前編
1
空は晴れわたっている。
台風の影も形もない。
体はひどく重かったけど、心は軽い。
笑い顔で社殿の表側に歩いていった。
そして、目に入った惨憺たる光景に、胸をぐさりとつらぬかれた。
ひどい状態だ。
復旧には長い時間がかかるだろう。
そもそも復旧できるかどうか。
「というより、復旧しようとはせぬかもしれぬな」
「天子さんがもらったプレゼント、わかったよ」
「先ほどの光の話かの? わらわは何を授かったのじゃ?」
「読心能力」
「それは前からじゃ。おぬし限定のな」
「あ、やっぱり」
「独身はさびしいわよ」
「台風は去った。きさまも去れ」
「たぶん、あたしのおうち、大変なことになってるわ」
「ほんとですね。大変だ」
「心配してくれるの? うれしいわあ」
「というか、和尚さん。ぼくも和尚さんも、今晩寝るとこないですよね」
「まずは社殿のなかをみてみるか」
2
「うわあ。これはひどい」
「屋根が吹き飛んで、雨が降り込んだものねえ」
布団も何もかも、雨にぬれてぐしゃぐしゃだ。
もちろん、ひでり神さまを寝かせていた布団はもぬけの殻だ。
羽振家のお社も、童女妖怪が入っていたお社も、落ちてきた木材に一緒に押しつぶされて、粉々になっている。
おじいちゃんとお父さんとお母さんの霊璽は無事だ。ぼくは三つの霊璽をリュックに入れて背負った。このまま、この残骸だらけの場所に放置しておけない。
このとき、ぼくの心は、完全にゆるんでいた。
だから、童女妖怪が言葉を発したとき、その意味が全然わからなかった。
「来るです」
「え?」
「この気配は、今までさんざん探知してきた気配なのです」
気配?
いままでさんざん探知してきた?
今ここに現れる?
「まさか」
ぼくの顔から血の気がひいた。
「天逆毎なのです」
「そんな、そんなばかな! 結界のなかには入ってこられないはずだ」
「鈴太よ」
「はい?」
「結界は、もうないぞ」
「えええええっ?」
「法師どのの言う通りじゃ。そもそもこの里の結界は、あのかたの修行成就を守るもの。もう役目を終えたのじゃから、消えてあたりまえではないか」
「ちょっ。和尚さんも天子さんも、何をそんなに落ち着いてんの? ラスボスの登場だよ?」
「ははは。どれい、間抜けなあやかしの顔を拝ませてもらうか」
「それがよい」
和尚さんと天子さんは、悠然と社殿の外に出た。
ぼくもあわてて追いかけた。
「あそこじゃ」
「うむ。用水路じゃな」
二人がみているほうに視線を送ると、用水路から水が立ちのぼっている。
先ほどまで村の中央部の田んぼや道は水没してた。それが、ひでり神さまの功徳か何か知らないけど、今はそれなりに水が引いている。とはいっても、土砂が田や道をおおってるから、逆に災害の爪痕が生々しい。
右側のほうに用水路がある。用水路の、ちょうど水虎と会ったあたりで、水柱が噴き上がっていて、それが段々こちらに近づいてくる。
「ふうむ。水の勢いで土を削って、そこに流れ込む水を利用して移動しておるのじゃな。なるほど」
「器用なものじゃな、法師どの」
どうしてこの二人は、こんなに落ち着いていられるんだろう。
水柱はだんだん近づいてくる。
ぼくの心臓は、どきどきがとまらない。
(あ、そうか)
考えてみれば、二人にとって、千二百年に及ぶ使命が今まさに達成されたところなんだ。極端にいえば、これで死んでもいい、ぐらいに感じていてもふしぎじゃない。もし今天逆毎に殺されても、成し遂げたことが覆されることは、もうないんだ。
なるほど。
そりゃ、余裕綽々でいられるわけだ。
天逆毎のほうは、逆だ。
和尚さんと天子さんをなぶり殺しにしても、もうひでり神さまに復讐することはできない。そして天逆毎自身は寿命がない。無念のなかで滅びるしかないんだ。
そう考えてみると、妙に愉快な気分になってきた。
ざまあみろ、という気分だ。
そうしているあいだにも、水柱は近づいてくる。
遠くにいたときは、樹木の幹のあいだの空間から水柱がみえたけど、近づいてくると葉っぱにじゃまされて視界がよくない。でも、噴き上がる水柱が近づくようすは、はっきりわかる。
「あれは、何なのう」
山口さんが、のんびりした声で訊いてきた。
「天逆毎という妖怪だよ。この村を攻撃していた妖怪たちのボスなんだ」
「それじゃあ、手ごわいのね」
「とっても手ごわいと思う」
山口さんも、あまり不安を感じてないみたいだ。たぶん、和尚さんと天子さんが落ち着き払っているからだろう。
山口さんは、何があっても守らなくちゃいけない。
「あちしはお守りに戻るです」
そう言い残して童女妖怪が消えた。
ついに水柱が境内地の真ん前に来た。入り口の部分から、水柱がよくみえる。
水柱のなかに、何かがいる。
そう思っていると、水柱がしゅうしゅう音を立てて収まってゆき。
天逆毎が現れた。
3
男とも女ともとれる顔だ。性別があるのかどうか知らないけど。
やたらときらびやかな衣装をまとっていて、頭にはごてごてした冠のようなものを貼り付けている。
表情は、憤怒そのものだ。
赤黒くそまっていて、何かしら病的な印象を受ける。
大きく裂けた口からは、牙が何本も突き出している。
身長は三メートルを少し超えてるだろうか。
大変な巨体なんだけど、方相氏、風伯、雨師、巨大女神とみてきたあとでは、あんまり威圧感を感じない。
衣装の下にどんな体躯があるかはわからない。だけどごつごつ盛り上がっているから、普通の人間のような体じゃないことは想像がつく。
おおん。
おおん。
地の底から響くような声だ。人間の声じゃない。
口惜しや。
口惜しや。
ちょっと聞くと、けもののうなり声のようにも聞こえるけど、よく聞けば言葉の意味はわかる。
わが復讐はならなんだ。
きさまらのせいで。
法師狸。
化け狐。
きさまらは八つ裂きにしてやらねばすまぬ。
きさまらだけではない。
この里の人草すべて、わが道連れに地獄に落としてくれる。
「やってみろ」
和尚さんの落ち着き払った低い声が、ものすごくかっこいい。
おおん。
おおん。
天逆毎が石段に一歩踏み出した。
水がない場所にも、無理すれば少しぐらいなら出て来られるみたいだ。
あっというまに石段を登りきって、境内地に入ってきた。
同じ高さの場所に立つと、やっぱり大きい。
ぷうんと、いやな匂いがただよってきた。
腐臭だ。
天逆毎の皮膚は、じゅくじゅくと腐っている。
寿命が迫っているうえに、無理に無理を重ねたから、こんなことになってしまったんだろう。けれどそれだけに、仕返しをしようとする執念は強い。
ぎぎ。
ぎぎ。
海老か蟹が発するようなきしみ声だ。
そういえば、もとは小海老なんだったか。
天逆毎は、一歩一歩ぼくたちに近づいてくる。
どきどきしてきた。
天子さんが左手を伸ばして、そっとぼくの右手をにぎった。
ぼくも強くにぎり返した。
互いの距離が十メートルを切ったとき、和尚さんが三歩前に進み出た。
天逆毎は、まっすぐ和尚さんに向かっている。
あと三メートル。
天逆毎が両の手を高く振り上げた。
それを振り下ろすかと思ったら、そうじゃなかった。
背中から何かが飛び出して、両手の上側から和尚さんに襲いかかった。
がきんっ、と音がして、それが空中で食い止められた。
天子さんが右手を伸ばしている。
空中に薄緑色の透明な壁が出現している。
結界だ。
そして、天逆毎が繰り出してきたのは、巨大な蟹の鋏のようなものだった。
ぎぎ。
ぎぎ。
天子さんが結界を解いた。
「破邪金剛力!」
呪文を唱えてお札の力を行使し、和尚さんが身を躍らせて天逆毎に飛びついた。
天逆毎は、今度は脇腹の後ろから、何本も何本もの鋭く長い爪を出現させた。
十本以上の爪が、体の両側から和尚さんに襲いかかる。
今度も天子さんが結界で防ぐだろうと、ぼくは思った。
そうはならなかった。
十本以上の長い爪は、和尚さんの体に深々と突き刺さった。
それにかまいもせず、和尚さんは天逆毎に組み付き、がっしりとその体を押さえ込んだ。
「今じゃ! 皆、境内地を出よ!」
天子さんは、そう叫ぶと、驚きにそまるぼくの手を引いて走り出した。
山口さんが、そのあとに続く。
「え? え? え?」
たちまちぼくたちは、境内地の入り口近くに到達した。
そのとき、何かが聞こえた気がして、ぼくは立ち止まり、振り返った。
天逆毎の尻のあたりから飛び出した太い尻尾が、まさにぼくの顔に突き刺さろうとしていた。
まるでスローモーションのように、突起のある、丸くふくらんだぎざぎざの尻尾が、ぼくに迫ってくるのがみえた。
かわせない。
ぼくは死ぬ。
と思ったとき、雷光のようなものが空を走り、尻尾の先に着弾した。
火花が散り、尻尾が跳ね飛ばされる。
それでも尻尾は空中で軌道を修正し、再びぼくに迫ってくる。
天子さんが腕を振り下ろした。
二条の赤い光線が、天逆毎の尻尾と交差する。
たちまち尻尾は斬り落とされて宙を舞った。
天子さんの爪の攻撃だ。
もう今日は使えないはずだったけど、これもひでり神さまの祝福なんだろう。
「急げ! 次の攻撃が来る前に」
「う、うん」
ぼくと天子さんと山口さんは、石段を駆けおりた。
ぐしゃぐしゃにぬれた道を左に進む。
右側は天逆毎のために、とても通れない状態になっている。
境内地の周囲をおおう樹木の幹のあいだから、天逆毎がみえる。
和尚さんががっちり押さえ込んでいて、身動きもできないようだ。
次回最終回




