後編
7
「そうか。そうじゃったのか」
和尚さんが言葉を発した。何に気がついたんだろう。
「鈴太よ」
「はい」
「魂降ろしのとき、天逆毎は言うたのじゃな。妖気の添わぬただの水なら結界の内に放り込むことができたと」
「はい」
「うむむ。それを聞いたときは、何をあたりまえのことを言うのかと思うた。この里は何度も大水害にみまわれておる。大水が結界の内に入ってこれるは自明の理とな」
「はい。ぼくもそう思ってました」
「じゃが、そうではなかった。洪水のときにか、別のときにかわからんが、天逆毎は、結界の内に水を投げ込む実験を、いつのまにか行っておったのじゃ。つまり、妖気の添わぬ水を投げ込むすべが、天逆毎にはあるのじゃ」
「あ」
「先ほどの水の竜は、その実験の成果なのじゃろうなあ」
「そう……なんですね」
「ということは、あの水の竜は、雨師の力というより、雨師の力を借りて天逆毎が作り出したものじゃという推測が成り立つ。実験のときには雨師はおらなんだじゃろうからな」
「なる……ほど」
「あれほどの攻撃を四度も繰り出した天逆毎は、相当に無理をしておるにちがいない。勝機がみえてきたぞ」
なるほど。
和尚さんのしっかりとした声でそう言い聞かされると、本当に勝利が目の前にあるような気になる。
指揮官の資質だな。
「あ」
「どうした、長壁」
「消えました」
「何が消えた」
「雨師が消えました」
「ほう。雨師の出番は終わりか」
突然、雨が格段に弱まった。
空をおおう黒雲も、こころなしか勢いが衰えたようだ。
そのせいか、少しだけ空が明るくなった。
もう夜明けも近い。
「あ」
「ちみっこ。今度は何だ?」
「出現します」
「なにっ」
「上空に、何かが出現しますです」
雨は、小雨といっていいほどに弱まっている。
ぼくは扉の外に飛び出して、上をみあげた。
「先ほどの雨師とは気配がちがいますです。しかし、強力な妖気です。近い!」
すさまじい勢いで、はるか上空に雲が渦巻いている。
どーん。
「太鼓の音?」
「太鼓の音ねえ」
どーん。
「いったいどこで鳴らしているのかしらあ」
どーん。
(まてよ。前にもこんなことがなかったか)
(妖怪が現れる前に、何かの楽器が鳴る音が聞こえたことが)
四方八方から雲が参集し、ぐるぐると旋回しながら凝縮しはじめた。
それは、神社の上空、わずか数十メートルの距離だ。
みんなも外に出てきて、上をみあげている。
「ばかな……」
「法師どの。どうした」
「みよ、天狐」
「みておる」
「結界のなかじゃ」
「あ!」
「今まさに、この里の結界のなかに、あやかしが出現しようとしておる」
「そんなことが」
「まさか、結界が失われたのか?」
「いや。法師どの。里の結界は健在じゃ。この神社の結界にも異常はない」
「では、あれは何じゃ!」
しゃんしゃんしゃん。
しゃんしゃんしゃん。
小型のシンバルをかき鳴らすような音が響く。
そして、神社の上空に、それは姿を現した。
身の丈は十メートルを超えている。
金剛力士のように筋骨隆々とした妖怪だ。いや、妖怪ではない。神霊だ。
方相氏がこどもに思えるほどの圧倒的な存在感を放っている。
これが、たぶん。
「風伯! まさかこの目で拝むことがあろうとは」
「法師どの。すさまじい神気じゃ。弱っておるはずの天逆毎が、これほどの神霊を顕現させることができたのかっ」
「わからん!」
いつのまにか、雨はすっかりやんでいる。
そのかわり、風が吹き荒れている。
遠くの山々の木々が引きちぎれんばかりに吹き乱されている。
神社の境内地にも風は吹いている。
でも、結界の効果なのか、さほど激しい風じゃない。
「そうか。自然現象なんだ」
「なにっ?」
「和尚さんが言ったじゃないですか。〈雨師や風伯ほどの神霊になると、自然現象に近い性格も持つ〉。弘法大師さまの結界は、風伯を自然現象だと判定したんです」
「なに? まさか。しかし」
風伯が、息を吸い込んでいる。みるみるうちに、腹が大きくふくれあがる。
「いかん! 天狐、結界を」
「心得た!」
天子さんが両手を空に差し上げた。
風伯は、ため込んだ息を、まっすぐ下に吹き付けてきた。
暴風がぼくたちを包み込んだ。そんな感覚を覚えた。
実際には、風伯が吹き付けた息は、結界に遮られて、境内地には届いていない。荒れ狂う暴風は、半球型の障壁の外側をすべり落ち、辺り一帯にまき散らされている。結界の表面は白く泡立って、上空はまったくみえない。
境内地の前の道路やその向こう側の田んぼに満ちあふれた水が滝のように噴き上げられている。現実世界の出来事とは思えないものを、今ぼくたちはみている。
長い長い息が終わって、再び風伯の姿が現れた。風伯のほうでも、こちらをみている。
破壊できなかった神社を、風伯はどんな気持ちでみおろしているんだろう。
右手を肩の上に回した。
刀だ!
背中に巨大な曲刀を背負っていたんだ。
その巨大な曲刀を、ぶうんと風伯は振った。
小山のような大きさを持つ風の刃がぼくたちに襲いかかった。
天子さんに声をかけようとしたけど、天子さんはすでに結界を発動する態勢に入っていた。
そして風の刃が結界に激突した。
「きゃあ!」
結界は緑色のまばゆい光を放って消滅した。
衝撃がぼくたちを襲った。
ぼくは吹き飛ばされて、ごろごろと転がった。
素早く立ち上がって、あたりをみまわす。
みんな倒れている。
和尚さんだけが立っている。大地に足を踏ん張って、上空をにらみつけている。
ぼくは天子さんに駆け寄った。さっきの悲鳴は天子さんの悲鳴だ。
ぐったりとした天子さんを抱き起こした。
「ううーん」
生きてる。目を開いた。
かっ、と目に力がこもる。
「おのれ、風伯。鈴太、わらわを起こせ」
「うん」
ぼくは天子さんを抱き起こした。
上空をみあげれば、風伯が悠然とこちらをみおろしている。
天子さんは、両手を高々と上げ、十本の指を開いた。
たちまち、その指のすべてから赤い燐光が立ちのぼる。
十本の細く鋭い魔法の爪が、風伯に襲いかかった。
そして赤い爪は、風伯を切り刻んだ。
「やった!」
「やったわ」
ぼくと山口さんが歓声を上げる。
「だめじゃ」
和尚さんが、小さくつぶやく。
赤い爪は風伯に食い込み、そしてすり抜けた。
「そう……か。相手は風、か」
風に刃物が通用するわけはない。
風伯が、再び長大な曲刀を振りかぶった。
ぼくは絶望するしかなかった。
もはや守ってくれる結界はない。
天子さんも力尽きた。
ぼくたちの負けだ。
風伯が曲刀を振り下ろした。
絶大な威力の風の刃が、上空から襲いかかる。
それはぼくたちのいる場所をわずかにはずれて、神社の社殿に着弾した。
爆発音が響き、ばきばきと、重量のある木材が折れ飛ぶ音がする。
爆発の余波と木片が、あたりに降りそそぐ。
ぼくは思わず目をきつく閉じ、手で顔をおおった。
再び目をみひらいたとき、目に入ったのは、屋根が消滅した社殿だった。
今、風伯の目には、横たわったまま動くこともできないひでり神さまの姿がみえているはずだ。
そうか。
そういえば、古代中国の妖怪大戦争で、風伯は人間軍を蹴散らしながらも、最後はひでり神さまに太刀打ちできず敗れたんだった。
今のひでり神さまをみて、風伯は、それが憎い敵だとわかるだろうか。
たぶんわかるだろう。
風伯が、三度曲刀を振り上げた。
そのとき、ぼくの心に突然激しい闘志がわいた。
(まだだ。まだ終わっていない)
(何の力もないぼくだけど、この心でお前を倒す!)
必殺の気迫を込めて、ぼくは風伯をにらみつけた。
ぶるぶると、ぼくの体が震える。
ジャンパーの左右のポケットが、まぶしい光を発した。
そこから何かが飛び出して、上空に向かう。
向かううちに、それはぐんぐんふくれあがって巨大になる。
手だ。
虎の手だ。
水虎だ。
水虎が残してくれた毛玉が、巨大な虎の手になったんだ。
風伯が、どんな顔をして、それをみていたかはわからない。
あっ、という時間もない、わずかのあいだに水虎の掌は、風伯の何倍もの大きさに成長して、風伯のもとに殺到した。
二つの手のひらは、風伯を両側から襲う。
巨大な掌が打ち合わされた。
悲鳴のようなものが聞こえたような気もする。
少し遅れて衝撃波が地上に降りそそぐ。
消える。
消えてゆく。
水虎の執念でよみがえった巨大な左右の掌は、だんだん姿がぼやけてゆき。
そして、消えた。
空には何も残っていなかった。
「第17話 風伯」完結/次回「第18話 雨師」




