中編5
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「鈴太よ。お前は方相氏について知らぬのじゃな」
「はい。知りません」
「そうか。なかなかに有名な鬼神ではあるのじゃがのう」
「きしん?」
「鬼に神と書いて〈きじん〉あるいは〈きしん〉と読む。鬼のごとき荒々しき神のことであり、あるいは神のごとく強大な鬼のことじゃ」
「そう、なんですね」
「鈴太は、京を知っておろう」
「みやこって、京都のことですか」
「京都というのは、ずっとあとにできた呼び名じゃ。もとは、ただ京と呼ばれた」
「平安京のことですね」
「まあ、そういうことじゃ」
「平安京が、どうしたんですか?」
「京を作った人々は、いってみれば非常に臆病であった」
「臆病」
「慎重であったとか、気配りが細かかったといってもよいが、やはり臆病というのがしっくりくる。しかも、病的なほどに臆病であった」
「そうなんですか」
「その結果、京には、幾重にも霊的な防御がほどこされた」
「霊的な防御?」
「陰陽道、神道、仏法、修験道、呪術、風水など、当時の最先端の科学で、守りを固めたのじゃ」
「防御に強い都市として設計されたということですね」
「そうじゃ。強すぎた」
「強すぎると、どういう問題があるんですか?」
「どれほど霊的な守りを固めても、呪的な防衛網を張り巡らしても、あやかしは一定頻度で生ずる。京ほどの規模をもてば、それはさけられぬ。そして守りが強すぎるため、生じたあやかしは、どこにも逃げることができん」
「あ、なるほど」
「その結果、京は設計者たちの意に反して、瘴気に満ちた場所にならざるを得なんだ」
「恐ろしいことですね」
「その瘴気をほうっておくわけにはいかぬ。ほうっておけば怪異が起こり続ける。しかも、最も守るべき場所にこそ、瘴気が強くこもることになる」
「瘴気っていうのは何なんですか?」
「ふむ。神気といい、妖気といい、瘴気というが、それらには、実は明確な区分があるようでない」
「えっ。そうなんですか?」
「霊的な威力はさまざまな名をもって呼ばれ、悪さをなすものは妖気や瘴気と呼ばれ、尊く清いものは神気や仙気などと呼ばれるのじゃな。しかし、神霊の宿す神気が、怒りや恨みによって、たちまち瘴気と化すこともある。とにかく瘴気と呼ばれるものは、けがらわしく、人に害を与え祟る霊気じゃと思うておけ」
「はい」
「さて、たまりにたまった瘴気をはらわねばならぬ。また、瘴気からうまれたあやかしどもをはらわねばならぬ。まずもっては御所を浄め、そして京全体を浄めねばならぬ。しかし、そんなことは、京のすべての法師を集めても、いや日の本のすべての術者を集めても、とてもかなうことではなかった」
「それで、どうしたんです」
「ここに、天才的な陰陽師がおった。この男は、こう考えた。異界から鬼神を呼び寄せ、その鬼神の力をもって、よこしまなるものどもを追い払えばよいとな」
「その鬼神というのが方相氏なんですか?」
「そうじゃ。その陰陽師は、歴史上にも類をみない強大な鬼神を呼び出す法を編み出し、実際に呼び出してみせたのじゃ」
「その陰陽師は、すごい霊力の持ち主だったんですね」
「そういうわけでもない。人間が持つことのできる霊力など、たかが知れておる。優秀な術者は、自分の力でわざをなすのではなく、清明な心と正しき理をもって、術を行うのじゃ」
「よくわかりません」
「まあよい。とにかく強大な鬼神が呼び出された。そしてそれを使役するため、名が与えられた」
「あ、それが方相氏なんですね」
「そうじゃ。方相氏、という名は、いかにも人の名であり、身分のある者の名であり、役目を持つ者の名であろう。〈方相氏〉という名の呪で縛り付けることで、はじめて使役することがかなったのじゃ」
「なるほど」
「方相氏の霊力は強大で、京にあふれる鬼も、物の怪も、幽霊も、怨霊も、化生も、諸々のあやかしも、吹き飛ばされ、掃き飛ばされてしもうた。もっとも、京の守りは鉄壁であるがゆえ、それらのあやかしはどこに行くこともできず、京の所々に閉じこもったのじゃがな」
「え。それじゃ、意味がないんじゃ」
「そんなことはない。悪鬼たちは、おのおのすみかを定めて、そこから動かぬようになった。たとえば、羅城門の鬼は羅城門から出ぬようになった。となれば、近づきすぎたり、禁を犯して祟られたりさえせねば、障りはない」
「あ、そうなんだ」
「ただし、方相氏は強力すぎた。それほどに強力な鬼神を常時使役するのは危険でもあり、逆に世を騒がせることにもなる。まあ、大掃除を毎日すればほこりが立ってしかたがないようなものじゃ」
「なるほど」
「じゃから、方相氏があやかしをはらうのは、年に一度と定められた。そして、〈追儺〉という儀式が生まれたのじゃ」
「ついな、ですか?」
「〈追い払う〉という意味じゃな。〈鬼やらい〉ともいう。大みそかに行われる。魔をはらう儀式じゃ。一説には、節分の起源でもあるとされておるの」
「とにかく、うまくいったわけですね」
「そうじゃ。ただし、それはその陰陽師が存命のあいだのことじゃ」
「あ」
「その陰陽師は、自分の死後は、もう方相氏を呼び出してはならぬ、と遺言した。そこで何年ものあいだ、方相氏が呼び出されることはなかった」
「はい」
「じゃが、そうすると、あやかしどもが悪さをはじめた。身分高き人々は、跳梁跋扈するあやかしに我慢ならず、これを打ち払うようにと、陰陽頭に命じた」
「呪術師の棟梁みたいな人ですね」
「うむ。しかし、京にあふれるあやかしはもちろんのこと、御所に出没するあやかしでさえ、陰陽寮の陰陽師をかき集め、修験者や法師をかき集めても、とてもはらえるものではなかった」
「それで、どうなったんです? ……まさか」
「陰陽頭は、ついに方相氏を呼び出してしもうた。呼び出すための手順は記録されておったのじゃな」
「呼び出せたんですか?」
「呼び出せた。道がついているのじゃし、かの鬼神は名で縛ってあるのじゃから、手順さえ正しければ、呼び出すことはむずかしくなかった。しかし、使役することはできなんだ。その陰陽頭は、方相氏に喰い殺された」
「うわ」
「とはいえ、あやかしたちは逃げ散ったから、方相氏を呼び出した目的は、果たせたといえば果たせた」
「で、でも、その方相氏はどうなったんですか?」
「ほうっておけば、京が方相氏に滅ぼされたじゃろうな」
「そうはならなかったのは、なぜなんですか」
「誰が思いついたのかは知らぬ。しかし、当時の支配層は、恐るべき方法で、この問題に対処した」
「恐るべき方法?」
「贄じゃ」
「にえ?」
「生け贄じゃよ。方相氏が満足するまで、人を食らわせ続けたのじゃ」
「えええっ」
「その数は百人であったとも、五百人であったともいう。罪人や、身分のいやしき人々が、いやおうなく犠牲にされた」
「なんという」
「本当に恐ろしいのはそれからじゃ」
「え」
「数年間は、方相氏は呼び出されなんだ。しかし何年かして、誰かが言い出したのじゃ。あやかしが多すぎる、また方相氏を呼び出そうではないかと」
「まさか」
「今度は、あらかじめ、罪人や、身分のいやしき人々が用意され、贄とされた」
「そんなことが、ずっと続いたんですか?」
「長いあいだ続いたようじゃな。しかし、あるときから、呼び出しても方相氏は現れんようになった」
「それは、どうしてでしょう」
「たぶん、寿命がきた」
「寿命?」
「人としての名に縛られたため、方相氏には、さほど長くない寿命が定められたのではないかと思う」
「そうですか。そして今回、その方相氏がよみがえったんですね」
「そういうことじゃろうなあ。しかし、まさか方相氏に遭うことがあろうとは」
「どうやって倒せばいいんでしょうか」
「倒せぬよ」
「え?」
「わしや天狐が逆立ちしても、方相氏には太刀打ちできぬ」
「え、そんな」
「そもそも戦いようもない」
この言葉は、ぼくには衝撃だった。
どんな妖怪が現れても、和尚さんと天子さんなら倒せる。いつのまにか、ぼくはそう信じていたんだ。
「法師どの」
「何じゃな、天狐」
「方相氏は、昨日は、村の東から北に歩いた」
「うむ」
「今日は、北から西に歩いた」
「うむ。いかにも」
「あれは、何をしているのであろうか」
「呪法、じゃろうなあ」
「何の呪をかけておるのであろう」
「さあの。かけておるのかもしれぬ。解いておるのかもしれぬ」
「なるほど。奇妙な歩き方をしておったが、あれが〈禹歩〉か?」
「禹歩じゃな。〈反閇〉を行っておった」
「なぜ禹歩を?」
「禹歩には疫病をはらう力がある。もともと方相氏が京を練り歩いたとき、禹歩を用いたとも聞いておる」
「この村に、今、疫神がおるのか?」
「おらんじゃろう」
「では、何をはらう」
「はらっておるともかぎらん。いにしえの術者は、禹歩で竜を呼び出したともいう」
「竜じゃと!」
「じゃが、方相氏自身が絶大な力を持つ鬼神じゃ。呼び出す意味がない」
「まさか、逆に疫神を呼び出すのでは?」
「さあて。禹歩で疫神を呼び出すなど、聞いたこともない」
呪法。
何を呪うんだろう。
その術が完成したとき、何が起こるんだろう。
村にとてつもない異変が起きるんだろうか。
村人のことごとくが死んでしまうんだろうか。
「百人とか五百人の人を、犠牲にして方相氏を異界に帰したんですね」
「うん? そう伝わっておるのう」
「ここでも方相氏は、百人とか五百人とかの人を喰らい尽くすんでしょうか」
「わからん」
「鈴太よ」
「天子さん。何とかしなきゃ。そうでなきゃ、恐ろしいことが起きる。ぼくたちが何とかしなきゃ」
「何もできぬ」
「て、天子さん」
「これは、何かの工夫でどうにかなるというような問題ではない。わらわたちが方相氏をどうにかするなど、到底かなわぬことなのじゃ」
「天子さんの結界なら。あの結界なら、方相氏を閉じ込められるんじゃないかな」
「いつまでじゃ」
「え」
「一瞬なら、閉じ込められるかもしれぬ。じゃが、方相氏がその気になれば、わらわの結界など、たやすく壊すであろう。そもそも結界で方相氏の体は閉じ込められても、霊力を封じ込めることはできぬ。方相氏は結界のなかからでも、手振り一つでこの村を滅ぼすであろうよ」
「そんな。そんな……」
「わらわは、勘違いをしておった」
「勘違い?」
「溜石じゃ」
「溜石が、どうしたの?」
「溜石は妖気をため、たまった妖気からあやかしが生まれると、わらわは考えておった」
「え? それのどこがちがうと」
「考えてみれば、そうではないことは明らかであった。水虎を思い出すがよい。あれは神話時代の強大なあやかし。溜石の妖気程度では、あれを生み出すことはできぬ」
「でも、現に溜石から水虎が生まれたんじゃ」
「溜石は、いわば呼び水なのじゃ。強大なあやかしを呼び寄せる目印なのじゃ」
「呼び水……」
「わらわたちは、溜石から現れるあやかしを、あるいは倒し、あるいは封じて、一喜一憂しておった。妖気がたまりすぎさえせねば、敵の狙いを封じることができると思っておった」
それはぼくが考えたことだ。まちがっていたんだろうか。
「じゃが、敵の狙いはそのようなものではなかった。たった一つでよかったのじゃ。十二個の溜石から、たった一つ、真に強力なあやかしが生まれれば、それでこの里は滅びる。しかし……」
「しかし、しかし何なの、天子さん」
「わらわは力をたくわえねばならぬ。今日はこれで帰る」
そう言って返事も待たず、天子さんは帰ってしまった。
「あちきもお守りに戻るです」
ひと言も発しなかった長壁は、お守りに戻った。
和尚さんも、寝ると言って奥に下がった。
ぼくは、とぼとぼと帰宅するしかなかった。




