前編
1
十二個の溜石は、すべて無力化された。
つまり、敵である天逆毎が、ひでり神さまを滅ぼすために結界のなかに送り込んできた手駒は、すべてつぶした。
けど、代償はあまりに大きかった。
弘法大師から授けられた秘宝である〈和びの鈴〉が失われた。
和尚さんは、利き腕を失った。
そして、ひでり神さまは、こんこんと眠り続けて、目覚めようとしない。
食事も取らず、排泄もしないんだから、面倒をみるといっても、ただ寝かせておくだけでいい。
だけど、このまま眠り続けたんじゃ、いつまでもお役目が終わらない。満願成就の日が来ない。
雨は二日間降り続けて、三日目、つまり二十九日の朝にからりと晴れた。台風十七号は、中国地方に上陸したあと、いったん太平洋上に出て、紀伊半島に再上陸し、勢力を弱めて太平洋に出て、十月一日に消滅した。その間にいくつかの台風が発生して消滅している。
雨が降り続いた二日間、ぼくはまったく外出しなかった。天子さんも来なかった。
二十九日の朝、神社の掃除をして帰ってくると、天子さんが来ていた。
「おはよう、天子さん」
「うむ。おはよう」
こうしてみると、天子さんは小さい。この小さい体で千二百年も羽振の一族を守り続けてくれたんだ。
「和尚さんの具合はどうなの?」
「ふむ。昨日は酒を飲んでおったな」
「えっ? それはだめなんじゃないの?」
「いや、普通の人間と同じように考えんでよい。本人がよいなら、それでよい」
「でも、お酒なんか飲んだら、血が止まらないんじゃ」
「出血はすぐに止まった。そういえば、雨が降ってくれたおかげで、血の跡を掃除する手間がはぶけた」
「血の始末なんかの心配をしてる場合じゃないよ。あんな大怪我をしたんじゃ、しばらく起き上がることもできないよね?」
「鈴太」
「え?」
「自分を責めるでないぞ」
「……だけど」
「やはりのう。法師どのも、そこを心配しておった」
「ぼくが無謀な攻撃をしなければ」
「方相氏を刺激してはならぬ、という判断は、誤りであった」
「え?」
「村の四方を巡る呪術が完成しかけたとき、それがわかった」
「あの黒雲だね」
「雲は現象の一部にすぎぬ。あのとき集まろうとしていた妖気は、結界ごと里全体を滅ぼしてしまうほどのものであった」
「……もしもあのまま方相氏が起こそうとした何かが起きていたら、ひでり神さまも滅ぼされていたんだろうか」
「それはわからぬ。しかし、村がすべて崩れ去り、神社も消滅し、骨ヶ原に降りる道も閉ざされるということになれば、満願成就の日が訪れることはない。それはあのかたを滅ぼすのと同じじゃ」
「そうか。そうだね」
「そこまでのことを天逆毎が計算しておったとも思わぬが、十二個めの溜石こそは、恐るべきものであった」
「そうだ。あのとき方相氏を焼き尽くした、あれは何?」
「わらわは知らぬ。食事が終わったら、法師どののもとに参ろう」
「そうなのです。食事の時間なのです」
「いつ湧いて出た」
2
「あれは〈日輪招来〉という神術じゃろうなあ」
「にちりんしょうらい、ですか?」
「うむ。聞いたことはある。考えてみればあのかたは、日天子さまの力の一部を授けられたかた。あのような術はお手の物なのじゃろうなあ」
「ひでり神さまの力は、地守神社に封じられているんじゃなかったんですか?」
「封じられておるのは、あのかたの荒御霊じゃ。ということは、攻撃に使えるような神力のほとんども封じられておることになるが、あのかたはもともと天界の神々の一柱。その存在の力そのものを用いれば、あの程度の術は使えたのであろうなあ」
「存在の力?」
「人でいえば生命力じゃな」
「命を削って、あの攻撃を放ったということですか」
「そういうことじゃ」
「では、ひでり神さまは、死んでしまうんですか?」
「恐ろしいことを、さらりと口にするのう。そんなことはあるまい。そうであれば、もうすでに消えておられるはずじゃ。じゃが、消えてはおられん。ということは、力をたくわえれば、やがて目覚めてくださるであろうよ」
「何日くらいで目覚めるでしょうか」
「さあのう。何日か、何か月か、何年か」
「そんな!」
「われらは千二百年の時を待ち続けた。もう十年や二十年は、何ほどのこともない。それにのう」
「それに?」
「もう溜石はない。安心して待つことができる」
「……もしもあのとき、ぼくが無謀な攻撃をしかけなければ、どうなっていたんでしょう」
「わしも天狐も滅せられ、地守神社も粉々に打ち砕かれ、骨ヶ原への階段も失われ、あのかたも痛手を受けておられたかもしれんのう」
「そうならなかったかもしれません」
「そうじゃな。それはわからんことじゃ。じゃから考えてもしかたがない。しかし今にして思うことは、いくつかある」
「思うこと?」
「うむ。まず、方相氏の狙いじゃ。天逆毎はこれまで現れたあやかしどもに明快な指示を出したことはない。水虎に対しても、暴れて人を殺せとは命じたが、それ以上のことは命じなんだ。じゃからおそらく方相氏にも、格別の指示はなかったはずじゃ。出そうにも出すすべがなかったと思う」
「はい」
「ところが方相氏自身が、恨みをいだいておった」
「恨み?」
「自分を縛り付けて使役した人間への恨みじゃよ。そして地守神社には、方相氏が嫌い憎みそうな気配と術が、満ち満ちておったはずじゃ」
「あ」
「そしてまた、この里を包む結界も、方相氏の気にはくわなかったろうのう」
「そうなんですか」
「じゃから、神社や結界が破壊されることは、もっと早くに気づいておってもよかったのじゃ。もっとも、気づいたからというて、打つ手があったわけでもないがのう」
「ひでり神さまは、どうしてあそこに来たんでしょう。和尚さんが、ひでり神さまに助力を願われたわけではないんですよね?」
「わしが? そんなことはせん。そこもうかつじゃった」
「うかつ、とは?」
「わしはこの寺におって、まざまざと方相氏の出現を感じた。天狐も麒麟山のすみかにいながら、方相氏の存在をはっきりと察知した。あのかたに、それがわからんということがあるはずがない」
「あっ、そうか。ほんとにそうですね」
「最初の夜からお気づきだったはずじゃ。いや、それは考えんでもなかったんじゃがのう。この千二百年のあいだ、あのかたは、あやかしとの戦いには一切関わろうとされなんだ。それはわしの役目じゃからのう。じゃから今度も手出しなどされるはずがないと、どこかで思い込んでおった」
「今度こそは手出しするべきだと判断されたんですね」
「やつのやろうとしておることに気づき、わしでは倒せんと判断され、ご自身で倒すほかないと決断された。ただ、ご決断にも術の行使にも、それなりの時間がかかったはずじゃ。お前とわしが足止めをしておらねば、まにあわなんだかもしれん」
「ひでり神さまの術が調うのがまにあわなかったということですか?」
「そういう可能性もあるということじゃ。いずれにしても、結果は上々。お前は自分の信念と直感で行動し、わしや天狐もそれぞれの思惑にしたがって行動した。その結果、最も望ましい形であれほどの危機を乗り切ることができたのじゃ」
「でも、和尚さんの右腕は、もう戻ってきません」
「戻ってこんな。それはちっとも問題ではない」
「そんな」
「もしわしの命と引き換えに方相氏を倒せるものなら、わしは喜んでこの命を差し出したとも。それでこそ本望じゃ。かのおかたに託された役割を果たして死ねるのじゃからのう。鈴太よ」
「はい」
「何が最上であったなどと問うてみても、いつ答えるか、誰が答えるか、どんな立場で答えるかによって、出る答えはまるでちがう」
「……はい」
「そのとき、そのときに、精いっぱいやったかどうか。問うべきはそこじゃ」
「はい」
和尚さんの言葉は、よくわかった。
だけどぼくの心は晴れなかった。
自分が愚かな振る舞いをしたという後悔は消えなかった。
肘の上で斬り落とされた和尚さんの右腕が、ぼくを責め続けた。
神棚を拝んでも、その脇に鈴がないことが、悲しくてならなかった。




