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三国志 歴史解説  作者: トベ・イツキ


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歴史解説 赤壁の戦いその4(全6回)

 ※これは別に連載中の小説『学園戦記三国志』の歴史解説回を独立・編集して掲載するものです。


↓学園戦記三国志リンク https://ncode.syosetu.com/n2756fp/



 前回は江東(こうとう)に築かれた孫氏(そんし)政権とその中での孫権(そんけん)の立ち位置について述べた。今回はその孫権(そんけん)がどのようにして赤壁(せきへき)の戦いに参加するのかまでの過程を紹介していこう。



 ◎魯粛(ろしゅく)と孔明(こうめい)の天下三分



 孫策(そんさく)の後を継いだ孫権(そんけん)であったが、母・呉夫人(ごふじん)が政治の実権を握って曹操(そうそう)と接近し、従兄(いとこ)の孫賁(そんほん)・孫輔(そんほ)兄弟が力を増していた。そんな頃に亡き兄の友人・周瑜(しゅうゆ)の推挙により魯粛(ろしゅく)が孫権(そんけん)の前にやって来た。


 『孫権(そんけん)は魯粛(ろしゅく)の意見を求めていった、「今、漢王朝(かんおうちょう)は傾き、天下は乱れている。私は亡き父・兄の業績を継ぎ、斉(せい)の桓公(かんこう)や晋(しん)の文公(ぶんこう)のような功績を上げたいと願っている。あなたは私のところに来てくれたが、どのように助けてくれるのか?」


 魯粛(ろしゅく)は「昔、劉邦(りゅうほう)様が楚(そ)の義帝(ぎてい)に助けられなかったのは、項羽(こうう)がいたからです。今の曹操(そうそう)はまさに項羽(こうう)ですので、孫権(そんけん)様が桓公(かんこう)や文公(ぶんこう)になろうとしても無理でしょう。私が考えるに、漢王朝(かんおうちょう)の再興は不可能で、曹操(そうそう)を除くこともできません。


 孫権(そんけん)様の最良の策は、江東(こうとう)を足場に、天下の趨勢(すうせい)を見守りください。そして、北方に問題が起きた隙(すき)に、黄祖(こうそ)を除き、劉表(りゅうひょう)を伐(う)ち、長江(ちょうこう)流域を占領するのです。その上で帝王を名乗られ、天下の支配に乗り出すのです」これに対して孫権(そんけん)は「今は自分のところが精一杯で、漢王朝(かんおうちょう)のお力添えを願うばかりで、私の力ではできない」と答えた。』[魯粛(ろしゅく)伝]


 この後、重臣の張昭(ちょうしょう)から、魯粛(ろしゅく)は傲慢(ごうまん)で任用するに早すぎると非難されたため、役職は与えられなかったが、客人として充分な待遇を得ることとなる。


 孫権(そんけん)が名前を出した斉(せい)の桓公(かんこう)と晋(しん)の文公(ぶんこう)は共に春秋(しゅんじゅう)時代の人物で、春秋五覇(しゅんじゅうごは)(春秋(しゅんじゅう)時代に周王朝(しゅうおうちょう)に代わって天下をまとめた五人の覇者)に数えられている。


 かつて孫策(そんさく)が江東(こうとう)に赴く前、張紘(ちょうこう)を訪ねた時に以下のような逸話(いつわ)がある。


 『孫策(そんさく)は張紘(ちょうこう)を訪ねて今後の方策について聞いたが、その時の張紘(ちょうこう)は、「昔、周王朝(しゅうおうちょう)が傾いた時、斉(せい)の桓公(かんこう)と晋(しん)の文公(ぶんこう)とが立ち、王室を安定させました。あなたが呉(ご)で兵を募り、荊州(けいしゅう)・揚州(ようしゅう)を一つに纏(まと)め、漢王朝(かんおうちょう)を立て直せば、その功績は桓公(かんこう)や文公(ぶんこう)にも引けをとりません」と答えた。』[孫策(そんさく)伝注呉歴(ごれき)]


 孫権(そんけん)が桓公(かんこう)・文公(ぶんこう)の名を出すのは、兄のやろうとしたことを引き継ぐという意志もあったのではないだろうか。


 かつて中華の歴史は黄河(こうが)文明から始まり、長らく北部が中心地であった。だが、後漢(ごかん)時代になると徐々に長江(ちょうこう)周辺の地域が発展していった。さらに戦乱や食糧難等により北部より移民が進み、南部の人口はより増えていくこととなる。


 この発展する南部に目を付けた人物は少なからずいた。先ほど上げた張紘(ちょうこう)も孫策(そんさく)が江東(こうとう)に赴く以前より荊州(けいしゅう)や揚州(ようしゅう)の長江(ちょうこう)周辺の地域の重要性に気付いていた。


 だが、魯粛(ろしゅく)の意見はさらにそれを進めたものであった。長江(ちょうこう)流域の地域を押さえ、曹操(そうそう)に対抗することに加え、当時まだタブー意識の強かった皇帝即位を意識したものであった。


 ここで思い返すのは、孔明(こうめい)が劉備(りゅうび)にいった天下三分の計である。


 『「董卓(とうたく)の乱以降、群雄割拠し、その数は数えきれぬほどです。その中で曹操(そうそう)は袁紹(えんしょう)を破ってから、百万の軍勢を擁(よう)し、天子(てんし)(皇帝)を擁立(ようりつ)して、対等に戦える相手ではありません。孫権(そんけん)は江東(こうとう)を支配し、堅固なのでこれは味方にすべきです。


 荊州(けいしゅう)は北方は漢水(かんすい)にまたがり、利益は南海(なんかい)に達し、東方は呉会(ごかい)(揚州(ようしゅう))に連なり、西方は巴蜀(はしょく)(益州(えきしゅう))に通じて、武を用いるべき国なのに、領主(劉表(りゅうひょう))はそれに堪(た)えれる人物ではありません。まず、この荊州(けいしゅう)を取るべきです。また、益州(えきしゅう)は要害で肥沃(ひよく)な土地で、劉邦(りゅうほう)(漢(かん)の高祖(こうそ))様もこの地で帝業を完成させました。


 この荊州(けいしゅう)・益州(えきしゅう)を支配し、西方・南方の異民族を慰撫(いぶ)し、外では孫権(そんけん)と手を組みましょう。そして、曹操(そうそう)の隙(すき)をついて、上将を荊州(けいしゅう)から出撃させ、劉備(りゅうび)様が益州(えきしゅう)より出撃すれば、覇業は成就(じょうじゅ)し、漢王朝(かんおうちょう)は復興するでしょう」』[諸葛亮(しょかつりょう)伝]


 両者を比べるとよく似ていることがわかる。これはどちらがどちらを真似したというわけではないだろう。そもそも南部に基盤を築くという意見自体は先ほどの張紘(ちょうこう)のように目端の効く人物なら気付いていた。魯粛(ろしゅく)は初めて孔明(こうめい)に会った時、兄の諸葛瑾(しょかつきん)の友人だと名乗った。つまり、孔明(こうめい)と魯粛(ろしゅく)は諸葛瑾(しょかつきん)を介して情報を得る術があったのである。


 孔明(こうめい)の天下三分の計を読むと、同盟相手として孫権(そんけん)を名指ししている。考えれば、この頃まで孫権(そんけん)は兄・孫策(そんさく)を後を継いだとはいえ、政務や外交は母・呉夫人(ごふじん)が執(と)りしきり(呉夫人(ごふじん)がちょうど逝去した頃であろうか)、従兄(いとこ)の孫賁(そんほん)・孫輔(そんほ)が曹操(そうそう)に重用され、台頭してきていた。孫権(そんけん)自身に強い意志が無ければこのまま埋もれてしまいかねない状況であった。


 だが、孫権(そんけん)は魯粛(ろしゅく)に語ったように、斉(せい)の桓公(かんこう)や晋(しん)の文公(ぶんこう)になりたいと思い、さらに魯粛(ろしゅく)の皇帝になろうという言葉に強い興味を示すほどの人物であった。


 孔明(こうめい)は諸葛瑾(しょかつきん)や魯粛(ろしゅく)よりこういった情報を得ていたからこそ、孫権(そんけん)の名を出したのだろう。もっと言えば、益州(えきしゅう)の劉璋(りゅうしょう)や漢中(かんちゅう)の張魯(ちょうろ)は討伐対象なのに、孫権(そんけん)のみ同盟相手に選んだのも、諸葛瑾(しょかつきん)らを介して話をつける宛(あて)があったということであろう。そう考えると魯粛(ろしゅく)がわざわざ窮地(きゅうち)の劉備(りゅうび)を訪ねて、孔明(こうめい)とともに孫権(そんけん)・劉備(りゅうび)両者の同盟を画策したのも、ある程度、天下三分を唱えた頃からの規定路線といえる。


 この中国南部に基盤を築く案に、魯粛(ろしゅく)は皇帝僭称(せんしょう)を加えている一方、孔明(こうめい)はあくまで漢王朝(かんおうちょう)の復興に止まっている。この両者の違いは、両君主の要求の差だろう。孫権(そんけん)は漠然(ばくぜん)と桓公(かんこう)・文公(ぶんこう)になりたいと述べたのに対し、劉備(りゅうび)は漢王朝(かんおうちょう)の復興と打倒曹操(そうそう)という明確な目標を述べている。質問の内容が違うのだから、両者の回答が変わっているのは当然だろう。


 魯粛(ろしゅく)は孫権(そんけん)の問いからその野心を嗅(か)ぎ取り、皇帝への道を示し、孫権(そんけん)の信頼を得た。一方、後発である孔明(こうめい)はこの時点(三顧(さんこ)の礼(れい)のあった207年)での江東(こうとう)や益州(えきしゅう)・交州(こうしゅう)の情勢もを取り入れ、かつて張紘(ちょうこう)や魯粛(ろしゅく)の語った南部論の207年最新版のような内容となり、劉備(りゅうび)の信頼を得ることとなった。


 そして、曹操(そうそう)が荊州(けいしゅう)へ侵攻すると、この魯粛(ろしゅく)が荊州(けいしゅう)へと赴き、劉備(りゅうび)に孫権(そんけん)との同盟を提案する。



 ◎揺れる江東(こうとう)政権



 『劉表(りゅうひょう)が死ぬと魯粛(ろしゅく)は孫権(そんけん)に言った。「荊州(けいしゅう)の地は我が領土と隣接しており、川や山に囲まれた堅固さと、豊かさを有しており、ここを領有すれば帝王への道の資本となるでしょう。今、劉表(りゅうひょう)が死に、その二人の息子が対立し、家臣も両派に別れております。それに加えて劉備(りゅうび)という英傑が劉表(りゅうひょう)の元に身を寄せましたが、十分に活かせませんでした。


 もし、劉備(りゅうび)が劉表(りゅうひょう)の息子達と心を合わせ、一つに纏(まと)まるのであれば、同盟を結ぶべきです。しかし、もし彼らの仲が上手くいかないのであれば、対応した新たな計略を立てるべきです。どうか、私を劉表(りゅうひょう)の弔問(ちょうもん)として二人の息子の元に派遣してください。弔問(ちょうもん)の最中に、劉表(りゅうひょう)家臣や劉備(りゅうび)に、共に曹操(そうそう)と戦うよう説得します。劉備(りゅうび)はこの言葉に喜んで従うでしょう」孫権(そんけん)はすぐさま魯粛(ろしゅく)を荊州(けいしゅう)に派遣したが、夏口(かこう)に着いた頃に曹操(そうそう)が荊州(けいしゅう)に向かったと聞き、南郡(なんぐん)に着いた時には劉琮(りゅうそう)が降伏して、劉備(りゅうび)が逃走したことを知った。魯粛(ろしゅく)は劉備(りゅうび)に会うべく当陽(とうよう)に向かい、長阪(ちょうはん)にて面会した。』[魯粛(ろしゅく)伝]


 江東(こうと)の孫氏(そんし)は長らく荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)と対立関係にあり、孫権(そんけん)は劉表(りゅうひょう)の部下・黄祖(こうそ)をこの年の春に討ったばかりである。そのような相手にいくら代替わりして、曹操(そうそう)が迫っているからといって簡単に同盟が組めるとは思えない。


 魯粛(ろしゅく)は会話の中で、劉備(りゅうび)の名を何度も出しているが、初めから劉表(りゅうひょう)の息子ではなく、劉備(りゅうび)を説得することを目的に荊州(けいしゅう)に赴いたのではないか。劉琮(りゅうそう)は既に曹操(そうそう)に降伏しているので選択肢から外したとしても、まだもう一人の息子・劉琦(りゅうき)がいる。彼は江夏郡(こうかぐん)におり、その後、漢津(かんしん)辺りで劉備(りゅうび)と合流しているのだから、魯粛(ろしゅく)が夏口(かこう)(江夏郡(こうかぐん)に属す)に到着した時、最も近くにいたのは劉琦(りゅうき)である。


 それを無視して劉備(りゅうび)の元に一直線に向かい、孔明(こうめい)には兄・諸葛瑾(しょかつきん)の友人と語るのは、初めから劉備(りゅうび)と同盟を結び、さらにはかつて構想した南部を基盤とする天下三分の計(魯粛(ろしゅく)が劉備(りゅうび)を加えて天下を三分する気があったかは不明だが)を実行する気だったのではないか。


 こうして魯粛(ろしゅく)は孔明(こうめい)を連れて、孫権(そんけん)の元に帰還した。だが、孫権(そんけん)の元では既に曹操(そうそう)に対する議論が巻き起こっていた。そして、その多くは曹操(そうそう)への恭順論であった。


 『曹操(そうそう)が荊州(けいしゅう)に侵攻し、劉琮(りゅうそう)が降伏すると、曹操(そうそう)は荊州(けいしゅう)の水軍を手に入れ、曹操(そうそう)軍の兵士は合わせて数十万にもなった。これを聞いた孫権(そんけん)の家臣は恐れを抱いた。孫権(そんけん)は群臣達にどう対処すべきか尋ねると、群臣の口を揃えてこう言った。


 「曹操(そうそう)は悪人ですが、皇帝を擁(よう)していますので、逆らえば逆賊となります。それに加え、孫権(そんけん)様には長江(ちょうこう)の守りがありましたが、今、曹操(そうそう)は荊州(けいしゅう)水軍を手に入れ、その船は数千にものぼり、長江(ちょうこう)の守りは通じなくなりました。しかも、双方の戦力差は歴然であります。これらから考えれば曹操(そうそう)を迎え入れるのが最善です」』[周瑜(しゅうゆ)伝]


 この時の議論の中心は『周瑜(しゅうゆ)伝』の注に引く『江表伝(こうひょうでん)』の孫権(そんけん)の発言から察するに張昭(ちょうしょう)・秦松(しんしょう)(本編、シンショウ、89話より登場)らであったようだ。


 秦松(しんしょう)はこのあとあまり長生きしなかったので、知名度が乏しいが、彼も張昭(ちょうしょう)同様、孫策(そんさく)時代から仕(つか)える文官であった。


 また、『孫権(そんけん)伝』の注の『江表伝(こうひょうでん)』によると『この時、曹操(そうそう)が孫権(そんけん)に送った書簡には「近頃、罪人を討伐せんと、南征したところ、劉琮(りゅうそう)は抵抗せずに降伏した。今度は水軍八十万の軍勢を整えて、将軍(孫権(そんけん))とお会いして呉(ご)の地で狩猟(しゅりょう)をしたい」孫権(そんけん)はこの手紙を受け取り、群臣に示したが、誰もが震え上がった』とある。


 有名な曹操(そうそう)の孫権(そんけん)に対する降伏勧告の元ネタである。この狩猟(しゅりょう)をしたいという部分が、合戦で雌雄(しゆう)を決したいの比喩(ひゆ)であると解釈されている。


 しかし、この文章が実際に曹操(そうそう)から孫権(そんけん)に送られたのかは疑問である。


 まず、この時点の曹操(そうそう)の目的は荊州(けいしゅう)征伐であり、江東(こうとう)の孫権(そんけん)とは何の関係もない。孫権(そんけん)は長らく荊州(けいしゅう)とは対立関係にあり、対して曹操(そうそう)とは友好的な関係であった。また、前回で見てきたように、曹操(そうそう)は長い時間をかけて、孫権(そんけん)の権力の切り崩しを計っており、従兄(いとこ)の孫賁(そんほん)・孫輔(そんほ)が力を持ち、そちらとも友好的な関係を築いているのに、それを全てご破算にするような降伏勧告を反発覚悟でやる必要性もない。


 また、先ほどの群臣達の言葉からわかるように、呉(ご)はこの時点の曹操(そうそう)の戦力を陸軍・水軍合わせて数十万、船数千と分析している。それに対して曹操(そうそう)のいう水軍八十万というのは明らかに盛っており、呉(ご)の群臣達がこの数字を素直に信じるとは思えない。


 そもそもこの書簡の意味がよくわからない。孫権(そんけん)と呉(ご)で狩猟(しゅりょう)がしたいとのみ言い、これを合戦で雌雄(しゆう)を決したいという意味だろうとして解釈している。だが、実際の真意が分かりにくい上に、具体的な要求もない。この書簡からは曹操(そうそう)が孫権(そんけん)に対して何をして欲しいのか、その要求が全く読み取れない。


 これらのことを考えれば、実際にこの書簡は当時、曹操(そうそう)から孫権(そんけん)に届けられたものではないのだろう。これはおそらく、この後、孫権(そんけん)が曹操(そうそう)と戦うことになって、その孫権(そんけん)側の正統性を主張するために作られたものではないだろうか。


 では、実際はどうであったか。この書簡は事実ではなくとも、孫権(そんけん)は群臣達と曹操(そうそう)を受け入れるかどうか議論しており、やはり、曹操(そうそう)から降伏ではないにせよ、何かしらの要求は出されていたことが推察される。


 曹操(そうそう)からの要求を考える上で参考になるのが、当時、孫権(そんけん)とよく似た立場であった益州(えきしゅう)の劉璋(りゅうしょう)と曹操(そうそう)の外交であろう。


 劉璋(りゅうしょう)は荊州(けいしゅう)の西隣、益州(えきしゅう)の領主でこちらも長らく曹操(そうそう)とは友好的な関係を続けていた。その劉璋(りゅうしょう)は曹操(そうそう)が荊州(けいしゅう)を占領すると、部下の張松(ちょうしょう)(本編、チョーショー、92話より登場)を使者に送っている。


 これより以前、劉璋(りゅうしょう)は曹操(そうそう)に友好の使者を二度派遣したが、いずれも曹操(そうそう)から歓迎された。対してこの度の使者は曹操(そうそう)が荊州(けいしゅう)を占領し、劉備(りゅうび)を逃走させた直後であったため、冷たくあしらわれ、それを張松(ちょうしょう)は怨(うら)みに思い、帰還後、曹操(そうそう)が赤壁(せきへき)でやぶれると、劉璋(りゅうしょう)に絶縁を提案している。


 このエピソードは『三国志演義(えんぎ)』では赤壁(せきへき)の戦いの後に書かれているが、実際は赤壁(せきへき)の戦いの前の出来事となっている。荊州(けいしゅう)占領後、曹操(そうそう)がかなり慢心(まんしん)していたことがわかる逸話(いつわ)である。


 なお、この逸話(いつわ)は本編ではソウソウではなく、代理のリリツ(本編、91話より登場)が行った行動となっている。後の歴史を考えるとかなりの大失態と言えるので、リリツに貧乏くじを引かせる形となった。リリツのモデルはこの時に曹操(そうそう)が任命した荊州刺史(けいしゅうしし)・李立(りりつ)で実在の人物である。


 この件もあって張松(ちょうしょう)は曹操(そうそう)が赤壁(せきへき)で大敗すると、彼との絶縁を主張し、劉備(りゅうび)に接近することとなるが、赤壁(せきへき)までの間では、劉璋(りゅうしょう)は曹操(そうそう)との友好関係を維持し、その要求を受け入れたようである。


 『益州(えきしゅう)の牧(ぼく)・劉璋(りゅうしょう)が初めて役夫(えきふ)の徴収(ちょうしゅう)を受け入れ、兵を派遣して軍に提供した。』[武帝紀(ぶていき)]


 『武帝紀(ぶていき)』の記述から、この時に劉璋(りゅうしょう)が曹操(そうそう)に兵を提供したことがわかる。


 孫権(そんけん)にも似たような要求が出されていたと推測できる。この時、孫権(そんけん)は既に柴桑(さいそう)という荊州江夏郡(けいしゅうこうかぐん)の最前線の都市に駐留していたのも、後に曹操(そうそう)との開戦を決断した時に、周瑜(しゅうゆ)にすぐに兵三万を用意できたのも、これらが本来、曹操(そうそう)へ援軍提供のための準備であったと考えると合点(がてん)がいく。


 劉璋(りゅうしょう)は兵を提供したのみであったが、対して孫権(そんけん)の目前にある江夏郡(こうかぐん)は劉備(りゅうび)や劉琦(りゅうき)が逃げ込み、拠点とした場所である。孫権(そんけん)は以前よりたびたび江夏郡(こうかぐん)には侵攻しており、そのためにより多くの派兵が要請され、具体的な作戦に加わるよう指示があったのかもしれない。


 また、これ以外にも曹操(そうそう)からの要求はあったようである。


 『孫権(そんけん)の従兄(いとこ)の予章太守(よしょうたいしゅ)・孫賁(そんほん)は、その娘が曹操(そうそう)の息子の嫁になっていることから、曹操(そうそう)が荊州(けいしゅう)を手に入れると、孫賁(そんほん)は畏(おそ)れて、息子を人質として曹操(そうそう)へ差し出そうとした。朱治(しゅち)はその事を聞くと、孫賁(そんほん)を説得して、これにより人質を送ることを止めた。』[朱治(しゅち)伝]


 これは孫権(そんけん)の従兄(いとこ)・孫賁(そんほん)に関してであり、その内容も孫賁(そんほん)が自発的にやったように読めるが、曹操(そうそう)からの人質要求はあったかもしれない。曹操(そうそう)の人質であれば、その名目は朝廷(ちょうてい)への出仕(つまり曹操(そうそう)に直接仕える)の可能性も高く、あるいは孫権(そんけん)自身の出仕も要求した可能性があるのではないだろうか。


 一見すると、孫権(そんけん)が曹操(そうそう)に仕えるのと、孫権(そんけん)が曹操(そうそう)に降伏するのは同じようにも思えるが、江東(こうとう)の豪族(ごうぞく)として孫家(そんけ)がそのまま残るか、孫家(そんけ)そのものが解体吸収されるかの差がある。孫権(そんけん)が曹操(そうそう)に仕えても、従兄(いとこ)の孫賁(そんほん)らが江東(こうとう)に残り続けるのであれば江東(こうとう)の豪族(ごうぞく)としての孫家(そんけ)は維持される。ただ、将来的には吸収されることを視野に入れた要求ではあるだろう。



 ◎魯粛(ろしゅく)・孔明(こうめい)の説得



 この時の降伏論に対し、魯粛(ろしゅく)は以下のような行動に出た。


 『魯粛(ろしゅく)は劉備(りゅうび)の使者として孔明(こうめい)を伴(ともな)い、孫権(そんけん)の元に帰還した。群臣の曹操(そうそう)に帰順すべきという意見に、魯粛(ろしゅく)は何も言わず、孫権(そんけん)が手洗いに立つと魯粛(ろしゅく)はこれを追いかけ、孫権(そんけん)に答えた。


 「先ほどからの群臣の意見は孫権(そんけん)様を誤らせるもので、聞くべきではありません。もし、私が曹操(そうそう)に降伏すれば、高い役職をもらい、いずれは州刺史(しゅうしし)や郡太守(ぐんたいしゅ)にもなれるでしょう。ですが、孫権(そんけん)様が降伏すれば、どこに居場所があるでしょうか。あのような意見を採用しないように」


 これに対して孫権(そんけん)は嘆息(たんそく)していった。「群臣達の意見は私を失望させるものであった。今、あなたの意見は私の考えに齟齬(そご)がない。天があなたを私に授けてくださったのだ」


 この時、周瑜(しゅうゆ)は使者の役目で鄱陽(はよう)にいたが、魯粛(ろしゅく)は孫権(そんけん)に彼を召し返すよう進言した。』[魯粛(ろしゅく)伝]


 援軍であれ、人質であれ、朝廷出仕(ちょうていしゅっし)であれ、孫権(そんけん)は曹操(そうそう)からの要求に答えるのを良しとせず、魯粛(ろしゅく)の意見を入れ、曹操(そうそう)との開戦を望むようになった。


 また、魯粛(ろしゅく)に同行してきた劉備(りゅうび)の軍師・孔明(こうめい)も孫権(そんけん)と会見を行った。


 『孔明(こうめい)は孫権(そんけん)を説得しようと言った、「天下は乱れ、孫権(そんけん)様は江東(こうとう)を所有され、劉備(りゅうび)様もまた南部で軍勢を従え、曹操(そうそう)と天下を争っております。今、曹操(そうそう)は天下の大半を平定し、さらに荊州(けいしゅう)を破って、威勢は世を震わせております。英雄は武を用いる余地もなく、やむなく劉備(りゅうび)様も遁走(とんそう)してこちらに参られました。


 孫権(そんけん)様もご自身の力量を推し量り、もし呉(ご)の軍勢で曹操(そうそう)に対抗できるとお思いなら、即刻国交を断絶すべきです。もし、対抗できないとお思いなら、服従すべきです。今、孫権(そんけん)様は外では服従の素振りを見せつつも、内では引き延ばしを謀(はか)っております。事態が切迫しているのに、決断されないのであれば、災禍(さいか)にまみえることでしょう。」


 それに対して孫権(そんけん)、「もし、君の言う通りなら、なぜ、劉備(りゅうび)は曹操(そうそう)に服従しないのか。」これに孔明(こうめい)が答える、「劉備(りゅうび)様は皇帝の後裔(こうえい)であり、その英才は卓越(たくえつ)しており、多くの士が敬慕(けいぼ)しております。これで事がならないのは天命です。どうして曹操(そうそう)の下につけましょうか」


 孫権(そんけん)ムッとして、「私は江東(こうとう)の領地、十万の軍勢を持ちながら、他人の干渉(かんしょう)を受けるわけにはいかない。私は決心した。劉備(りゅうび)以外に曹操(そうそう)に当たれる者はいないが、今、劉備(りゅうび)は曹操(そうそう)に敗れたばかりだ。どうして頼りにすることができようか」


 孔明(こうめい)、「劉備(りゅうび)様は長坂(ちょうはん)で敗れたといっても、今、逃げ帰った兵と関羽(かんう)の水軍を合わせて一万、劉琦(りゅうき)の江夏(こうか)軍が一万おります。対して曹操(そうそう)軍は遠征で疲れております。さらに、北方の人間は水戦に不慣れです。また荊州(けいしゅう)は曹操(そうそう)を畏(おそ)れて従っているだけで、心から従っているわけではございません。


 今、孫権(そんけん)様が勇猛な指揮官に兵数万を与え、劉備(りゅうび)様と協力すれば、曹操(そうそう)を撃破できます。曹操(そうそう)を倒し、北方に追い返せば、荊州(けいしゅう)・揚州(ようしゅう)の軍勢は強大になり、三者鼎立(ていりつ)の状況が作れます。成功失敗のきっかけは本日にあります。」


 孫権(そんけん)は、多いに喜び、すぐさま周瑜(しゅうゆ)・程普(ていふ)(本編、テイフ、9話より登場)・魯粛(ろしゅく)ら水軍三万を派遣し、孔明(こうめい)を劉備(りゅうび)の元に行かせ、協力して曹操(そうそう)を防がせた。』[諸葛亮(しょかつりょう)伝]


 『蜀志(しょくし)』(『正史三国志』の蜀(しょく)(劉備(りゅうび))側の記録)を読む限り、この時に孫権(そんけん)を動かしたのはこの時の孔明の言葉によってである。対して『呉志(ごし)』(『正史三国志』の呉(ご)(孫権(そんけん))側の記録)を読むと、孫権(そんけん)を動かしたのは、魯粛(ろしゅく)、そしてこの後に登場する周瑜(しゅうゆ)となっている。同じ『正史三国志』内でも食い違いがあるが、蜀(しょく)側の公式記録と呉(ご)側の公式記録の参考にした結果起きた食い違いだろう。


 この三者がどのような順番で孫権(そんけん)と話したからはっきりしないが、孫権(そんけん)が軍を預け、実際に曹操(そうそう)と戦うことになるのは周瑜(しゅうゆ)である。ならば、孫権(そんけん)が最終的に決断できたのは、周瑜(しゅうゆ)が勝算ありと語ったことが決め手であったのだろう。


 魯粛(ろしゅく)はこの時まだ家臣内では下っ端に過ぎず、孔明(こうめい)はよそ者である。この二人の言葉だけで、孫権(そんけん)が曹操(そうそう)との開戦を決断できるとも思えない。だが、この二人の説得は無駄でもなかっただろう。魯粛(ろしゅく)の話により、孫権(そんけん)は曹操(そうそう)との開戦という選択肢を得、孔明(こうめい)の話により、劉備(りゅうび)が未だ有力な協力者になり得るとわかり、孫権(そんけん)の後押しをすることとなった。


 しかし、下っ端とよそ者では、孫権(そんけん)が納得しても、群臣をも説得させるまでには至らない。そこで魯粛(ろしゅく)は周瑜(しゅうゆ)の招集を提案した。



 ◎周瑜(しゅうゆ)の登場



 周瑜(しゅうゆ)がこの時駐屯していた鄱陽(はよう)は(孫権(そんけん)のいる)柴桑(さいそう)と同じ予章郡(よしょうぐん)内にあり、そこまで遠い場所ではない。周瑜(しゅうゆ)が鄱陽(はよう)にいた詳細な理由は不明だが、当時、鄱陽(はよう)には独立勢力があり、呉(ご)の時代にもたびたび反乱を起こしていたようなので、その勢力との交渉であったのかもしれない。


 『到着した周瑜(しゅうゆ)は降伏論に対し、「曹操(そうそう)の正体は漢(かん)に仇(あだ)なす賊徒(ぞくと)です。一方、孫権(そんけん)様は武略と才能を有し、加えて父孫堅(そんけん)様、兄孫策(そんさく)様の偉業を継ぎ、江東(こうとう)に割拠しております。その土地は数千里に及び、兵は精強、英傑が忠誠を誓っておりますから、漢(かん)の賊徒(ぞくと)を除くべきです。ましてや曹操(そうそう)は自ら死地に飛び込んできたのに、迎え入れる必要はありません。


 今、北方は未だ不安定で、馬超(ばちょう)(本編、バチョウ、68話声のみ登場)らが関西(かんせい)におり、曹操(そうそう)の後患(こうかん)となっております。さらに騎馬を捨て船を得て、呉(ご)に戦いを挑むのは、彼らの得意とするところではありません。また、今の時期は寒さが厳しく、馬に秣(まぐさ)無く、敵は遠く湿地を通っているので、風土に慣れず、必ず疫病(えきびょう)が生じましょう。これらの点を犯して曹操(そうそう)は進んで来ておりますから、そのうち奴を捕虜にできるでしょう。願わくは私に精鋭三万を預けてください。必ず曹操(そうそう)を打ち破ってみせます」


 孫権(そんけん)は言った。「老いぼれの悪党(曹操(そうそう))が自ら帝位に就(つ)こうとしていることは以前から知られたことだ。ただ袁紹(えんしょう)・袁術(えんじゅつ)や呂布(りょふ)、劉表(りゅうひょう)と私を憚(はばか)って出来ずにいた。今は多くの群雄が滅び、私だけが残っている。私とあの悪党は両立できぬ。周瑜(しゅうゆ)の意見は私の意見と合致している。これぞ天が周瑜(しゅうゆ)を私に授けてくださったのだ」』[周瑜(しゅうゆ)伝]


 この周瑜(しゅうゆ)の発言に推され、孫権(そんけん)はついに曹操(そうそう)との開戦を決意する。


 周瑜(しゅうゆ)は揚州(ようしゅう)盧江郡(ろこうぐん)舒県(じょけん)の人。その家は代々名家として知られ、周瑜(しゅうゆ)の従祖父(じゅうそふ)・周景(しゅうけい)(本編未登場)とその子・周忠(しゅうちゅう)(本編未登場)という二人の太尉(たいい)(大臣最高位の三公の一つ)を輩出し、周瑜(しゅうゆ)の父・周異(しゅうい)(本編未登場)は洛陽県令(らくようけんれい)(首都である洛陽(らくよう)の長官)であった。


 孫堅(そんけん)が董卓(とうたく)討伐で挙兵すると、自身の家族を舒(じょ)の周家(しゅうけ)に預けた。孫堅(そんけん)の子・孫策(そんさく)と周家(しゅうけ)の子・周瑜(しゅうゆ)とは同い年であり(周瑜(しゅうゆ)伝注に引く『江表伝(こうひょうでん)』の呉夫人(ごふじん)の言葉によれば周瑜(しゅうゆ)の生まれの方が一ヶ月だけ遅かったという)、特に親しく交わりを結んだ。


 孫策(そんさく)伝の注に引く『江表伝(こうひょうでん)』によると、周瑜(しゅうゆ)自ら孫策(そんさく)を訪ね、そこで親しくなり、周瑜(しゅうゆ)の勧めで舒(じょ)の周家(しゅうけ)へ疎開(そかい)したという。だが、おそらく当時の周家(しゅうけ)のまとめ役は従父(おじ)の周忠(しゅうちゅう)であり、彼は董卓が(とうたく)支配する朝廷(ちょうてい)で大司農(だいしのう)(大臣の一つ)(周忠(しゅうちゅう)が太尉(たいい)に昇進するのは192年)を務めていた。その周忠(しゅうちゅう)の実家で、董卓(とうたく)討伐を行う孫堅(そんけん)の妻子を匿(かくま)うことを当時まだ少年であった周瑜(しゅうゆ)の一存で決められるとは思えない。


 おそらく周家(しゅうけ)の総意で匿(かくま)われたのだろう。元々、周家(しゅうけ)の基盤を築いた周瑜(しゅうゆ)の高祖父・周栄(しゅうえい)(本編未登場)は、袁紹(えんしょう)・袁術(えんじゅつ)らの高祖父・袁安(えんあん)(本編未登場)の部下であり、代々周家(しゅうけ)と袁家(えんけ)は親しい関係にあった。


 董卓(とうたく)討伐で挙兵したのは袁紹(えんしょう)・袁術(えんじゅつ)らもであり、また袁術(えんじゅつ)は孫堅(そんけん)と手を組んでいた。周家(しゅうけ)が孫堅(そんけん)に協力するのはこの辺りの事情であろうか。さらに周忠(しゅうちゅう)個人の事情でいえば、彼の息子は董卓(とうたく)に警戒され、殺されている。周忠(しゅうちゅう)は董卓(とうたく)の側にいたが、心は反董卓(とうたく)側にいたのであろう。


 袁術(えんじゅつ)を介(かい)して孫家(そんけ)と強い繋(つな)がりをもった周家(しゅうけ)であったが、周瑜(しゅうゆ)個人はともかく、周家(しゅうけ)自体でいうなら、孫家(そんけ)より袁家(えんけ)との繋(つな)がりの方が強かったようで、袁術(えんじゅつ)の力が強い間は周瑜(しゅうゆ)も袁術(えんじゅつ)の指示に従っている。周瑜(しゅうゆ)が正式に孫策(そんさく)の傘下(さんか)に入ったのは198年頃のことで、袁術(えんじゅつ)が皇帝を称し、その勢力に陰(かげ)りが見え始めた頃であった。


 周瑜(しゅうゆ)が孫策(そんさく)に従ったのは彼の活躍期間から見れば晩年といえる時期であったが、孫策(そんさく)は周瑜(しゅうゆ)を中護軍(ちゅうごぐん)・江夏太守(こうかたいしゅ)とし、来て早々に幹部待遇で扱った。


 だが、周瑜(しゅうゆ)が来てわずか2年後の200年に孫策(そんさく)は亡くなってしまう。後を継いだ孫権(そんけん)はまだ若かったために、部下の中には軽んじる者もいたが、名門出身である周瑜(しゅうゆ)が率先して孫権(そんけん)に従ったので、周囲も次第に孫権(そんけん)に従うようになったという。


 孫家(そんけ)が江東(こうとう)で基盤を維持する上で周瑜(しゅうゆ)の存在は欠かせないものであった。だが、孫権(そんけん)が継いでも実質的な支配者は母の呉夫人(ごふじん)であり、彼女は領土の安定を優先し、対外戦争に消極的になったために、周瑜は活躍の場を失うことになってしまう。孫策(そんさく)没後から呉夫人(ごふじん)存命の間、周瑜(しゅうゆ)が戦場に出た記録は206年の山越(さんえつ)討伐と同年の黄祖(こうそ)侵攻の二度。その次は呉夫人(ごふじん)没後の208年の黄祖(こうそ)攻めとなる。


 周瑜(しゅうゆ)は孫策(そんさく)と共闘し、その覇業を助けようと思った矢先に、孫策(そんさく)を喪(うしな)った。さらに方針転換に伴い周瑜(しゅうゆ)はその軍才を活かせずに、数年の時を過ごすこととなった。周瑜(しゅうゆ)はおそらく孫策(そんさく)同様、その方針は領土拡大であり、呉夫人(ごふじん)の政策は彼の望むところではなかったのかもしれない。


 曹操(そうそう)との開戦は周瑜(しゅうゆ)にとってようやく訪れた自分の力を発揮できるチャンスだったのだろう。



 ◎孫賁(そんほん)・孫輔(そんほ)兄弟との決別



 この頃の揚州(ようしゅう)の孫氏(そんし)政権は事実上の連合政権のような状況で、まだ若く、実績の乏しい孫権(そんけん)の立場は決して高いものではなかったと思われる。


 その孫権(そんけん)が、ほぼ独断でそれまでの曹操(そうそう)との友好路線を捨て、開戦に舵(かじ)を切ったのだから、当然、反発は想定された。その中でも特に反発すると思われるのは、曹操(そうそう)との友好路線の恩恵(おんけい)を受け、征虜将軍(せいりょしょうぐん)や平南将軍(へいなんしょうぐん)に任じられた従兄弟(いとこ)の孫賁(そんほん)・孫輔(そんほ)兄弟であろう。


 彼らは曹操(そうそう)に接近することで高官に任じられ、曹操(そうそう)も彼らを高官に取り立てることで、孫権(そんけん)の牽制(けんせい)役として活用した。


 孫賁(そんほん)は曹操(そうそう)が荊州(けいしゅう)を平定したと聞くと、自身の子を人質に差し出そうとしたことは既に書いた。朱治(しゅち)によって食い止められたこの事件は、曹操(そうそう)が荊州(けいしゅう)を獲得し、劉備(りゅうび)が孔明(こうめい)を送って孫権(そんけん)と交渉を始めた頃の出来事であった。


 朱治(しゅち)は前にも書いたが、父・孫堅(そんけん)以来の旧臣で、孫策(そんさく)にいち早く独立するよう説いた人物である。孫策(そんさく)に独立するよう説いただけあって、このまま孫家(そんけ)が曹操(そうそう)に吸収されていくのを良しとしなかったのであろう。


 なお、朱治(しゅち)は呉郡太守(ごぐんたいしゅ)であり、孫賁(そんほん)は豫章太守(よしょうたいしゅ)である。お互いの任地(にんち)に赴任しているのなら、そう気軽に会いに行けるとは考えにくい。孫賁(そんほん)は豫章太守(よしょうたいしゅ)であると同時に孫氏(そんし)政権の幹部でもある。もしかしたら、任地(にんち)には代理を派遣し、自身は呉郡(ごぐん)にいたのかもしれない。孫権(そんけん)は会稽太守(かいけいたいしゅ)ではあったが、実際には呉郡(ごぐん)に留まっていた。おそらく、呉郡(ごぐん)は孫氏(そんし)政権の本拠地であり、その幹部である孫賁(そんほん)らも呉郡(ごぐん)に滞在(たいざい)していたのではないだろうか。だからこそ、朱治(しゅち)は孫賁(そんほん)の計画をいち早く知り、すぐに対応が取れたのだろう。


 だが、孫権(そんけん)自身は前述した通り、この時点では豫章郡(よしょうぐん)の柴桑(さいそう)にいる。本来は荊州(けいしゅう)の難事へ対応するための遠征だったのだろうが、結果的に孫賁(そんほん)らと距離をおくことができ、彼らの意見を無視して開戦を決断することができたのではないだろうか。


 また、おそらくこの頃にもう一つ事件が起きている。今度は孫賁(そんほん)の弟・孫輔(そんほ)であった。


 『孫輔(そんほ)は使者を派遣して曹操(そうそう)と交渉を持っていたことが発覚し、孫権(そんけん)は彼を幽閉(ゆうへい)した。』〔孫輔(そんほ)伝〕


 また、注に引く『典略(てんりゃく)』によると、孫輔(そんほ)は孫権(そんけん)のいない隙(すき)に曹操(そうそう)へ手紙を送ったが、その使者が孫権(そんけん)に報告して発覚。孫権(そんけん)は張昭(ちょうしょう)とともに孫輔(そんほ)を問い詰(つ)め、観念した孫輔(そんほ)は東方に強制移住させられたとある。


 しかし、曹操(そうそう)とは少し前まで普通に交流していた相手であるし、その相手に手紙を送ったことそのものが問題とは考えにくい。この時の孫輔(そんほ)の手紙の内容は不明だが、兄の孫賁(そんほん)に至っては人質を送ろうとさえしている。その孫賁(そんほん)でさえ幽閉(ゆうへい)にはなっていないのであるから、一体、孫輔(そんほ)はどれほどの内容の手紙を送ったのかと考えてしまう。ここまで来ると孫権(そんけん)に対して謀叛(むほん)ぐらい考えていたのではないかとも思えるが、その息子たちはそれぞれしかるべき地位に就(つ)いたという。具体的な地位は不明だが、謀叛(むほん)人の子供とは思えない厚遇(こうぐう)である。


 実際のところ、孫輔(そんほ)が送った手紙というのはそこまで大きな内容ではなかったのではないか。だが、孫権(そんけん)は曹操(そうそう)との開戦を決断し、独立を計った。当然、孫賁(そんほん)・孫輔(そんほ)の反発は予想されるし、何より彼らがいる限り孫権(そんけん)の権力が強まることはない。そこで孫輔(そんほ)に理由をつけて幽閉(ゆうへい)し、これを黙らせ、さらに孫賁(そんほん)をも牽制(けんせい)したのではないだろうか。


 孫権(そんけん)が具体的に孫賁(そんほん)に対して何かしたという記述はない。だが、曹操(そうそう)がおそらく赤壁(せきへき)の戦いから3年後の211年頃に孫権(そんけん)に送った手紙(『文選(もんぜん)』の「為曹公(曹公のために)作書(書を作り)与孫権(孫権に与う)」より)には、『交州(こうしゅう)(刺史(しし)の孫輔(そんほ))はあなた(孫権(そんけん))によって捕えられ、豫章(よしょう)(太守(たいしゅ)の孫賁(そんほん))はあなたの命令を拒(こば)み、指図を受け付けない』という状況であったと綴(つづ)られている。


 孫権(そんけん)は孫賁(そんほん)に罪を科しこそしなかったものの、豫章(よしょう)に押し込み、政権中枢(ちゅうすう)から追い出すことに成功したようである。


 なお、その後の孫賁(そんほん)・孫輔(そんほ)であるが、孫賁(そんほん)は『正史』の記述から210年頃に亡くなったと推測され、孫輔(そんほ)も幽閉(ゆうへい)から数年後に死去したという。偶然にも二人はかなり近い時期に亡くなったことがわかる。あるいは前述の曹操(そうそう)からの手紙を受け、この状況を利用されることを恐れて始末されたのかもしれない。


 本編では、ソンフン・ソンホ兄妹は物語の都合で悪役的な立ち位置であったが、実際には孫権(そんけん)との政争に敗れたために不遇をかこった二人と言える。この二人が悪かったというよりは、孫権(そんけん)が権力を得る上で邪魔であったから排除されたのであり、見方によっては気の毒な犠牲者となるだろう。


 だが、この二人を排除したことにより、孫権(そんけん)は江東(こうとう)において権力を確立し、これが後に呉(ご)の建国へとつながっていった。三国志の時代を迎えるにあたって避けては通れない道であったのだろう。

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