中編4(地図あり)
6
九月二十日に台風十七号が発生した。
台風十七号は、さほど大きな勢力を持っていたわけでもないのに、奇妙に寿命の長い台風で、あちこちと迷走を続けたあげく、十月一日に消滅する。
消滅する前の九月二十九日と三十日には、この台風の影響で羽振村にも強い雨が降る。
それに先立つ九月二十五日、平安な日々は終わりを告げた。
真夜中のことだ。
ちりーん。
ちりーん。
鈴の音に、ぼくは目を覚ました。
時計の針は、二時をわずかに過ぎている。
ちりーん。
ちりーん。
鈴は時間をおいて鳴り続ける。
〈和びの鈴〉だ。
これが鳴るということは、いったいどういうことなんだろう。
ちりーん。
ちりーん。
何かが起きた。
あるいは起きようとしている。
だけどそれが何なのか、ぼくにはわからない。
「ものすごい妖気なのです」
「あ、おさかべ。起きたのか」
「お社のなかにいても、邪悪な妖気が押し寄せてくるのです。とても寝ていられないのです」
「これ、いったい何なんだろう?」
「わからないです。〈探妖〉を使いますか?」
ぼくは、うん、とは答えなかった。
何か重大なことが起きている。それは確かだ。
〈探妖〉は一日に一度しか使えない。
ぼくだけの判断で使うのは、ためらわれた。
「何が起きているか今わかったとしても、ぼくとお前じゃ何もできない。天子さんが来てからにしよう」
「はいです」
ぼくは、童女妖怪と寄り添うようにして、鈴がなるのを聞いていた。
ちりーん。
ちりーん。
二時間近く鳴り続けて、鈴は止まった。
それからしばらくして、びっくりしたことに、和尚さんがやって来た。
「夜分すまん。邪魔するぞっ。お、長壁。おったか」
「あの妖気の件ですね」
「そうじゃ。天狐は、まだ来ておらんようじゃな」
「まだ来る時間じゃないです。いったい何が」
「とてつもない妖気が、村の東の方角に現れた。ちょうど丑三つ時のことじゃ」
「お社のなかにいても目が覚める、強烈な、そして邪悪な妖気でしたです」
「妖気はゆっくりと移動し、二時間ほどかけて村の北のほうに移動し、消えた」
「消えた?」
「そうじゃ。ものの見事に消えた」
「法師どの。ここにおったか」
「おう、天狐。もしや寺に行ったか?」
「うむ。先ほどのあれは、いったい何じゃ?」
「わからん。じゃから、ただちに〈探妖〉を頼もうと思って、ここに来た」
「天子さんも、そのものすごい妖気というのを感じたんだ」
「わらわのねぐらは、村からは遠いし、外の気配は入り込まぬ造りになっておる。それでも、夜中のあれには驚かされた。あんな強烈な妖気は今まで出会ったことがない」
「それほどの相手なんだ」
「とにかく〈探妖〉じゃ」
「わらわもそう思う。長壁、頼む」
「はいです」
童女妖怪は、どこからともなく、ひらひらした紙、紙垂というらしいが、のついた棒きれ、御幣というらしい、を取り出して、振り回した。
いつもより長い。
いつもより丁寧にしているんだろうか。
いや、そうじゃない。
動揺しているんだ。だから、精神を集中させるために、いつもより手間がかかってるんだ。
ずいぶん長いご祈祷を終えて、童女妖怪は、御幣の動きを止めた。
「最後の溜石から妖気が抜けてますです」
「うむ」
「そうか」
「でも、妖怪がいません」
「なに?」
「本当か?」
「本当なのです。結界のなかには新たな妖怪は出現していませんです」
「むむむ」
「法師どの。これはどういうことであろうか」
「結界の外に出た、ということはあるまいなあ」
「よほど遠くに行ったのでないかぎり、探知できたと思いますです」
「であろうなあ。それに、あの妖気の消え方は、移動というようなものではなかった」
「〈隠形〉を使ったというようなことはありませんか」
「鈴太よ、〈隠形〉などという術を使うのは、弱き者じゃ。あの妖気の持ち主が、わざわざ〈隠形〉を使うとは考えられん」
「じゃあ、いったい、どうしたんでしょう」
「まさかとは思うが」
「法師どの。何か思い当たることがあるのか」
「異界に飛んだのかもしれぬなあ」
「なにっ」
「異界って何ですか?」
「この世ならざる所じゃな」
「法師どの。もしも異界に消えたとすると、そのあやかしは、もともと異界のものであったことになる」
「まさかとは思うが、そういうことになるのう」
「……そんなばかな」
和尚さんと天子さんが話し合っている中身は、さっぱりわからない。
ただ、現れて消えたものが、とてつもなく恐ろしいものである可能性があるということらしいことは、わかった。
「ふむう。このまま待っていてもしかたないのう」
「では、どうする」
「明日、真夜中ごろに集まるとするか」
「ふむ」
「今日気配が現れたのは丑三つ時じゃ。この時刻には妖気が増す。そして、〈呪〉が大きな効果をあげる」
「明日も同じ時刻に現れるか」
「その可能性はあるじゃろう」
「わかった。で、場所は」
「ここでよかろう」
「そうじゃな」
7
その日一日、仕事をしていても、気もそぞろだった。
山口さんへの対応もおざなりになり、ちょっとあきれられた。
けど、しかたがない。
和尚さんと天子さんの二人が、あんなにも恐れている何か。
〈和びの鈴〉を鳴らし続けた何か。
それはいったい何なのか。
天子さんに聞きたかったけど、天子さんは帰ってしまい、この日の日中には、もうやって来なかった。
そして午前零時が近づくころ、和尚さんと天子さんがやって来た。
夜食はいらないかと勧めたけど、二人ともいらないという。
ひどく緊張しているようすがわかる。ぼくにはその妖気とやらを感じ取ることができなかったからわからないけど、おそらく、とてつもない強敵の気配だったんだろう。
時間が過ぎるのが遅い。
和尚さんは、腕を組み、目を閉じて、じっと待っている。
天子さんも、言葉の一つも発することなく、ただ静かに座っている。
いつのまにか童女妖怪も現れている。珍しく無言だ。
ただよう緊張感に焼かれて、ぼくの喉はひりひりしてきた。
お茶をくんでは、ちびりちびりと喉に通す。
いいかげん感覚がまひしてきたころ、ようやく時計の針は二時を指した。
ちりーん。
ちりーん。
鈴がなった。
「出たぞ」
和尚さんが目を開き、組んでいた腕をほどいた。
「確かに」
天子さんの目が爛々と輝いている。戦闘態勢なんだろうか。
「長壁」
「はいです。法師さま」
「〈探妖〉を頼む。妖気の持ち主の正体が知りたい」
「はいです」
ぼくたちがかたずを呑んでみまもるなか、長壁は〈探妖〉を行い、そして言った。
「方相氏です」
「なにいっ」
「なんじゃとっ」
和尚さんが目をむいて驚いている。
天子さんも、顔に驚愕を張り付けている。
ほうそうし、とは、いったい何なんだろう。
「天狐よ」
「何かな、法師どの」
「とにかく、一度実物をみてみようではないか」
「うむ。近づくのは危険ではないか」
「相手が方相氏なら、近づこうが近づくまいが、同じことじゃ」
「それもそうじゃな」
「行くか」
「参ろう」
「ぼ、ぼくも行くよ」
ぼくは地図を出した。
「おさかべ、場所は?」
「ここです」
童女妖怪が指し示したのは、閻魔口の近くだ。村の北の端のほうといっていい場所だった。
そしてぼくたちは、方相氏なる妖怪のもとに走った。
8
ぼくたちは、ちょうど宗田さんの家の前あたりで、その妖怪をみつけた。
和尚さんにも天子さんにも、その妖気はいやでも感じ取れたようで、みつけるのに何の苦労もなかった。お守りに入った童女妖怪を呼び出す必要もなかった。
大きい。
身長は五メートル近くあるだろうか。
巨大ではあるが、その姿は、ちっとも妖怪らしくない。
貴族のような気品に満ちている。
月と星のあかりしかないが、ふしぎとはっきりと姿をみることができる。
平安時代の貴族が着るような着物を着て、たっぷりしただぶだぶのズボンをはいて、足にはブーツのようなものを履いている。
頭には冠をかぶっている。そして顔に何かを貼り付けているようだけど、後ろからはよくみえない。
ぼくたちは、迂回して前に回った。
顔に貼り付けているのは、大きな紙のようなものだ。その紙には、四つの目が書き込まれている。上二つの目は赤く、下二つの目は黄色い。本当に目として機能しているのではないかと思わせる実在感がある。
首の周りには、きらびやかな紐というか帯が巻いてあり、そこからたくさんの紙垂がぶらさがっている。
体が大きいわりに、進行速度は速くない。
躍りながら歩いているからだ。
いや、躍りというのとはちがうのかもしれない。
両手を前方に差し伸べ、片方を伸ばし、片方をくるりと曲げ、ひらり、ひらりと手のひらを返しながら、両手の形を変化させている。
足は奇妙なリズムを刻みながら、一歩一歩、差し出しては止め、持ち上げ、交互に足を重ねるようなしぐさで、前に運ぶ。よくみると、九歩周期で同じ動きを繰り返しているようだ。
ぼくは、みとれた。
すらりと伸びた指の美しさ。
くるり、くるりと交差する手のあでやかさ。
所作にあふれる気品。
巨体からにじみでる、とてつもない威圧感。
その威圧感をみごとに包み込む抑制。
重量を感じさせないかろやかさ。
この世のものではなかった。
この世のものではない、完成された美しさが、そこにはあった。
あこがれに似たまなざしで、ぼくは巨人とその歩みに、ただただみとれていた。
「鈴太」
「はい」
「お前には、方相氏がはっきりとみえているのか」
「はい。え? じゃあ、和尚さんにははっきりみえてないんですか?」
「うん。ぼんやりとしたかげろうのようにみえるだけじゃ。特別な歩法を行っておったぐらいのことはわかったがの。普通の人間には、あれはまったくみることができまいのう」
「そうなんだ。懐中電灯を持って来てますが、照らしてみましょうか」
「いや。刺激してはならん」
「はい」
そのままぼくたちは、方相氏の移動をみまもった。
方相氏は、土生地区に入り、村の西の端あたりに移動して、ふっと消えた。
ずっと聞こえていた〈和びの鈴〉の音も止まった。
「〈隠形〉ではないのう」
「ちがうな。あれはただ消えたのじゃ」
「やはり異界渡りか」
「異界へ自由に行き来できる化け物ということじゃな」
その後、和尚さんはお寺に帰り、天子さんはわが家に来て寝た。
ぼくも寝た。
起きて二人は朝食を取ると、転輪寺に向かった。
そこでぼくは、方相氏が何者であるかを、和尚さんから聞くことになったんだ。




