後編
4
「天子さん! あのままじゃ、和尚さんが」
だけど天子さんは、ぼくの言葉なんか聞いていなかった。
目を閉じ、両手の指を複雑に絡ませながら、何かぶつぶつとつぶやいている。
「わが守護を受けし大地の子らよ。今こそ長きにわたる、なんじらの役目を解く。ご苦労であった。安らかに土となれ。しかして命の循環にもどり、新たな成長の担い手となれ」
その言葉が終わったとたん、奇妙なことが起きた。
境内地を取り巻いて生い茂る樹木が、その青々とした色を失い、突然茶色に変色したのだ。
枝はやせ細り、葉はしわがれて落ちはじめた。伸びきっていた太い幹は音を立てて縮こまり、ゆがんで、低く低くしぼんでいく。
ばきばきっ。
ばきばきっ。
何の音だろうと思うぼくの目の前で、大地が裂けてゆく。
裂け目はみるみる大きくなる。
「鈴太。もう少し後ろにさがれ。田んぼに落ちてもかまわぬ」
「う、うん」
もう一度境内地のほうをみて、愕然とした。
社殿が低い。異常に低い。
いや、そうじゃない。
境内地全体がゆがんでいるんだ。
社殿のある奥の側は、うんと沈み込んでしまっているんだ。
ばきばきっ。
ばきばきっ。
魂の削れるような激しさで、破断音が続いている。
「こ、これは何の音なの、天子さん」
「根が切れておるのじゃ」
「根?」
「この境内地の下側には、もともとしっかりとした地盤があった」
「う、うん」
「じゃが、千二百年のあいだに起きた洪水で、徐々にえぐられていった」
「そ、そうだね」
「そのままでは神社が危ないと考え、わらわは木々に霊力を吹き込み、その根を強く深く張らせることで、境内地が崩れ落ちるのを防いできたのじゃ」
「そうだったんだ」
「近年では、もはや根をゆるめればただちに境内地がはがれ落ちてしまうほどに、地盤は弱っておった」
「そうか。その木々から霊力を抜いたから」
「今まさに、境内地は落ちようとしている」
だけど、その程度のことで、天逆毎が倒せるだろうか。
下の森まで何百メートルも高さがあればともかく、それほどの高さじゃない。
大量の土砂と一緒に落下するんだから、普通の生き物ならひとたまりもないけど、相手は普通でも生き物でもない。
「奈落が口を開けて待っておるわ」
天子さんがそうつぶやいた。
ぼくは東側に走り、境内地を横のほうからながめられる位置に移動した。
「あれは。あれは、骨ヶ原?」
境内地が落ちてゆこうとする、その真下に、森の一部が真っ黒い穴を開けてまっている。何もかも飲み込んでしまう、魔物の口のように。
「かのおかたがおっしゃったのじゃ。満願が成就し、結界が失われたあと、結界の外のたちの悪いあやかしが襲いかかってくるかもしれぬ。そのときは、一度だけ骨ヶ原を開くから、そこに落としてしまえ、とのう」
和尚さんが天逆毎をがっちりと抱えている。
天逆毎は無数の触手を出して、和尚さんを攻撃している。
天子さんは、どうしてこんな場面を、平気な顔でみていられるんだろう。
和尚さんは、ぼくたちを逃がすために犠牲になってくれたんだ。
その和尚さんの死を、どうしてこんな平気な顔でみまもることができるんだ。
「法師どの。成仏せられよ」
天子さんのつぶやきを聞いて、ぎょっとしてあらためて横顔をみつめた。
なんてやさしい顔なんだ。
そうだ。
千二百年もともに戦ってきた同志なんだ。
二人には、ぼくなんかには想像もできない絆がある。
天逆毎が襲い来るとわかったとき、二人のどちらかが犠牲になって、骨ヶ原に落ちなくてはならないことになった。
そしてそれは和尚さんの役目だと、言葉をかわすこともなく二人は了解しあった。
たぶん、どちらでもよかったんだ。
千二百年にわたる使命を完成させる、そのことのためには。
どちらがちょっとばかり早く死ぬかなんて、問題ではなかったんだ。
そうしているまにも、すさまじい音を立てながら、境内地はちぎれてゆく。
ぼくは、はっとした。
(二人が長命を授けられたのは)
(使命を果たすためだ)
(その使命は果たし終えた)
(じゃあ、二人はどうなるんだ?)
和尚さんも天子さんも、もう自分が滅びることを知っているんだ。
ぼくは天子さんに生きろと言った。
天子さんも、そのつもりになってくれたと思ってた。
だけど、生きるつもりになったからといって、生きられるという保証はない。
もう自分も和尚さんも滅びてしまうだろうと、天子さんは覚悟している。
だから天子さんの顔は、和尚さんが目の前で死のうとしているのに、こんなにやさしい表情を浮かべているんだ。
ついに亀裂は決定的な大きさに広がり、境内地はひっくりかえりながら落ちていった。
落ちた境内地は、森に空いた真っ暗な穴に落ち込んでいく。
落下音などない。
境内地が完全に消えたとき、ばくんと口を閉じるように真っ暗な穴も閉じてしまった。
あっと驚いて、もう一度みなおしたけれど、そこにあるのはただの森だ。
骨ヶ原は、消滅してしまったんだ。
和尚さんと天逆毎を飲み込んで。
「和尚さん。和尚さん」
ぼくは泣いていた。
「泣いてくれるのかえ。鈴太はやさしいのう」
ぼくは天子さんに抱きついて、おいおい泣いた。
身長はぼくのほうが高いんだけど、こんなときの天子さんは、すごく包容力がある。
「あら? あれは何?」
山口さんが、のんびりした声を上げる。
何が起きたんだろうと、ぼくはもう一度森をみおろした。
木だ。
一本の木が、するすると伸びてくる。
こんもり茂ったそのてっぺんの部分に、何かが乗っている。
和尚さんだ!
森が和尚さんを助けてくれたんだ!
木はさらにぐんぐん背丈を伸ばし、ついに切れ落ちた境内地の入り口あたりに届いた。
ぼくは駆け寄った。
和尚さんだ。
そこには和尚さんがいた。
地面に座り込み、ぼろぼろになった僧衣をたくしあげ、ぼりぼりとおなかをかきむしって、あくびをしている。
「和尚さん!」
「おお、鈴太か。どうも、死なずにすんだようじゃ。これは、もうちょっと生きろということかのう」
「ごほうびだよ」
「うん?」
「これから和尚さんと天子さんの、ボーナスステージが始まるんだ!」
5
「あそこに浮かんでるやつが、さっき助けてくれたです」
いつのまにか童女妖怪が出現してる。
「あそこ?」
「鈴太。あそこじゃ」
天子さんが指さすほうをみてみると、確かに宙に何かが浮かんでいる。
「赤ちゃん籠?」
正式な呼び名は知らないけど、赤ん坊を入れる籠だ。
それが、ぷかぷか宙に浮いている。
「先ほどは、危ないところであった。あれが電撃で天逆毎の尾を撃ち落としてくれなんだら、鈴太が死んでおったかもしれぬ」
思い出した。
境内地を脱出する寸前に、天逆毎が尻尾を伸ばして攻撃してきたんだ。
天子さんも不意をつかれて結界を張るまもなかった。
あのとき、雷光のようなものが走ったと思ったけど、あれは、あの赤ちゃん籠がやってくれたのか。
いったい、あの籠には、どんな妖怪が入ってるんだろう。
その妖怪は、どうしてぼくを助けてくれたんだろう。
と思ってると、赤ちゃん籠が、すうっとぼくのほうに飛んできた。
オトウサン、タスケタ。
モリオ、オトウサン、タスケタ。
「守生だって? お前は守生なのかっ」
モリオ。ボク、モリオ。
オトウサンハ、オトウサン。
なんてことだ。野枝さんの息子の守生だ。
今、野枝さんはどこに住んでるんだっけ?
とにかく遠くから飛んで来てくれたんだ。
いや、飛べる距離じゃないかもしれない。
もしかすると、テレポート?
すごい!
超能力ベビーだ!
「なんと、守生であったか。よくぞ鈴太を救うてくれた。そうか。結界がなくなったから、入ってくることができたのか」
「すごいわねえ。飛べる赤ちゃんなのねえ。あれ? もしかして野枝さんの子?」
さくっと受け入れているあなたたちが驚異的です。
「りんた〜〜〜」
後ろのほうから名前を呼ばれて、ぼくは振り返った。
「え? 未完さん?」
未完さんが、どろどろになった悪路をものともせず、こちらに走ってくる。
たちまち到着して、ぼくの胸に飛び込んだ。
「よかった。よかった。無事だったんだな。あんたに何かがあったら、あたい、あたい」
「泣かないで。というか、未完さん、京都にいたんじゃあ」
「いたよ。京都にいたよ。でも羽振村が超大型台風に襲われそうだっていうんで、大急ぎで帰ってきたんだ。そしたら、堤が決壊して村は壊滅状態だから、絶対に帰ってくるなって、母さんが」
「全然お母さんの指示を守ってないじゃないか」
「だって、鈴太が心配で心配で」
「でも、よくここにいるってわかったね」
「耀蔵おじさんがラインで教えてくれたんだ」
あの人、ラインなんかするんだ。
「山口の後家の挙動が怪しいから、油断するなって」
「あら、怪しくなんかないわよお」
「怪しいだろ! なんで赤の他人が鈴太のところに押しかけてるんだよ」
「赤の他人なんかじゃないわあ。再婚相手候補よ」
「さ、再婚だってえ? 鈴太! どういうことだよ!」
「いや、ぼくに振られても」
「嫁にするんなら、若いほうがいいぜ、あ、あたいみたいな」
ダメ。
オトウサンノ、ヨメ、ボク。
ボク、ワカイ。
「へっ?」
「む。守生も敵であったか」
「いやいや、天子さん。男同士で結婚はできないでしょ」
そのとたん、天子さんは雪女にジョブチェンジした。
「ど、どうしたの? 突然視線が冷たいんだけど」
「おぬし、まさか」
「え?」
「まさかとは思うが」
「まさか、何?」
「性別も確認せずに命名したのか?」
「えっ?」
「守生はおなごじゃ」
「ええええええええっ?」
「そもそもおぬし、守生が生まれたときに、素っ裸の状態でみておるではないか」
「いや、そんな。あんな場合に、そんなとこ、しげしげとは……」
なんか、全員の視線が冷たい。
和尚さんは、笑いをかみ殺してる。
童女妖怪は消えた。
でも、これ、ハーレムだよね?
ちがう?
ちがうかもしれない。
6
「そ、そういえば天子さん」
「何じゃ」
「さっき言ったよね。村が復興されるかどうか、わからないって」
「ああ。あれか。この村は、何度も廃村されかかっておる」
「えっ」
「県議会で五度は正式に議題にのぼっておるはずじゃ」
「そうだったんだ。いや、むしろよく廃村にならなかったね」
「議員が視察にくると、ふしぎと廃村反対に回る」
「あ、不思議結界」
「じゃが、その結界ももうない。今度こそ廃村じゃろうな」
「そう……か」
「まあ、廃村というても、全戸強制立ち退きとはなるまい。ただし公共サービスは大幅に縮小されるであろうし、住みにくくはなるであろうな」
「そうなんだ」
「それに加えて、この惨状じゃ。村を出る者も多いであろう」
「しかたないことだよね」
「おぬしも当面、どこかに行かねばならん。たとえこの村に家を建て直すにしても、しばらくは住めぬ」
「ほんとだ」
「京都に行く、という選択肢もあるぞ」
「えっ」
「きょ、京都だってえっ? 一票。あたい、それに一票」
「じゃあ、あたしは熊本に一票」
「熊本に行ってどうすんだよっ」
「ただで住める、すごくきれいなお部屋に心当たりがあるわ」
「山口さん、話をややこしくしないでください。それで、天子さん。なんで京都?」
「おぬしには、陰陽師の才能がある。まれにみる才能がの。京都と大阪には、〈はふりの者〉の本家の系統の術者たちがおる。試しに教えを受けてみるのもよい」
「えっ。そうなんだ」
「あるいは、日本のどこでもよい、あやかしに苦しんでおる人間を救いに、あるいは人間に苦しめられておるあやかしを救いに、旅をしてもよい」
「ほほっ。それはおもしろそうじゃな」
「おっ。法師どのは乗り気か」
「日本中、っていうけど、日本中に情報網があるの?」
「法師どのの眷属の子孫たちが一万人ばかり、日本の各地に住んでおる」
「一万人! ものすごい数だ。もしかして、日本の妖怪人口比率って、けっこう高い?」
「低くはないのう。ははは。もちろん、外つ国にもあやかしはおる。世界中のあやかしが、おぬしを待っておるぞ」
「なんてこった」
「さて、どうする? どの道を選んでもよいのじゃ」
「天子さん」
「うん? 何じゃ?」
「どの道を選んでも、天子さんはついてきてくれるよね?」
「さあ、どうしようかのう」
「えっ、そこはうんと言うところでしょ」
「ついてきてほしくば口説いてみよ。言の葉を、よくよく練り上げてのう」
望むところだ。
ぼくはにっこりと笑った。
(完)
「羽振村妖怪譚」完結
ありがとうございました。




