後編
14
ぼくは思わず目を閉じた。
「破邪金剛力!」
和尚さんの声が響いた。
金属が何かにぶつかる激突音がした。
斬り裂かれる苦痛と死は訪れなかった。
何が起きたのかと目を開けてみると、目の前で緑の燐光が光った。
天子さんがバリアーでぼくを守ってくれたんだ。
方相氏は、再び右腕を振り上げた。
そこに和尚さんが飛び込んできた。
和尚さんは、方相氏の右足に金棒を打ちつけた。
いくら方相氏でも、これなら体勢を崩さずにいられない。つまり呪術は完成しない。
ところが、そうはならなかった。
和尚さんの渾身の打ち込みを受けても、地に降りた右足はゆるがなかった。まるで大地に深く根を下ろしているかのように、その場から動くことはなかった。
和尚さんは、金棒を引いて振りかぶり、もう一度攻撃を加えようとした。
方相氏は、振り上げた右腕を振りおろしはせず、首の周りに垂れ下がった紙垂の一枚を引きちぎって、さわさわと音を立てて振った。すると紙垂はするりと伸びて、剣に、いや刀になった。
古代の人が使ったような、反りのない直刀だ。
金棒をたたき付ける和尚さんと、直刀を振り下ろす方相氏。
そのとき、金棒と直刀がどうせめぎ合ったのか、ぼくの目にはみえなかった。
ぼくの目がとらえたのは、宙を舞う金棒であり、その金棒を握ったままの和尚さんの右腕だ。
みたものが信じられず、ぼくは和尚さんの姿を探した。地に伏して悶絶する和尚さんの右腕は、肩口で断ち斬られていた。
何かが空から落ちてくる。ぼくは振り向いた。
方相氏が作った地面の大きな穴に、鉄棒が落ちてゆく。斬り飛ばされた和尚さんの右手と一緒に。
ぼくは素早く方相氏のほうに向き直った。
方相氏が追撃すれば、和尚さんもぼくも死ぬしかない。
だけど方相氏の四つの目からは強い光が消えていた。
方相氏は、直刀を投げ捨てた。空中で直刀は紙垂に戻り、ひらひらと舞いながら、和尚さんのそばに落ちた。
そして方相氏は、再びくるりと百八十度回転すると、今度こそ左足を地に降ろし、何事もなかったかのように、呪術の歩みを再開した。
和尚さんの捨て身の攻撃でさえ、方相氏にとっては、蚊に刺されたほどの出来事でしかなかった。
刺した蚊をはらいのけてしまえば、何匹の蚊がぶんぶんと飛んでいようが、そんなものに興味などないんだ。
「法師どの!」
天子さんが和尚さんに駆け寄る。
「だ、だいじょうぶじゃ。それより方相氏を追え」
驚いたことに、命にも関わる重傷を負い、あふれ出る血にかまいもせず、和尚さんはしっかりした声で天子さんに話しかけた。
「やつが何をしでかすのか、その目でみとどけてくれい」
「心得た! ゆくぞ、鈴太!」
「え?」
ぼくは事態の展開についてゆけなかった。
天子さんは、ぼくの右手を取って、ぐいと引っ張る。
引っ張られるままに、ぼくは前に進んだ。
ふぬけのようになったまま天子さんに手を引かれ、方相氏のあとを追った。
空を覆う雲は、いよいよ厚みを増し、方相氏の体からあふれ出る妖気は、びりびりと身をしびれさす。妖気には鈍感なぼくでさえきついんだから、天子さんにはさぞつらい追跡だろう。
それでも天子さんは、決然と前に進む。その勢いに引きずられ、ぼくも歩みを進めた。
一瞬、空の一角が青緑色の燐光を放ったようにみえた。
あれは?
あれは何だろう。
もしや、結界が、押し寄せる妖気に耐えかねて発光したんだろうか。
もしや今、方相氏は弘法大師の結界を破ろうとしているんだろうか。
そしてついに、方相氏は立ち止まった。
立ち止まって、奇妙な舞いを舞っている。
まずは東に向かって。
次に北に向かって。
そして、西に向かい、最後に西に向かって舞いを舞った。
「空の上に、とんでもない妖気があつまっていますです」
いつのまにか、童女妖怪が出現している。
「ぐんぐん密度を増してますです。これはだめです」
だめとは何がだめなのか。
そう聞こうとしたけど、ぼくの口は動かなかった。
もちろん。すべてがだめなんだ。
村も、ひでり神さまも、すべてが滅びてしまうんだ。
呪術のことなんか何も知らないぼくでさえ、そうとわかる。
黒雲は、はらわたをねじり出すように、ぐねぐねとねじられてゆき、その奥から白い何かが現れようとしている。空のすべてが黒雲に支配されているなかで、方相氏の巨大な全身は、ぼうっと明るく発光している。
黒雲の力を吸い込むように、方相氏も変身を始めた。
より大きく、より醜く。
より強く、よりおぞましく。
怒りと憎しみをまき散らしながら、方相氏が姿を変えてゆく。
この変身が完成したとき、天変地異が起こり、ぼくたちは死ぬ。
(だめだ!)
(だめだ!)
(だめだ!)
(だめだ!)
声にならない声で、ぼくは叫び続ける。
けれども、方相氏をとどめる方法はない。
いつのまにか、ぼくの肩には天子さんが手を置いている。そして天子さんは、ぼくの横で、きつい目をして方相氏をにらみつけている。
ぼくは思わず、神様! と心のなかで叫んだ。
そのとき。
凛とした声が響きわたった。
聞いたこともない声だ。
いや。どこかで聞いた声だったろうか。
張りと気品のある声だった。
日本語ではない。いや、どこの国の言葉でもないかもしれない。
密度の高い声だ。
強力な声だ。
普通の会話に使うような言葉じゃない。
呪文だ。
とびっきり強力な、何かの呪文だ。
そのとたん。
光がはじけて、ぼくは視力を失った。
一瞬だけれども、肌を焼く強烈な熱気が、ぼくの全身を包んだ。
やっと目を開けたときには、方相氏が紅蓮の炎に包まれて焼かれていた。
ぐおおう。
ぐおうおう。
雷を鳴らすような断末魔のうなり声を上げながら、方相氏が焼けてゆく。
焼け落ちて小さくなってゆく。
小さくなって、消えてゆく。
いったい何が起きたんだろう。
「なんということじゃ!」
天子さんが悲鳴のような声を上げて走って行く。
右側の坂の上に、誰かが倒れている。
ひでり神さまだ。
ぼくもひでり神さまのもとに駆け寄った。
「これはいかん。鈴太!」
「うん」
「おぬしの家に運ぶのじゃ。急げ!」
「う、うん」
ぼくはひでり神さまを背負って運んだ。
布団に寝かせたとき、和尚さんのことを思い出した。
「天子さん。ぼくは和尚さんの所に行ってくる」
「それは、わらわが行こう。じゃが、心配は無用じゃ」
「えっ。何を言ってるんだ。命にも関わる大怪我だよ」
「鈴太よ。野生の獣が、四肢の一つを失うたからといって、そのまま死んでしまうと思うかえ?」
「え? いや、それは、そんなことはないだろうけど」
「法師どのの生命力は、片腕を失ったくらいで消え果てはせぬ」
「で、でも」
「とにかく、わらわがみにゆく。おぬしは、このかたのごようすをみまもれ」
「うん」
天子さんが出ていってしばらくして、雨が降り始めた。
時間がたつほどに雨は強くなり、やがて天の底が抜けたのかと思うような大雨になった。
「第15話 方相氏」完/次回「第16話 蚩尤」




