中編1
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店に帰ると、天子さんは準備していた昼ご飯をさっと仕上げてくれた。油揚げ入りのペペロンチーノだ。
油揚げが入ってる時点で、ペペロンチーノとはいえないのかもしれないが。
油揚げはオリーブオイルでからっと仕上げてあり、岩塩を振りかけたペペロンチーノと、とてもよくマッチしている。
留守のあいだに、五点商品が売れていた。
それから、七件配達の注文が残っていた。
欲しい商品はあったけど値段がわからなかった場合や、欲しい商品がどこにあるかわからない場合などは、こうして配達を依頼するメモが残されている。
「あれ?」
そのうち一件は、松本家からの注文だった。
ぼくは昨日会うまで、松本さん一家をみかけた記憶がない。
もっとも、たぶんご主人か奥さんがおじいちゃんの葬儀に来てくれていたと思われるし、ぼくがこの村に来てからしばらく、いろんな人があいさつ代わりのようにして、店に来て品物を買ったり、だべったりしてくれていた。そのときに来てくれていたら、記憶にないということもあるかもしれない。
ぼくは天子さんに留守番を頼むと、七件の配達をこなしていった。
どうも最近、遠距離配達が増えている。今日の配達七件のうち、五頭さんと松本さんは土生地区、田上さんは松浦地区の西側だ。三軒とも、安美地区の乾物屋のほうが近いんだけど、どういうわけでうちに注文するんだろうか?
まあ、お得意さんが増えるのはいいことだけど。
近場の四件を先に済ませたあと、いったん店に帰って商品を積み直し、五頭、松本、田上の順で回ることにする。
五頭さんの家に配達して、松本さんの家に向かった。
どこから入るか。それが悩みどころだ。
基本的に、こういう商品の配達は内玄関か裏口に回る。裏口というのは、昔風にいえばお勝手口だ。松本さんの家は、少し古めかしい造りをしているから、お勝手口があると思うし、そこは台所にも近いんじゃないかと思う。
ところが、家によっては、中庭などに他人が踏み込むのをいやがる場合もある。そういう家は、一回失敗すれば次からは表玄関に配達するんだけど、できれば最初の失敗もないほうがいい。
この家はどうだろう。
玄関からみえる場所に、別の玄関、つまり内玄関はみあたらない。左側のほうに、裏に回り込むような空間があるから、ちょっとそっちに行きかけたけど、物干し台が目に入ったので、それ以上奥に入るのはやめた。
どうしよう。
インターホンがあるなら押して、裏口はどちらでしょうかと訊けばいい。裏口の場所を教えてくれたら、次から裏口に配達すればいいし、そのままで待っているように言われたら、次回から表玄関に配達すればいい。
しかしこの家にインターホンはない。
しかたないので肉声で声をかけた。
「ごめんくださいー」
「はーい」
広い家なのに、すぐに返事があった。
そのとき、表札があるのに気がついた。家族全員の名前が書いてある。ヨウコさんの名前は、洋子と書くようだ。
松本洋子さんが出てきた。
「あらまあ、すいませんねえ」
「お醤油と、お砂糖と、みりん、それに麩をお持ちしました」
「ありがとう。こっちへ持ってきてくださる?」
「はい。お邪魔します」
そう重たい物でもないけど、運べと言われれば運ぶのが商売だ。
ちょっと入り組んだ廊下を歩いて台所に着いた。
驚いたことに、松本家の台所は、半分土間だ。
土間には昔風のかまどが置いてある。この土間なら、餅米をふかして餅つきをすることもできるだろうな。と思ったら、隅のほうに石臼が置いてある。
「お疲れさま。お茶をいれるから、飲んで行ってね」
「え、いや、あの」
「遠慮せずに」
はじめて配達した家では、正体を探られるというか、ぼくが今までどこで何をしていたのかを訊かれることは、これまでもあった。そんなことなのかなと思って、勧められるままに客間のソファに腰掛けた。ここは、〈チェリー〉が腰掛けてた場所だ。
洋子さんが、コーヒーとクッキーを持ってきた。コーヒーは二つある。自分も飲むということなんだろう。
「頂きます」
「どうぞどうぞ」
いい香りだ。インスタントじゃなくて、ちゃんと淹れたコーヒーだ。
店は忙しいのかとか、何時から何時まで営業しているのかとか、世間話のような質問がいくつか続いたあと、洋子さんは、こう訊いてきた。
「ところで、あの。昨日、天子さんとあなた、この家に来てくださったわよね?」
「ええ」
「あれは、何の用事で来てくださったんだったかしら?」
ああ、そういうことか。
ぼくと天子さんは、昨日、この家に来た。
松本幸吉さんや、洋子さんや、兼良さんや、碧さんに会った。そして〈チェリー〉こと邪魅と会った。
ただしそのとき、松本家の人々は普通の状態ではなかった。邪魅が魅力的にみえてしかたなく、邪魅の素晴らしさを褒め称えることに一生懸命だった。
その日の真夜中に、邪魅は天子さんに滅ぼされた。真夜中のことだから、たぶん松本家の人々は寝ていたはずだ。
朝起きると、邪魅がいない。松本家の人々は正気に戻る。
正気に戻ったのはいいけれど、記憶がうまくつながらない。それは邪魅の妖気にあてられたせいなのか、あるいはこの村を覆う不思議結界のせいなのかわからないけど、とにかく、忌まわしい記憶は消えてしまい、筋の通る部分の記憶だけが残った。その結果、ぼくと天子さんが来たことは覚えているものの、何を話したか、どんな場面だったかは思い出せなかったんだ。
ぼくがこの家に来たのは昨日がはじめてだし、たぶん天子さんもそうだろう。そのはじめて来た二人が、わざわざ家のなかに上がり込んだわけだ。ところがその要件が何だったか思い出せない。そりゃ、気になるだろうな。
状況はわかった。
だけど、どう返事すればいいんだろう。
口からでまかせを言ってもいいけれど、あとでつじつま合わせに困るかもしれない。
天子さんとぼくが、松本家の居間にまで上がり込むような用事。
どんな言い訳をすればいいんだろう。
思いつかない。
よし!
ここは天子さんに責任を押し付けよう。
「さあ? 実はぼくも昨日のことはよくわからないんです」
「えっ? そうなの?」
「ええ。天子さんについて来いって言われてついて来ただけなんです」
「あら、まあ。天子さんが?」
「ええ。でも、ご主人や奥さんとしばらく話を交わして、何か用事は済んだみたいでしたよ」
「用事は済んだのね?」
「だと思います。帰りがけに、ぼくに、手間をかけさせて悪かった、自分の思いちがいだった、と言ってましたから」
「思いちがい……。そう、そうなの。天子さんは、何か確かめたいことがあったのね。そしてそれを確かめて帰った。そうなのね」
「たぶんそうだと思います。今、天子さんは店にいると思いますから、電話して訊いてみたらどうですか?」
「えっ? いえ、いいのよ。わざわざお訊きするほどのことじゃないわ」
「そうですか」
それからしばらく、あまり居心地のよくない沈黙が続いた。
ぼくは少しだけ踏み込んでみた。
「あの、松本さん」
「はい。何?」
「チェリーっていう言葉に、心当たりはあります?」
「チェリー? ジュリーじゃなくて?」
「ジュリー?」
「ジュリーよ、ジュリー。沢田研二」
「さわだけんじ?」
「まさか……知らないの?」
「知りません」
「あんな偉大なアーティストを、あなたは知らないっていうの?」
「アーティスト? 絵描きさんですか?」
「歌手よ! そして俳優! 作詞家にして作曲家! そして偉大なるエンターテイナーよっ」
「は、はあ」
「日本人で、お化粧の似合う男性は、ジュリーとカールスモーキー石井しかいないわ」
「あ、その人は知ってます。米米CLUBの人ですね」
「なんで、石井竜也は知ってて沢田研二を知らないのよ! あなた、おかしいわ」
「昔の歌手なんですか?」
「現役よ、超現役っ。今年はね、ジュリーの五十周年記念の年なのよっ」
「ご、五十周年? そりゃ、すごい」
「すごいでしょう。今年の七月から来年の一月にかけては、全国六十六か所でライブショーがあるの!」
「みに行くんですか?」
「行ったわ。行かないわけがある?」
「いえ、ありません」
「年に一度ジュリーのコンサートに行かせてもらうってのは、プロポーズを受けたときの条件だったんだから」
「結婚を申し込まれたときに、年に一回ジュリーのコンサートに行かせてくれるなら承諾します、と返事されたんですか?」
「そうよ、当然でしょ」
「そのときご主人が何とおっしゃったか知りたいです、すごく」
「そんなこと覚えちゃいないわ。いいのよ、そんなことはどうでも」
「あなたの気持ちはよくわかりました」
「私はね、七月二十三日に、岡山シンフォニーホールのライブに行ったの」
「それはよかったですね」
「そうよ! よかったのよ。もう最高だったわ」
「リサイタルの情報なんかは、こまめにチェックしておられるんですか?」
「いえ、教えてくれるの」
「教えてくれる? 誰がですか?」
「澤會よ」
「茶話会?」
「教えてあげるから、よく聞きなさい」
「いや、いいです」
「昔はね。ジュリーのファンクラブがあったの」
「昔は、ですか」
「そうよ。年会費を払ってたわ」
「ああ、入会してたんですね」
「あたりまえでしょう!」
「すいません」
「でもね、あるときファンクラブはなくなっちゃったの」
「ご愁傷さまです」
「だけど有志が立ち上がってくれたのよ」
「ゆうし?」
「そうよ。そしてジュリーの新曲発売や、コンサートの情報を、こまめに教えてくれるの。それが澤會」
「それって、結局ファンクラブじゃないんですか」
「いいえ、ちがうわ」
「何がちがうんでしょう」
「会費がないの」
「え?」
「彼女たちは、あるいは彼らは、まったく無償でボランティアで活動を続けてくれてるのよ」
「はあ。でも、プロダクションとかから援助をもらってたりはしないんですか?」
「そんなこと知らないわ。とにかく私からはお金を取らないの。そして誠実に情報を届け続けてくれるの。それがすべてよ」
「よくわかりました」
そのあと、洋子さんは、沢田研二の素晴らしさを、滔々と語り続けた。
いかにセクシーか。いかにキュートか。いかにスマートか。
タイガースというグループのボーカリストだったということと、あの岸部一徳とそのグループで一緒だったということを教えられた。岸部一徳は、よくテレビでみるから知っている。
「時の過ぎゆくままに」と「勝手にしやがれ」がジュリーの曲だと知った。どちらも歌ったことがある。
三十代で全裸写真集を出したそうだ。みせてあげると言われたが、固辞した。それにしても、日本人の男性芸能人でオールヌード写真集を出した人がいるとは知らなかった。べつに知りたくもなかったけど。
数々のアーティストたちとのジョイントや楽曲提供。
栄光の数々。
大変な実績のある、息の長い歌手だということがわかった。というか、思い知らされた。
ついでに、最近、頭髪が急激に薄くなってきてるとか、おなかがぷっくりふくれてきたとか、知りたくもない情報も教えられた。というか、ジュリーについての情報そのもの全部、まったく興味がないけど。
おみやげに、「来タルベキ素敵」というCDをもらった。たぶん聞くことはないと思う。
松本家を出たときには、疲労困憊していた。もうすっかり暗くなっていたけど、田上家では、顔色が悪いんじゃないかと心配された。
結局晩ご飯も天子さんが作ってくれた。油揚げ入りやきそばだ。おいしかった。
疲れた。
とても疲れた。
何もかも忘れて、この夜はぐっすり眠った。




