあったのではないだろうか。


 だから、その江陵(こうりょう)まで劉備(りゅうび)に占領されてしまうと、襄陽(じょうよう)の船は既に関羽(かんう)に奪われているので、曹操(そうそう)の元に船が全くない状況となる。


 ここで一つ疑問なのが、果たして曹操(そうそう)は水軍を保有していなかったのかということだ。『演義(えんぎ)』をはじめ多くの三国志物語では曹操(そうそう)荊州(けいしゅう)水軍を手に入れ、それをもって赤壁(せきへき)の戦いに挑んでいる。


 まるで曹操(そうそう)の水軍は荊州(けいしゅう)水軍を得て、初めて配備されたような描写だが、曹操(そうそう)はこの年(208年)の正月に鄴城(ぎょうじょう)郊外(こうがい)玄武池(げんぶち)にて水軍の訓練を行っている。荊州(けいしゅう)征伐に備えて水軍の訓練をしたのに、その水軍の当てが荊州(けいしゅう)水軍を奪うこと前提なのはおかしいのではないだろうか。水軍の訓練をしたのなら、当然、その訓練した自前の曹操(そうそう)水軍があったはずである。


 これより先の出来事ではあるが、『先主(せんしゅ)伝』には以下の記述がある。


 『劉備(りゅうび)孔明(こうめい)()に送り出し、その援軍を待っていた頃、劉備(りゅうび)の元に孫権(そんけん)からの援軍の船が来たと警備の者が知らせに来た。劉備(りゅうび)は「なぜ、青州(せいしゅう)徐州(じょしゅう)の軍ではないとわかったのか?」と尋ねると、警備の者は「船を見てわかりました」と答えた。』[先主(せんしゅ)伝]


 青州(せいしゅう)徐州(じょしゅう)とは曹操(そうそう)領東部に位置し、東シナ海に面した州である。


 これは本文ではなく、()からみた記録である『江表伝(こうひょうでん)』の記述だが、この時の劉備(りゅうび)の言葉から、青州(せいしゅう)徐州(じょしゅう)から、曹操(そうそう)水軍が攻めてくる可能性があったことがわかる。


 つまり、曹操(そうそう)水軍は青州(せいしゅう)徐州(じょしゅう)の湾岸に配備されており、そこから長江(ちょうこう)へ侵入し、遡上(そじょう)して荊州(けいしゅう)に攻めこむ算段だったのではないだろうか。


 だが、長江(ちょうこう)へ侵入してもその支流の漢水(かんすい)に面した襄陽(じょうよう)にたどり着く前に、江夏(こうか)荊州(けいしゅう)水軍に止められてしまう。停泊地を確保せずに長江(ちょうこう)遡上(そじょう)しても敵領内で孤立するだけである。なので曹操(そうそう)水軍が出発するのは、襄陽(じょうよう)攻略後、陸上部隊が江夏(こうか)江陵(こうりょう)攻略に乗り出し、長江(ちょうこう)沿岸にその停泊地点を確保する目処(めど)が立った頃、つまり、作戦として第二段階に以降した時だったのではないだろうか。


 これらを整理すると、曹操(そうそう)が当初、荊州(けいしゅう)征伐において想定していた戦闘は、新野(しんや)(はん)襄陽(じょうよう)での籠城(ろうじょう)戦、もしくはその手前の平地にての荊州(けいしゅう)軍との会戦、これが想定される計画の第一段階。


 そして第二段階として、それら城市の攻略後、陸上部隊は江夏(こうか)江陵(こうりょう)等の長江(ちょうこう)沿岸都市へ侵攻。これに並行して青州(せいしゅう)徐州(じょしゅう)で待機させている水軍を出発させる、というものだったのではないだろうか。


 だが、現実には劉表(りゅうひょう)が死に、後を継いだ劉琮(りゅうそう)曹操(そうそう)に降伏し、あっけなく襄陽(じょうよう)陥落(かんらく)。ここまでは良かったが、劉備(りゅうび)(はん)()てて江陵(こうりょう)へ逃走してしまう。つまり、ここで劉備(りゅうび)江陵(こうりょう)を押さえてしまうと、曹操(そうそう)の当初想定していた第一段階をすっ飛ばして、第二段階へ以降する事態になってしまった。


 そして、江陵(こうりょう)以南は長江(ちょうこう)によって(さえぎ)られており、渡るには船が必要となる。だが、襄陽(じょうよう)の船は既に関羽(かんう)に奪われ、江陵(こうりょう)まで劉備(りゅうび)に押さえられては、曹操(そうそう)軍に長江(ちょうこう)を渡る手段がない。それから青州(せいしゅう)徐州(じょしゅう)より水軍を呼び寄せても到着まで日数を要する。その間、長江(ちょうこう)以南の荊州(けいしゅう)南部の地域は劉備(りゅうび)の自由となり、曹操(そうそう)の元に船が到着した頃には荊州(けいしゅう)南部は劉備(りゅうび)要塞(ようさい)と化すこともあり得た。


 だから、曹操(そうそう)劉備(りゅうび)江陵(こうりょう)に走ったことを知ると急いで追撃したのだろう。実際に曹操(そうそう)劉表(りゅうひょう)の容態や劉琮(りゅうそう)の降伏について、どこまで事前に情報を得ていたかは不明だが、この時の劉備(りゅうび)の動きは曹操(そうそう)の予想を上回り、驚嘆(きょうたん)させるものであった。劉備(りゅうび)に対して後手に回ってしまったのは、曹操(そうそう)と降伏を勧めた襄陽(じょうよう)劉表(りゅうひょう)家臣との連携が決して密でなかったことを示している。


 そう考えると、孔明(こうめい)曹操(そうそう)の襲来を知り、劉備(りゅうび)に提案した襄陽(じょうよう)を占領しようという策も、孔明(こうめい)なりに勝算はあったであろうが、曹操(そうそう)が想定する荊州(けいしゅう)征伐の第一段階の範囲に収まっており、曹操(そうそう)をここまで狼狽(うろた)えさせることは出来なかったであろう。


 さて、ここで劉備(りゅうび)に視点を移してみよう。既に劉備(りゅうび)の作戦はある程度説明してしまったが、これらをまとめると、関羽(かんう)襄陽(じょうよう)の船数百(そう)を奪わせ、南下。自身は陸路で江陵(こうりょう)を占領。


 さらに長坂(ちょうはん)の戦いの後であるが、劉備(りゅうび)関羽(かんう)と合流後、すぐに江夏(こうか)劉琦(りゅうき)とも合流している。


 『劉備(りゅうび)漢津(かんしん)関羽(かんう)の船団と合流したので、漢水(かんすい)を渡ることができた。そこで劉表(りゅうひょう)の長子・劉琦(りゅうき)とその軍勢一万余と出会い、ともに夏口(かこう)へと移った。』[先主(せんしゅ)伝]


 この場所での合流はおそらく偶然ではないだろう。また、劉備(りゅうび)劉琦(りゅうき)とともに夏口(かこう)(江夏郡(こうかぐん)の都市、先代江夏郡太守(こうかぐんたいしゅ)黄祖(こうそ)の代よりここを江夏郡(こうかぐん)の拠点としていた)へ移ったのだから、劉備(りゅうび)劉琦(りゅうき)の拠点を訪ねたのではなく、劉琦(りゅうき)劉備(りゅうび)を出迎える形となっている。つまり、劉備(りゅうび)は逃走に先立ち、江夏(こうか)劉琦(りゅうき)とも連絡を取っていた。そして、江夏郡(こうかぐん)にも水軍があることは、先代江夏郡太守(こうかぐんたいしゅ)黄祖(こうそ)孫権(そんけん)の戦いで水軍が登場していることからも確認できる。


 おそらく、荊州(けいしゅう)水軍は、襄陽(じょうよう)江夏(こうか)江陵(こうりょう)(江陵(こうりょう)が最大か?)の三都市が主な拠点であったのだろう。そして、劉備(りゅうび)の策は襄陽(じょうよう)の水軍を関羽(かんう)に奪わせ、江夏(こうか)劉琦(りゅうき)と連携し、自身は江陵(こうりょう)を押さえ、その三都市の水軍を江陵(こうりょう)に結集させ、曹操(そうそう)を迎え撃つというものだったのではないだろうか。


 そして、曹操(そうそう)に水軍はない、もしくはすぐ用意できないという状況だ。だから、劉備(りゅうび)は無理に江陵(こうりょう)を守る必要もない。船さえ手に入れば、長江(ちょうこう)という防壁を使い、長江(ちょうこう)以南の荊州(けいしゅう)南部を拠点に曹操(そうそう)に対抗することもできる。実際、赤壁(せきへき)の戦い後、劉備(りゅうび)は短期間で荊州(けいしゅう)南部の四郡を攻略しており、曹操(そうそう)の水軍が荊州(けいしゅう)に到着するまでに荊州(けいしゅう)南部を攻略することも不可能ではなかったのだろう。


 だが、曹操(そうそう)の日に三百余里という速さの追撃に、劉備(りゅうび)江陵(こうりょう)に着く前に急襲され、この劉備(りゅうび)の計画は(つい)えてしまった。


 『ある人が劉備(りゅうび)に「(民衆を見捨てて)すぐに江陵(こうりょう)に向かうべきです。このまま曹操(そうそう)軍の襲撃を受けたら太刀打ち出来ません」と言ったが、劉備(りゅうび)は「そもそも大事を成し遂げるためには必ず人を基とする。今、人々が私に身を寄せてくれているのに、見捨てて去ることはできない」と言って退(しりぞ)けた。』[先主(せんしゅ)伝]


 荊州(けいしゅう)の民衆を吸収し、遅々(ちち)と進む劉備(りゅうび)に対し、ある人は民衆を見捨てて、すぐに江陵(こうりょう)を占領すべきと進言した。それに対する劉備(りゅうび)の「大事を成すためには人をもって基とする~」は有名な言葉で、『演義(えんぎ)』にも採用されている。


 これにより劉備(りゅうび)長坂(ちょうはん)にて曹操(そうそう)軍と戦闘となる。



 ◎長坂(ちょうはん)の戦い



挿絵(By みてみん)


 『劉備(りゅうび)曹操(そうそう)当陽(とうよう)長坂(ちょうはん)で追い付かれると、妻子を棄てて、孔明(こうめい)張飛(ちょうひ)趙雲(ちょううん)ら数十騎とともに逃走した。曹操(そうそう)劉備(りゅうび)の連れていた民衆や物資を多数捕獲した。』[先主(せんしゅ)伝]


 『曹純(そうじゅん)曹操(そうそう)のお供で荊州(けいしゅう)征伐に赴き、文聘(ぶんへい)とともに劉備(りゅうび)を追撃し、彼の二人の娘を捕虜と、物資を捕獲し、敗残兵を手に入れた。進撃して江陵(こうりょう)を降伏させた。』[曹純(そうじゅん)伝、文聘(ぶんへい)伝]


 当陽県(とうようけん)長坂(ちょうはん)にて起きた戦闘で、劉備(りゅうび)は敗北、曹操(そうそう)劉備(りゅうび)の娘をはじめ、多くの捕虜を得た。なお、この時捕虜となった劉備の娘のその後について記述はない。


 他に劉備(りゅうび)の息子・阿斗(あと)(幼名、後の劉禅(りゅうぜん))とその母・甘夫人(かんふじん)(本編未登場)も敵の中に取り残されることとなったが、劉備(りゅうび)の将・趙雲(ちょううん)が救い出している。


 『劉備(りゅうび)曹操(そうそう)当陽(とうよう)長坂(ちょうはん)にて追撃されると、妻子を()てて南へと逃走した。趙雲(ちょううん)は身に幼子、後の劉禅(りゅうぜん)を抱き、その母の甘夫人(かんふじん)を保護し、二人を守って危機を脱した。この時、趙雲(ちょううん)劉備(りゅうび)の妻子を助けるために北に向かったのを見て、ある者が趙雲(ちょううん)曹操(そうそう)に投降したと言った。劉備(りゅうび)はその者を手戟(しゅげき)で打ち、「子龍(しりゅう)(趙雲(ちょううん)(あざな))が私を見捨てて逃げたりはしない」と言った。ほどなく趙雲(ちょううん)劉備(りゅうび)の元に妻子を連れて帰ってきた。』[趙雲(ちょううん)伝注趙雲(ちょううん)別伝]


 また、この戦いで劉備(りゅうび)の配下・徐庶(じょしょ)劉備(りゅうび)の元を去ることとなった。


 『孔明(こうめい)徐庶(じょしょ)劉備(りゅうび)随行(ずいこう)していたが、曹操(そうそう)の追撃を受けると、徐庶(じょしょ)の母が捕虜となった。徐庶(じょしょ)劉備(りゅうび)に別れを告げ、その胸を指して「元々、劉備(りゅうび)様とともに王業、覇業を行うつもりだったのはこの心においてでした。今、母を失い心は乱れて、役に立ちません。これでお別れです」と言い、曹操(そうそう)の元に赴いた。』[諸葛亮(しょかつりょう)伝]


 また、一説によると、この時の捕虜となった荊州(けいしゅう)民の中に後に()の将軍となり(しょく)と戦うことになる鄧艾(とうがい)(本編未登場)が含まれていたという。


 『鄧艾(とうがい)義陽郡棘陽県ぎようぐんきょくようけんの人。幼くして父を亡くした。曹操(そうそう)荊州(けいしゅう)を征伐した時、汝南(じょなん)に移住し、農民のために子牛を育てる役についた。』[鄧艾(とうがい)伝]


 義陽郡(ぎようぐん)南陽郡(なんようぐん)の一部を割いて一時期置かれていた郡。その含まれる範囲は正確には不明だが、劉備(りゅうび)が最初、駐屯していた新野(しんや)を含む一帯であったようだ。棘陽県(きょくようけん)新野(しんや)の北、曹操(そうそう)のいる(えん)の南で、その間に位置する。


 鄧艾(とうがい)の正確な年齢は不明だが、長坂(ちょうはん)の戦いの頃はおそらく十歳前後。幼い頃に亡くなった父の死因は不明だが、あるいはこの長坂(ちょうはん)で亡くなったのかもしれない。


 その後の彼の人生は、曹操(そうそう)のこの戦いで捕虜となった者への扱いの一例という見方もできる。彼は汝南(じょなん)に移住し、子牛を育てる役についたという。また、注の『世語(せご)』によると、十二、三歳の頃に襄城典農部民じょうじょうてんのうぶみん(予州穎川郡襄城県よしゅうえいせんぐんじょうじょうけん屯田(とんでん)の労働民)となったという。おそらく他の捕虜の多くも牧畜や屯田(とんでん)の労働に(たずさ)わることになったのではないだろうか。


 曹操(そうそう)の攻撃は荊州(けいしゅう)の民衆を蹴散(けち)らし、劉備(りゅうび)の妻子やその家臣の家族にまで及び、多くの犠牲を出すこととなった。


 だが、劉備(りゅうび)の将・張飛(ちょうひ)の活躍により食い止められ、劉備(りゅうび)らは危機を脱することが出来た。


 『劉備(りゅうび)曹操(そうそう)の襲撃を受けると、妻子を棄てて逃走し、張飛(ちょうひ)に二十騎を預けて背後を防がせた。張飛(ちょうひ)は川を(たて)に橋を切り落とし、目をいからせ、(ほこ)を構えて、「俺は張益徳(ちょうえきとく)(益徳(えきとく)張飛(ちょうひ)(あざな))だ。ともに決死の覚悟で戦おう」と叫び、誰も思いきって近付こうとはせず、これによって劉備(りゅうび)は助かった。』[張飛(ちょうひ)伝]


 劉備(りゅうび)曹操(そうそう)の攻撃から逃れたが、江陵(こうりょう)は先に占領され、その計画は頓挫(とんざ)することとなった。


 ここで劉備(りゅうび)の作戦を転換、江陵(こうりょう)(あきら)め、東進し、漢津(かんしん)((しん)とは船の渡し場のこと)に赴き、その地にいた関羽(かんう)、さらに劉琦(りゅうき)とも合流した。


 『劉備(りゅうび)漢津(かんしん)へと逃れ、そこでちょうど関羽(かんう)の船団と合流したので、漢水(かんすい)を渡ることができた。そこで劉表(りゅうひょう)の長子・劉琦(りゅうき)とその軍勢一万余と出会い、ともに夏口(かこう)へと移った。』[先主(せんしゅ)伝]


 『劉備(りゅうび)曹操(そうそう)の追撃にあうと、脇道に逃れて漢津(かんしん)に行き、そこでちょうど関羽(かんう)の船団と出会い、ともに夏口(かこう)に到着した。』[関羽(かんう)伝]


 この時、たまたま漢津(かんしん)関羽(かんう)がいたため合流することができたという。だが、この時の関羽(かんう)は船で移動しているのに、その速さは日に十里余りの劉備(りゅうび)軍と同程度かより遅いことになる。


 考えられるのは、一に、関羽(かんう)の乗る襄陽(じょうよう)の船は本来、劉琮(りゅうそう)の指揮下にあり、それを奪取するのに時間がかかってしまった。


 二に、劉琦(りゅうき)と合流するために漢津(かんしん)に停泊して待っていた。


 関羽(かんう)の合流とほぼ同時期に劉琦(りゅうき)とも合流していることを考えると、二(もしくは両方)の可能性は十分にある。もしかしたら、最初から関羽(かんう)はこの漢津(かんしん)劉琦(りゅうき)と合流する計画になっており、だから、劉備(りゅうび)関羽(かんう)らと合流できる可能性が高いと判断して漢津(かんしん)を目指したのかもしれない。



 ◎劉備(りゅうび)の進路



 また、劉備(りゅうび)漢津(かんしん)に赴く前、長坂(ちょうはん)にて孫権(そんけん)の臣・魯粛(ろしゅく)とも合流している。


 『魯粛(ろしゅく)夏口(かこう)まで来たところで、曹操(そうそう)は既に荊州(けいしゅう)に向かったと知り、昼夜兼行で急いだ。南郡(なんぐん)到着時に、劉琮(りゅうそう)が降伏し、劉備(りゅうび)長江(ちょうこう)を渡って南へ行こうとしていると知り、魯粛(ろしゅく)劉備(りゅうび)の元へ駆け、当陽(とうよう)長坂(ちょうはん)で面会した。』[魯粛(ろしゅく)伝]


 魯粛(ろしゅく)孫権(そんけん)より元々、劉表(りゅうひょう)弔問(ちょうもん)の使者という名目で劉琦(りゅうき)劉琮(りゅうそう)の元へ派遣された。劉琮(りゅうそう)が降伏し、劉備(りゅうび)が逃走すると迷わず劉備(りゅうび)の元に行ったのは魯粛(ろしゅく)自身の判断だろう。


 また、注の『江表伝(こうひょうでん)』によると、魯粛(ろしゅく)劉備(りゅうび)に対し「どちらに向かわれるつもりか」と問うと、劉備(りゅうび)は「蒼梧太守(そうごたいしゅ)呉巨(ごきょ)(本編、ゴキョ、63話より登場)と昔馴染みなので、そちらに行くつもりだ」と返している。


 蒼梧郡(そうごぐん)荊州(けいしゅう)のさらに南にある交州(こうしゅう)に属す郡である。かつて劉表(りゅうひょう)は、蒼梧太守(そうごたいしゅ)史璜(しこう)(本編未登場)が亡くなると代わりの蒼梧太守(そうごたいしゅ)として呉巨(ごきょ)を派遣し、後に交州刺史(こうしゅうしし)張津(ちょうしん)(本編未登場)が亡くなると、代わりの交州刺史(こうしゅうしし)として頼恭(らいきょう)(本編、ライキョウ、63話より登場)を派遣して、交州(こうしゅう)支配を目論んだ。[士燮(ししょう)伝]


 劉備(りゅうび)荊州(けいしゅう)にいた頃の呉巨(ごきょ)と交流があったのだろう。劉備(りゅうび)長江(ちょうこう)を越え、荊州(けいしゅう)を通り過ぎ、遠く交州(こうしゅう)の地へ向かう予定であった。


 では、なぜ、逃走先に交州(こうしゅう)を選んだのか。話は劉備(りゅうび)孔明(こうめい)を三度訪ね、隆中(りゅうちゅう)にて聞いた天下三分の計にまで(さかのぼ)る。


 孔明(こうめい)劉備(りゅうび)漢王朝(かんおうちょう)を建て直す策を(たず)ねられ、その回答として天下三分の計を話したが、その内容の中で荊州(けいしゅう)を根拠地とする利点をこう語っている。


 『「荊州(けいしゅう)は北は漢水(かんすい)()り、“利益は南海(なんかい)に達し”、東は()に連なり、西は巴蜀(はしょく)に通じ、これは武を用いるべき国…」』[諸葛亮(しょかつりょう)伝]


 ここに出てくる南海(なんかい)とは交州(こうしゅう)の郡の名だが、時に交州(こうしゅう)地域一帯を指す言葉としても使われる。交州(こうしゅう)は東南アジアに接し(交州(こうしゅう)自体が現ベトナムの北部を含む)、真珠(しんじゅ)翡翠(ひすい)象牙(ぞうげ)、バナナといった貴重な品々が得られた。


 『建初(けんしょ)八年(西暦83年)、交州(こうしゅう)からの献上品は揚州会稽郡ようしゅうかいけいぐんを経由する海路で運んでいたが、波風に(はば)まれ、危険な旅であった。そこで当時の大司農(だいしのう)鄭弘(ていこう)(本編未登場)は荊州(けいしゅう)零陵(れいりょう)桂陽郡(けいようぐん)に道を作ることを献策し、これを通した。』[『後漢書(ごかんじょ)鄭弘(ていこう)伝]


 荊州(けいしゅう)交州(こうしゅう)の間に道が通って百二十年余り、その経済的効果は無視できないものとなっていたのだろう。


 孔明(こうめい)は天下三分の計にて、荊州(けいしゅう)の経済力は交州(こうしゅう)まで支配下においてはじめて発揮されるものであることを指摘している。


 つまり、劉備(りゅうび)交州(こうしゅう)へ赴くのは天下三分の計に沿()った策であり、彼は曹操(そうそう)に敗れはしたが、まだ天下三分を諦めてはいなかったのではないだろうか。


 ここで劉備(りゅうび)曹操(そうそう)から逃げ切り、交州(こうしゅう)までたどり着いたと仮定する。曹操(そうそう)のこの度の侵攻はあくまでも荊州(けいしゅう)の征服が目的であり、交州(こうしゅう)まで遠征する用意はない。また、いつまでも許都(きょと)を留守にするわけにはいかず、交州(こうしゅう)まで本格的な遠征をすることなく、一度帰還する可能性が高いのではないだろうか。


 劉備(りゅうび)曹操(そうそう)荊州(けいしゅう)よりいなくなったところを狙い北上。荊州(けいしゅう)を占領し、さらに益州(えきしゅう)まで駒を進めることができれば、天下三分の計を実現させることができる。そこまで上手くことが運ばないにしても、後数年(ねば)った可能性は高かったのではないだろうか。


 だが、劉備(りゅうび)の元に魯粛(ろしゅく)がやって来て話を聞いた結果、彼は交州(こうしゅう)呉巨(ごきょ)を頼るのではなく、揚州(ようしゅう)孫権(そんけん)と手を組む道を選んだ。


 劉備(りゅうび)交州(こうしゅう)逃走にも問題点がある。


 まず、第一に呉巨(ごきょ)らの協力が得られるかということ。この時点で劉備(りゅうび)呉巨(ごきょ)らとどの程度密に連絡を取っていたかは不明だが、荊州(けいしゅう)陥落(かんらく)し、交州(こうしゅう)(実際の呉巨(ごきょ)らの支配地域はその一部)単独で曹操(そうそう)に挑まなければいけない。劉備(りゅうび)には目算があっただろうが、呉巨(ごきょ)らがこれに乗り、曹操(そうそう)と対立する道を選ぶのか不明だということである。


 第二に、曹操(そうそう)劉備(りゅうび)征伐を諦めるかということ。曹操(そうそう)荊州(けいしゅう)を占領した今、表向き対立している勢力は劉備(りゅうび)ぐらいであった。漢中(かんちゅう)張魯(ちょうろ)(本編、チョウロ、15話名のみ登場)等従わない者もいるにはいるが、益州(えきしゅう)劉璋(りゅうしょう)(本編、リュウショウ、41話名のみ登場)や揚州(ようしゅう)孫権(そんけん)等主だった勢力が恭順(きょうじゅん)の姿勢を見せている今、劉備(りゅうび)さえ倒せば一応の天下統一の体裁を整えることができる。その状況なら曹操(そうそう)交州(こうしゅう)まで無理な遠征をしてでも劉備(りゅうび)を討つ可能性はないわけではなかった。何より、交州(こうしゅう)まで無事にたどり着ける保証もない。


 そこで劉備(りゅうび)魯粛(ろしゅく)の提案に乗り、孫権(そんけん)と手を組む道を選んだのであろう。


 だが、それはつまり曹操(そうそう)との直接対決を意味していた。

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