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歴史解説 赤壁の戦いその5(全6回)

 ※これは別に連載中の小説『学園戦記三国志』の歴史解説回を独立・編集して掲載するものです。


↓学園戦記三国志リンク https://ncode.syosetu.com/n2756fp/




 前回は孫権(そんけん)周瑜(しゅうゆ)魯粛(ろしゅく)孔明(こうめい)らの言葉によってついに曹操(そうそう)との開戦を決断したことを述べた。今回は孫権(そんけん)曹操(そうそう)両勢力が赤壁(せきへき)にて開戦に至るまでの流れを解説していく。



 ◎周瑜(しゅうゆ)曹操(そうそう)討伐軍



 開戦を決断した孫権(そんけん)周瑜(しゅうゆ)を指揮官とし、曹操(そうそう)討伐軍を組織した。その軍団は以下のようなものであった。


 『周瑜(しゅうゆ)程普(ていふ)とが左右の(とく)となり、それぞれに一万の軍を指揮し、劉備(りゅうび)と共同して軍を進めた。』[呉主(ごしゅ)伝]


 まず、兵力だが、『呉主(ごしゅ)伝』(孫権(そんけん)の伝記)では周瑜(しゅうゆ)程普(ていふ)にそれぞれ一万の軍を指揮させたとある。この他、『先主(せんしゅ)伝』(劉備(りゅうび)の伝記)では数万としか書かれないが、『諸葛亮(しょかつりょう)伝』では三万、『先主(せんしゅ)伝』及び『周瑜(しゅうゆ)伝』の注に引用されている『江表伝(こうひょうでん)』でも三万、『後漢紀(ごかんき)』でも三万とある。


 赤壁の戦いのでは一般的に周瑜(しゅうゆ)軍は三万とされる。『呉主(ごしゅ)伝』との記述と合わせると周瑜(しゅうゆ)配下一万、程普(ていふ)配下一万、その他黄蓋(こうがい)らの他の武将の手勢を合わせて一万というところだろうか。この頃の軍勢は実態より多めに報告するものだから、三万は実際より多めの数なのかもしれない。実際の内訳は不明だが、この時の兵力は二万〜三万ぐらいと推定しておく。


 次に軍の総指揮官だが、前述の『呉主(ごしゅ)伝』にあるとおり、この討伐軍の総督(そうとく)周瑜(しゅうゆ)程普(ていふ)の二人が務め、『呉主(ごしゅ)』伝を読む限りその立場は同格であったようだ。


 だが、『孫皎(そんこう)(本編未登場)伝』によると、後に呂蒙(りょもう)(本編、リョモウ、77話より登場)がこの戦いを述懐(じゅつかい)して以下のような発言をしている。


『「以前、周瑜(しゅうゆ)程普(ていふ)とが左右の指揮官となり、共同して江陵(こうりょう)を攻めたことがありました。最終的な決定は周瑜(しゅうゆ)がしましたが、程普(ていふ)には古参(こさん)という自負があり、二人は不仲となって、国家の大事を危うく損ないかけました」』[孫皎(そんこう)伝]


 呂蒙(りょもう)()の武将で、赤壁(せきへき)の戦いにも参戦しており、身近で見ていた一人である。彼のこの発言から、周瑜(しゅうゆ)が最終的な決定権を有していたことがわかる。周瑜(しゅうゆ)程普(ていふ)、両者の立場は同格ではあったが、この部隊の主体は周瑜(しゅうゆ)であった。だが、そのために両者の仲は険悪となり、『周瑜(しゅうゆ)伝』には周瑜(しゅうゆ)程普(ていふ)は仲が良くなかったとはっきり書かれている。


 さらに『周瑜(しゅうゆ)伝』の注には以下のような記載がある。


程普(ていふ)は自分の方が年長者であることから、度々周瑜(しゅうゆ)(あなど)った。対して周瑜(しゅうゆ)下手(したて)に出て、逆らおうとはしなかった。程普(ていふ)は後に周瑜(しゅうゆ)に心服し、親しみ、尊重するようになると、人に()げて言った。「周瑜(しゅうゆ)殿と交流していると、芳醇(ほうじゅん)な美酒を()んだかのように、自らが酔ったことに気が付かない」』[周瑜(しゅうゆ)伝注江表伝(こうひょうでん)]


 程普(ていふ)孫堅(そんけん)の時代より仕える宿将で、軍の中でも最年長であることから程公(ていこう)と呼ばれ、とりわけ敬われていた。対して周瑜(しゅうゆ)孫策(そんさく)の友人で、家臣としては比較的新参であったが、来てすぐに幹部扱いとして(ぐう)された。親子ほど年の離れた若僧が来て早々に自分とほぼ同列に扱われているあたりが、程普(ていふ)周瑜(しゅうゆ)を気に入らなかった理由だろう。その実力を認めるより前に自分と同格の軍の総指揮官となったために余計不仲に拍車(はくしゃ)をかけることとなった。


 後に程普(ていふ)周瑜(しゅうゆ)を認め、親しくなっているが、前述の呂蒙(りょもう)の発言には、両者の不仲によって国家の大事を危うく損ないかけたとある。そのことからもおそらく、両者が良好になるのは赤壁(せきへき)の戦いの後のことで、赤壁(せきへき)の最中は、それこそ不仲のために敗戦になりかけるほどに決裂(けつれつ)していたのだろう。


 両者をほぼ同格としたのは孫権(そんけん)の失策といえるだろう。孫権(そんけん)自らが出陣して総指揮を()れば解決するのだが、孫権(そんけん)は戦が不得手(ふえて)で、この時代で最も戦上手の曹操(そうそう)との戦争は他の者に任せるしかない。また、この戦いに負ければ後がないという状況で少しでも保険をかけた結果だろう。


 また、この討伐軍の参謀には魯粛(ろしゅく)が任命されている。


周瑜(しゅうゆ)に総指揮を任せ、魯粛(ろしゅく)賛軍校尉(さんぐんこうい)として、周瑜(しゅうゆ)が戦略を立てる時の助言者とならせた』[魯粛(ろしゅく)伝]


 この他、赤壁(せきへき)の戦い及びその後の荊州(けいしゅう)戦に参加したという記述のある者は、呂蒙(りょもう)黄蓋(こうがい)韓当(かんとう)(本編、カントウ、9話より登場)・周泰(しゅうたい)甘寧(かんねい)(本編、カンネー、77話より登場)・凌統(りょうとう)(本編、リョートー、77話より登場)・呂範(りょはん)らが挙げられる。


 その他、本編では、ショーキン(蒋欽(しょうきん))(本編、23話より登場)、タイシジ(太史慈(たいしじ))(本編、19話より登場)、ハンショー(潘璋(はんしょう))(本編、89話より登場)らが参戦している。


 実際にはこの時、蒋欽(しょうきん)呂岱(りょたい)(本編未登場)や賀斉(がせい)(本編未登場)らと共に領内の叛乱鎮圧(はんらんちんあつ)に従事しており、潘璋(はんしょう)荊州(けいしゅう)との州境で防衛の任に()いており、共に赤壁(せきへき)の戦いには不参加であったと思われる。


 孫権(そんけん)の領土内には、山越(さんえつ)という異民族が同居し、また不服住民も多く、安定しているとは言い難い状態であった。そのため、武将や兵士を各地に分散して配置せねばならない状況となっていた。


 なお、太史慈(たいしじ)はこの二年前の206年に死去している。享年41歳。あまりにも呆気(あっけ)ない退場のため、本編でどうしていいのか未だに決めかねている。本当にどうしたものか。



 ◎曹操(そうそう)荊州(けいしゅう)政策



 周瑜(しゅうゆ)率いる曹操(そうそう)討伐軍の編成が決まったところで、ここで舞台を荊州(けいしゅう)江陵(こうりょう)に移し、荊州(けいしゅう)を占領した曹操の様子を解説しておこう。


 長阪(ちょうはん)劉備(りゅうび)に勝利した曹操(そうそう)はそのまま江陵(こうりょう)へ入った。


 『江陵(こうりょう)に入った曹操(そうそう)は、荊州(けいしゅう)の官民に布告(ふこく)を下し、罪を洗い流すことを宣言した。降伏した荊州(けいしゅう)劉琮(りゅうそう)とその部下の功績を評価し、十五人を列侯(れっこう)とし、劉表(りゅうひょう)の武将・文聘(ぶんへい)江夏郡(こうかぐん)太守(たいしゅ)とした。』[武帝紀(ぶていき)]


 『武帝紀(ぶていき)』の記述を読む限り、曹操(そうそう)はこの後赤壁(せきへき)へ出陣するまでの間、政務は劉琮(りゅうそう)のいる襄陽(じょうよう)ではなく、ここ江陵(こうりょう)で行ったようである。


 この地にて曹操(そうそう)は、降伏した劉琮(りゅうそう)とその家臣の処遇を決定した。


 『劉琮(りゅうそう)青州刺史(せいしゅうしし)とし、列侯(れっこう)に取り立て、後に諫議大夫(かんぎたいふ)参同軍事(さんどうぐんじ)に昇進させた。』[劉表(りゅうひょう)伝]


 注にある『魏武故事(ぎぶこじ)』の曹操(そうそう)の命令書から劉琮(りゅうそう)荊州(けいしゅう)から切り離され、軍を放棄したことがわかる。この功績により彼は昇進した。


 『蒯越(かいえつ)光禄勲(こうろくくん)韓嵩(かんすう)大鴻臚(だいこうろ)鄧羲(とうぎ)(本編未登場)を侍中(じちゅう)劉先(りゅうせん)(本編未登場)を尚書(しょうしょ)(後に()尚書令(しょうしょれい))とした。』[劉表(りゅうひょう)伝]


蔡瑁(さいぼう)従事中郎(じゅうじちゅうろう)司馬(しば)長水校尉(ちょうすいこうい)漢陽亭侯(かんようていこう)となった』[襄陽記(じょうようき)]


 列侯(れっこう)とは爵位(しゃくい)(身分制度)の一つで、(こう)の位と領土を与えられる。この領土に対して統治権を持たない、つまり、実際に領主として政治をやることはできないが、その領土から得た税金を生活費として支給される。つまり、働かなくてもお金が貰える夢の地位である。一般的に与えられた地名を取って○○(こう)と呼ばれる。


 列侯(れっこう)の上は公や王となるが、これは一般的には皇族しか任命されないため(後に皇族以外で名乗る人が出てくるが)、列侯(れっこう)が人臣の最高位となる。(一口に列侯といっても、その土地の大小や優劣等で立場に差があるが、今は省略する)


 『武帝紀(ぶていき)』にあるように劉表(りゅうひょう)配下の者達の内、十五人を列侯(れっこう)にしたという(おそらく劉琮(りゅうそう)を含む)。『劉表(りゅうひょう)伝』には蒯越(かいえつ)らとあることから、蒯越(かいえつ)が含まれることはわかるが、後の人名は不明である。おそらく、元劉表(りゅうひょう)の重臣()曹操(そうそう)への降伏に積極的であった者だろう。


 考えるに、蒯越(かいえつ)と共に高官となった韓嵩(かんすう)らと漢陽亭侯(かんようていこう)になっている蔡瑁(さいぼう)がこの十五人の内なのだろう。(ただし、蔡瑁(さいぼう)曹操(そうそう)降伏後いつ任命されたかは不明)


 他に候補としては蒯良(かいりょう)張允(ちょういん)がいる。


 蒯良(かいりょう)劉表(りゅうひょう)荊州(けいしゅう)に来た時から加わっている部下だが、それ以降の記録がない。だが、『世説新語(せせつしんご)』の注にある『晋陽秋(しんようしゅう)』によると蒯良(かいりょう)吏部尚書(りぶしょうしょ)になったという。吏部尚書(りぶしょうしょ)朝廷(ちょうてい)の役職で劉表(りゅうひょう)が任命するような役職ではない。そのため、曹操(そうそう)降伏後に任命された可能性が高く、彼もこの時の降伏メンバーに入っていたのかもしれない。


 張允(ちょういん)劉表(りゅうひょう)外甥(がいせい)(他氏の(おい))であったという。その具体的な関係性は不明だが、『襄陽記(じょうようき)』にそれらしい記述がある。蔡瑁(さいぼう)叔母(おば)張温(ちょうおん)(本編、チョーオン、8話より登場)の妻となった。張温(ちょうおん)荊州南陽郡穣県けいしゅうなんようぐんじょうけんの人。太尉(たいい)(三公の一つ、大臣最高位)・互郷侯(ごきょうこう)(列侯(れっこう))となったが、後に董卓(とうたく)に殺された。この張温(ちょうおん)張允(ちょういん)の祖父と仮定すると、蔡瑁(さいぼう)とその姉を(めと)った劉表(りゅうひょう)から見て、外甥(がいせい)(正確には従兄弟(いとこ)の子)となる。これはあくまで仮定で、記録に残ってない劉表(りゅうひょう)婚姻(こんいん)関係のある別の張氏(ちょうし)の可能性もあるが、張允(ちょういん)張温(ちょうおん)の孫と仮定すれば、劉表(りゅうひょう)の一族で、劉琮(りゅうそう)後継に積極的に協力したことに加え、三公・列侯(れっこう)の孫となり、曹操(そうそう)から列侯(れっこう)に封じられる可能性は高いと言える。しかし、曹操(そうそう)降伏後の張允(ちょういん)の記録がないために詳細は不明。[後漢書(ごかんじょ)竇武(とうぶ)伝、後漢書(ごかんじょ)劉表伝(りゅうひょう)襄陽記(じょうようき)]


 まだ十五人には足りないが、後に漢中(かんちゅう)張魯(ちょうろ)が降伏すると、曹操(そうそう)はその五人の子も列侯に取り立てたとあるので、劉表(りゅうひょう)やその家臣の一族も別に列侯(れっこう)としたのかもしれない。


 その他だと、傅巽(ふそん)関内侯(かんだいこう)文聘(ぶんへい)江夏太守(こうかたいしゅ)関内侯(かんだいこう)王粲(おうさん)(本編、オウサン、63話より登場)を丞相掾(じょうしょうじょう)関内侯(かんだいこう)に任命している。[劉表(りゅうひょう)伝、文聘(ぶんへい)伝、王粲(おうさん)伝]


 関内侯(かんだいこう)列侯(れっこう)の一つ下の爵位(しゃくい)で、特定の領地は持たないが、領地相当の金銭を受け取れる身分である。


 そのため、上記の者達は十五人の列侯(れっこう)には含まれないが、それに準じる待遇を与えられた者達である。


 この他、この頃に曹操(そうそう)(つか)えた荊州人士(けいしゅうじんし)では、梁鵠(りょうこく)(本編、リュウコク、63話名のみ登場)、桓階(かんかい)(本編、カンカイ、91話より登場)、和洽(わこう)(本編未登場)、裴潜(はいせん)(本編、ハイセン、91話より登場)、韓曁(かんき)(本編、カンキ、92話名のみ登場)、杜夔(とき)(本編、トキ、63話名のみ登場)らが挙げられる。



 ◎208年の日食



 本編の赤壁(せきへき)の戦いにおいて日食が大きな役割を(にな)っている。学校を舞台にしている関係上、実際に放火するわけにはいかないための処置だが、この日食は全くの虚構(きょこう)ではない。


 『建安(けんあん)十三年(208年)冬十月、日食があった』[後漢書(ごかんじょ)孝献帝紀(こうけんていき)]


 赤壁(せきへき)の戦いのあった208年に実際に日食はあった。正確に言えば赤壁(せきへき)の戦いがあったのはこの年の12月とされているので、10月にあったこの日食とは二ヶ月ほど開きがあるが、本編の日食はこの記述から着想を得て書いている。


 この時の日食がどのようなものであったのか。『献帝(けんてい)の見た日食 後漢(ごかん)末から(しん)統一までの71の日蝕(にっしょく)一覧』にて詳しく検証されているので紹介しよう。この本では各都市から日食がいつ頃どう見えたか検証されている。その都市に荊州(けいしゅう)の都市はないが、比較的近い柴桑(さいそう)(この頃孫権(そんけん)孔明(こうめい)がいた都市)で確認しよう。


 208年の10月27日、柴桑(さいそう)からは|食分(日が隠れた最大時のパーセント)83.4%、日食開始時刻08:05、日食最大時刻09:24、日食終了時刻10:51。かなり深い日食なので、天候に問題なければ全ての人が認識できた。


 この年の10月頃ならば、曹操(そうそう)劉備(りゅうび)を破り、江陵(こうりょう)にて荊州(けいしゅう)の人事を行っていた頃だろう。劉備(りゅうび)孔明(こうめい)江東(こうとう)に派遣し、孫権(そんけん)曹操(そうそう)との開戦を決定したかどうかぐらいであろうか。


 なお、古代中国では天変地異が起きるとその責任を取って大臣が罷免(ひめん)された。日食もその対象であり、後漢(ごかん)時代ではその責任を取る者は太尉(たいい)と決まっていた。ただ罷免(ひめん)といっても慣習的なもので、罷免(ひめん)された太尉(たいい)が時間をおいて太尉(たいい)に再任されたり、別の高官に()くことも多かった。


 太尉(たいい)は大臣最高位である三公の一つ。軍事を(つかさど)るが、実際に軍隊を率いるというわけではなく、軍隊を管理し、その賞罰を皇帝を奏上(そうじょう)する。その太尉(たいい)がなぜ、日食で責任を取るのかというと、太尉(たいい)の本来の役目は天を(つかさど)り、天変地異の責任は太尉(たいい)にあるとされているからである。また、天文星暦(てんもんせいれき)(つかさど)る役職である太史令(たいしれい)太尉(たいい)管轄(かんかつ)である太常府(たいじょうふ)(礼儀・祭祀(さいし)(つかさど)る部署)に属す。


 元々、大臣最高位は丞相(じょうしょう)という役職であったが、後漢(ごかん)時代に廃止され、その権限は三分割され、三公となった。それを曹操(そうそう)はこの年、208年の初めに三公を廃止・統合し、再び丞相(じょうしょう)を設け、自らその役職に就任した。そのため、この時の日食時には太尉(たいい)の役職は存在さず、当然、誰も罷免(ひめん)されてはいない。


 しかし、見方を変えれば丞相(じょうしょう)である曹操(そうそう)が責任を問われる立場であるとも言えるが、特に責任を取ったという記述はない。もしかしたら、この時の日食への対応が、孫権(そんけん)曹操(そうそう)との開戦を決断する後押しくらいにはなったのかもしれない。


 なお、大臣の罷免(ひめん)であるが、献帝(けんてい)(本編、リューキョー/学園長、5話より登場)が曹操(そうそう)庇護(ひご)されて以降は行われておらず、後に()が出来たばかりの頃の221年の日食の時に、文帝(ぶんてい)(曹丕(そうひ))は天変地異を理由に三公を弾劾(だんがい)してはならないと定め、以降は大臣の罷免(ひめん)が行われなくなった。日食による大臣の罷免(ひめん)曹氏(そうし)によって廃止された。



 ◎赤壁(せきへき)へ至る道



 曹操(そうそう)江陵(こうりょう)にて政務を行って約ニヶ月、この年の12月についに劉備(りゅうび)征討のため西進した。


 小説『三国志演義(えんぎ)』では、荊州(けいしゅう)を平定した曹操(そうそう)が一方的に孫権(そんけん)に対して降伏を勧告。それに対して孫権(そんけん)方は降伏か戦争かの侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を経た後に開戦を決断。周瑜(しゅうゆ)率いる水軍三万と赤壁にて戦闘となる、という流れである。


 この辺りの流れについて詳しく知りたい方は『演義(えんぎ)』を読んでもらうとして、これまで解説してきたように、この時の曹操(そうそう)孫権(そんけん)に対して直接的な戦争の要求はしていなかったと思われる(尊大(そんだい)な応対等はあっただろうが)。


 『正史』の『武帝紀(ぶていき)』にも『曹操(そうそう)自ら劉備(りゅうび)を征討するために江陵(こうりょう)より巴丘(はきゅう)(いた)った』とあり、曹操(そうそう)の目的はあくまでも夏口(かこう)に駐屯する劉備(りゅうび)劉琦(りゅうき)軍の征討であったと思われる。また、赤壁(せきへき)の戦いのあった場所については諸説あるが、いずれも荊州(けいしゅう)内であり、曹操(そうそう)はこの時、孫権(そんけん)の領地には踏み込んでいない。


 整理すると赤壁(せきへき)の戦いにおける曹操(そうそう)の目的は、江夏郡(こうかぐん)劉備(りゅうび)の征討であり、周瑜(しゅうゆ)はその劉備(りゅうび)の救援を名目に参戦した戦いであった。


 以上の事から考えて、この赤壁(せきへき)の戦いでの曹操(そうそう)軍の兵力は巷間(こうかん)語られるほどの大規模なものではなかったのではないだろうか。この戦いでは曹操(そうそう)軍の具体的な兵力は記述がないが、とにかく曹操(そうそう)軍は大軍であったことが強調され、『演義(えんぎ)』では百万の大軍と号していた。これは大げさにしても前述の()の群臣の言葉からも、史実でも数十万の大軍だったのではないかという意見もある。


 しかし、この数字はあくまでも荊州(けいしゅう)平定後の曹操(そうそう)が導入できる最大兵力の予想であり、仮に数十万の兵力を(よう)していたとしても、平定したばかりの荊州(けいしゅう)をほったらかしにしてその全兵力を投入するとは考えにくい。この戦いの本来の目的が劉備(りゅうび)劉琦(りゅうき)軍征討であり、この時の劉備(りゅうび)軍が一万、劉琦(りゅうき)軍が一万の合わせて二万の兵力であったことを考えれば、対する曹操(そうそう)軍はそれ以上の兵力ではあっただろうが、数十万もの兵力を投入する必要はない。


 後述するが、この時の曹操(そうそう)軍は船が無く、川を(いかだ)を自作して渡ったという記録があり、このことから荊州(けいしゅう)水軍の多くは同行していなかったと推察できる。また、この赤壁(せきへき)で戦った記録が曹操(そうそう)側には『武帝紀(ぶていき)』ぐらいにしか記載がなく、この他の荊州(けいしゅう)平定戦に参加したはずの多くの曹操(そうそう)方の武将の伝記に記述がない。


 以上から、この時の曹操(そうそう)軍は曹操(そうそう)本隊を中心とした数万程の兵力だったのではないだろうか。


挿絵(By みてみん)


 さて、江陵(こうりょう)から巴丘(はきゅう)に赴いた曹操(そうそう)だが、『正史』の『武帝紀(ぶていき)』ではこのまま開戦しており、この間の様子がよくわからない。このあたりの流れは『太平御覧(たいへいぎょらん)』が収録する『英雄記(えいゆうき)』によって多少、補完されている。


曹操(そうそう)は進軍して長江(ちょうこう)(いた)り、赤壁(せきへき)から長江(ちょうこう)を渡ろうとした。船がなかったので、竹で(いかだ)を作り、兵士らをそれに乗せた。漢水(かんすい)沿いに川を下り、浦口(ほこう)に着いたが、すぐには長江(ちょうこう)を渡ろうとはしなかった』[英雄記(えいゆうき)]


 曹操(そうそう)軍の動きを『正史』とこの『英雄記(えいゆうき)』の記述から総合して考えると、江陵(こうりょう)巴丘(はきゅう)浦口(ほこう)赤壁(せきへき)という流れだろうか。


 巴丘(はきゅう)については、洞庭湖(どうていこ)の辺りは当時、雲夢沢(うんぼうたく)という湿地帯が広がっていた。『荊州記(けいしゅうき)』にはこの雲夢沢(うんぼうたく)の別名を巴丘湖(はきゅうこ)といい、『水経注(すいけいちゅう)』にはこの近くの山を巴邱山(はきゅうざん)というとある。現在の岳陽市(がくようし)の辺りを指すのだろう。なお、後に周瑜(しゅうゆ)が死去する巴丘(はきゅう)もこの辺りと思われる。


 次は浦口(ほこう)だが、これは涌口(ゆこう)の間違いではないか。涌口(ゆこう)漢水(かんすい)とも通ずる長江(ちょうこう)の支流の一つで、洪湖(こうこ)の辺りにある。


 漢水(かんすい)に従って川を下っていること、また、船がなく(いかだ)を製作していることから、江陵(こうりょう)から巴丘(はきゅう)を経由して漢水(かんすい)沿いまで陸路であったと察せられる。加えて、孫権(そんけん)側が警戒した荊州(けいしゅう)水軍は同行しなかったか、もしくはいても少数であったと考えられる。


 この時の曹操(そうそう)軍は何十万とはいかなくとも、何万かはいたはずで、それを船で移送しようとすると生半可(なまはんか)な数では間に合わない。そのために間に合わない分を(いかだ)で補ったとも考えられるが、前述の『英雄記(えいゆうき)』では、この後の赤壁(せきへき)で焼かれた曹操(そうそう)軍の船は数千(そう)(いかだ)とし、船とは書かれていない。


 また、赤壁(せきへき)戦後、曹操(そうそう)曹仁(そうじん)江陵(こうりょう)に残し、江陵(こうりょう)を巡って周瑜(しゅうゆ)と攻防戦を繰り広げることとなるが、その戦いにも水軍は登場していないことを考えると、曹操(そうそう)孫権(そんけん)が予想したほどには江陵(こうりょう)には船はなかったのではないだろうか。あるいは劉備(りゅうび)長坂(ちょうはん)曹操(そうそう)に敗れ、さっさと江陵(こうりょう)占領を(あきら)めたことを考えると、この時既に劉備(りゅうび)江陵(こうりょう)水軍に対して何かしら対策(焼却、奪取等)を行っていたのかもしれない。


 さすがに劉備(りゅうび)江陵(こうりょう)水軍を奪っていたのは想像に過ぎないが、関羽(かんう)襄陽(じょうよう)から乗っていた船は襄陽(じょうよう)(にいる劉琮(りゅうそう)の)水軍の船と考えられるので、曹操(そうそう)江陵(こうりょう)でも襄陽(じょうよう)でも思ったほど水軍は得られなかったと考えられる。


 それでも曹操(そうそう)夏口(かこう)へ侵攻したのは、水軍戦をそこまで想定していなかったからであろう。この時の曹操(そうそう)の目的は夏口(かこう)籠城(ろうじょう)する劉琦(りゅうき)軍と樊口(はんこう)に駐屯する劉備(りゅうび)軍の討伐である。どちらも長江(ちょうこう)沿いにあるが、船はあくまでも移動手段であって、それで勝敗をつけるつもりはなかった。


 また、劉琦(りゅうき)籠城(ろうじょう)したと思われる卻月城(きゃくつきじょう)(もしくは魯山城(ろざんじょう))は長江(ちょうこう)の北岸側にあり、そこへ向かうだけならば既に北岸ルートで進行している曹操(そうそう)はわざわざ長江(ちょうこう)を南岸へ渡る必要はない。この時の(いかだ)長江(ちょうこう)を渡るためではなく、その途中の支流を(また)ぐために作られたのではないだろうか。


 しかし、この涌口(ゆこう)を過ぎた辺りで曹操(そうそう)軍の進行は止まる。おそらくここで周瑜(しゅうゆ)軍と遭遇したためと思われる。



 ◎赤壁(せきへき)の場所



 では、ここからは周瑜(しゅうゆ)軍の動きを見ていこう。


 『先主(せんしゅ)伝』、『周瑜(しゅうゆ)伝』等では劉備(りゅうび)軍と周瑜(しゅうゆ)軍が合流したとある。一方で、『江表伝(こうひょうでん)』では劉備(りゅうび)は留まり、周瑜(しゅうゆ)が先行して曹操(そうそう)軍に当たったとある。しかし、この『江表伝(こうひょうでん)』の記述に対して孫盛(そんせい)()の人々が自国を賛美するために劉備(りゅうび)(おとし)めて書いてあると批判している。


 実際、ここまで来て劉備が全く動かないとは思えない。だが、『江表伝(こうひょうでん)』における劉備(りゅうび)の言動は創作としても、赤壁(せきへき)の戦いにて主に働いたのは周瑜(しゅうゆ)軍だろう。劉備(りゅうび)が出遅れたのは、陸軍主体の劉備(りゅうび)軍と水軍主体の周瑜(しゅうゆ)軍の移動速度の差ではないだろうか。移動速度の早い周瑜(しゅうゆ)軍が先に戦場に到着し、劉備(りゅうび)軍到着前に開戦となったのだろう。


周瑜(しゅうゆ)劉備(りゅうび)とは協同して曹操(そうそう)を迎え撃ち、両軍は赤壁(せきへき)で遭遇した。この時、曹操(そうそう)軍の陣中では疫病(えきびょう)蔓延(まんえん)しており、最初の交戦で曹操(そうそう)軍は敗退し、長江(ちょうこう)の北側に陣営を築き、周瑜(しゅうゆ)軍は南側に布陣した。』[周瑜(しゅうゆ)伝]


 両軍、赤壁(せきへき)にて戦いとなったが、実はこの赤壁(せきへき)について具体的な場所については諸説ある。


 まず、長江(ちょうこう)流域に赤壁(せきへき)と名付けられた地名が複数あること。また、『程普(ていふ)伝』その他では曹操(そうそう)を破った場所を烏林(うりん)としており、ここが赤壁(せきへき)と同一なのか別の場所なのか不明なこと。さらにこれだけの戦いがありながら、この赤壁(せきへき)烏林(うりん)の地名はその後、地理書・辞書類等の後世の編纂物(へんさんぶつ)を除けば、一切登場しないこと等の理由により、赤壁(せきへき)の戦いのあった場所は正確には不明となっている。


 赤壁(せきへき)の候補としては大きく五つあるのだが、それらを詳しく説明すると長くなるので、ここでは代表的なものを二つ簡単に紹介しよう。


挿絵(By みてみん)


 まず、一つは嘉魚赤壁(かぎょせきへき)と呼ばれる場所である。現在の湖北省(こほくしょう)赤壁市城区(せきへきしじょうく)から西北へ約三十キロ。長江(ちょうこう)の南岸の赤壁山(せきへきざん)である。ここはかつて嘉魚県(かぎょけん)と呼ばれた地域にあるので、一般に嘉魚赤壁(かぎょせきへき)と呼ばれる。現在(2022年5月現在)、赤壁(せきへき)の戦いと検索してまず出てくる岩肌に大きく「赤壁(せきへき)」の文字が掘られている場所がここで、現地は赤壁(せきへき)古戦場に(ちな)んだテーマパークが建てられ、一大観光地となっている。ここには他にも孔明(こうめい)が東南の風を呼んだとされる「拜風臺(はいふうだい)」があり、龐統(ほうとう)ゆかりの鳳雛庵(ほうすうあん)もあるという。だが、孔明(こうめい)が風を呼ぶのも、龐統(ほうとう)赤壁(せきへき)に現れ、連環(れんかん)の計を授けるのも『三国志演義(えんぎ)』の創作であって事実ではない。「拜風臺(はいふうだい)」は遅くとも(みん)代後半(一説には1610年創建)にはあったようで、『演義(えんぎ)』ファンの製作したものであろうが、かなり古いものではあるようだ。


 もう一つが江夏赤壁(こうかせきへき)である。こちらは現在の湖北省(こほくしょう)武漢市江夏区(ぶかんしこうかく)赤磯山(せきそやま)がそれだという。こちらは地理書『水経注(すいけいちゅう)』に記載されている場所で、それによると、赤壁(せきへき)とは周瑜(しゅうゆ)軍が布陣し、黄蓋(こうがい)が出発した場所で、烏林(うりん)(洪湖市(こうこし)下烏林(かうりん))は曹操(そうそう)軍が布陣し、黄蓋(こうがい)の攻撃を受けた場所であったという。この『水経注(すいけいちゅう)』が現存する地理書の中で最も古く、そのため信憑性(しんぴょうせい)が高いとされ、学術的な観点からも支持者が多い。


 現在は、学術的には江夏赤壁(こうかせきへき)が優勢で、観光地として有名なのが嘉魚赤壁(かぎょせきへき)という状況である。江夏赤壁(こうかせきへき)が優勢とはいえ、もちろん反論もあり、確定とはいえないので、今回は両説を紹介するに止める。二つの場所を地図に当てはめると、嘉魚赤壁(かぎょせきへき)曹操(そうそう)が通過した涌口(ゆこう)に近い場所にあり、江夏赤壁(こうかせきへき)劉琦(りゅうき)()もる夏口(かこう)に近い場所にある。


 


 ◎曹操(そうそう)逡巡(しゅんじゅん)



 前述した『周瑜(しゅうゆ)伝』の記述によると、周瑜(しゅうゆ)軍と曹操(そうそう)軍は最初の交戦で周瑜(しゅうゆ)軍が勝利し、曹操(そうそう)軍は撤退して長江(ちょうこう)北岸に陣取ったという。


 この最初の交戦が具体的にどのようなものであったのか、『周瑜(しゅうゆ)伝』以外にその記述がないため、よくわからない。ただ、ここで曹操(そうそう)の進行は止まったようだ。


 しかし、曹操(そうそう)の進行が止まったのは、最初の交戦云々よりも、周瑜(しゅうゆ)軍の存在そのものが大きかったのではないか。曹操(そうそう)からすれば予想していなかった軍隊が突然三万も()いてきたことになる。この三万で止まるのだから、赤壁(せきへき)の時の曹操(そうそう)軍は数十万という途方も無い大軍ではなく、やはり数万程度だったのだろう。劉備(りゅうび)劉琦(りゅうき)軍と合わせれば五万の軍となる。曹操(そうそう)軍が数万の兵力ならばおいそれと攻撃できない戦力差となる。


 また、この時の曹操(そうそう)陣営の船は、軍船もあっただろうが、急ごしらえの(いかだ)を多く(ふく)んだ状況であった。対して周瑜(しゅうゆ)軍は水上戦をメインに()えて、水軍を充実させていた。これではたとえ曹操(そうそう)軍の方が数で勝ろうとも、長江(ちょうこう)対岸に陣取る周瑜(しゅうゆ)軍相手に気軽に攻撃を仕掛けることはできない。


 さらに加えて、『周瑜(しゅうゆ)伝』によれば、この時既に曹操(そうそう)陣営では疫病(えきびょう)が流行していたという。おそらく疲労に加えて、雲夢沢(うんぼうたく)の湿地帯を経由したことでより悪化したのだろう。湿地は病原菌の媒介(ばいかい)となる蚊やダニが多く生息し、疫病(えきびょう)の温床になりやすかった。この時の曹操(そうそう)軍中の疫病(えきびょう)がどういったものかは不明だが、後に曹操(そうそう)孫権(そんけん)への手紙の中で赤壁(せきへき)の撤退理由としてこの疫病(えきびょう)の流行を上げている。実際に赤壁(せきへき)の敗因が疫病かはさておき、流行していたのは間違いないだろう。


 曹操(そうそう)陣営の指揮官クラスの人物にもこの疫病(えきびょう)に感染したと思わしき人物がいる。曹純(そうじゅん)史渙(しかん)(本編、シカン、9話より登場)の二人だ。


 そもそも、この赤壁(せきへき)の戦いの記述は曹操(そうそう)方の武将の列伝にほとんど無く、あまり多くの武将が参戦していなかったのではないかと察せられるが、それでも参戦していたと思わしき人物はいる。


 まずは長坂(ちょうはん)の戦いでも先鋒(せんぽう)を務めた曹純(そうじゅん)である。彼はそのまま曹操(そうそう)とともに江陵(こうりょう)に入り、赤壁(せきへき)の敗退後、曹操とともに(しょう)まで帰還したことは『正史』にも記載がある。また、彼は曹操(そうそう)の親衛隊にして精鋭である虎豹騎(こひょうき)の指揮官でもあった。彼が赤壁(せきへき)まで曹操(そうそう)に従軍していた可能性は高いだろう。その曹純(そうじゅん)赤壁(せきへき)の二年後の210年に唐突に死去する。(しょう)に帰還してからの事跡も、その死因についても記録はない。


 史渙(しかん)は反董卓(とうたく)軍の時から曹操(そうそう)(つか)える古参で、中領軍(ちゅうりょうぐん)を務めた。中領軍(ちゅうりょうぐん)曹操(そうそう)率いる中央軍の指揮官なので、彼も曹操(そうそう)に同行した可能性が高い。史渙(しかん)もこの戦いの翌年の209年に死去する。こちらも赤壁(せきへき)から死去までの間の事跡もその死因についても記録はない。


 赤壁(せきへき)の戦いは208年の12月に起きたとされるので、一月も経てば年が変わる。もしかしたら彼らは赤壁(せきへき)の地で疫病(えきびょう)に感染し、闘病(とうびょう)生活の後に死去したのかもしれない。


 本編ではこの二人を元にしたソウジュンもシカンも赤壁(せきへき)後のソウソウの撤退戦で活躍し、そのまま退場することとなった。それは彼(女)らの死因が赤壁(せきへき)にあったのではないかとの推測による。


 さて、予期せぬ周瑜(しゅうゆ)軍三万の参戦に、疫病(えきびょう)の流行と、この時点で既に曹操(そうそう)軍は苦境に立たされている。周瑜(しゅうゆ)参戦の時点で状況は大きく変わっているのであるから、曹操(そうそう)がこの時すべき判断は撤退だろう。だが、曹操(そうそう)は撤退しなかった。できなかった事情があったという方が正しいだろう。


 話は203年に(さかのぼ)る。袁紹(えんしょう)の子である袁譚(えんたん)(本編未登場)・袁尚(えんしょう)(本編未登場)兄弟を追い出し、(ぎょう)を占領した曹操(そうそう)はある布告を出した。


 『将軍に命じて征討に赴かせる以上、ただ功績を賞し、罪科を罰しないのは国家の法ではない。よって、征討に赴いた将軍で戦いに敗れた者にはその罪を裁き、利益を失った者は官職爵位(しゃくい)を取り上げる』[武帝紀(ぶていき)]


 官渡(かんと)の戦いで袁紹(えんしょう)を破り、その子の袁譚(えんたん)袁尚(えんしょう)を撃破したことで安堵(あんど)や増長があったのだろう。曹操(そうそう)は戦争で敗けた将軍を罰する法を作った。それから5年、まさか強敵・袁氏(えんし)を滅ぼした後に自身にこの布告が適用される可能性が出るとは曹操(そうそう)も思いもしなかったであろう。曹操(そうそう)は自身が定めた法により撤退が出来ない状態となってしまった。

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