中編6
10
悔しかった。
情けなかった。
村が危機に瀕しているのに、何もできない自分が腹立たしかった。
そうこうしているあいだに、客も来る。
何とか顔つきだけは平静をよそおって商品を売ったけど、とても愛想よくすることはできなかった。今日来たお客さんは、ぼくがひどく機嫌が悪かったと思うことだろう。そんなことはどうでもいい。
地面に落ちて消えてなくなりたいような気分になった。
結局、ぼくには何もできない。
ぼくには何の力もない。
無力感と絶望に、ぼくは打ちのめされていた。
そんな気分のときでさえ、おなかは減る。
ラーメンを二杯作った。
肉と野菜とかまぼこと油揚げを入れて。
二つのラーメンをちゃぶ台に置いて、いつもの習慣で手を合わせると、どこからともなく童女妖怪が現れて手を合わせ、ずるずるとラーメンをすすった。
無言だった。
童女妖怪も、ぼくも、ひと言も発さずに食事は終わり、食事が終わると童女妖怪は、あいさつもなく巣に帰った。
ラーメン鉢を片づけもせず、ごろんと横になった。
和尚さんも、天子さんも、方相氏には太刀打ちできない。
二人とも、戦うことなど考えていない。
いったいこの村は、どうなるんだろう。
方相氏は、東から北へ、北から西へと、村のなかを歩いた。
今夜は西から南へ歩くんだろうか。
そして明日の夜中には、南から東へ歩くんだろうか。
そうだとすると、四日間で、すべての方角を歩いたことになる。
それは何を意味するんだろう。
呪いが村に満ちるんだろうか。
東から北へ、北から西へ、西から南へ、そして南から東へと、ぐるりと一巡したとき、いったい何が達成されるのか。
それは方相氏という、とんでもない力を持った鬼神が、わざわざ行っている儀式だ。とんでもない結果を引き起こす呪法にちがいない。
だけど、それが何なのかはわからない。
さっきの会話からすると、和尚さんにもわかっていない。
天子さんには、和尚さん以上にわかっていない。
どうも、こういう法術とか呪術については、和尚さんのほうが天子さんより、ずっと詳しいみたいだ。そういえば、法術を極めた術師だから、〈呪言〉法師と名づけられたということだったっけ。
……待てよ。
何が起きるのか、和尚さんにも、天子さんにもわかっていない。
方相氏の狙いがどこにあるか、見当もついていない。
だけど二人はあわててはいなかった。
絶望してはいなかった。
天子さんは、何と言っていた?
「わらわは力をたくわえねばならぬ」
力をたくわえるのは何のためだ?
たくわえた力を、どこで使う?
それは方相氏と戦うためじゃない。そんなことは、二人とも考えてもいない。
じゃあ、天子さんは何をしようとしているんだ?
「こんにちは〜」
考えろ。考えるんだ。
「鈴太さあ〜ん。いるんでしょう」
うるさいなあ。
「入るわよ〜」
邪魔しないでほしいんだけどな。
「あら、いた。どうしたの? 寝転がって。具合が悪いの?」
ぼくはしかたなく起き上がって、返事をした。自分でもびっくりするぐらい、不機嫌そうな声だった。
「何かご用ですか」
「あら、まあ。ご機嫌斜めね。あれ? 天子さんはどうしたの? いないみたいね」
「家に帰りました」
「実家に帰っちゃったの? どうしたの? けんかでもしたの?」
わかっている。
山口さんは、ぼくを励まそうとして、わざとからかうような言い方をしてるんだ。
だけど、その言い方の何かが、ひどくぼくの気にさわった。
「うるさいな」
「あら」
「買い物があるなら、さっさと買ってください。配達はしません」
「……鈴太さん」
「何ですか!」
「心のやわらかさをなくしちゃ、だめ」
「……」
「何が起きたのかはしらないけど、怒りや腹立ちは、精神を曇らせるだけよ」
「あなたに言われたくないです」
「あら、ごあいさつね。そうね。あたしも、怒りにまかせて見合いばばあにコーヒーをぶっかけたりしたわ。でもね、それは感情の奴隷となったのとはちがうのよ」
「どうちがうんですか」
「怒っている自分のもうひとつ奥に、この怒りを解き放っていいかどうか、冷静にみきわめている自分がいるの」
「……」
「そして、今は感情で動くべきだとみきわめがついたから、感情を解き放ったのよ」
「……」
「そうなれば、怒りは心強い味方になる」
「怒りが……味方に」
「そうよ。怒りがなければできないことができる。普段の自分ならできないことがでる。状況を突破させてくれる力がもらえる。今でもあたしは、あのときのことを後悔してない」
「実際に、うまくいきましたしね」
「それは結果論ね。あのばばあが、あのあとどういう行動を取るかまでは、予測できなかった。全然ちがう結果になったかもしれなかった。それでもあたしは後悔しなかったと思うわ」
「後悔……しない」
「鈴太さんも、怒りを味方につければいいわ。そして、後悔しない道を選んでね」
「後悔しない道を、選ぶ……」
「じゃあ、帰るわ。今日はぷんすか怒ってる鈴太さんという、貴重なものがみられてよかった。また来るわね」
山口さんは、そう言い残して、さっさと立ち去ってしまった。
その後ろ姿に、ぼくは小さくお礼を言った。
「ありがとうございます」
聞こえたはずもないのに、後ろ姿の山口さんが、右手をひらひらと振った。
11
もう一度、よく考えてみよう。
事のはじめから考えるんだ。
天子さんは、何のために、ここにいる?
和尚さんは、何のために、ここにいる?
二人が一番大事にしているのは、何だ?
考えるまでもない。
ひでり神さまの贖罪と修行が成就して、ひでり神さまが天界に帰ること、それを助け支えるのが二人の役目だ。その使命を弘法大師さまから与えられ、それが果たせるだけの寿命までもらった。二人は、千二百年にわたってそのことに取り組み続けてきた。二人にとって、それはもう命と引き換えにしてもいいぐらい大事なことだ。
この村は、どんな村だ?
この村は、もともと羽振の一族が暮らすために作られた村だ。それが、よそから人が入り込んだりして村になった。だけどそれは成り行きであって、本質的には、この村は羽振一族に奉仕し、ひいてはひでり神様の修行成就を支えるのが役割だ。そのためにできた村なんだ。少なくとも、和尚さんや天子さんからみれば、そうみえる。
ここまで考えて、ぼくは恐ろしいことに気づいた。
この村の村人が何人死のうと、疫病にかかろうと、二人にとっては、どうでもいいことなんだ。
いや、どうでもいいというのは言い過ぎだ。二人は、二人なりのやり方で、この村の人々を慈しんでいるし、助けもしてきた。村の人たちが幸福になれるよう、自分たちにできることがあれば、惜しまずそれをするだろう。
ただし、それは、重要度の一番上じゃない。優先順序の最初じゃない。
ひでり神さまとその修行を守ることこそが、二人の目的であり、存在意義だ。その目的のために、村人をみすてることが必要なら、二人はためらわずにそうするだろう。
そこまで考えれば、二人が何を考えているか、おのずとわかる。
天子さんは、たくわえた力で、ひでり神さまを守るつもりなんだ。
方相氏と戦って勝てるみこみはない。
だから、方相氏が何をしているのかを、じっとみまもる。
方相氏は何かを狙っている。その狙いは、村にとってろくなものであるはずがない。
だから防御をひでり神さまに集中する。天子さんは、能力を振り絞ってひでり神さまを守るだろう。和尚さんは、それを助けるだろう。
むしろ、村人が殺されているあいだ、ひでり神さまの安全が守られるなら、それは二人にとって、望むところなんじゃないだろうか。
やがては天子さんも力尽き、方相氏に滅ぼされるだろう。
だけど、それまで時間は稼げる。稼いだ時間で、修行が成就するかもしれない。それは可能性の低い賭かもしれないけれど、和尚さんと天子さんは、少しでも使命を果たす可能性はそこにある、と考えたはずだ。
それに、村人をあるていど虐殺したら、方相氏は消えてくれるかもしれない。異界に帰ってくれるかもしれない。
だから、和尚さんも天子さんも、方相氏に手出しをするつもりはない。
下手に手出しをして目をつけられたら、使命の妨げとなる。
そんなことは、絶対にしない。
じっと身をひそめ、方相氏という嵐が、ひでり神さまという母屋を吹き飛ばすことなく過ぎ去っていくのを待つ。その母屋に危機が訪れれば、精いっぱいの抵抗をする。
なんてことだ。
二人にとって、村人をみすてるということは、決定事項なんだ。
ぼくは、いったいどうすればいいんだろう。




