中編7
12
夜になっても、和尚さんも天子さんも、やって来なかった。
ぼくは暗澹たる気持ちになった。
やはり二人は、方相氏の邪魔をしないという選択をしたんだ。
方相氏に目をつけられたり、攻撃対象にされたりしないように、できるだけ方相氏に関わらないことにしたんだ。
ぼくは厚着をして、重い足を引きずって、昨日方相氏が消えた場所を訪れた。
夜中の一時を過ぎた時刻だ。
昨日も一昨日も、方相氏は夜中の二時に現れた。たぶん今日もそうだろう。
九月の下旬だけど、さすがにこの時間は寒い。
ひどく心細いけど、首にかけたお守りが、わずかに勇気を与えてくれる。
童女妖怪は、ぼくの呼び出しに応えて現れ、素直にお守りに入ってくれた。といっても、童女妖怪は、戦いということになると、ぼく以上に非力だ。何もできない。それでも、一緒にいてくれることが心強かった。
怒りか。
怒りに燃えていれば、こんな心細さなんか、吹き飛ばせただろう。
寒さにがたがた震えることもなかったろう。
けれど、ぼくの心は弱い。
怒りの炎でさえ、強く長く燃やし続けることができない。
今も怒りは感じている。この理不尽さに怒りを感じないわけがない。でも無力感のほうが、はるかに大きい。この重苦しい夜空に、押しつぶされてしまいそうだ。
二時が近づいてきたので、懐中電灯の光りを消した。
ちりーん。
ちりーん。
家に置いてきた〈和びの鈴〉の音が、ぼくの耳にははっきり聞こえた。
そして、やつは現れた。
でかい。
やはり、ものすごく、でかい。
恐ろしくて、あまり近くには近寄れないが、こんな田舎では、高い建物なんてないから、方相氏の五メートル近い巨大な身体は、とてつもない存在感を放っている。
そして、なんという強い気配だろう。
和尚さんと天子さんがそばにいるときには、それほどの脅威は感じていなかった。いや、感じてはいたんだけど、それは鉄鼠や水虎のときも感じていたし、一日前には、何とかなるんじゃないかという楽観的な気持ちがあった。
しかし今、戦いようもなく強大な相手と知って、その姿を視野に収めると、異常な妖気に圧倒されてしまう。たぶん、和尚さんや天子さんは、ぼくの何倍もこの気配を感じるんだろうから、こんなやつに近づきたくないのは無理もないのかもしれない。
巨大な鬼神は、奇妙な歩法で、しかしたゆむことなく進んでゆく。
土生地区の田んぼのなかを抜け、五頭家の近くを通過した。
雄氏地区に入った。佐々家につづく道を横切り、村役場の横を通り、とどまることなく歩いてゆく。
ぼくは、説明のつかない違和感を覚えていた。
何かちがう。
昨日とちがう。
昨日の方相氏とは、何かがちがう。
勇気を奮い起こして、方相氏との距離を詰めた。
といっても、十メートルは離れている。これだけの距離に近づくにも、決死の覚悟が必要だった。
これだけ離れているのに、まるですぐそばにいるように感じる。
ひらひらと振り回している手がこちらに伸びてくれば、たちまちぼくの頭はにぎりつぶされてしまうだろう。そんな恐怖がある。
こみ上げてくる悪寒を押し殺しながら、ぼくはじっと方相氏をみつめた。
わかった。
手だ。
昨日みた方相氏の手は、貴人の手のようにさらさらとしており、ほっそりと伸びて美しかった。
だが、今日の方相氏の手は、毛むくじゃらだ。
肌の色もちがう。
白く美しかった肌は、真っ赤にそまっている。
どうして今まで、こんな明らかなちがいに気づかなかったんだろう。
そう考えてみて、気づいた。
そもそもこの暗がりで、誰かの肌の色や手のようすがきちんとみえるわけがない。
こうして歩いているのでも、懐中電灯の光量を最小に設定して足元を照らし、ようやく歩けているんだ。
なら、どうしてぼくは、方相氏の手や肌のぐあいが昨日とちがうこと、みわけることができたんだろう。
これは肉眼でみてるんじゃないんだ。
〈真眼〉という能力でみてるんだ。
だから集中を高め、やつの姿をみきわめようとしたとき、はっきりと昨日と今日のちがいをみわけることができた。
はっと気づいたぼくは、方相氏の横側に回り込んで、顔の前に貼り付けられた紙の、その内側をのぞきみた。
鬼だ。
たしかに昨日は高貴な人のような顔つきだったはずだ。
しかし今夜の方相氏は、鬼そのものの姿をしている。
村のなかを東西南北とめぐりながら、方相氏は、人から鬼に変じようとしているんだ。
誰かが来る。懐中電灯がまぶしくて、顔がみえない。
誰だ、こんな時刻に?
「やっぱり、鈴太さん」
未成さんだった。
そういえば、ここは足川家のすぐそばだ。
「何かが、いるの?」
未成さんには、方相氏の姿がみえていないようだ。
「ええ。いるといえば、いるんですが……」
「すごく奇妙な、そして不気味な気配を感じて、じっとしていられなくなったの。昨日の夜中にも感じたんだけど、今日はうんと強い気配がして。いったい、何なの?」
「よくわからないんです」
「もしかして、鈴太さん、昨日の夜も……」
「ええ。昨日の夜中にも、この気配を追いかけていました。取りあえず、何か悪さをするということはなかったんですが」
「そう。そうなの。ご苦労さまね。鈴太さんは、この村の守り神さまね」
「いや、そんなことは全然」
「あの辺りにいるのね」
「はい。かなり大きなものですね」
「鈴太さんには、みえるのね?」
「はい」
「やっぱり鈴太さんは、特別な人なのね」
「いえ、そんなことはないです」
「鈴太さんがみはっててくれるなら安心ね。この村も未完も」
「さりげなく危険な話題を振らないでください」
「うふふ。私は寝るわね」
「はい」
「鈴太さんも、あまり無理しないでね」
「はい」
「おやすみ」
「お休みなさい」
そうしているまにも、方相氏は進んでゆく。
やがて、雄氏地区と有漢地区を隔てる森の間際までやってきた。
まっすぐ進めば、細い道があることはあるが、頭上には木々が立ち込めていて、方相氏の巨体が通れるとは思えない。
どうするのだろうとみていると、森の手前で方相氏は立ち止まり、消えた。
鳴り続けていた〈和びの鈴〉の音も止まった。
ぼくは、そのまま地面に倒れてしまいたいような疲労を感じた。
待て。
何かが来る。
足音だ。
しかも、一人じゃない。
これは、この足音は。
森のなかから和尚さんと天子さんが出てきた。
そういえば、ここをまっすぐ進めば、ひでり神さまの家だ。
もちろん、今まで現れた妖怪たちは、特にひでり神さまを狙ったりはしなかった。水虎はひでり神さまを探そうとしていたけど、それは天逆毎の命令を受けてのことじゃない。天逆毎は、水棲の妖怪以外にはたぶん命令を伝えられないし、伝えられたとしても、ひでり神さまを直接襲わせようとはしない。これまではしてこなかった。
とはいえ、まっすぐ進めばひでり神さまの家なんだから、何かの成り行きでひでり神さまの安全がおびやかされないともかぎらない。
この二人は、その危険に備えて、有漢地区で待機していたんだ。
「やはり来ておったか」
「人の身では、こんな深夜は寒かろうに」
「和尚さん、天子さん。方相氏が変化してきてる」
「なにっ」
「何と申した。まことか」
「今夜、じっと方相氏をみたんだ。すると昨日の夜とはちがいがあった」
「ほう」
「それは何じゃ」
「昨日、方相氏の手は、貴族のようなすらっとした美しい手だった。でも、今夜の方相氏の手は、毛むくじゃらで、鋭い爪が生えていた」
「む」
「そう……か」
「肌の色は、白い色から真っ赤な色に変わり、顔は人の顔から鬼の顔に変わっていた」
「なるほどのう」
「そういうことであったか」
「方相氏は、人から鬼に変じようとしてるんだ」
「というより、戻ろうとしておるのじゃな」
「法師どの。やはりそうか」
「陰陽師のかけた呪により、鬼神が方相氏となった。その方相氏という皮を脱ぎ捨てようとしておるのじゃな」
「鬼神に戻るためか」
「そうじゃろうな」
「何のために」
「考えてみれば、方相氏となることで、鬼神にはいろいろな枷がつけられた」
「そういえばそうじゃな」
「まず、寿命じゃ。現世への出現にも何か制限がつけられたかもしれぬ。ふるう力にも制約が加えられたかもしれぬ。そうしたことの詳細は、もはや調べようもないが、異界の鬼神を現世に呼び出すについて、才たけた陰陽師に手抜かりはなかったはずじゃ」
「その制約を取り払いたいのじゃな」
「うむ。それに何より、鬼神にとって、人という皮をかぶらねばならぬことは、我慢ならぬほどいまいましいことであろうよ」
「皮を脱いだら、どうなる」
「何の制限もなく、力を振るうじゃろうな。おのれをおとしめた人間というものへの恨みのままにのう」
「人間への、か」
「まさか、和尚さんも天子さんも、方相氏の恨みが人間に向かうなら、ひでり神さまは安全だとか思ってないよね」
「む、鈴太」
「わらわたちの考えが、わかっておったか」
「和尚さんと天子さんは、ひでり神さまのことを一番に考えるはずだ、と気づいたんだ。村の人たちのことよりね」
「鈴太よ、わしらを非道とののしるか」
「いや、立派だと思う」
「なにっ?」
「和尚さんも、天子さんも、自分の欲のためでなく、気の毒なひでり神さまを天界に返すため、千二百年もすべてをなげうって尽くしてきた。今もその気持ちに少しの揺らぎもない。立派だと思う」
「なんとのう」
「鈴太……」
「だけど、ぼくの気持ちはちがう。なるほどぼくは羽振の末裔であり、〈はふり〉の願いと役割を継ぐ者だ。だけどぼくにはぼくの人生があり、経験があり、価値観がある」
「うむ」
「それは当然じゃ」
「さっき、未成さんに会った」
「ああ。気配は感じておった」
「すぐに引き返したようで安心したのじゃ」
「未成さんをみていて思ったんだ。この人を無為に殺させたくないって」
「むう」
「鈴太。それは、わらわとて同じことぞ」
「うん。でも、和尚さんも天子さんも、方相氏が村の人たちを皆殺しにしようとしても、抵抗するつもりはないでしょう」
「これはずばりと訊いたものじゃな」
「鈴太。ほかにどんな道がある」
「わからない。でも道はないようにみえても、あるかもしれない。それを諦めたくないんだ」
「わらわたちとて、諦めておるわけではない」
「なら、最後の瞬間まで一緒に考えてほしいんだ。みんなを守る道がないかどうか」
「……」
「それは、むずかしいことじゃ」
「鈴太。はっきり言うておく。少しでもあのかたに危険が及ぶようなことを、わしも天狐もするつもりはない。何と引き換えにしてもじゃ」
「うん。それはわかってる。でも、黙ってみまもるのが最上の道なのかな。それでひでり神さまも守れるのかな」
「それはわからん。じゃが、不用意に攻めて危険を増やすより、息をひそめて守りに撤するほうがよいというのが、わしの考えじゃ」
「天子さんも同じなの?」
「わらわには、そもそも攻撃する力がほとんどない。この十本の爪だけじゃ。これでは方相氏には、かすり傷一つつけられぬ。みてわかった。あれは、わらわとは格がちがう」
「うん。和尚さんの考え方も、天子さんの考え方も、だいたいそんなところだろうと思ってた。でも、きちんと話してみて、よくわかったよ」
「わかってどうする」
「わからないです、和尚さん。でも、とにかく、明日も方相氏の歩行をみまもってみようと思います。みまもりながら、何か道がないか考えてみます」
「うむ。わしも明日の夜は同行しよう。いずれにしても、方相氏が何をするかはみとどけねばならん」
「わらわも同行しよう」
これで明日の夜は、今夜のような心細さで歩かずにすむ。
だけど、和尚さんと天子さんの心づもりもはっきりとわかってしまった。
二人に、何か道がないか考えてみようと言ったけど、実のところ、そんな道があるとは全然思えない。どう考えても、何もできない。
気がつくと、午前三時を過ぎている。
ぼくは家に帰って、風呂にも入らず、泥のように眠った。




