中編3
9
朝の十時が来ても、天子さんがやって来ない。
こんなことは一度もなかった。ぼくが東京に行って留守をした日を除けば、天子さんは毎朝ここに来てくれた。
そんな天子さんが来ない。
毎日必ず来てくれた天子さんが、今日にかぎって来ない。
ぼくはひどく不安な気持ちになった。
(輪入道との戦いで傷を負った? それとも、まさか……)
考えてみれば、今回の輪入道が今までの輪入道と同じだという保証はない。というか、たぶんちがう。
思い出してみよう。いままで出現した妖怪は、
幽谷響
ぶらり火
こなきじじい
金霊
鉄鼠
水虎
火車
骨女
鵺
の九体だ。このうち、〈こなきじじい〉というか〈子無き地蔵〉はあまりに特殊な例だから参考にならない。金霊も、強さについてはよくわからない。
残りの七体のうち、もともと強力な妖怪だったのは、本家の〈鉄鼠〉〈水虎〉の二体だ。もともとは弱い妖怪だったのが、〈幽谷響〉〈ぶらり火〉〈火車〉〈骨女〉〈鵺〉の五体だ。ただし、〈鵺〉は少し強いかもしれない。
〈幽谷響〉は、溜石の妖気を吸い込むことで、普通の攻撃方法では効かないほど強力な妖怪になった。
〈ぶらり火〉は、〈荒御霊になりかかっておった〉と天子さんが言ってたから、たぶん強化され変質していた。
〈火車〉は、和尚さんや天子さんが知っている火車とは、姿からしてまるでちがっていた。
〈骨女〉もそうだ。〈魅惑〉は、直接さわられなければかからないはずなのに、目を合わせただけでかかった。あんなに巨大化したり、スケルトンを操ったりするのも、天子さんにとっては予想外のことだったみたいだ。
〈鵺〉も、たぶんそうだ。相手の能力をよく知っているはずの天子さんが不覚を取った。油断だけじゃない。たぶん、相手の力が天子さんの知識を上回ってたんだ。
じゃあ、今度の〈輪入道〉は、どうだろう。
〈輪入道〉は、身長が一メートルもない、ごく小さく弱い妖怪で、おとなの女性にも負けるほどだ。
能力は、〈射すくめ〉と〈幻覚〉の二つだけで、妖怪にはかからないし、意志の強い人間にもかからない。
それが普通の〈輪入道〉だ。
相当調査したみたいだから、その情報には信頼がおける。
だけど、今回の〈輪入道〉は、普通ではないかもしれない。というより、まずまちがいなく普通ではない。
体が大きいかもしれない。
力も強いかもしれない。
その二つの能力は、天子さんにも通用するかもしれない。
何かほかの能力を持っているかもしれない。
「おさかべ! 出てきてくれ」
「呼ばれて登場。あれ? まだ食事の準備ができてないですね?」
「天子さんが危ないかもしれないんだ。すぐに〈探妖〉を頼む! 対象は天子さん。範囲は」
範囲はどう指定したらいいだろう。
結界のなかだけでいいとは思うが、もしみつからなかったらどうするか。
その場合、明日まで〈探妖〉は使えない。
考えろ。考えるんだ。
最悪の事態を想定するんだ。最悪の事態とは何か。それは、妖怪との対決に敗れた天子さんが死んでしまった、という事態だ。でも、それは想定してもしかたがない。それに次ぐ悪い事態は何だ。天子さんが敗れ、〈天逆毎〉の手に落ちた、という事態だ。だが、天逆毎は移動している。だから……
「範囲は結界のなかと、ここから二十キロ以内の天逆川だ。頼む」
童女妖怪がいつもの儀式をして〈探妖〉を発動した。
「いない……です」
「いない? そんなばかな!」
落ち着け。落ち着くんだ。
そして考えろ。なぜ〈探妖〉にかからない?
「おさかべ」
「はいです」
「お前、天子さんが〈隠形〉を使ってても、十メートルかそこらなら探知できると言ってたな」
「できるです」
「じゃあ天子さんが〈隠形〉を使って、一キロ離れてるとしたら、〈探妖〉でもみおとすことはあるか?」
「え? ううーん。そんな実験はしたことないです。たぶん、〈隠形〉を使った相手でも〈探妖〉なら探知できると思うですが……」
「ですが?」
「天狐さまほどのかたが〈隠形〉を使われたら、〈探妖〉でもみおとしたかもしれないです」
童女妖怪がうなだれた。
「いや、ぼくが悪かった。あらかじめ天子さんが〈隠形〉を使っているかもしれないことに気づき、おさかべにそういう指示をだすべきだった」
そうだ。
いくら童女妖怪の探知能力がすぐれているからといって、きちんと使わなければ望む結果は得られない。こいつも、場合場合に応じて能力の使い方を練習し、工夫してきているはずだ。その能力をきちんと発揮させられなかったぼくに落ち度がある。
「おさかべ。どうも天子さんは、一人で〈輪入道〉と戦ったようだ。こんな時間なのに、まだ来ない。こんなことは今まで一度もなかったんだ。これから天子さんを探しに行く。お守りに入ってくれ」
「え? それは一大事なのです」
童女妖怪が入ったお守りを首にかけ、外出中の張り紙を出すと、ぼくは自転車に乗って転輪寺に急いだ。
10
やっぱり和尚さんは寝ていた。
起こそうとしても、けだるげな生返事を返すだけだ。
昨日天子さんが来なかったかと訊いても、はっきりした返事がない。
ということは、昨日天子さんは、一人だけで〈輪入道〉を退治しに行ったんだ。
はやる気持を抑えながら、ぼくは久本家に向かった。
「へえ、天子さんですか。確かに昨日夕方おみえじゃったですよ。お茶をお出ししたら、近頃この辺に不審者が出てるようなので、知らん人が訪ねてきてもドアを開けるなちゅうて、教えてくれました。それでしばらく世間話しとったですけど、急に立ち上がって、邪魔したなあ言いなさって、帰られたですよ」
やっぱり一人で来たんだ。
でも、ここから出て、どこに行ったんだろう。
ぼくは久本さんの奥さんにみおくられて久本家をあとにした。
五十メートルほど自転車を走らせてから、思い出した。
「おさかべ、出てきてくれ」
「はいです」
自転車の荷台の籠のなかに、童女妖怪が出現した。
「あの家に天子さんが、昨日夕方来たんだ。天子さんは、一人で〈輪入道〉を倒そうとしたんだと思う。あの家の近くをしばらく走るから、妖怪の気配がないか、天子さんの気配がないか、探ってくれ」
「ラジャーなのです」
ぼくは久本家の前に戻り、そこからいったん西に向かおうとした。
「そこです」
「なに?」
「そこに天狐さまがおられるのです」
童女妖怪が指さしているのは、久本家を取り囲む生け垣の前、門になっている部分を外に踏み出したすぐ右側だ。
その気になってみてみると、何かが乗っているように、草が押しつぶされている。
「天子さん」
小さな声で呼びかけたが、返事はない。
手を伸ばしてさわってみると、確かに天子さんがいた。腕にさわったので、そのまま先のほうに手を滑らせてゆく。肌にふれた。冷たい。だが死んでしまった冷たさではない。少しさわっていると、温かみが感じられる。
生きている。
ぼくは大きな安心のため息をついた。
「おさかべ。お手柄だ」
「えへへ」
「これから天子さんを連れ帰る。お前はお守りに戻れ」
「了解であります、軍曹どの」
軍隊式の敬礼をして童女妖怪がすっと消えるのをみながら、今何の漫画を読んでいたかな、と考えた。
自転車は生け垣の脇に置いたまま、天子さんを負ぶって帰った。帰る途中、天子さんの意識が戻った。
「……心配をかけたのう」
「ほんとに心配したよ」
「すまぬ」
三人でレトルトカレーを食べて昼食を済ませた。油揚げのないメニューだったけど、童女妖怪は文句をいわなかった。
未完さんから電話がかかってきて、今日のうちに京都に帰らないといけなくなったので、しばらく会えないけど元気でねということだった。
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「はじめは転輪寺に行ったあと、こちらに帰ってくるつもりだったのじゃ。ところが転輪寺に客があってのう。法事についての相談じゃ。法師どのに代わってわらわが相談に乗った。それで夕刻近くになってしもうた。〈輪入道〉が現れるのは夜遅くになってからじゃが、万一にもおくれを取るわけにはいかぬ。それに一つ心配があった」
「心配って、何?」
「〈射すくめ〉も〈幻覚〉も、人間には通用する。わらわの結界も、これは防げぬ。ゆえに鈴太は連れて行かぬほうがよいかもしれぬと考えた」
「気づかってくれたことは感謝するよ」
「そう怖い目でみるな。わらわが悪かったと、何度も謝っておるではないか」
「全然怖い目なんかしてないよ」
「まず家に入って、知らぬ者が来ても扉を開けるなと注意した。そして外に出て〈隠形〉で身を隠し、〈輪入道〉を待ち受けた」
「うん。それで?」
「やがて〈輪入道〉が現れた。わらわは〈隠形〉を解いて声をかけた。ここに何しに来た、とな」
「どうして声をかけたの?」
「さあて、自分でもわからぬ。思えばばかなことをした。いきなり倒してしまえばよかったのにのう」
「もしかしたら、五百年前の意趣返し?」
「なに?」
「もちろん、今回現れた〈輪入道〉は、五百年前の〈輪入道〉とは別人だろうけどね。天子さんには後悔があった。自分がもう少し積極的に手を打っておけば、二度目と三度目の惨事は防げたかもしれないという後悔がね」
「それは確かにある」
「だから、ただ倒すのでなく、驚かせ、絶望させて、天子さんの手によって滅びるのだと思い知らせてから倒したかったのかもしれないね」
「……なるほど。そういう気持も、あったやもしれぬ」
「それで、どうなったの?」
「やつの目をみたとたん、〈射すくめ〉にかかった。まさかと思いながらも、最後の力を振り絞って、すぐに飛びのきつつ〈隠形〉を使うた。そのまま体は動かなくなったが、やつはわらわを殺さず、立ち去った」
「なるほど。ひとつ確認しておきたいんだけど」
「何じゃ?」
「〈輪入道〉が近づくのは、遠くから探知できていた?」
「いや。それが、わらわにも油断があったのであろう。かなり近づかれるまで気づかなんだ」
「敵が〈隠形〉を使ってたという可能性はない?」
「何じゃと? いや、〈輪入道〉が〈隠形〉持ちであるとは聞いたこともない」
「普通ならね。でも、〈幽谷響〉も〈ぶらり火〉も〈火車〉も〈骨女〉も〈鵺〉も、普通じゃなかった。溜石の妖気を吸い込んだ弱い妖怪は、強い妖怪になるんだ」
「なん……じゃと」
「だから今回の〈輪入道〉が、普通じゃない能力を持っていても不思議じゃない」
「そういえば、そうかもしれぬ。なんということじゃ」
「ただしぼくは、普通の〈輪入道〉も、〈隠形〉か、それに似た能力を持っていると考えてる」
「なにっ」
「天子さん。〈輪入道〉は、母と幼い子だけがいる家を狙うんだよね」
「うむ。まことに卑怯なあやかしじゃ」
「どうして、それがわかるんだろう」
「なに?」
「どうして〈輪入道〉には、その家に母と幼児しかいないとわかるんだろう」
「それは、村内では知られたことであろう」
「村内で知られていることを、どうして〈輪入道〉は知ることができるの?」
「それは……」
「それは、調べているからじゃないのかな?」
「調べている、じゃと?」
「〈輪入道〉は、昼間は姿をみせたことがないんだよね?」
「うむ」
「その昼間に調べているんじゃないのかな」
「昼間に?」
「そう。〈隠形〉か何かの術を使って身を隠し、こっそりと村のなかを歩き回り、自分にも襲える力弱い獲物を探し回っているんじゃないのかな」
「それは……」
「〈輪入道〉はね、とても臆病な妖怪だと思うんだ」
「臆病?」
「臆病で、小心で、そのくせみえっぱりだ」
「なぜ、それがわかる」
「母子家庭しか狙わないだけでなく、ほかの家から離れて住んでいる母子しか狙わないのは、臆病で小心だからじゃないかな」
「ふむ。では、みえっぱりというのは?」
「ことさら自分を大妖怪にみせている。巨大な車輪に畳四畳の顔に炎の演出までつけてね。松さんとのやりとりなんか、いかにも大物ぶってる」
「……いわれてみれば、確かに」
「自分が偉大で立派だと、思ってほしいんだろうね。結果として、かじさんは自殺してしまったけど、生き残っていたら、さぞ恐ろしい大妖怪として〈輪入道〉のことを語ったろうね」
「正体なぞ知れておる」
「それは、和尚さんや天子さんのように、特殊な情報を持っているからこそ言えるんだ。現にぼくは今朝ネットで〈輪入道〉や〈片輪車〉や〈朧車〉のことをちょっと調べてみたけど、ひどくおどろおどろしく強力な妖怪として、各地で伝えられてるね。〈朧車〉なんか、貴族の乗り物だと思わせてる。ここにも劣等感の裏返しを感じると言ったら言い過ぎかな」
〈輪入道〉と〈片輪車〉は同じ妖怪ではないか、とはネット知識にもあった。ネットでみた情報のなかに、〈輪入道は自分の姿をみた者の魂を抜く〉とあって、これも正しく能力と習性の一部を伝えている。
〈朧車〉は、普通、〈輪入道〉や〈片輪車〉とは別の妖怪とされているようだ。また、人を食べたり殺したりした話はみかけなかった。
ただ、大きな車と巨大な顔で人を脅かすという点では似ているといえば似ている。また、〈朧車〉も〈片輪車〉も京都での目撃情報が伝わっている。似たような場所で似たような姿で現れる妖怪なのだから、集めた情報から和尚さんが結論したように、そもそも同じ妖怪ないし同種の妖怪であっても不思議はない。
「しかし、いくら〈隠形〉持ちでも、村のなかをうろつき回るのは大変じゃ。姿は消えておっても、何かがぶつかれば正体は露見する。しかし昼に〈輪入道〉をみたという者はどこにもおらぬ」
「〈輪入道〉は、弱々しくみすぼらしい正体を、昼日中に現したりは決してしないよ。それこそ病的な注意をもって、隠れ続けるさ。それに正体を現しても、誰もそれを〈輪入道〉と思わないんだから、昼に〈輪入道〉をみた人がいないのは当たり前じゃないか」
「そういえばそうじゃ」
「だから、これからぼくは、おさかべを連れて〈輪入道〉を探しに行く」
「なんじゃと!」
「今ごろやつは、久本家の近くに潜んで息を殺しているか、近くで姿を消して人の話を立ち聞きしてるだろうね。たぶん、やつはプライドは高いから、いったん襲おうとした久本家を、このままにはしないと思う。それに、探しても、ほかに条件の合う家はない」
「なるほど」
「それに昨夜やつは、天子さんに遭遇したことに驚いて、逃げ帰ってしまった。そのことが悔しくてたまらないはずで、だから、もう一度、久本家に来る」
「ならばわらわも共に参る」
「自転車の速度にはついてこられないでしょ? だからここにいて、ぼくが電話するのを待ってほしいんだ」
「いや。それはならぬ。そなたが一人でゆくのを許すわけにはいかぬ」
「……しかたないなあ。一緒に行こうか」
「無論じゃ! くっ。それにしても、わらわの同行がしかたないと言われるとは……」
「いや、一晩中倒れてたでしょ? 気づかってるんだよ」
「そ、そうか」
「あちしはお守りに戻っていいですか?」




