中編8
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九月二十七日の朝、ぼくは目を覚ました。
すごい寝坊をしてしまった。もう八時半だ。
寝室のふすまを開けると、ぷうんと、味噌汁の香りがただよってきた。
「あ、天子さんが来てくれたんだ」
今日はどちらが食事当番だったのか。いつのまにか、それがわからなくなっていた。けれどもう、そんなことはどうでもいいような気もする。できるほうが作ればいいんだ。一緒に作ったっていいしね!
「遅いのです」
「お、すまん。というか、ちみっこ、もう起きてたのか」
「昨日は早く寝たのです。夜更かしは美容の敵なのです」
「はは。なるほど。ちみっこ、頑張れ」
「言われなくても頑張るのです」
「朝から仲がよいのう。ちょうど準備も整うた。頂くとするかの」
「いただきます」
「いただきまーす」
「頂戴する」
三人は朝食を食べた。
珍しくテレビをつけた。
台風がぐるぐる迷走しつつ、今度こそ中国地方に上陸しそうな気配だと報じている。
ふしぎなことに、昨夜のいらいらした気持ちは、どこかに忘れ去ったように、今日は心の調子がいい。
なぜだろう。
味噌汁の匂いのおかげかもしれない。
台風が近づいているというのに、空は晴れわたっている。
だけどどういうわけか、この日はお客さんが少なかった。
午前中に二人。
しかもそのうち一人は秀さんで、買い物もせず世間話だけをして帰った。
午後にはまったくお客さんもなく、注文も来なかった。
山口さんも来なかった。
少し字を書いた。「花鳥風月」の「鳥」という字が奇麗に書けた。うれしかった。
神社にも行った。
二十五日以来掃除をしていないので、こんな時間だけど掃除をした。
掃除を終えた神前を、ぼくは拝んだ。
どうぞ、方相氏への対処がうまくいきますように。
この平和が明日も続きますように。
そう祈った。
この日、天子さんは一日家にいてくれた。
どうでもいいが、童女妖怪も、ずっと出現したままだった。まあ、寝転がって漫画を読んでただけだけど。最近、柿ピーがお気に入りだ。
「油揚げ味の柿ピーが出たら、きっと爆発的にヒットするのです」
ヒットするか、そんなもん。第一、いくら亀田製菓でも、油揚げ味は出さないよ。
赤城乳業なら、〈ガリガリ君油揚げ味〉とかを出すかもしれないけど。
夕食の時間となった。ぼくが作った。
今日は餃子だ。ただし、外側は餃子の皮ではなく、油揚げだ。
うん。新食感だな。
童女妖怪は驚喜していた。
天子さんも、おいしそうに食べていた。
仮眠を取った。
十一時五十分に目覚ましをセットしたけど、十一時四十分に目が覚めた。
小腹がすいたので、カップ麺を一つ食べた。
天子さんは、お茶だけを飲んだ。
童女妖怪は、赤いきつねを食べた。
厚着をして、家のご神前に手を合わせた。
ふと、社の横に置いた〈和びの鈴〉が目に入った。ぼくは鈴を持ち上げると、ポケットにしまった。
そして、十二時三十分に、ぼくたちは家を出た。もちろん童女妖怪は、首に提げたお守りのなかだ。
昨日、方相氏が消えた場所に着いたのは、一時を少し回った時刻だ。すぐに和尚さんもやって来た。
和尚さんが手に持って肩に担いでいるものをみて、ぼくはぎょっとした。
金棒だ。
たっぷりの太さを持ち、無数の突起がついた長大な金棒を、和尚さんは持ってきた。
ということは、戦うつもりなんだろうか。
いや、そんなはずはない。しかし万一の場合を考え、最強の武器を用意しておいたんだろう。
べつに隠れる必要もないんだろうけど、ぼくたちは、少し東に移動して、森のなかに入った。
そして、二時になった。
ちりーん。
ちりーん。
鈴はポケットに入ってるんだけど、どこからともなく鈴の音がした。
澄みきった奇麗な音だ。
方相氏が現れた。
おんおん。
おんおん。
びっくりした。
これは、方相氏の声なんだろうか。
その姿は、昨日みたのとほとんど同じなんだけど、何といえばいいのか、すごく禍々しい。邪気の塊のような気配を感じる。
「むむ。みえる。今日は、はっきり姿がみえる」
「わらわにもみえる。法師どの。これは、どういうことかの」
「現世で何かをしようとしておるのじゃろうなあ」
すぐに方相氏は、奇妙な手振りと足つきで進みはじめた。
ぼくたちは、距離を置いて、後を追った。
十分ほどしたとき、誰かが懐中電灯を持って近づいてきた。
未成さんだ。
「鈴太さん。皆さんもご一緒なのね。今夜も変な気配が……きゃあ!」
未成さんは、懐中電灯の光に照らされた方相氏をみて悲鳴を上げた」
「あ、あれは、あれは、何?」
「みえるんですね? あれがみえるんですね」
「み、みえるわ。何かどろどろしたものが渦を巻いてる。角が突き出ている」
そういえば、今夜の方相氏の頭からは、大きな二本の角が突き出ている。
「どろどろしたもの? 頭や手や足はみえてますか?」
「頭? 手? 足? そんなものはみえない……いえ、そういえば、足のようなものを動かして移動してるのね」
完全にみえているというわけではないようだ。
それにしても、昨日はまったくみえていなかったはずの方相氏が、今夜はおぼろげながら見えている。
なんだろう。
ひどく胸がざわつく。
「未成さん。ここは危険です。帰ってください」
「き、危険なの? でも、それなら、鈴太さんも危険じゃないの?」
「わかりません。それをみきわめるために、ここにいるんです」
「わ、私、帰るわ。鈴太さんも、危ないようすだったら、すぐに帰るのよ、いい?」
「はい。わかりました」
この場所に居続けるのにたえられないようで、未成さんは、すぐに引き返した。
方相氏はずんずん進んでゆく。
この道は、何日か前に萬野銀子さんを案内した道だ。こんなに恐れと不安を抱えながら歩くことになるとは、あのときは思いもしなかった。
相変わらず鈴は鳴り続けている。
未成さんには、この鈴の音は聞こえなかったんだろうか。
おぉーんんん。
おぉーんんん。
方相氏は、時々不気味なうなり声を上げる。その声が腹に響くと、何かしらこの道が、異界に続く道であるかのような気にならされる。
空が曇ってきた。
先ほどまでは晴れていたのに。
黒々とした雲が空のいたる所からにじみ出てきて、天空を覆ってゆく。
ごうごうと音を立てながら、雲は渦巻き、成長する。
何か、よくないことが起ころうとしているんじゃないだろうか。
もうすぐ、取り返しのつかないことが起きるんじゃないだろうか。
何とかして、方相氏を止めないといけない。
あの歩みを止めないといけない。
そうしないと、村は魔界に堕ちてしまう。
もう乾物屋の横も過ぎた。あとわずかで村の東の端に着く。
「和尚さん」
「何じゃ、鈴太」
「あの歩きは、呪術なんですよね」
「そうであろうなあ」
「では、このまま歩き続ければ、その呪術が完成するんですね」
「そうじゃと思う」
「なら、その歩みを乱せば、呪術は完成しませんね」
「おい、鈴太。馬鹿なことを考えるのはよせ」
ほんとに、この夜のぼくは馬鹿だった。
あとになってみても、どうしてあんなことをしたのかわからない。
ただただ、方相氏のもくろみを妨げねばならないと、その思いばかりがぼくの心を支配していた。
ぼくは背負っていたリュックから、鉈を出した。
「よせ、鈴太」
「方相氏に手出しをしてはならぬ」
和尚さんの言葉も、天子さんの言葉も、ぼくの耳には入らなかった。
ぼくは、制止しようとする和尚さんの手をくぐり抜け、鉈を振り上げて方相氏に走り寄った。
そのとき、ぼくの心に恐れはなかった。
ただ狂気があった。
いや、恐れが狂気を生み出したのかもしれない。
狂気はぼくに、普段では考えられない力を与えてくれた。
その正気ではない力をもって、ぼくは鉈を方相氏の左足にたたき付けた。




