中編9
13
鈍い音がして、鉈は左足に食い込んだ。
そのとき方相氏は右足をすりあげていたから、軸足を攻撃したことになる。
いくら方相氏でも、まともに立ってはいられないはずだ。そう思った。
でも、方相氏は、こゆるぎもしなかった。
その歩みはまったくゆらぐことがなかった。
ぼくの攻撃など、まったくなかったかのように、方相氏は前に向かって歩を進める。
食い込んだと思った鉈の刃は、ちっとも食い込んでなんかなかった。ゆったりとしたズボンのせいで、食い込んだかのような錯覚を覚えただけだったんだ。
ちりーん。
ちりーん。
すでに方相氏は二十メートル以上先を歩いている。
呆然としていたぼくは、鈴の音で我に返り、ポケットの〈和びの鈴〉を取り出した。
「鈴太。これ以上、方相氏を刺激してはならん」
「今のでわかったであろう。何をしても無駄じゃ」
「このままほおっておいたらだめだ。やつの歩みをさまたげないと、恐ろしいことが起きる」
「鈴太!」
ぼくは再びつかみかかった和尚さんの左手をかわして、方相氏に走り寄った。
そして方相氏の十メートルほど後ろで、〈和びの鈴〉を高々と掲げ、振った。
ちりちりちりーん。
ちりちりちりーん。
今までより数段力強い鈴の音が響いた。
方相氏が、左足を持ち上げた姿勢のまま、ぴたりと止まった。
そして、左足を持ち上げたまま、体をぐるりと回転させてみせた。
それはふしぎで不自然な光景だった。
何の力を加えられることもなく、地に降ろした右足を軸に、全身が百八十度回ったのだ。
顔に貼り付けられた紙に書かれた四つの目の、その下側の黄色い二つの目が、ぎろりと下に動いて、ぼくを捕らえた。
死神に心臓をつかまれたような錯覚を覚えた。
だけどぼくは勇気を振り絞り、〈和びの鈴〉を振りかぶった。
あとになってみても、どうしてそんなことをしたのかわからない。
だけどそのときは、そうすることが必要だと知っていた。
自分が求め願うもののためには、こうしなければならないと直感していた。
ぼくは、〈和びの鈴〉を、方相氏の顔面に向かって投げつけた。
鈴は虚空を飛び、狙いあやまたず、方相氏の顔を直撃した。
どごおん、とすさまじい爆発が起きた。
鈴は跳ね返って、ちりんと短い音を立てて地に落ちた。
方相氏の顔は爆発して、もと顔の一部であったものがまき散らされた。
そのうちのいくぶんかは、ぼくの体にも降りそそいだ。
もうもうと煙が立ちのぼっている。
方相氏の顔であったところから立ちのぼっている。
誰も動かず、誰も声を発しなかった。
「や、やったのか?」
天子さんが発した声は、少しかすれている。
方相氏は、左足を持ち上げた姿勢のまま、少しも動かない。
やがて顔から立ちのぼる煙が鎮まった。
そこに貼りついていた紙は、もうない。
粉々に吹き飛ばされてしまった。
その下にあったはずの顔は、えぐれ、目も鼻もないどろどろの肉の塊がさらけ出されている。
だが、方相氏の妖気もまた、少しも弱まっていない。
ぐるる。
それは虎のうなり声のようなものであり、もっとおぞましく恐ろしい何かだ。
稲妻が光る直前の雷鳴のような声だ。
そして恐ろしい光景を、ぼくはみた。
ぐねぐねと、方相氏の崩れ去った顔がうごめいている。
つぶれてえぐれた肉が、ぐもぐもと盛り上がっている。
そして、びしびしと音を立てて肉はかたまり、鼻が、口が、牙が、目が、かたちづくられてゆく。
言葉もなくみまもるぼくたちの前で、方相氏は顔を取り戻した。悪鬼の顔を。
目は四つある。
紙に書かれていた目とおなじように、上二つの目は赤く、下二つの目は黄色い。いや、金色だ。
黄色い二つの目は、先ほどと変わらず、ぼくにまっすぐ向けられている。
そして宙をにらんでいた上の二つの赤い目が、ぎょろっ、ぎょろっと動いて地面のほうに向けられた。
(〈和びの鈴〉!)
そこには思考も判断もなかった。
ぼくは〈和びの鈴〉を拾おうとして前に飛び出した。
そのときぼくは、方相氏のほうをみてはいない。だからこれは、あとで天子さんに聞いたことだけれども、方相氏は、首の周りに巻いたきらびやかな紐から一枚の紙垂を引きちぎって投げつけたという。
何かが〈和びの鈴〉にたたき付けられるのを、ぼくはみた。
土くれが激しく飛び散り、ぼくは思わず立ち止まって、顔を手で守り、目をきつく閉じた。
すぐに目を開けて鈴をみたぼくの目の前で、地面が溶けていた。
しゅうしゅう、じゅうじゅうと音を立てながら、鈴の周りの直径一メートルほどの地面が、焼けただれ、崩れ落ちていた。
ぶすぶすといやらしい匂いのする煙を上げながら、地面の穴は広がり、たちまち二メートルほどの大きさになった。
鈴がある辺りは、ぐらぐら煮えたっており、とても近づくことはできない。
ただみまもるしかないぼくの前で、地面はさらに溶け、深い穴が生まれた。
焼かれながらも鈴は形を保っているけど、穴はみるみるうちに深くなり、手の届かないところに沈んでゆく。
あっというまに十何メートルという深さの穴になり、溶けた大地が流れ込んで、鈴はみえなくなってしまった。
方相氏は、手のひらを上に向けて左手を突き出した。そして、親指をのぞく四本の指で、何かを引き寄せるようなしぐさをしてみせた。
とたんにぼくは、何か大きな手でつかまれたように、ぐいぐいと前に押し出されていった。足はほとんど宙に浮いている。だから踏みとどまることもできない。ぼくは地面にあいた穴を飛び越えて運ばれてゆく。
方相氏は、右手を振り上げた。五本の爪が鋭く伸びて、ぼくが近づくのを待ち構えている。ぼくの体はなすすべもなく、方相氏に引き寄せられてゆく。
わずかなあいだに、ぼくは方相氏のすぐ近くに到達していた。今や方相氏の四つの目は、すべてぼくに向けられている。
これは金縛りだろうか。ぼくは小指一つも動かすことができない。
ぐる。
かすかに方相氏が獰猛な笑い声を上げたような気がした。
そして無情に、五本の爪がぼくの頭上に振り下ろされた。




