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三国志 歴史解説  作者: トベ・イツキ


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歴史解説 赤壁の戦いその3(全6回)

 ※これは別に連載中の小説『学園戦記三国志』の歴史解説回を独立・編集して掲載するものです。


↓学園戦記三国志リンク https://ncode.syosetu.com/n2756fp/




 前回は劉備(りゅうび)が長坂(ちょうはん)で曹操(そうそう)に敗れ、逃走のなか、魯粛(ろしゅく)の提案を受けて、孫権(そんけん)を頼る道を選んだところまで述べた。今回はその孫権(そんけん)と彼の江東政権について述べていこうと思う。



 ◎孫権(そんけん)陣営の赤壁(せきへき)前夜


 『呉(ご)の孫権(そんけん)から派遣された魯粛(ろしゅく)は当陽(とうよう)にて劉備(りゅうび)と合流した。呉巨(ごきょ)を頼り、交州(こうしゅう)に赴こうとする劉備(りゅうび)に対し、魯粛(ろしゅく)は「孫権(そんけん)様は聡明にして人徳があり、六郡を支配し、軍は精鋭で食糧も豊富で、大業を打ち立てるに充分です。劉備(りゅうび)様は腹心を遣(つか)わし、呉(ご)と同盟を結び、共に大業を成し遂げることが最良です。それに頼ろうとしている呉巨(ごきょ)は平凡な男で、僻地(へきち)におり、いずれ誰かに併呑(へいどん)されるでしょう」と述べ、呉(ご)との同盟を勧めた。』[先主(ごしゅ)伝]


 なお、余談ながら、呉巨(ごきょ)はこの二年後の210年、孫権(そんけん)の部下・歩隲(ほしつ)(本編未登場)に斬られ、交州(こうしゅう)は徐々に孫権(そんけん)の支配下へと入っていくこととなる。[士燮(ししょう)伝、歩隲(ほしつ)伝]


 魯粛(ろしゅく)がこの時、呉巨(ごきょ)はいずれ誰かに併呑(へいどん)されると述べたが、結局、孫権(そんけん)によって併合されることとなった。


 『また、魯粛(ろしゅく)は孔明(こうめい)に対して、「私はあなたの兄の諸葛瑾(しょかつきん)(本編、ショカツキン、87話より登場)殿と友人です」と述べて交流した。孔明(こうめい)は劉備(りゅうび)に「事態は切迫しております。私は孫権(そんけん)様に救援を求めたいと思います」と述べ、劉備(りゅうび)はこれを承知し、顎県(がくけん)にたどり着くと、孔明(こうめい)と魯粛(ろしゅく)を呉(ご)へ送り出し、自身は樊口(はんこう)に駐留した。』[先主(せんしゅ)伝、諸葛亮(しょかつりょう)伝、魯粛(ろしゅく)伝]


 孔明(こうめい)の兄・諸葛瑾(しょかつきん)と魯粛(ろしゅく)は孫権(そんけん)に代替わりした頃に仕えた。また二人とも徐州(じょしゅう)の出身である。諸葛瑾(しょかつきん)は戦乱を避けて江東(こうとう)に移住し、後に孫権(そんけん)に仕えた。魯粛(ろしゅく)もまた親交のあった周瑜(しゅうゆ)を頼って江東(こうとう)に赴き、後に周瑜(しゅうゆ)の勧めで孫権(そんけん)に仕えた。年齢は魯粛(ろしゅく)の方が2歳年長になる。(この時、魯粛(ろしゅく)37歳、諸葛瑾(しょかつきん)35歳、孔明(こうめい)28歳)立場も境遇も年齢も近かったから二人は親しくしていたのだろう。


挿絵(By みてみん)


 顎県(がくけん)は江夏郡(こうかぐん)に属し、先の話ではあるが221年には武昌県(ぶしょうけん)と名を改められた。領内を長江(ちょうこう)が流れ、県の北西、長江(ちょうこう)の流れるところを樊口(はんこう)という。


 なお、劉備(りゅうび)が樊口(はんこう)に駐留したという記述は注に引く『江表伝(こうひょうでん)』にあり、『正史』には劉備(りゅうび)は夏口(かこう)にいたとある。夏口(かこう)も江夏郡(こうかぐん)に属し、長江(ちょうこう)とその支流である漢水(かんすい)の交わる場所で、樊口(はんこう)より少し西寄りにある。


 場所が近いので些細(ささい)な差といえばそれまでだが、この時、劉備(りゅうび)と劉琦(りゅうき)は合わせて二万の兵を擁(よう)していた。曹操(そうそう)軍に比べれば少ないが、それでも万の兵であり、あるいはこの時、劉備(りゅうび)と劉琦(りゅうき)で夏口(かこう)と樊口(はんこう)の二拠点を抑えていたのではないだろうか。『江表伝(こうひょうでん)』の記述から劉備(りゅうび)は鄂県(がくけん)を通り、孔明(こうめい)を送り出してから樊口(はんこう)に至ったとあることから、夏口(かこう)には劉琦(りゅうき)、樊口(はんこう)には劉備(りゅうび)がいたのだろう。


 劉備(りゅうび)が樊口(はんこう)に移ったのは、孫権(そんけん)との連絡ルートの確保、また、万一の撤退ルートの確保だろう。劉琦(りゅうき)のいる夏口(かこう)は先代の江夏太守(こうかたいしゅ)・黄祖(こうそ)が拠点としていた土地で、黄祖(こうそ)は卻月城(きゃくつきじょう)(別名、偃月城(えんげつじょう))を築いていたが、この年の春の孫権(そんけん)の江夏(こうか)侵攻で、孫権(そんけん)軍により廃城(はいじょう)となったという。おそらく劉琦(りゅうき)はこの城を修復したか、新たに築城したかしてこの辺りに防衛拠点を築いて、そこに籠城(ろうじょう)したのではないだろうか。(卻月城(きゃくつきじょう)の側の魯山城(ろざんじょう)は一説に劉琦(りゅうき)が江夏太守(こうかたいしゅ)に就任後築かれたというが、出典が不明確であったために紹介するだけに止める)


 孫権(そんけん)からの救援が得られぬまま曹操(そうそう)が江夏郡(こうかぐん)に侵攻した場合、夏口(かこう)に籠城(ろうじょう)する劉琦(りゅうき)が曹操(そうそう)を食い止め、劉備(りゅうび)が外から襲撃するというのが彼らの計画だったのではないだろうか。また、孫権(そんけん)が曹操(そうそう)に協力して参戦するという最悪の事態も想定できるが、その場合は劉備(りゅうび)が孫権(そんけん)軍を引き受ける形となったのだろう。


 実際には孫権(そんけん)が劉備(りゅうび)と手を組み、夏口(かこう)より手前で赤壁(せきへき)の戦いとなるので、夏口(かこう)を舞台とした劉備(りゅうび)・劉琦(りゅうき)軍対曹操(そうそう)戦は幻となる。


 話を孫権(そんけん)に移そう。


 『この時、孫権(そんけん)は軍勢を率いて柴桑(さいそう)に駐屯していた。既に曹操(そうそう)は荊州(けいしゅう)を手に入れ、劉備(りゅうび)を破ったばかりであったから、孫権(そんけん)の張昭(ちょうしょう)を始めとする臣下一同も皆畏(おそ)れをなして、孫権(そんけん)に曹操(そうそう)に従うよう勧める者が多かった。』[諸葛亮(しょかつりょう)伝、呉主(ごしゅ)伝、周瑜(しゅうゆ)伝、魯粛(ろしゅく)伝、張昭(ちょうしょう)伝]


 孫権(そんけん)が駐屯していた柴桑(さいそう)は揚州予章郡《ようしゅうよしょうぐん》に属す。劉備(りゅうび)が駐屯する樊口(はんこう)とは長江(ちょうこう)で繋(つな)がっている。かつて江夏太守(こうかたいしゅ)の黄祖(こうそ)が予章郡(よしょうぐん)へ侵攻した時(206年)、まず侵入したのが柴桑(さいそう)であった。柴桑(さいそう)は江夏郡(こうかぐん)と予章郡(よしょうぐん)を繋(つな)ぐ、揚州(ようしゅう)の玄関口といえる。



 ◎孫策(そんさく)の死と孫権(そんけん)の継承



 ここで揚州を中心に勢力を築いていた孫権と、ここに至るまでの経緯について解説しよう。


 孫権(そんけん)の父は孫堅(そんけん)という。


 『孫堅(そんけん)はあまり名のある一族の出身ではなかったが、武勇があり、地方の反乱鎮圧等で名を上げ、破虜将軍(はりょしょうぐん)・予州刺史(よしゅうしし)に出世した。だが、袁術(えんじゅつ)の命(当時、孫堅(そんけん)は袁術(えんじゅつ)の指揮下にいた)で荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)を攻めた時に戦死してしまう。』[孫堅(そんけん)伝]


 孫堅(そんけん)が死に、その軍勢を引き継いだのは、息子の孫策(そんさく)…ではなく、甥(おい)の孫賁(そんほん)(本編、ソンフン、21話より登場)であった。


 孫策(そんさく)は父が戦死した時にまだ成人しておらず、家族とともに戦乱を避けて舒県(じょけん)の周氏(しゅうし)宅に疎開(そかい)していた。この時、孫策(そんさく)は周氏(しゅうし)の子・周瑜(しゅうゆ)と親交を結び、この周瑜(しゅうゆ)が大いに孫権(そんけん)を助けることになるのだが、それは後の話である。


 対して孫策(そんさく)・孫権(そんけん)の従兄(いとこ)・孫賁(そんほん)(孫堅(そんけん)の兄・孫羌(そんきょう)(本編未登場)の長子)は既に成人しており、郡の役人として働いていたが、孫堅(そんけん)が董卓(とうたく)に対して兵を上げるとそれに参加し、孫堅(そんけん)とともに戦っていた。


 この頃の軍勢はその長男が引き継ぐという決まりがあるわけではない。そして軍勢を引き継ぐということは戦争に行くということでもある。まだ未成年で従軍経験もない息子と、成人済みで、一、二年のことではあるが孫堅(そんけん)とともに戦っていた甥(おい)。両者を比べた時、甥(おい)の孫賁(そんほん)の方が継ぐのが妥当(だとう)だと判断されるのは自然な流れであった。


 なお、孫賁(そんほん)の名前は一般的に“そんほん”と読まれるが、本編では“ソンフン”の名前で登場している。これは後に登場する弟(本編では妹)の名前が孫輔(そんほ)(本編、ソンホ、75話より登場)で、並んで登場した場合ソンホン・ソンホ兄妹となり、よく似ていてややこしいので兄の読みをソンフンに変更した。(今思えばこの兄妹がそろう場面はそうないので余計な気だったかもしれない)


 『孫堅(そんけん)の軍勢を引き継いだ孫賁(そんほん)は、袁術(えんじゅつ)の配下となり、その命に従って袁紹(えんしょう)の任命した九江太守(きゅうこうたいしゅ)・周昂(しゅうこう)(本編未登場)を撃ち破った。袁術(えんじゅつ)は孫賁(そんほん)を予州刺史(よしゅうしし)とした。後に丹楊都尉(たんようとい)に移し、征虜将軍(せいりょしょうぐん)を兼任させ、丹楊太守(たんようたいしゅ)・呉景(ごけい)(本編、ゴケイ、22話より登場)(孫堅(そんけん)の妻・呉夫人(ごふじん)(本編、エイ、21話より登場)の弟)とともに丹楊郡(たんようぐん)に派遣した。だが、揚州刺史(ようしゅうしし)・劉繇(りゅうよう)(本編、リュウヨウ、15話より登場)によって孫賁(そんほん)と呉景(ごけい)は丹楊(たんよう)を追い出された。孫賁(そんほん)らは度々劉繇(りゅうよう)軍と戦ったが、勝つことは出来なかった。』[孫賁(そんほん)伝]


 そこへ現れたのは成長した孫策(そんさく)である。


 『孫策(そんさく)は孫賁(そんほん)らが苦戦した劉繇(りゅうよう)を蹴散(けち)らし、瞬く間に江東(こうとう)一帯を攻略した。孫策(そんさく)は自ら会稽太守(かいけいたいしゅ)となり、叔父(おじ)の呉景(ごけい)を再び丹楊太守(たんようたいしゅ)とし、従兄(いとこ)の孫賁(そんほん)を予章太守(よしょうたいしゅ)とした。また、予章(よしょう)を分割して廬陵郡(ろこうぐん)を作り、孫賁(そんほん)の弟・孫輔(そんほ)を廬陵太守(ろりょうたいしゅ)とし、朱治(しゅち)(本編、シュチ、65話より登場)を呉郡太守(ごぐんたいしゅ)に、李術(りじゅつ)(本編未登場)を廬江太守(ろこうたいしゅ)とした。』[孫策(そんさく)伝]


 当陽(とうよう)で劉備(りゅうび)に合流した魯粛(ろしゅく)が言った江東(こうとう)六郡とは、この時孫策(そんさく)が支配下においた会稽郡(かいけいぐん)、丹楊郡(たんようぐん)、予章郡(よしょうぐん)、廬陵郡(ろりょうぐん)、呉郡(ごぐん)、廬江郡(ろこうぐん)のことで、いずれも揚州(ようしゅう)に属す。


 朱治(しゅち)は孫堅(そんけん)旧臣だが、孫堅(そんけん)戦死後に孫賁(そんほん)ではなく孫策(そんさく)に仕(つか)え、真っ先に孫策(そんさく)に独立をするよう説いた人物である。


 李術(りじゅつ)の前歴についてはよくわからない。汝南(じょなん)出身なので、袁術(えんじゅつ)の旧臣だろうか。前任の廬江太守(ろこうたいしゅ)・劉勲(りゅうくん)(本編未登場)は袁術(えんじゅつ)旧臣で、配下に袁術(えんじゅつ)残党を多く吸収していたので、それらへの配慮かもしれない。


 孫堅(そんけん)の後継者は本来なら孫賁(そんほん)であったが、孫策(そんさく)は圧倒的な武功でもってその立場を覆(くつがえ)した。


 だが、その孫策(そんさく)は暗殺された。


 孫策(そんさく)は26歳の若さで死に、その遺言により、後継者は弟の孫権(そんけん)となった。孫権(そんけん)はこの時、まだ19歳であったが、曹操(そうそう)によって討虜将軍(とうりょしょうぐん)・会稽太守(かいけいたいしゅ)に任じられた。[孫策(そんさく)伝、呉主(ごしゅ)伝]


 孫権(そんけん)は字(あざな)を仲謀(ちゅうぼう)という。字(あざな)とは本名とは別に使う通称である。本編の五章序盤に、ソンケンがチュー坊(ぼう)と呼ばれていたのは彼の字(あざな)に由来する。また64話の初登場時、自身でコーレンと名乗っているが、これは孫権(そんけん)が孝廉(こうれん)(郡の人材推挙)に上げられ、一時期、孝廉(こうれん)と呼ばれていたことに因(ちな)む。


 『三国志』を読んだことがある人なら、孫権(そんけん)がこの後どうなるか知っているだろう。結論を言えば孫権(そんけん)を後継者に選んだのは成功と言える。だが、当時の人はこの先の未来の事を知らない。孫策(そんさく)が死に、まだ若い孫権(そんけん)が継いだ時、当時の人々が抱いたのは不安であっただろう。


 孫策(そんさく)は何故、江東(こうとう)六郡を治めることが出来たのか。血統が優れていたからか、年長者だったからか、官位が高かったからか、いや、そのどれでもない。袁術(えんじゅつ)のような名門出身でもなく、呉景(ごけい)や孫賁(そんほん)より若く、役職も会稽(かいけい)一郡の太守(たいしゅ)でしかなかった。ただ、圧倒的な武勇でもって周りを従えていた。


 その武勇の主が消えた今、孫氏(そんし)の江東(こうとう)支配は大きく揺(ゆ)らぐことになる。そして、孫策(そんさく)の後継者に求められることは、彼に匹敵するほどの武勇であった。


 だが、孫権(そんけん)はあまり戦争は得意ではなかったようだ。彼は孫策(そんさく)存命時より度々戦場にも立っていたが、芳(かんば)しい戦果を上げていない。


 『孫策(そんさく)が山越(さんえつ)(異民族)を討伐した時、孫権(そんけん)は守りを固めていた。孫権(そんけん)の兵士は千に満たなかったが、油断して防護柵(ぼうごさく)を準備しておらず、山越(さんえつ)数千の強襲を受けた。孫権(そんけん)のすぐ側まで敵の刃が迫ったが、周泰(しゅうたい)(本編、シュータイ、23話より登場)が勇戦して孫権(そんけん)を守った。この時、周泰(しゅうたい)は十二の傷を受けて昏倒(こんとう)し、しばらく意識不明となった。』[周泰(しゅうたい)伝]


 有名な周泰(しゅうたい)の十二の傷を受ける逸話(いつわ)だが、見方を変えれば、これは孫権(そんけん)の敗戦の逸話(いつわ)でもある。


 『孫策(そんさく)は孫権(そんけん)を派遣して、陳登(ちんとう)(本編、チントウ、28話より登場)の匡琦城(きょうきじょう)を攻めさせた。孫権(そんけん)は陳登(ちんとう)より多い兵士を率いていたが、夜明けに陣の背後より奇襲を受けて撃ち破られた。孫権(そんけん)は態勢を建て直して再び攻めたが、陳登(ちんとう)は曹操(そうそう)に援軍を要請する一方、城から十里先に陣営を作り、火をつけてあたかも大軍がやって来たように偽装した。孫権(そんけん)軍はこれに驚き、混乱状態になったところを陳登(ちんとう)の追撃にあい、撃退された。』[陳登(ちんとう)伝、陳矯(ちんきょう)伝]


 他に『呉主(ごしゅ)伝』には、199年の廬江太守(ろこうたいしゅ)の劉勲(りゅうくん)戦や江夏太守(こうかたいしゅ)の黄祖(こうそ)戦で勝利した記述があるが、これらは孫策(そんさく)らに同行して得られた勝利であった。


 やはり、孫策(そんさく)存命時の孫権(そんけん)の将軍としての武功は、孫策(そんさく)の後継者に相応(ふさわ)しいと言えるほどのものではなかったのだろう。孫策(そんさく)はその遺言にて「江東(こうとう)の軍勢を率い、勝機を掴(つか)んで、天下を争うということでは、お前はこの俺に及ばない。だが、賢者を招いて、その能力を発揮させ、江東(こうとう)を保つということでは、お前の方が俺より優れている」と孫権(そんけん)に言ったのは、孫策(そんさく)なりのフォローだったのかもしれない。


 しかし、孫策(そんさく)がどんなにフォローしていても、江東(こうとう)は孫策(そんさく)の武勇でまとめたものである以上、それをまとめるのには武勇が必要なことに変わりはなかった。


 孫策(そんさく)死後、孫権(そんけん)後継を巡り、混乱が起きた。


 『かつて孫策(そんさく)に任命された廬江太守(ろこうたいしゅ)・李術(りじゅつ)は孫権(そんけん)の命に従わず、揚州刺史(ようしゅうしし)・厳象(げんしょう)(本編未登場)を殺して独立を画策した。孫権(そんけん)はこれを攻め、兵糧攻めにしてこれを攻略した。』[呉主(ごしゅ)伝]


 『孫策(そんさく)が死去し、孫権(そんけん)が継ぐことになった時、定武忠郎将《ていぶちゅうろうしょう》で孫策(そんさく)の従兄(いとこ)の孫暠(そんこう)(本編未登場)(孫堅(そんけん)の弟・孫静(そんせい)(本編未登場)の長子)は、軍隊を率いて(孫権(そんけん)が太守(たいしゅ)を務める)会稽郡(かいけいぐん)を自分のものにしようとした。会稽郡(かいけいぐん)の役所は防備を固めてる一方、使者を派遣して孫暠(そんこう)を説得した。孫暠(そんこう)はこの説得にて兵を引き上げた。』[虞翻(ぐほん)伝]


 また、身内にも孫権(そんけん)の能力は疑問視されていた。


 『孫権(そんけん)の弟(孫堅(そんけん)第三子)・孫翊(そんよく)(本編未登場)は勇猛果敢で孫策(そんさく)に似ていた。重臣の張昭(ちょうしょう)(本編、チョウショウ、65話より本格登場)は孫策(そんさく)の臨終間際、兵権をこの孫翊(そんよく)に託すべきだと述べたが、孫策(そんさく)は応じなかった。』[孫翊(そんよく)伝]


 中でも最も不安に思ったのは、孫策(そんさく)、孫権(そんけん)らの母・呉夫人(ごふじん)かもしれない。


 孫策(そんさく)の後を継いだばかりの孫権(そんけん)は、一人でこれらの混乱を治め、江東(こうとう)の政権を見事に運営していったわけではなかった。


 どうやら、この頃の江東(こうとう)政権を実際に運営していたのは彼の母・呉夫人(ごふじん)であったようだ。



 ◎呉夫人(ごふじん)政権と重臣・張昭(ちょうしょう)



 『呉夫人(ごふじん)は孫策(そんさく)が亡くなると、張昭(ちょうしょう)と董襲(とうしゅう)(本編、トウシュウ、77話より登場)らを招き、江東(こうとう)の地が守れるかと尋ねた。董襲(とうしゅう)は「江東(こうとう)は山川の天然の守りがあり、孫策(そんさく)様は民衆に恩徳を施(ほどこ)しました。孫権(そんけん)様はその基盤を引き継がれ、臣下はその役に立とうと願い、張昭(ちょうしょう)が諸事を取り仕切り、我々が軍を率いております。地の利と人の和を得ていますから大丈夫です」と答えた。』[董襲(とうしゅう)伝]


 董襲(とうしゅう)は孫策(そんさく)が太守(たいしゅ)を務めていた会稽(かいけい)の出身で、揚武都尉(ようぶとい)を務めていた。おそらく、有力武官であるとともに会稽(かいけい)出身の彼に、今後の行く末に加えて、孫策(そんさく)が死んだことに対する会稽(かいけい)の人々の反応も知ろうとしたのではなかろうか。


 だが、この言葉だけで呉夫人(ごふじん)は安心しなかった。


 『呉夫人(ごふじん)は孫権(そんけん)がまだ若いということで、張紘(ちょうこう)(本編、チョウコウ、65話より登場)に補佐を頼んだ。また、密かに方策を練る時や上表文(じょうひょうぶん)などの文章、外交の文書を作る時は、彼女自らがいつも張紘(ちょうこう)と張昭(ちょうしょう)に命令を降して、その文書を作成させた。』[張紘(ちょうこう)伝注呉書(ごしょ)]


 また、202年(孫策(そんさく)死去の翌々年)、袁紹(えんしょう)を破った曹操(そうそう)は、孫権(そんけん)に対して息子を人質に差し出すよう要求した。


 『孫権(そんけん)は人質を送りたくないと考えて、周瑜(しゅうゆ)一人を連れて呉夫人(ごふじん)の元に行き、意見を求めた。その場で周瑜(しゅうゆ)は「人質は送らず、情勢を見定めるべき」と言い、呉夫人(ごふじん)はその意見に同意し、孫権(そんけん)に周瑜(しゅうゆ)を兄と思うよう伝えた。これにより孫権(そんけん)は人質を送らなかった。』[周瑜(しゅうゆ)伝注江表伝(こうひょうでん)]


 これらの逸話(いつわ)を見るに、この時期の事実上の江東(こうとう)の政権運営者は母の呉夫人(ごふじん)であったのだろう。彼女は孫堅(そんけん)の正妻で、孫策(そんさく)・孫権(そんけん)の母である。これらに加えて江東(こうとう)の有力一族・呉氏(ごし)の出身で、丹楊太守(たんようたいしゅ)・呉景(ごけい)の姉でもあった。その立場故に江東(こうとう)をまとめることができたのだろう。


 一方、孫権(そんけん)はというと、ただのお飾りというわけでもなく、前述の廬江太守(ろこうたいしゅ)・李術(りじゅつ)の征伐や、江夏郡(こうかぐん)の黄祖(こうそ)討伐、各地で起きる山越(さんえつ)(江東(こうとう)周辺に住む異民族)の反乱鎮圧等に自ら赴いている。おそらく、孫策(そんさく)後継に相応(ふさわ)しいだけの経験や武功を積ませようとしたのだろう。


 前述にあるように、この頃の江東(こうとう)の外交面を担当していたのは呉夫人(ごふじん)であった。


 かつて、袁術(えんじゅつ)が皇帝を僭称(せんしょう)した時、孫策(そんさく)は袁術(えんじゅつ)と決別し、曹操(そうそう)や朝廷(ちょうてい)に接近した。曹操(そうそう)も袁術(えんじゅつ)・呂布(りょふ)(本編、リョフ、5話より登場)・袁紹(えんしょう)といった勢力を相手にせねばならず、江東(こうとう)にまでは手が回らず、孫策(そんさく)へは懐柔策(かいじゅうさく)を取った。


 孫策(そんさく)が凶刃に倒れた200年、袁紹(えんしょう)と曹操(そうそう)が覇権をかけて戦った官渡(かんと)の戦いにおいては、孫策(そんさく)は曹操(そうそう)の同盟者として、袁紹(えんしょう)の同盟者・荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)と対立した。


 つまり、元々孫策(そんさく)と曹操(そうそう)の二勢力は比較的親しい間柄であった。


 曹操(そうそう)は孫策(そんさく)を手懐けようと、彼を討逆将軍(とうぎゃくしょうぐん)・呉侯(ごこう)に封じた。また、自身の弟の娘と孫策(そんさく)の弟・孫匡(そんきょう)(本編未登場)(孫堅(そんけん)第四子)を婚姻(こんいん)させ、孫策(そんさく)の従兄(いとこ)・孫賁(そんほん)の娘を息子・曹彰(そうしょう)(本編未登場)の嫁に迎えた。さらに弟の孫権(そんけん)や孫翊(そんよく)にも役職を与えた。


 また、『呉録(ごろく)』に載せる孫策(そんさく)の黄祖(こうそ)討伐の時の上表文(じょうひょうぶん)によれば、周瑜(しゅうゆ)の肩書きを領江夏太守(こうかたいしゅ)、呂範(りょはん)(本編、リョハン、22話より登場)を領桂陽太守(けいようたいしゅ)、程普(ていふ)を領零陵太守(れいりょうたいしゅ)と記している。


 各郡太守(たいしゅ)の頭に領の字がある。この三郡は荊州(けいしゅう)の領土であり、実際に孫策(そんさく)が支配しているわけではない。つまり、太守(たいしゅ)には任命するけど、実際に赴任したければ自分たちで取れということである。これは奪えば自分の領土にしていいというお墨付きでもある。


 曹操(そうそう)は劉表(りゅうひょう)を討伐した時の報奨(ほうしょう)としてこれらの領土を約束したのだろう。ただ、孫策(そんさく)が死去してしまったため、江夏(こうか)の黄祖(こうそ)討伐に止まり、本格的な劉表(りゅうひょう)討伐は行われなかった。


 呉夫人(ごふじん)はこの孫策(そんさく)の外交を引き継ぎ、親曹操(そうそう)を方針として定めていたようだ。


 呉夫人(ごふじん)の政策はあくまでも江東(こうとう)の安定が優先であったのだろう。不世出の英雄・孫策(そんさく)に匹敵する将がいない以上、現在の江東(こうとう)の孫氏(そんし)政権を維持しつつ、その権益を守りながら曹操(そうそう)と協調していく。これが彼女の方針であろう。


 孫策(そんさく)が死去してから数年の間、対外戦争はほとんど行われていない。この頃に行われた戦争は領地内で起きた反乱の鎮圧等がほとんどで、赤壁(せきへき)の戦い前の対外戦争と言えるのは203年、207年(この年呉夫人(ごふじん)死去)、208年に行われた黄祖(こうそ)討伐か、もしくは攻めてきた劉表(りゅうひょう)軍を撃退したぐらいであった。[呉主(ごしゅ)伝、太史慈(たいしじ)伝、周瑜(しゅうゆ)伝、潘璋(はんしょう)伝]


 これらの期間の曹操(そうそう)は、袁紹遺児(えんしょういじ)の袁(えん)兄弟とその同盟者・劉表(りゅうひょう)と戦っている時期である。この時期の黄祖(こうそ)討伐はある程度、曹操(そうそう)の動きと連動したものかもしれない。


 この8年ほどの間、孫権(そんけん)は実効支配している領土をほとんど増やしてはいない。これは呉夫人(ごふじん)が領土拡張より、今ある領土を維持する事を優先したからだろう。


 それらから考えるに、赤壁(せきへき)の戦いの前、張昭(ちょうしょう)ら主だった文官が曹操(そうそう)への降伏論を唱えたのも、何も自分たちの保身ばかりを考えたのではなく、この呉夫人《ごふじん》時代の方針に則(のっと)っていたのではないだろうか。



 ◎孫賁(そんほん)・孫輔(そんほ)兄弟と曹操(そうそう)外交



 孫権(そんけん)に代わり江東(こうとう)の事実上の領主であった呉夫人(ごふじん)は赤壁(せきへき)の戦いの前年、207年に死去する。(『呉主(ごしゅ)伝』、『孫堅呉夫人(そんけんごふじん)伝』では202年とする。注の『志林(しりん)』では207年とする。今は『志林(しりん)』に従う)


 200年に孫策(そんさく)が死に、208年に赤壁(せきへき)の戦いが起こるまでの間に多くの孫権(そんけん)の一族が死んだ。


 203年に叔父(おじ)・呉景(ごけい)(呉夫人(ごふじん)の弟)が死去。[孫堅呉夫人(そんけんごふじん)伝]


 204年、孫権(そんけん)の弟・孫翊(そんよく)(孫堅(そんけん)第三子)が側近に殺害される。これに巻き込まれる形で一族の孫河(そんか)(本編、ソンカ、22話より登場)(孫堅(そんけん)の族子(おい))も死亡。[呉主(ごしゅ)伝、孫翊(そんよく)伝、孫韶(そんしょう)伝]


 他に時期不明だが、叔父(おじ)の孫静(そんせい)(孫堅(そんけん)弟)や20歳あまりで死んだという弟の孫匡(そんきょう)(孫堅(そんけん)第四子)もこの頃に亡くなったのだろう。[孫静(そんせい)伝、孫匡(そんきょう)伝]


 孫権(そんけん)の親世代はだいたい曹操(そうそう)や劉備(りゅうび)と同世代と考えるとあまりにも早い退場である。そのためにその息子たちはほとんど育っていない状態となっている。


 次々と孫氏(そんし)・呉氏(ごし)の人物が亡くなったことにより、赤壁(せきへき)の戦い直前の時点である程度の地位にある孫氏(そんし)の一族は、討虜将軍(とうりょしょうぐん)・会稽太守(かいけいたいしゅ)の孫権(そんけん)、征虜将軍(せいりょしょうぐん)・予章太守(よしょうたいしゅ)の孫賁(そんほん)(孫権従兄(そんけんいとこ))、平南将軍(へいなんしょうぐん)・交州刺史(こうしゅうしし)の孫輔(そんほ)(孫権従兄(そんけんいとこ)、孫賁(そんほん)弟)、綏遠将軍(すいえんしょうぐん)・丹楊太守(たんようたいしゅ)の孫瑜(そんゆ)(本編、ソンユ、75話名のみ登場)(孫権従兄(そんけんいとこ)、孫静(そんせい)第二子)、承烈校尉(しょうれつこうい)・孫韶(そんしょう)(本編未登場)(孫河甥(そんかおい))ぐらいであろうか。(孫権(そんけん)継承時に会稽(かいけい)占領未遂を起こした孫暠(そんこう)(孫静(そんせい)長子、孫瑜(そんゆ)兄)はこの事件以降の記録がない。事件を機に引退したか)


 この内、孫瑜(そんゆ)、孫韶(そんしょう)は上の世代の退場により後を継いだもので、年齢、経歴ともに低い(ただし、孫瑜(そんゆ)の方が孫権(そんけん)より年上)。また、その役職も孫権(そんけん)によって仮に任命されてもので、朝廷(ちょうてい)(曹操(そうそう))より正式に任命されたものではない。


 対して孫賁(そんほん)・孫輔(そんほ)兄弟は彼らより上の立場といえる。


 孫賁(そんほん)は前述したように先々代の孫堅(そんけん)の頃より従軍し、孫輔(そんほ)も先代の孫策(そんさく)に従って戦っていた。この二人の年齢は不明だが、孫賁(そんほん)は孫策(そんさく)より年上。孫輔(そんほ)も、孫権(そんけん)が「兄」と呼んでいることから孫権(そんけん)より上であろう。孫策(そんさく)が208年まで生きていた場合、34歳となるので、孫賁(そんほん)は40前後、孫輔(そんほ)は孫策(そんさく)と同じか少し若いくらいであろうか。


 さらに言えば孫静(そんせい)や呉景(ごけい)等の親世代が亡くなったため、おそらくだが、この時の孫権(そんけん)一族の最年長は孫賁(そんほん)だったのでないだろうか。これに加えて、孫賁(そんほん)の娘は曹操(そうそう)の息子に嫁いでおり、婚姻(こんいん)関係にある。


 次に孫賁(そんほん)・孫輔(そんほ)の役職についてだが、彼らは孫策(そんさく)の代に孫策(そんさく)によって役職に任命されていた。これはつまり孫策(そんさく)が勝手に任命したものだが、この間に曹操(そうそう)(朝廷(ちょうてい))によって正式な役職を得ることとなる。


 孫賁(そんほん)については、官渡(かんと)の戦い以降の夏侯惇(かこうとん)(本編、カコウトン、6話より登場)の手紙に、孫賁(そんほん)に長沙(ちょうさ)を授けるとある。198年~200年頃、長沙太守(ちょうさたいしゅ)・張羨(ちょうせん)(本編、チョーゼン、91話名のみ登場)が曹操(そうそう)と組み、劉表(りゅうひょう)に反旗(はんき)を翻(ひるがえ)した。これは張羨(ちょうせん)敗北後、その後任として孫賁(そんほん)を任じたということだろう。また、時期不明だが、孫賁(そんほん)は都亭侯(とていこう)に封じられ、208年には曹操(そうそう)より征虜将軍(せいりょしょうぐん)に任じられ、かつて孫策(そんさく)が任命した予章太守(よしょうたいしゅ)に正式に任命された。[孫策(そんさく)伝、孫賁(そんほん)伝、後漢書(ごかんじょ)・劉表(りゅうひょう)伝]


 また、孫賁(そんほん)の弟・孫輔(そんほ)に対しても、平南将軍(へいなんしょうぐん)・交州刺史(こうしゅうしし)として仮節(かせつ)を授けた。[孫輔(そんほ)伝]


 『交州刺史(こうしゅうしし)・張津(ちょうしん)は度々劉表(りゅうひょう)と戦争したが、それに反発した部下の区景(おうけい)(本編未登場)に殺害された。劉表(りゅうひょう)は頼恭(らいきょう)を派遣し、張津(ちょうしん)の後任にしようとした。』[士燮(ししょう)伝、薛綜(せつそう)伝]


 おそらく、曹操(そうそう)側の張津(ちょうしん)の後任が孫輔(そんほ)なのだろう。張津(ちょうしん)の死亡年は不明だが、『晋書(しんじょ)』地理志によると張津(ちょうしん)の交州刺史(こうしゅうしし)任命が203年、後任を劉表(りゅうひょう)が派遣しているのだから、彼が死ぬ208年以前のことだろう。なのでその間の人事となる。


 長沙太守(ちょうさたいしゅ)・張羨(ちょうせん)も交州刺史(こうしゅうしし)・張津(ちょうしん)も共に南陽郡(なんようぐん)出身なので同族であろうか。時期としては張羨(ちょうせん)敗北後に張津(ちょうしん)が任命されており、ズレがあるが、二人とも劉表(りゅうひょう)と対立していることは共通している。曹操(そうそう)からすれば対劉表(りゅうひょう)戦の協力者というべき存在で、その後任なのだから孫賁(そんほん)・孫輔(そんほ)兄弟には同じ立ち位置を期待していたのだろう。


 この間、孫権(そんけん)は前述のとおり、江夏郡(こうかぐん)の黄祖(こうそ)を攻めている。この頃の曹操(そうそう)は孫権(そんけん)を江夏郡(こうかぐん)(荊州(けいしゅう)北部)へ、孫賁(そんほん)を長沙郡(ちょうさぐん)(荊州(けいしゅう)南部)へ、孫輔(そんほ)を交州(こうしゅう)(荊州(けいしゅう)南隣)へと、三方を担当させ、劉表(りゅうひょう)包囲網を画策していた。と、同時に孫賁(そんほん)・孫輔(そんほ)の役割を増すことで、孫権(そんけん)と対等の一つの群雄として扱っている。


 孫賁(そんほん)・孫輔(そんほ)は昇進する一方、対して孫権(そんけん)は孫策(そんさく)の死後、会稽太守(かいけいたいしゅ)・討虜将軍(とうりょしょうぐん)に任命されて以降、赤壁(せきへき)の戦いに勝利するまで特に昇進はしていない。


 仮に孫権(そんけん)が江夏郡(こうかぐん)を攻略したとしても、この江夏郡(こうかぐん)の新たな太守(たいしゅ)は前述した通り既に周瑜(しゅうゆ)と決まっている。曹操(そうそう)との関係維持のために出兵しているが、孫権(そんけん)個人から見ればあまり利益のない戦いとも言える。


 現状、孫策(そんさく)の後継者は孫権(そんけん)である。だが、このような状況下の中、孫権(そんけん)が曹操(そうそう)に降伏し、勢力を吸収された場合、果たして孫氏(そんし)の代表として扱われるのは誰なのか。曹操(そうそう)は孫賁(そんほん)を孫氏(そんし)の代表として扱い、自分はその一族衆として遇(ぐう)されるのではないか。そういう考えが孫権(そんけん)にはあったのではないだろうか。



 ◎江東(こうとう)政権の中の孫権(そんけん)



 元々の孫堅(そんけん)の後継者は孫賁(そんほん)だった。それを孫策(そんさく)は武功でもって孫賁(そんほん)より上位の孫氏(そんし)の棟梁(とうりょう)ともいうべき立場となった。だが、孫策(そんさく)の後を継いだ孫権(そんけん)には兄に匹敵するほどの武功はなかった。そのため、孫賁(そんほん)より上位の存在になるのは難しく、江東(こうとう)のパワーバランスは揺れ動いていた。曹操(そうそう)がやったことはその崩れ行く江東(こうとう)のバランスをさらに崩壊へと後押しするものであった。


 また、孫策(そんさく)はかつて自ら領地を切り取り、そのうちの予章郡(よしょうぐん)の太守(たいしゅ)に孫賁(そんほん)を、その予章郡(よしょうぐん)の南部を分割して盧陵郡(ろりょうぐん)を作り、その太守(たいしゅ)に孫輔(そんほ)を任命した。孫策(そんさく)、孫賁(そんほん)、孫輔(そんほ)は太守(たいしゅ)という肩書きでは同僚だが、その地位を任命する者と、任命される者では、当然、任命する者が上位となる。孫策(そんさく)はこの任命権を握ることで他者より上位に立つことが出来たとも言える。


 だが、曹操(そうそう)は朝廷(ちょうてい)を介して彼らを正式に役職へ任命していった。朝廷(ちょうてい)を介している分、曹操(そうそう)の任命は正式なものである。曹操(そうそう)が孫賁(そんほん)らを任命するということは、孫権(そんけん)の権威が低下することを意味する。


 対して孫権(そんけん)は領地を増やせておらず、自身も出世していない。そのため新たに任命できるのは、今ある役職の前任者が退任した時に限られ、すでに幹部クラスの人物をより上位の役職に任命することができない。


 この与える役職がないために任命権を行使できないというのは長いこと孫権(そんけん)を苦しめることになる。例えば孫権(そんけん)が孫策(そんさく)の後を継いで以降、配下に加わった魯粛(ろしゅく)が赤壁(せきへき)の戦い直前に賛軍校尉(さんぐんこうい)に任命されるまで特に肩書きがなかったのは一例であろう。


 この曹操(そうそう)の対応を見るに、彼が江東(こうとう)で企んだことは、孫賁(そんほん)・孫輔(そんほ)の立場を上げて、孫権(そんけん)と対等にし、孫氏(そんし)を江東(こうとう)の独立勢力から、多くの地方長官を輩出する後漢(ごかん)の有力氏族程度に抑え、緩やかに吸収していくということだったのではないだろうか。


 孫策(そんさく)の方針は領土拡大であった。その時の曹操(そうそう)は北に袁紹(えんしょう)という強大な敵を抱え、荊州(けいしゅう)には袁紹(えんしょう)の同盟者・劉表(りゅうひょう)がいた。劉表(りゅうひょう)にまで手が回らない曹操(そうそう)と、荊州(けいしゅう)へ進出したい孫策(そんさく)とで利害が一致し、両者は協力関係となった。


 孫策(そんさく)が亡くなり呉夫人(ごふじん)の代になると、方針は領土安定へと転換される。この頃の曹操(そうそう)は袁紹(えんしょう)勢力を倒し、曹操(そうそう)一強時代へと移行していた。だが、領土の安定を願う呉夫人(ごふじん)からすれば、強大な曹操(そうそう)の庇護下(ひごか)に入るのは望むところであった。孫策(そんさく)と呉夫人(ごふじん)、両者の方針は真反対であったが、その時の情勢の変化により、共に最上の協力者として曹操(そうそう)を選んだ。


 一方、曹操(そうそう)からすると、孫策(そんさく)が築いた強力な勢力を、次代に引き継がせるのは好ましくなく、孫賁(そんほん)・孫輔(そんほ)兄弟に力を与え、孫権(そんけん)と並べて権力の分散を計った。だが、それは孫氏(そんし)の一族を引き立てるということでもあり、一族の繁栄を望む呉夫人(ごふじん)らの希望に沿うものであった。


 呉夫人(ごふじん)にしろ、孫賁(そんほん)にしろ、孫輔(そんほ)にしろ、立場としては後漢王朝(ごかんおうちょう)の臣下であり、自ら皇帝になろうと考えもしなかっただろう。そもそも、その領土は孫策(そんさく)によって得られたものであり、その孫策(そんさく)が死んで現状維持さえ危うかった状態で独立して皇帝になろうとは思いもよらなかっただろう。何より、皇帝を名乗り滅びた袁術(えんじゅつ)という悪例を特等席で見ていた人達である。


 では、孫権(そんけん)はどうだろうか。母や従兄(いとこ)ら年長の一族衆が曹操(そうそう)との外交を展開しながら、家の安定への道を進めていた。だが、それは孫権(そんけん)の目から見れば兄から継承したはずの自身の権力の解体でもあった。それに対し、忸怩(じくじ)たる思いはあったのだろうか。


 そんな中、孫権(そんけん)の元に一人の男が現れる。


 彼の名を魯粛(ろしゅく)という。


 魯粛(ろしゅく)は孫権(そんけん)に言った。


「皇帝を名乗り、天下を支配しましょう」と。

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