後編
5
地揺れは激しくなってゆく。
ぼくは立っているのもやっとだ。
がらがらがらっと、何かが崩れるような音がする。
驚いて音がするほうをみると、信じがたいことが起きていた。
階段だ。
階段が骨ヶ原から現れ、天に向かって伸びてゆく。
そして雲を突き破り、さらに上方に伸び上がった。
その階段をのぼってゆく者がいる。
一人ではない。
十人でもない。
千人、万人、何十万人の人がのぼってゆく。
男がいる。
女がいる。
おとながいて、こどもがいて、老人がいる。
裕福そうな着物を着た人がいる。
貧しそうな人もいる。
その人たちがみな、天に向かって階段をのぼってゆく。
手にはそれぞれ何かをにぎっている。
老人も、若者も、母親に抱かれた生まれたばかりの赤ん坊も。
小さな石をにぎっている。
白い石をにぎっている。
積み石だ。
積み石は、天界へのパスポートだったんだ。
誰もうなだれてはいない。
顔を上げ、天に視線を送っている。
天をみながら決然としてのぼってゆく。
あの人たちはみな、天に着いたら言うべき言葉があるんだ。
すべての人が上りきると、階段は霧のなかに消えた。
ひとたび、あかりは消え果てた。
どれほどの時間が過ぎたろう。
黒く立ち込めた雲の一角に、ぽつり、とあかりが差した。
雲に空いた穴はみるみる大きくなり、強い一条の光が天から地上に届き、骨ヶ原を照らし出した。
あまりのまぶしさに、何もみえない。
あれは何だ?
天からひらひらと舞いながら降りてくる、あれは何だ。
それは輝く翼を持った鳥だ。
何百羽という鳥たちだ。
その鳥たちは骨ヶ原に舞い降りた。
気がつけば、骨ヶ原の大地は緑の草で覆われている。豊かな草原となっている。
その緑の草原に、天から降りた鳥たちは吸い込まれてゆく。
たった一羽の鳥が、ぼくのところに飛んできた。
そしてぼくの服の襟首をくわえると、ばさばさと翼をはためかせて舞い上がった。
あっというまにぼくは宙に釣り上げられる。
しばしの空中遊泳のあと、地守神社の裏に到着して降ろされた。
事態の推移についてゆけずに呆然としながら、ぼくは樹恩の森をみつめていた。
暗闇に沈んだ樹恩の森の真ん中が、ぼうっと光った。
何かが。
何かが立ちのぼってくる。
三山の裾野に広がる樹恩の森から、光り輝く何かが立ちのぼってくる。
上に、上に。
とどまることなく何かが立ちのぼってくる。
球体だ。
その球体は、姿を現すほどに巨大になる。
森の中心部を埋め尽くすその広さは、直径十キロにも達しているだろうか。
いや、球体じゃない。
これは。
これは。
みまもるうちにも、その何かは上昇する。
その頂上は、あっというまに、ぼくと同じ高さに達し、さらにとどまることなくのぼり続ける。
なんという巨大さだろう。
なんという神々しさだろう。
これは。
これは。
この形は。
頭だ。
これは、頭だ。
想像を絶するほどに巨大な頭部だ。
女?
そうだ。これは女性だ。
女神だ。
あり得ないほど大きな女神が、今、広大な森全体を埋め尽くして立ち現れたんだ。
美しい顔だ。
その顔にみおぼえがある。
どこかでみたことがある。
(ひでり神さま?)
そうだ。
この女神の顔は、ひでり神さまに似ている。
わかいころのひでり神さま。
いや、まだひでり神となる前の姿は、こんな姿だったんじゃないだろうか。
そうにちがいない。
これは、ひでり神さまなんだ。
ぐんぐんと、その巨大な体躯は森から現れ、天に向かって浮かんでゆく。
胸が現れ、腰が現れる。
あや絹、とでもいうんだろうか。
ふわふわとした、虹色に輝く着物をまとっている。
はじめはぼんやりと光ってよくみえなかったお姿が、段々鮮明になる。
髪は結い上げられ、きらびやかな髪飾りがきらきらと輝いている。
ひらひらと風にゆれる長い帯のようなものが何本も、首の後ろを回って体の両側に垂れ下がり、組み合わされた腕の下を通って足元でゆらめいている。
ひでり神さまは、閉じていた目を開き、右下をみおろした。
そこには雨師がいる。
美しい袖に包まれたその山より大きな右手が、差し伸べられた。
ひでり神さまは、ひょいと雨師の頭をつまみ、そのまま雨師をつかんで空に上ってゆく。
やがて足が現れ、ついにその全身が森から浮かび上がった。
その足が何百メートルか地上を離れたとき、そのあとを追うように、何かが森から飛び出した。
虎だ。
巨大な虎が空を舞い、ひでり神さまの周りをぐるぐるうれしそうに回りながら、一緒に天にのぼってゆく。
あれはきっと水虎だ。
何かの加護で水虎がよみがえって、ひでり神さまとともに天に迎えられるんだ。
やがて、ひでり神さまと水虎が雲を突き破って姿を消すと、その突き破られた部分から雲は消えてゆき、気がつけば、三山と樹恩の森は、朝の光に照らされていた。
「見事な祝詞であった」
天子さんだ。
いつのまにか、ぼくのすぐ横に天子さんがいた。
「〈はふりの者〉の初代も祝詞の名手であったが、おぬしもそれに劣らぬのう」
「のっと、って何?」
「神々や神霊や御霊へ宣る祈願の文じゃ」
「和尚さん!」
「それにしても、ずいぶん神々を脅しつけておったのう。はっはっはっ」
そう笑う和尚さんの顔は、元気そのものだ。
「お、和尚さん! 右手が」
「おお? これにはわしも驚いた。あのおかたが昇天なさるとき、体が光に包まれてなあ。気がついたら右手があったんじゃ」
和尚さんの右手が、もとの通りに、そこにあった。
「あちしも光に包まれたです」
「おさかべ! どこに行ってたんだ?」
「風伯が神社の屋根を吹き飛ばしたとき、あちしのお社も壊れてしまったです」
「えっ?」
「お社があるうちならお守りにも移れるけど、いきなり宿り場所を破壊されては、消滅するほかないです」
「そんな」
「頑張って踏みとどまってたですけど、雨師の霊気に耐えきれず、消えてしまいそうになったです」
「だ、だいじょうぶなのか」
「ああ、これで終わりか、最後に油揚げを腹いっぱい食べたかったなあと思っていると、体が光に包まれて、お前の首のお守りに移れたです」
「えっ」
「ということで、早く次のお社を準備するです。それと、油揚げを腹いっぱい、あちしにお供えするがいいです」
「へえ、童女妖怪さんって、こんな姿でこんな声をしてるのねえ」
「山口さん!」
「あたしも光に包まれて目がさめたのよ。どうも、前はみえなかったものがみえるようになったみたいね」
どういうことだろう。
光に包まれて?
「わらわも光に包まれた。何か変化があったかどうか、よくわからぬが、体調はすこぶるよい。おぬしには、それじゃな」
「それ?」
「ほれ、足元をみるがよい」
そこには鈴があった。
「〈和びの鈴〉!」
ぼくは、大事に大事に、それを拾い上げた。
こんなプレゼントを残していってくれるなんて、ひでり神さまもずいぶん義理堅い。
6
「それにしても、あんなに長いあいだ、よく雨師の攻撃に耐えられたね」
「長いあいだじゃと?」
「ぼくが社殿の後ろ側に走り込んでから、ひでり神さまが天に昇るまで、ものすごく時間がかかったでしょ」
「いや? わらわはすぐに追いかけたが、おぬしの姿はなく、祝詞を奏上する声が聞こえた。祝詞が終わるなり光の柱が立ちのぼり、ひでり神さまが天に帰られた」
「ええええっ? そんなはずはないんだけどな」
「ふむ? まあ、何があったかは、あとでゆっくり聞くとしようかの」
「それにしても、あの石が最後の一個だったんだね」
「いや、それはちがうかもしれん」
「えっ?」
「法師どのは、どう思われる?」
「うむ。たぶん、とうの昔に、石の数は足りておったんじゃないかのう」
「じゃあ、どうしてひでり神さまは、天に帰れなかったの?」
「石を積み終えたということを、天に報告しなかったからではないか、とわしは思う」
「報告?」
「わらわもそう思う。なんともうかつなことじゃった」
「もしかすると、〈はふりの者〉には最初から、その役割が与えられておったのかもしれん」
「えっ? ちゃんと報告することになってたのに、その役割が伝えられてなかったの?」
「法師どの。こうは考えられぬか。格別に役割などと決めておらずとも、〈はふりの者〉なれば、必ず石を積み終えたことを天に奏上し、許しを請願するはずじゃと、誰もが思うておったのじゃ」
「なるほど。それはあるじゃろうな。はっは。もしかすると神々は、まだ贖罪の成就を奏上してくれんのか、まだ許しを請願してくれんのかと、やきもきしながら待っておられたかもしれんのう」
「神は地上をみそなわし、人の訴願を受けてみ働きを現したまう。そんな当然のことを、わらわも法師どのも忘れておったのじゃ」
「寿命の短い人の子が、〈はふり〉などというお役目を授かったのも、考えてみればそのためであったのじゃなあ」
「じゃ、じゃあ、おじいちゃんが生きてるときに、〈石は積み終えました〉って報告して、〈ひでり神さまを許してあげてください〉ってお願いすれば、満願成就してたってこと?」
「いや、気の毒じゃが幣蔵には無理なことじゃ」
「ぼくにできたんだよ?」
「おぬしは特別な声の持ち主なのじゃ。それこそ初代に匹敵するほどのな。少し自覚せよ」
「そうかなあ」
「はっはっはっ。鈴太よ」
「はい」
「お前が生まれてくれたこと。この里に帰ってきてくれたこと。そのこと自体に大きな意味があったのじゃ。幣蔵もお前の両親も、喜んでおろうよ」
「はい」
「それにしても、天狐よ」
「うむ」
「終わったのう」
「うむ。終わった」
二人は並んで三山と樹恩の森をみつめている。
千二百年に及んで取り組み続けてきたことが、無事に成就したんだ。感慨無量なんてものじゃないはずだ。その気持ちは、この二人以外、誰にもわからない。
「長かったのう」
「そうでもなかったぞ、法師どの」
「おお? そうか? もう一回やってもよいか?」
「それはごめんじゃ」
「はっはっはっはっはっ」
「ふふふふふ」
まぶしい朝の光が、ぼくたちを包んでいた。
「第18話 雨師」完/次回「最終話 天逆毎」




