後編
9
(なに?)
(なんだって?)
(雨師と、風伯?)
低く低く唱え続けられる和尚の呪文が、ぼくの脳髄をしびれさす。
だめだ。意識をはっきり持たなければ。
「われがいにしえに雨師風伯と結びしちぎりは、まだ消えてはおらなんだ」
「さ、さようにござりますな」
「ただし、今のわれの霊力では、呼び出せる雨師と風伯の力は弱い。弱くはあるが、力を失っておるひでり神めを滅ぼすにはじゅうぶんであろう」
「じゅうぶんにござりましょう」
「しばらく前には、結界のうちから強きあやかしの気配がした。霊雲を呼び寄せるほどのあやかしであった。あのあやかしも倒されたのであろうか」
「わかりませぬ。結界の内のことはわかりませぬ」
「それにしても、われが精魂を込めし十二個の溜石よりは、さぞ頼もしきあやかしが生まれたであろうな」
「それはもう、まちがいもござりませぬ」
「おおん。おおん。あやかしどもは、村を荒らしに荒らしたであろうなあ」
「荒し尽くしたことでござりましょう」
「それをみて、あのひでり神めは、さぞ苦しんだであろうなあ」
「苦しんだにちがいござりませぬ」
「おおん。おおん。憎きひでり神め。苦しめ、苦しめ。きさまに安住の地など許してなるものか」
「なりませぬ。なりませぬ」
「なろうことなら、溜石より生じたあやかしにより、あやかしより生まれし妖気により、あのいまいましき結界が破れればよかったのじゃがなあ」
「口惜しきことにござります」
「おおん。おおん。口惜しきことよ。結界が破れれば、すぐにも雨師風伯を差し向けたのにのう」
「やむを得ませぬ」
「そうじゃ。やむを得ぬ。もはや時間はない。われは雨師と風伯を呼び寄せた。今にも雨師と風伯の操る雨と風が押し寄せる。結界は、雨や風を防ぎ止めることはできぬ。いまいましいものは何もかも、雨で押し流し、風で吹き飛ばしてくれる」
「時間がないのでござりますなあ」
「そうじゃ。口惜しきことじゃが、われには時間がない」
「なんと? ひでり神のほうにではなく、あなたさまのほうに、時間がないのでござりますか?」
「何を今さらたわけたことを。宿す魂魄は蚩尤とはいえ、宿る体は天逆毎にすぎぬ。もはや寿命じゃ。われに残された時間は、いくばくもない」
「ああ、なんということ。なんということ」
「滅ぼしてやる。必ず滅ぼさずにはおかぬ。にっくきひでり神め」
「さようにござります。滅ぼさずにはおかれませぬ」
「ときにお前は誰であったかなあ」
ぼくの心臓は、どくんと大きく跳ねた。脂汗が噴き出した。
もっと訊きたいことがある。だけど限界だ。
これ以上話を続けることはできない。
とすれば、あとはどうやってこの問答を終わらせるかだ。
ぼくは、腹に力を入れ、気合いを込め、次の言葉を発した。
「ははは。お疲れのようでござりますな」
「疲れておる。そうじゃな、われは少し疲れておる」
「今は少しお休みなされ」
「なに?」
「お休みになられて、力をたくわえなされ。来るべき復讐の時のために」
「そうじゃなあ。しばし休むとするかなあ」
「お休みなされませ。お休みなされませ。目覚めたときには思い出されましょうぞ」
しばらく返事がなかった。ぼくは体中の勇気をかき集め、言葉を重ねた。
「お休みなされませ。お休みなされませ」
「……うむ、うむ。おんおん。おんおん。おおん……」
10
炎の向こう側で天子さんがぱたりと倒れるのをみたような気もする。
そんなものはみなかったような気もする。
いずれにしても、ぼく自身がそのとき気を失った。もう限界だったんだ。
目覚めたときには祭壇の火は消えていて、天子さんがぼくを抱き起こし、一杯の水を飲ませてくれた。
信じがたいほどにうまかった。
そこには、和尚さんがいて、天子さんがいて、童女妖怪がいた。
ぼくは、天逆毎から、いや蚩尤から訊き出した秘密のすべてを、残すところなく三人に伝えた。
「まさか蚩尤とはのう。なんということじゃ」
「法師どの。よりによってこの結界の前の川に蚩尤のかけらが落ちるなどという偶然が、いったいあるものであろうか」
「天子さん、それは逆だ」
「なに?」
「結界がある場所に蚩尤のかけらが落ちたんじゃなくて、蚩尤のかけらがひそむ川の前に、この里が作られたんだ」
「そうか。順序からすれば、そうなるか」
「かけらが落ちたとき、川だったのかどうかもわからない。のちになってかけらが意識を取り戻したときには川のなかだったわけだけれどね」
「もしかしたら」
「うん? 何か気づいたのか、ちみっこ」
「この里は、霊力のたまりやすい構造をしてるです」
「ああ。そうらしいね」
「蓬莱山、麒麟山、白澤山は、三山として呪的に結びつけられる以前から、膨大な霊気を生み出す霊山だったにちがいないのです」
「そうだろうね。だからこそ弘法大師は、ここをひでり神さまの贖罪の場と定められたんだ」
「近くに飛んできたかけらは、三つの霊山の霊気に引き寄せられたです。しかし不浄だからはじかれて、ここに落ちたのかもしれないです」
「そんなことがあるのかな? 和尚さん、どうなんです」
「うむ。大いにあり得る」
「なるほど。そしてそういう場所だから、結界を作る場所に選ばれたわけか。偶然は偶然だけど、ある意味必然でもあったのか。それにしても、まさかここに蚩尤のかけらが落ちていたとは、さすがの弘法大師さまも気づかなかったんだろうなあ」
「それともう一つ、思ったことがあるです」
「お、今日は頭脳派だな」
「洪水のことです」
「え?」
「こんなに霊的に安定した場所に、百年に一度大洪水が起きるなんて、あり得ないです」
「前にもそんなこと言ってたな。だけど現に起こってるんだ」
「三山から降りた霊気は里に集められるですが、よぶんな霊気や邪気は、南西の方角に逃げるように作られてますです」
「うん?」
「だけど、その南西の方角にある天逆川に、邪気そのものである蚩尤のかけらがあったら」
「あ」
「邪気はせき止められてたまってゆきますです」
「そして百年に一度、大洪水を起こすのか!」
「それと疫病です。そう考えると、いろいろなことが符合してきますです」
「なんてこった。大洪水も疫病も、蚩尤のかけらのせいだったのか」
「ううむ。まさかそのような仕組みになっておったとは」
「天狐よ。わしも驚いた。今の今まで思いもせなんだわ」
「とにかく和尚さん。これで相手の手の内はわかりました」
「見事じゃ、鈴太。よくやった」
「お疲れであったなあ」
「あちしもほめておいてやるです」
「やっぱり、天逆毎自身ではひでり神さまを倒せないみたいですね」
「それはそうじゃろうと思っておった。じゃが、その代わりに雨師と風伯とはのう」
「和尚さん」
「うん?」
「雨師とか風伯っていうのは、妖怪の一種なんですか?」
「いやいや、そんなものではない。れっきとした神霊じゃ。それも相当に神格の高い神霊じゃ」
「それがなぜ蚩尤に使役されるんです?」
「雨師や風伯ほどの神霊になると、自然現象に近い性格も持つ。呼び出して使役すれば使役できる場合もある。そのとき、使役したものが邪神や邪妖であれば、雨師や風伯もまた、よこしまな力として働く」
「今でも蚩尤との使役契約が有効みたいですけど、じゃあ、何千年来ずっと雨師と風伯は悪神だったんですか?」
「そんなことがあろうはずはない。わしが知っておるだけでも、何人もの術者が雨師や風伯の一部を呼び出して、その力の一端を用いて術を行っておる。とはいえ、本体そのものを、不完全な形とはいえ呼び出した例は知らんがのう」
「大昔、蚩尤は、雨師や風伯の本体そのものを呼び出したんでしょうか」
「そうかもしれん。そんなことはわしにはわからん。あのかたが目覚めたらお訊ねしてみるのじゃな」
「それで、雨師や風伯と、どうやって戦うんですか?」
「戦えるわけがない」
「え?」
「よいか。方相氏は、神々の時代を除いて、この国に現れた最強の鬼神といってよい。歴史に名を残す伝説的な陰陽師たちでさえ、方相氏には歯が立たなんだのじゃ」
「はい」
「その最強の鬼神よりも、雨師や風伯はずっと格上じゃ。戦いようなどありはせん」
「戦えない? じゃあ、せっかく引き出した情報は、無駄だったんですか?」
「無駄であるはずがない。敵を知って備えるのと、敵を知らずに備えるのとは、雲泥の差がある」
「備え? 戦えないけれど、備えることはできるんですか?」
「雨師と風伯は、自然現象に近い性格を持つと言うたであろうが」
「あ、そうか」
「強い雨風に備えるのじゃ」
「ようするに、超大型台風に備えると思えばいいんですね」
「そうじゃ。そして、その備えは短期間のものでよい」
「短期間? どういうことです?」
「雨師や風伯というような、けたはずれに強大な神霊を、天逆毎ごときがそう長い日数使役できるわけがない」
「そうか。短期決戦なんですね」
「そういうことじゃ」
「わかりました。さっそく家に帰って戸締まりをします」
「いや。それはだめじゃ」
「え? どういうことです?」
「天逆毎は、わしと、おぬしと、あのかたの居場所を知っておる。天狐のねぐらについては、どうかわからぬ」
「はい」
「この三つの住まいは、おそらく無事ではすむまい」
「あ、そうか。そうかもしれませんね」
「じゃから避難する」
「避難する? どこにですか」
「地守神社じゃ」
「地守神社? でも、あそこも狙われるかもしれませんね」
「狙われるかもしれん。しかしあそこは、結界のなかにあってさらに強い結界に守られた場所でのう。あまりに強き雨風は吹き込まぬようになっておるんじゃ」
「えっ? そうなんですか?」
「雨風がきつくなる前に、神社に移動するぞ。食料、毛布、そのほか用意する物は多い」
「はい」
「鈴太よ」
「はい?」
「お前のおかげで、これがいよいよ敵の奥の手とわかった」
「はい」
「これをしのぎきれば、こちらの勝ちじゃ」
「はい!」
「最後の決戦じゃ。心せよ」
「はい」
ぼくは、腹に力を込めてうなずいた。
和尚さんは、右腕を失ったけど、相変わらず本当に心強い存在だ。
天子さんと、童女妖怪をみた。
二人とも、目に力がある。
いけるぞ。
ぼくたちの心は負けていない。
チームワークも最高だ。
今こそ、千二百年の願いが成就する時なんだ。
「第16話 蚩尤」完/次回「第17話 風伯」




