前編
1
「鈴太よ。今のは? おぬしから飛び出した今のあれは何じゃ?」
「天子さん。小青だよ!」
「しゃおちん?」
「水虎だよ、水虎がついにやったんだ!」
「水虎? まさか、家の神棚の横に祀ってあった、水虎の形見か?」
「そうだよ。水虎はむかし、風伯には吹き散らされて悔しい思いをしたっていうじゃないか。ついにかたきを取ったんだよ」
「おお」
「長壁」
「はい、法師さま」
「風伯は、消えたのか?」
「はい。消えましたです。妖気の残滓がありますが、大した量ではありませんです」
「残滓が? ふむ」
「法師どの、まこと風伯は消滅したのであろうか?」
「いや、消滅したわけではなかろうな」
「というと?」
「風伯は風じゃ。実体があるようで、ない。ないようで、ある。形のある攻撃では、完全に滅することはできんじゃろうなあ」
「風伯はどうなったのじゃ?」
「あの強力な虎の手で押しつぶされたのじゃ。四散してしもうたのじゃろう」
「ということは、どうなる?」
「いったん完全に形を失ってしもうたわけじゃ。実体を取り戻すには、何日も、あるいは何年もかかろうよ」
「では、倒したと同じことじゃ」
「そうじゃ。そうでなくても、天逆毎に、もう一度風伯を顕現させるような余力があろうはずもない。わしらは勝ったのじゃ」
勝った。
そう言われてみて、よろこびがにじみ出てきた。
「鈴太。何を泣いておる」
「あらあ。そこは気づかないであげるのが、女のやさしさよお」
「ははは。ついに終わったのう。雨師は消え去り、風伯は散り散りとなって消し飛んだ。天逆毎は結界のなかには入って来ることができん。わしらは勝ったのじゃ」
「勝った。勝ったんですね。ぼくたちは、守りきったんですね」
「鈴太よ、ようやった」
「ありがとう、天子さん」
「これ、妖婦。何をしようとしておる」
「あら、とめないでえ。祝福のキスよ」
「させるか」
「ははは。鈴太よ、あのかたのごようすをみてきてくれんか」
和尚さんが自分で行けばいいのにと一瞬思ったけど、やっぱり近づきにくいんだろうなと思い直した。
「はい。……あれ?」
「あらん」
「うん? また雨が降ってきたのう」
「法師どの。しかたあるまい。台風じゃ」
「そうか。台風であったなあ」
「台風がそのままあやかしという、とてつもない神霊であったが、台風そのものは、自然に生じたものなのであろうの」
「それはそうじゃ。天狐よ、いかに神霊とはいえ、無から有を生み出すのはおおごとじゃ。じゃから、太平洋から小さな台風を大きくふくらませて持ってきたのじゃ」
「この雨、何かいやな匂いがするわあ」
「匂い、じゃと? そういえば」
「この雨、邪気のかたまりなのです……でも、それよりも」
「ちみっこ。どうした?」
「何かが」
「うん?」
「この上空で、何かが起きてるです」
ぼくは雲に覆われた暗い空をみあげた。
渦巻く台風の雲以外、何もみえない。
「何もないぞ?」
「段々、気配が強くなってるです」
降る雨に打たれながら、手をかざして空をみあげる。
やはり雲と雨しかみあたらない。
「ちびっこ。気のせいじゃ……」
はははははは。
笑い声が響く。
遠い遠い空の果てから、笑い声が響く。
鼓膜の奥がびりびりするような、とてつもない笑い声だ。
「法師どの! これは?」
「何が起こっておる? まさか?」
「来ます! 上空約二百メートルに、何かが出現しますです!」
はははははは。
またも笑い声が響く。
「これは、この気配は! 雨師なのです!」
「なにっ」
「まさかっ」
「消えたんじゃなかったのか?」
虚空にもやもやとしたものが現れ、次第に色濃くなってゆく。
だが。
だが、この大きさは。
「何? なんなのよう、この大きなものは」
そして、ぼおん、と空間が地響きを起こし、雨師が姿を現した。
距離は先ほどの風伯より、ずっと離れている。
そうであるのに、目に映る雨師の姿は、風伯よりも、はるかに大きい。
身の丈百メートルを超える巨大な神霊。
それが雨師だった。
伸び上がった長い頭の頂上付近には髪がない。
体には仙人の着るようなさらさらの長衣をまとっている。
白い雲に乗っており、ぐねぐね曲がった長い木の杖を右手に持っている
白い口ひげと顎髭が上品だ。
長い口髭は、まっすぐに垂れ下がり、腰のあたりまで届いている。
やせた老人のような風貌で、表情はやさしい。やわらかな笑みさえ浮かべている。
だが、この老人こそが、最強の神霊なのだ。
いったん消えたから、もう現れないんじゃないかと、いつのまにか思い込んでいた。いや、そう期待していた。
だけど現実は、そんなに甘くなかった。
同時には出せないから、風伯を出すために、一度雨師を引っ込めた。
だけど雨師は消滅したわけじゃなかった。ただ引っ込んでいただけだったんだ。
だから風伯が消えた今、雨師は姿を現した。
ぼくは、仲間たちをみわたした。
片腕を失った和尚さん。
法術攻撃をしようにも、あの高さじゃ届かないだろう。
立つのもやっとの天子さん。
爪の攻撃は使ってしまったから、もう何の攻撃能力も残っていない。そして切り札の障壁も、さっき風伯に破られた。もう強い障壁を張ることはできないだろう。張っても、この巨大神霊に太刀打ちできるとは思えない。
びしゃんと大きな音がしたので振り向くと、和尚さんがぬれた大地に座り込んでいた。
その目には、もう力がない。
やっぱり右腕を失ったことは、大きな痛手だったんだ。だけど無理やりに平気な顔をして、みんなを励まし指揮を執ってきた。でも、その頑張りも、もう限界なんだ。
天子さんの顔にも、もう燃え立つような気迫はない。悲しげで苦しげだ。
童女妖怪は、とあたりをみたけど、童女妖怪がいない。
いったいどこに消えたんだろう。
雨が降り始めた。
少しずつ勢いが強くなってゆく。
雨師は静かに笑っている。
その目線が屋根のない社殿に向いた。
ひでり神さまをみてる。
雨師にとっても、ひでり神さまは仇敵だ。
その仇敵の上に、蕭々と雨を降らしている。
(この雨)
(この雨はおかしいぞ)
(体が)
(体がだるい)
物音がしたので振り返ると、山口さんが倒れていた。
この雨のせいだろうか。
この雨には、命の力を奪うような、あるいは生き物を毒するような性質があるんだろうか。
くらっとした。
この雨の効果は、ぼくをもむしばんでいるようだ。
雨師が笑っている。
にこにこと笑っている。
すうっと巨大な右手を差し伸べた。
ひらひらと、長いたもとが揺れている。
にぎった杖から、まばゆい光のようなものが生じた。
水流だ!
まるでさっきの水の竜のような。
その水流は、転輪寺が吹き飛ばされた跡に着弾し、被害を受けていた転輪寺の跡を、さらに吹き飛ばした。
なんという威力だろう。
そしてこの巨神は、同じ攻撃を何度できるんだろう。
もてあそんでいるんだ。
いつでもお前たちを殺せるのだとみせつけて。
次第に弱ってゆき、絶望してゆくぼくたちをみおろして。
愉悦をかみしめているんだ。
毒の雨は、ますます強くなる。
もう、立っているのもやっとだ。
建物のなかに駆け込もうにも、もう屋根もない。
どこにも行く場所はない。
何もできることはない。
これで終わりなんだ。
そう思ったとき、ぼくの心に怒りが湧いた。
(ふざけるなよ)
(これで終わりだって?)
(天子さんの)
(和尚さんの)
(羽振一族の)
(千二百年に及ぶ奉仕は)
(献身は)
(すべてむだだったっていうのか?)
(来る日も来る日も積み石を積み続けたひでり神さまの贖罪は)
(すべてなかったことにされるのか?)
(そんなこと)
(そんなこと)
(絶対に許さない!)
東の空に、ちらりと光が差した。
降る雨を通して、山の向こうのあかりがみえる。
夜明けだ。
日が昇ろうとしているんだ。
ぽわっと光がともった。
社殿の前の石の八足に光がともったのだ。
そしてそこに、一個の白い石が生まれた。
やわらかな光をまとっている。
(積み石だ)
(贖罪の石だ)
一歩を踏み出そうとして、愕然とした。
体が動かない。
金縛りとかじゃなくて、動くだけの力がない。
動こうとすると、関節がぎしぎしきしむ。
それでも、ぼくは最後の力を振り絞って、八足に歩み寄った。
そして積み石を右手でつかみとった。
歩く。
歩く。
社殿の回りを歩いて、社殿の横に出る。
そしてさらに歩く。
あの角を曲がれば、社殿の裏側に出る。
社殿の後ろには階段がある。
その階段は、骨ヶ原につづく唯一の道だ。
ひでり神さまにしかみえない階段だ。
だけど、今のぼくなら。
真眼持ちのぼくが意識を集中するなら。
きっと階段がみえるはずだ。
そう信じて最後の角を曲がった。
あった。
階段があった。
ぼくは泣いた。
そこに一しずくの希望が残されていたことを知って泣いた。




