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羽振村妖怪譚  作者: 支援BIS
第15話 方相氏(ほうそうし)
76/90

後編

14


 ぼくは思わず目を閉じた。

「破邪金剛力!」

 和尚さんの声が響いた。

 金属が何かにぶつかる激突音がした。

 斬り裂かれる苦痛と死は訪れなかった。

 何が起きたのかと目を開けてみると、目の前で緑の燐光が光った。

 天子さんがバリアーでぼくを守ってくれたんだ。

 方相氏は、再び右腕を振り上げた。

 そこに和尚さんが飛び込んできた。

 和尚さんは、方相氏の右足に金棒を打ちつけた。

 いくら方相氏でも、これなら体勢を崩さずにいられない。つまり呪術は完成しない。

 ところが、そうはならなかった。

 和尚さんの渾身の打ち込みを受けても、地に降りた右足はゆるがなかった。まるで大地に深く根を下ろしているかのように、その場から動くことはなかった。

 和尚さんは、金棒を引いて振りかぶり、もう一度攻撃を加えようとした。

 方相氏は、振り上げた右腕を振りおろしはせず、首の周りに垂れ下がった紙垂の一枚を引きちぎって、さわさわと音を立てて振った。すると紙垂はするりと伸びて、剣に、いや刀になった。

 古代の人が使ったような、反りのない直刀だ。

 金棒をたたき付ける和尚さんと、直刀を振り下ろす方相氏。

 そのとき、金棒と直刀がどうせめぎ合ったのか、ぼくの目にはみえなかった。

 ぼくの目がとらえたのは、宙を舞う金棒であり、その金棒を握ったままの和尚さんの右腕だ。

 みたものが信じられず、ぼくは和尚さんの姿を探した。地に伏して悶絶する和尚さんの右腕は、肩口で断ち斬られていた。

 何かが空から落ちてくる。ぼくは振り向いた。

 方相氏が作った地面の大きな穴に、鉄棒が落ちてゆく。斬り飛ばされた和尚さんの右手と一緒に。

 ぼくは素早く方相氏のほうに向き直った。

 方相氏が追撃すれば、和尚さんもぼくも死ぬしかない。

 だけど方相氏の四つの目からは強い光が消えていた。

 方相氏は、直刀を投げ捨てた。空中で直刀は紙垂に戻り、ひらひらと舞いながら、和尚さんのそばに落ちた。

 そして方相氏は、再びくるりと百八十度回転すると、今度こそ左足を地に降ろし、何事もなかったかのように、呪術の歩みを再開した。

 和尚さんの捨て身の攻撃でさえ、方相氏にとっては、蚊に刺されたほどの出来事でしかなかった。

 刺した蚊をはらいのけてしまえば、何匹の蚊がぶんぶんと飛んでいようが、そんなものに興味などないんだ。

「法師どの!」

 天子さんが和尚さんに駆け寄る。

「だ、だいじょうぶじゃ。それより方相氏を追え」

 驚いたことに、命にも関わる重傷を負い、あふれ出る血にかまいもせず、和尚さんはしっかりした声で天子さんに話しかけた。

「やつが何をしでかすのか、その目でみとどけてくれい」

「心得た! ゆくぞ、鈴太!」

「え?」

 ぼくは事態の展開についてゆけなかった。

 天子さんは、ぼくの右手を取って、ぐいと引っ張る。

 引っ張られるままに、ぼくは前に進んだ。

 ふぬけのようになったまま天子さんに手を引かれ、方相氏のあとを追った。

 空を覆う雲は、いよいよ厚みを増し、方相氏の体からあふれ出る妖気は、びりびりと身をしびれさす。妖気には鈍感なぼくでさえきついんだから、天子さんにはさぞつらい追跡だろう。

 それでも天子さんは、決然と前に進む。その勢いに引きずられ、ぼくも歩みを進めた。

 一瞬、空の一角が青緑色の燐光を放ったようにみえた。

 あれは?

 あれは何だろう。

 もしや、結界が、押し寄せる妖気に耐えかねて発光したんだろうか。

 もしや今、方相氏は弘法大師の結界を破ろうとしているんだろうか。

 そしてついに、方相氏は立ち止まった。

 立ち止まって、奇妙な舞いを舞っている。

 まずは東に向かって。

 次に北に向かって。

 そして、西に向かい、最後に西に向かって舞いを舞った。

「空の上に、とんでもない妖気があつまっていますです」

 いつのまにか、童女妖怪が出現している。

「ぐんぐん密度を増してますです。これはだめです」

 だめとは何がだめなのか。

 そう聞こうとしたけど、ぼくの口は動かなかった。

 もちろん。すべてがだめなんだ。

 村も、ひでり神さまも、すべてが滅びてしまうんだ。

 呪術のことなんか何も知らないぼくでさえ、そうとわかる。

 黒雲は、はらわたをねじり出すように、ぐねぐねとねじられてゆき、その奥から白い何かが現れようとしている。空のすべてが黒雲に支配されているなかで、方相氏の巨大な全身は、ぼうっと明るく発光している。

 黒雲の力を吸い込むように、方相氏も変身を始めた。

 より大きく、より醜く。

 より強く、よりおぞましく。

 怒りと憎しみをまき散らしながら、方相氏が姿を変えてゆく。

 この変身が完成したとき、天変地異が起こり、ぼくたちは死ぬ。

(だめだ!)

(だめだ!)

(だめだ!)

(だめだ!)

 声にならない声で、ぼくは叫び続ける。

 けれども、方相氏をとどめる方法はない。

 いつのまにか、ぼくの肩には天子さんが手を置いている。そして天子さんは、ぼくの横で、きつい目をして方相氏をにらみつけている。

 ぼくは思わず、神様! と心のなかで叫んだ。

 そのとき。

 凛とした声が響きわたった。

 聞いたこともない声だ。

 いや。どこかで聞いた声だったろうか。

 張りと気品のある声だった。

 日本語ではない。いや、どこの国の言葉でもないかもしれない。

 密度の高い声だ。

 強力な声だ。

 普通の会話に使うような言葉じゃない。

 呪文だ。

 とびっきり強力な、何かの呪文だ。

 そのとたん。

 光がはじけて、ぼくは視力を失った。

 一瞬だけれども、肌を焼く強烈な熱気が、ぼくの全身を包んだ。

 やっと目を開けたときには、方相氏が紅蓮の炎に包まれて焼かれていた。


 ぐおおう。

 ぐおうおう。


 雷を鳴らすような断末魔のうなり声を上げながら、方相氏が焼けてゆく。

 焼け落ちて小さくなってゆく。

 小さくなって、消えてゆく。

 いったい何が起きたんだろう。

「なんということじゃ!」

 天子さんが悲鳴のような声を上げて走って行く。

 右側の坂の上に、誰かが倒れている。

 ひでり神さまだ。

 ぼくもひでり神さまのもとに駆け寄った。

「これはいかん。鈴太!」

「うん」

「おぬしの家に運ぶのじゃ。急げ!」

「う、うん」

 ぼくはひでり神さまを背負って運んだ。

 布団に寝かせたとき、和尚さんのことを思い出した。

「天子さん。ぼくは和尚さんの所に行ってくる」

「それは、わらわが行こう。じゃが、心配は無用じゃ」

「えっ。何を言ってるんだ。命にも関わる大怪我だよ」

「鈴太よ。野生の獣が、四肢の一つを失うたからといって、そのまま死んでしまうと思うかえ?」

「え? いや、それは、そんなことはないだろうけど」

「法師どのの生命力は、片腕を失ったくらいで消え果てはせぬ」

「で、でも」

「とにかく、わらわがみにゆく。おぬしは、このかたのごようすをみまもれ」

「うん」

 天子さんが出ていってしばらくして、雨が降り始めた。

 時間がたつほどに雨は強くなり、やがて天の底が抜けたのかと思うような大雨になった。


「第15話 方相氏ほうそうし」完/次回「第16話 蚩尤しゆう

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