中編2
3
昨日のことは、案外いい気晴らしになったようだ。
朝起きてみて、自分の体から気負いがすっかり抜けているような気がした。
そのぶん、疲れがたまっているのを感じもした。
張り詰めたままではもたない。
少しだらけた心持ちで、しばらく過ごそうと思う。
仕事をしているとき以外は、少しぼうっとするようになった。
そうしながら、書道のほうも、ぼちぼち続けた。
「東西南北」の次は「春夏秋冬」で、その次は「花鳥風月」に進んだ。
「花」も「鳥」もむずかしい。結局今のところ、まともに書けるようにはなっていない。
「風」も簡単ではないけれど、少しだけコツがつかめた。
「月」は、わりといい字が書けることが多い。ただし、一回一回、字の表情がまるでちがう。特に最後の横棒二本の入れ方は、全然安定しない。安定しないんだけど、不安定ながら面白みがあるように、自分では思う。一本目を書いたときに、必然的に二本目の位置は決まる。それが感じられる程度の感性は持ち合わせていたようだ。
その次は「雨香雲淡」に取り組んだが、これはなぜかすぐに卒業になった。といっても仮免のようなものだけど。
そして、「竹深荷浄」を練習している。「竹」という字は面白い。
「深」はむずかしすぎて、全然手に負えない。けれど字を書くのは楽しい。
筆先の入れ方ひとつで、筆画の表情はまったくちがうものになる。まっすぐに引いた線でも、力の込め方によって千差万別の姿になる。これはボールペンや鉛筆では味わえない世界だ。
4
山口さんとの関係は、奇妙な展開をみせた。
いや、展開というのはちがうだろうか。
混乱かな。というか、わけわからん。
発端は、ある日の配達の帰りだ。
角を曲がったところに、突然大きな乗用車が止まっていて驚いた。
行き過ぎようとすると、助手席の女性が窓を開けて話しかけてくる。
「すいません」
呼びかけられて、自転車を止めた。
「何でしょう」
その女性は、ドアを開けて車から降りてきた。
高そうな和服を着た、恰幅のいい年配の女性だ。
恰幅がいいというのは失礼かな。
べつに太ってるわけじゃない。
だけど、何といえばいいんだろう。
威風堂々とした美人さんだ。
女丈夫とでもいうんだろうか。そんな言葉があるのかどうか知らないけど。
とにかく、颯爽としててかっこいい人だ。
車はすごく大きくて立派だ。上品な白い色をしている。
車の鼻先のエンブレムが目に入った。
(ベンツだ)
(それにしても大きなベンツだなあ)
運転席に座っている人は、いかにも運転手さんという感じだ。
「この場所には、どう行ったらよかですか?」
差し出された紙切れには、山口さんの住所が書かれていた。
それでわかった。
今、車が止まっている場所を右に曲がると、有漢地区に上がる。
ただし、この道は細くて、歩くか、せいぜい自転車で通るのが精いっぱいだ。
もう少し森に沿って進むと、車が入れる道がある。だけど、これだけ大きな車では、とてもその道は通れない。というか、曲がれない。
「こん上さん、どげんして上がるじゃろか」
「え?」
「ああ、失礼。この場所には、車じゃあ行けんですかね? カーナビじゃ出てこんようで」
「行けますよ。ちょっと言葉では説明しにくいので、ぼくについてきてください」
自転車にまたがり、東のほうに走った。後ろから大きな車がついてくる。
乾物屋の横を通り過ぎて少し行ったところで、草がまばらに生えた空き地を突っ切った。その向こう側に西に向かう大きな道がある。
車は空き地のまん中で止まった。
助手席から女性が降りてくる。
「なんちゅう雄大な景色やろか」
ぼくも女性と同じ方向をみた。
そこには雄大な三山がそびえたち、秋の風を受けて悠然としたたたずまいをみせている。
「正面の山が蓬莱山、右が白澤山、左が麒麟山といい、三つあわせて三山と呼ばれています」
「みやま。うん。よか名ばい」
「三山に抱かれているのが樹恩の森。この季節だと、絶品のキノコが採れるらしいですよ」
「じゅおんいうたら、どげん字ば書くとやろ」
「樹木の恩恵、と書きます」
「ああ、樹恩たいね。うんうん。ナバんごたる、いじいうまかばい」
「この村は、東北の方角を三山に守られ、南西には天逆川の豊かさがそそぎ込み、風光明媚な山里であるとともに、地相もすぐれています」
「そぎゃんね」
「空気は澄み切っており、星の美しさは例えることもできません」
「ほう。みてみたかね」
「古くには、ここは〈星見の里〉と呼ばれていたようで、陰陽道の聖地でもあったと聞いています」
「星見の里! まあ、なんちゅうロマンチックな名前じゃろか」
「白澤山の春の桜の美しさは格別です。はらはらと風に舞う花びらに包まれると、せつなくて、せつなくて、どうしていいかわからなくなります」
「あっちの山ばいね。ふうん。そらそうと、こん場所は私有地ごたるなあ」
「え?」
「あ、失礼。ここは私有地じゃなかですかね。通行してよかとですか?」
「そんなこといっても、この村には、そもそも私有地でない道なんか、ほとんどありませんよ。村役場の前から天逆川を通って町に続く道が村道ですが、あとは全部私有地です」
「ほんなごつね。なら、三山さんも私有地じゃろか」
「はい」
「へえ。どげん分限者がお持ちじゃろか」
「いちおう、羽振家の所有です」
「はぶり? 道理で羽振りがよかね。わっはっはっはっはっ」
「ははは」
「ところで、私は萬野銀子いいますけど、あんたさん、お名前は何といわれるじゃろか」
「羽振鈴太といいます」
「いうことは、三山を持っとるちゅう家のかたですか」
「まあ、いちおうそういうことです」
「ばってん、そげん分限者のお家さんなら、働かんでもよかでしょうに」
「うーん。実のところ財産は財団や弁護士さんが管理していて、ぼくは細かいことは知らないんです。それに、祖父が春先に亡くなって、ぼくはこの村に帰ってきたんですが、祖父がやっていた乾物屋を継ぎたかったんです」
「ほう。そぎゃんですか。乾物屋は楽しかですか」
「はい。必要とされる品物を必要とする人に売り、届ける。すごく楽しい仕事ですよ」
「じんな、前はどこにいなさったとですか」
「じんな? 東京です。練馬区に住んでました」
「ほう。東京から、ふるさとに」
女性は再び視線を三山に送り、しばらくみとれていた。
「ほんなごつ、よか山、よか里、よか人たい。ほんな、よか」
「こん坂、じゃなくてこの坂を上っていって、上りきった右側にあるのがお訪ねの家です。家の手前に車を止める場所があります」
「そらまあ、たいぎゃご親切じゃ。だんだんなあ」
「お気をつけて」
運転手さんも、車から降りておじぎをしてくれた。
ぼくは内心どきどきしながら、熊本ナンバーの白いベンツを見送った。
(萬野、と名乗ったよな)
(山口さんの旧姓とはちがう)
(だからお母さんじゃない)
(誰だろう)
(わざわざ車でここまで訪ねてくるなんて)
(まさかと思うけど、もしかしたら)
そのもしかしたらだった。




