中編1(地図あり)
3
「妖気の抜けた溜石が十一個になりましたです! 新たに抜けたのは土生地区の溜石です。出現した妖怪は、邪魅」
「邪魅じゃと?」
「天子さん。その〈じゃみ〉とかいうのは手ごわい妖怪なの?」
「わからぬ」
「え?」
「たぶんこういう字を書くとは思うのじゃが」
天子さんは〈邪魅〉という字を書いてみせてくれた。
「言葉としては聞いたことがあるような気がする。しかしそういう名のあやかしがおると、はっきり聞いた覚えはない。長壁は、邪魅というあやかしを知っておるか?」
「名前だけは知ってるです。でも、姿形も能力も知りませんです」
「ふむ。とにかく転輪寺に行こう。長壁」
「はいです」
「ご苦労じゃが、お守りに入って同行してくれ」
「わかりましたです」
「ぼくも行くよ」
「もちろんじゃ。わらわがお守りを持つわけにはいかぬからのう」
「え? どうして?」
「鈴太よ。長壁はおぬしに加護を与えた。じゃからおぬしが持つお守りに入ることができるのじゃ」
「あ、そうなんだ」
「おぬしに加護を与える前なら、面倒ではあるがあの軽石のお社を持ち運べば、わらわにも長壁を移動させることもできた。しかし今となっては、長壁を移動させるのは、おぬしにしかできぬ」
4
「邪魅じゃと?」
「法師どのはご存じか?」
「ううむ。名前ぐらいは聞いたことがある。邪魅のしわざではないかという怪異が起きた話は耳にしたが、はっきりした正体は知らんのう」
「法師どのでも知らぬかえ」
「たしか唐より渡来のあやかしではなかったかのう」
「なにっ」
「〈から〉というと、中国ですね」
「鈴太。すまぬが……」
「わかった。ひでり神さまの所に行ってくる」
「頼む。わらわたちはここで待つゆえのう」
「うん」
5
「ほう。邪魅とな。これはまた」
「ご存じですか」
「いにしえの蚩尤との戦いのなかで、人間軍を最も苦しめたのが邪魅であった」
「えっ」
「邪魅の力は神霊や妖怪には効き目がない。効くのは人間だけじゃ」
「人間だけ、ですか」
「邪魅は醜悪な姿をしておるが、どういうわけか人間には、きわめて好ましい姿にみえる」
「好ましい姿」
「うむ。姿は妙齢で魅力的にみえる。そして、その声も匂いも、たまらぬほど好ましく感じられる」
「たくさんの人がいっぺんにみても、みんなそうなんですか」
「うむ」
「暗示をかけているんですか?」
「暗示というようなものではない。そういう性質なのじゃ」
「性質?」
「暗示をかけようと思えば、いくばくかの時間はかかる。しかし邪魅の姿は、みた瞬間に好ましい姿に映る。そういう性質であるとしか、言いようはあるまい」
「なるほど。人間にはそうみえるんですね。ということは、和尚さんや、天子さんや、おさかべには、ちゃんと正体がみえるんでしょうか」
「うむ。そのはずじゃ。邪魅は、人と話をするのが大好きでのう。そして話をするうちに、相手の人間の気持ちを悪いほうに引っ張ってゆく」
「はい」
「そしてその人間が、誰かを恨む言葉、誰かを憎む言葉、誰かを呪う言葉を発したとき、邪魅は毒の息を吹きつける」
「はい」
「その毒の息を吸い込んでしもうたが最後、その人間は、誰かを恨んだり、憎んだり、呪ったりすることしかできなくなる」
「え」
「それは、毒の息をはき出させるまで続く」
「それは……」
「邪魅というのは、善いことや正しいことが大嫌いでなあ。次から次へと、人に毒の息を吹き込んでゆく。毒の息を吸い込んだ者が増えてゆくと、仲間たちのあいだはぎすぎすしてゆき、連携など取れなくなってしまう。そうなれば戦いどころではない」
「うーん。毒の息を解除する方法はないんでしょうか」
「邪魅に吸い取らせればよい」
「素直に言うことを聞くやつではないようですが」
「うん。何か特別なたくらみでもないかぎり、そんなことはしないじゃろうな」
「ほかの方法はないんですか」
「人間軍は、苦心惨憺して、それをみつけた」
「どんな方法ですか」
「桃をぶつけるのじゃ」
「もも? 果物の桃ですか?」
「そうじゃ」
「そんなことで……」
「誰がどうやってみつけた方法かは知らぬが、確かに効果があったと聞いておる」
「そうなんですね」
「ただし、毒の息を追い払う前に邪魅を滅してはならぬ」
「えっ」
「邪魅を滅ぼしてしまうと、毒の息は帰る場所がなくなるので、宿主の体から出ていかなくなる。そうなると、桃をぶつけても何の効果もない」
「邪魅はどうすれば倒せますか」
「どんな方法でも倒せる。戦う力はあまり強くない」
「邪魅の毒の息を吸ってしまった人は、みてそうとわかりますか」
「わからんのじゃ。私たちが参戦したとき、人間軍は崩壊寸前であった。邪魅はすぐにみつかったので滅ぼしたが、心がゆがんだまま戻らぬ者たちがいた。しかしその者たちを私がみても、普通の人間と何の変わりもない。みるだけで知るには、特別な力がいるのじゃろう。長壁どの」
「は、はいでごじゃりますれす」
部屋の隅っこにはいつくばったままで童女妖怪が返事をした。
「そなたならみわけられるかもしれぬのう。そうでなくても〈探妖〉なら、毒の息に侵された者を、それと知ることができようのう」
「は、はいぃぃ」
「緊張しすぎだ」
「お前が緊張しなさすぎなのです」
「ほほほほほ」
「邪魅を倒したあと、毒の息を吸った人たちを、もとに戻すことはできたんですか?」
「できた。ただしそれは三十日間小屋のなかに閉じ込め、桃の木を焼いた煙で燻しながら、仙術の使い手が五人がかりでやっとはき出させたのじゃ。さらに毒の息を納める特別な壷を用意してあった」
「それは……まねできませんね」
「今となっては、あのような術を知っておる者もあるまい」
「わかりました。ありがとうございました」
「いや。話ができて楽しかった。近頃は体調がよくてなあ」
「それはよかったです」
「です」
「それはそうと、今月のはじめ、鵺の鳴き声が聞こえたような気がした。それと先週、近くに快うない気配を感じた。物の怪が出たのであろうな」
ぼくは、前回ひでり神さまを訪ねて以来のこと、つまり骨女のことと、鵺のことと、輪入道のことを話した。
「なんとまあ、えらいことであったなあ。しかし、法師どの抜きで鵺や輪入道を払いなさったか。たいしたものじゃ」
「和尚さんも、もうすっかり復調しました。どうぞご案じなく」
「心強いこと。ほほほほ。それで結局、妖気のこもった溜石はいくつになったのかのう」
「あと一つです」
「おお」
「まずはこの邪魅を何とかしなければいけませんが、それが済めば、いよいよ最後の溜石です」
「ありがたいことじゃなあ。あなたたちには苦労をかける。一日も早くお役目が終わるよう、私も油断なく務めます」
6
「桃、か。なるほど。古来、桃は邪気をはらう神聖な呪物であった」
「え。そうなの?」
「おぬし、伊弉諾尊が死者の国に降りた話を知らぬか?」
「何それ」
「知らんのか?」
天子さんはあきれながら説明してくれた。
イザナギとイザナミの夫婦神は、豊葦原中国を作り上げたけれど、イザナミは死んでしまう。妻が恋しくてならないイザナギは、黄泉の国、つまり死者の国へと降りてゆく。
イザナギはイザナミに、一緒に地上に帰ってほしいと願うが、死者の国の食べ物を食べてしまった自分はもう生者の国には帰れない、と拒絶される。しかし諦めずに懇願するイザナギに、イザナミは、では黄泉の国の神々と相談するので、そのあいだ何があっても自分の姿をみてはならない、と告げる。
ところが、あまりにも長いあいだイザナミが戻らないことに不安を感じたイザナギは、櫛の歯に火をつけて暗闇を照らし、蛆がはい回る醜い屍体と成り果てたイザナミの姿をみてしまい、驚いて逃走する。
あさましい姿をみられてしまったイザナミは怒り狂い、逃げ出したイザナギを殺そうとして、まず黄泉醜女に追わせ、さらに八柱の雷神と黄泉の国の千五百の軍勢に追わせる。
イザナギは、この世とあの世の境目である黄泉比良坂まで逃げのびると、そこに生えていた桃の木から実を三つ取り、追っ手に投げつけた。すると追っ手の軍勢は黄泉の国に引き返していく。
最後にはイザナミ自身が追いかけてくるが、イザナギは黄泉比良坂に千引の大岩、つまり動かすのに千人の力が必要なほどの巨岩を置いて道をふさぐ。岩の向こう側でイザナミはイザナギを呪詛し、葦原中国の人間を一日に千人殺してやる、と宣言する。これに対してイザナギは、ならば一日に千五百人の人間が生まれるようにしようと答える。すなわち、問答に打ち勝つことにより、呪詛をはらったのだ。
桃の呪力により危機を脱したイザナギは、桃を祝福して意富加牟豆美命という神名を与え、〈私を助けてくれたのと同じように、葦原中国のあらゆる生ある人々が、苦しみ悲しみ悩むとき、助けてやってくれ〉と命じたという。
「中国にも、西王母や度朔山についての伝えがあるではないか」
「せいおうぼ? どさくさん? 与作さんとはちがうんだね?」
「西王母は、西方の崑崙山に住み、すべての女仙を率いる女神じゃ。西王母の庭の桃は、三千年に一度花を咲かせるが、その実は万病を癒し老いを防ぐという」
「なんか孫悟空のお話に出てきたような気がする」
「東海の度朔山には桃の大樹があり、東北に三千里伸びた枝の下に、死者の霊魂が出入りする門があるという。そこから、春節には桃の板に神霊の名を記して門の脇に置いてその年の安寧を祈願するようになり、これが日本に伝わって門松の風習が生まれたのじゃ」
「へえー。門松は、もとは桃の板だったんだ」
「邪魅の話に戻してよいか」
「これは法師どの、失礼した」
「取り憑かれた者らから毒の息とやらを追い出すまで、邪魅を滅してはならぬ、とあのかたがおっしゃったのじゃな」
「はい。昔、邪魅を倒したあと、毒の息を吹き込まれた人たちを三十日間小屋に閉じ込めて、桃の木の煙で燻し、仙術を使う人が五人がかりで追い出して、特殊な壷に封じたそうです。今ではそんな術を知っている人もいないだろうと」
「そんな術は知らんのう」
「わらわにもわからぬ」
「ということは、今もし邪魅を滅ぼしてしまえば、毒の息に取り憑かれた者らが、生涯そのままということになるのか」
「すでに取り憑かれた者がおるとしての話じゃがな。しもうたな。邪魅を探知したとき、すぐに倒してしまえばよかった」
「ばっはっはっ。その時点ではそういう判断はできなかったであろうよ。どのような危険な力を持ったあやかしか、天狐にもわしにもわからなんだのじゃからなあ」
「それはそうじゃな」
「ううん。どんなものかのう。性格が悪くなるだけというなら、そう大きな害はないかのう」
「いや。憎しみが募れば争いになる。家族同士で殺し合うようなことにならんともかぎらぬ」
「すぐにすぐ、あのかたのお役目の妨げになるようなことはあるまいがのう」
「法師どの。取り憑かれた者らを見捨てるようなことをすれば、あのかたがお怒りになるぞ」
「それはいかぬ。やはり放っておくわけにはいかんか」
「いかんであろうなあ」
「天弧よ。ご苦労じゃが、ようすをみてきてくれぬか」
「わかった。法師どのは、どうする」
「これから法事じゃ」
「そうであった」
「わっはっはっ。そういうわけじゃから、長壁どの、よろしゅう頼むぞ」
「はいです」
「鈴太ものう」
「はい」




