中編2
8
天子さんがずんずんと歩いていく。
ぼくはそのあとをついていく。
すぐに柿の木がみえてきた。
石のお地蔵さんもみえてきた。
天子さんは、迷いもなく、お地蔵さんの前を通り過ぎて、小道に踏み込んでいく。
小さな道標があって、〈庚申口〉と彫ってある。
小道といっても、実際には道とはいえない。
左右から草が生い茂っているその切れ目のようなものだ。
草を踏み分けながら、ぼくも小道に入っていった。
少し歩いて気がついたんだけど、思ったよりも、ずっと歩きやすい。
草の切れ目に沿って歩くと、あまり草に足を取られることがない。
たぶんここは、ずっと前には道だったんだ。
いや。今も道だ。
足の下に砂利を敷き詰めたような感触がある。
この道の下には草の根が生えていないので、左右から生えている草をかき分けさえすればいい。だから、歩きやすいのだ。
少し降りた所に、小さな池があった。
天子さんは、池を回り込んで先に進む。ここからは登り坂だ。白澤山のほうだろうか。木に覆われた道を歩いていると、現在位置がわからなくなる。
こんなにみとおしが悪いのに、天子さんはすいすいと山を登っていく。
もう道はない。ただ木々をかき分けて進むだけだ。
左右から木の枝が伸びているので、ぼくは必死になって枝をかわしたり、払いのけたりしながら進む。
どうして天子さんは、枝に邪魔されずに歩いていけるんだろう。
やっぱり、そうとう山道に慣れているんだろうな。
そうやって一生懸命山道を登っていたとき、突然奇妙な声が聞こえた。
〈い〜〜ふぉ〜〜〜〜〜〉
鳥?
いや、鳥のような小さな生き物が出せるような声じゃない。
もっと大型の動物だ。
〈い〜〜う〜〜うぉ〜〜〜〜〜〉
もう一度聞こえた。
前を歩いていた天子さんが足を止めて、左前方をにらみつけている。
〈い〜〜う〜〜ふおお〜〜〜〜ん〜〜ん〜〜〜〉
「こちらじゃな」
ぽつりと言葉を発して、左側に向きを変えた。
あの声がした方角に向かっているんだろうか。
でも、ぼくも、どちらのほうから聞こえてくるのかと注意しながら聞いてたけど、方角なんかわからなかった。
山のなかで響いてくる音は、ふだん聞き慣れた音とちがう条件で響いてくるから、方角なんかわからない。
以前、騒音測定機器のメーカーのバイトをしたことがある。
そこは、研究機関を持っていて、地方自治体や地域住民から頼まれて、騒音測定をしてる。
道路なら道路の周りの一定区間にマイクを設置して二日とか三日とか四日とか、ずっと測定を行い、そのデータをクライアントに提出する。クライアントはそのデータをもとに、
「この道路の騒音の最大値は、法定基準をはるかに上回るから、音を防ぐ壁を作ってくれ」
というような交渉をしたりする。
そのバイトをしてるとき、職員の人たちから、音と音響について、いろんなことを教わった。
そのなかに、
〈音の方向を察知する能力は、経験的な学習によって獲得される〉
ということがあった。
人間は左右二つの耳を持っているから、ステレオで音を聞くことができる。
ある音源から耳に音が到達する時間は、左右の耳で微妙にちがう。また、直接耳に入る音なのか、頭骨や表皮を伝わって聞こえてくる音なのかなど、音質もちがう。その到着時間のずれと、音質の差を、脳が分析して、どっちの方角から来た音なのかを判別するんだ。
その判別は、生まれたばかりの赤ん坊にはできない。成長に伴ってだんだんとできるようになっていく。
音が上のほうから聞こえてくるのか、下のほうから聞こえてくるのかも、人間は判断できる。
考えてみたら、これは奇妙なことで、耳は左右二つしかないんだから、左右の方角は聞き分けられても、上下の方角が聞き分けられるわけがない。でも、できる。
どうしてできるかというと、経験によって、
〈こういうふうに聞こえてくる音は、上のほうから来る音だ〉
と判定できるからだ。
逆にいうと、慣れない音響条件の場所で聞くと、判断に誤りが出る。
ぼくも、特殊な音響条件の部屋で実験したことがあるけど、てっきり下のほうから聞こえたと思った音が上のほうの音だったり、前から聞こえたと思った音が後ろの音だったりした。
山のなかなんて、場所によってひどく音響条件がちがうはずで、遠くの物音の方角なんて、わかるわけがない。
わかるとしたら、天子さんは、それがわかるほどに、この山に慣れている。
あるいは、ただ耳で聞くだけじゃない、何かの感覚で方角を感知している。
とにかく、天子さんの足取りにはためらいがない。
そのことが、今はとても頼もしかった。
いきなり、見晴らしのいい場所に出た。
空がかげり始めている。
ずっと深い森を歩いていたから気づかなかったけど、もう夕暮れが近いんだ。
「いうぉ〜〜〜うぉ〜〜〜〜ん〜〜」
近い。
今までのように遠くでかすかに響く声じゃなく、すごく生々しいこえだ。
いうぉ〜〜〜うぉ〜〜〜〜ん〜〜
いうぉ〜〜〜うぉ〜〜〜〜ん〜〜
いうぉ〜〜〜うぉ〜〜〜〜ん〜〜
山彦がこだましている。
天子さんが斜め前方をにらんでいるので、その視線を追った。
いた!
切り立った崖のようになった場所に立って、虚空を見上げて叫んでいる。
「い〜〜ううおぉ〜〜お〜〜〜ん〜〜」
叫び声を山彦が追いかける。
それは人間の声のようではない。
そもそも生き物が発するような声と、少しちがう。
木の枝に吹き付ける風が鳴るような音であり、木が引き裂かれるような音だ。
そして、なんとも哀しげな声だ。
「いうぉ〜〜〜うう〜〜〜おう〜〜おう〜〜うぉ〜〜〜〜ん〜〜〜」
天子さんが左に向きを変えて歩き始めた。
あわててあとを追う。
天子さんの足取りは速い。急いでいる。
その急ぎ方がぼくを不安にさせる。
いったん森のなかに入り、ぐるぐると右に左に進んでいった。
(ほ、方角、合ってるんだよね?)
天子さんの方向感覚は正しかった。
もう一度目の前が開けたとき、びっくりするほど近くに、そのものはいた。
9
後ろ姿だと、それが山口さんだとはっきりわかる。
薄いニットのブラウスも、紺のスカートも、見覚えのあるものだし、体の輪郭と長い黒髪は、間違いなく山口さんのものだ。
けれど、いったい、この首は何なんだろう。
この手は何なんだろう。
この足は何なんだろう。
それは人の首でも手足でもない。
まるで年をへた枯れ木だ。
いったいどんな呪いを受けたら、人間がこんなふうになってしまうんだろうか。
山口さんの向こうには、巨大な月が浮かんでいる。
山口さんは、月に向かって吠え続ける。
物悲しげな声を張り上げて。
〈い〜〜ううおぉ〜〜お〜〜〜ん〜〜〉
〈い〜〜ううおぉ〜〜お〜〜〜ん〜〜〉
天子さんが、ぼくのほうをみている。
そうだ。ぼくにはやることがあったんだ。
ウインドブレーカーのポケットに右手を突っ込んで、護摩木の束を一つつかみ取った。
そして、一歩ずつ、音をさせないように気をつけながら、そっと山口さんに近づいた。
もう二十メートルもない。
ぼくは護摩木を山口さんに向かって投げた。
ところが緊張していたとみえて、とんでもない失投になった。ぜんぜんあさっての方角に飛び出した護摩木の束は、地面にぶつかって音を立てた。
山口さんの吠え声が止まった。
いいうぉん、いいうぉんと、哀しげな木霊だけが響き、そしてその木霊も小さくなって消えたとき、山口さんは振り向いた。
一瞬、本当に木かと思った。
古い古い木の表皮のように、しわがれ、固まった、醜い顔だ。
鱗にびっしり覆われたようにもみえる。
ぼくはあわてて右ポケットに手を突っ込み、もう一つの護摩木の固まりをつかんだ。
そしてそれを投げつけた。
護摩木は、山口さんの五メートルほど手前で地に落ち、少し転がって、そして爆発した。
まさか爆発するとは思っていなかったので、腰が抜けるほどびっくりした。
爆発のあと、すごい煙が立ちのぼって視界を奪われ、ぼくは立ちすくんでしまった。
その煙をぬっとかき分けて、山口さんが目の前に現れた。
鱗のような木の皮でびっしり覆われた顔のなかの目が、赤い光を放っている。
憎しみに満ちた目だ。
その赤い憎しみの目で、山口さんはぼくをにらみつけた。
目と鼻の先に現れた山口さんの恐ろしさに、ぼくは身動きもできず、ただぼうぜんと、その顔らしきものをみつめていた。
山口さんの顔が、ぎろっと横に向いた。
そこには天子さんがいるはずだ。
山口さんは天子さんとにらみあっている。
その山口さんの顔を、ぼくは間近でながめている。
なんて……
なんて恐ろしい姿なのだろう。
これが人間だったなんて、信じられない。
あの美しい山口さんだったなんで、信じられない。
顔は、びっしりと醜い鱗のようなもので覆われている。
鱗と鱗の間からは、腐った肉のような地肌がみえる。ひどく痛々しい感じがする。
さっきはわからなかったけれど、意外に目は大きい。
今は赤く爛々と輝いている。
ちがう。
憎しみに燃えている。
何に対する憎しみかはわからないが、それが憎しみであるのは間違いない。
ひどくいやらしい匂いがする。
腐臭だ。
生ものが腐った匂いだ。
ぼくは自分の左手を意識していた。
ぼくの左手はウインドブレーカーのポケットに突っ込まれている。ポケットには二束の護摩木が入っている。その一つを、左手はきつくにぎりしめている。
(も、もう一回……)
一度では効果がなかったみたいだけど、もう一度やれば、今度こそ効果が出るかもしれない。
こんなに近くなのだから、絶対にはずさない。
今度は体に直接当てられる。
そうしたら、和尚さんの言ったような効き目が現れるんじゃないだろうか。
そんなことを考えていると、山口さんが、ぼくのほうに向き直った。
(攻撃しようと思ったのが、みぬかれた?)
心臓をつかまれたような気がした。
体は金縛りにあったようで、指のさきさえぴくりとも動かせない。
蛇ににらまれたカエルというのは、こんな感じなんだろうか。
そのとき。
山口さんの目が変わった。
確かに変わった。
赤い狂気の色は消え、優しげな目つきになった。
でもそれはほんの一瞬のことで、たちまち目は赤い炎で満たされた。
山口さんは、くるりと身をひるがえすと、ひとっ飛びで崖の下に飛び降りた。
ぼくは山口さんを追って、崖の突端まで走った。
もうみえない。
いや、みえた!
走り去って行く山口さんがみえる。
ちらちらとだけど、眼下の森のなかを走り去っていく山口さんがみえる。
ぼくの左に人の気配がした。天子さんだ。
「追っかけなくちゃ!」
「いや。どうもこれはおかしい。一度和尚の所に戻る必要がある」
「でも! こうしてるあいだにも!」
「落ち着け、鈴太。もう日が落ちる。夜の森は危険じゃ」
言われてみれば、日は傾いて、色も赤ずんでる。
ぼくには村がどの方角か、全然見当もつかない。
天子さんが帰るというなら、一緒に帰るしかない。
それに夜の森と聞いて、すごく怖くなった。
さっきまでの勢いはしぼんでしまって、ぼくは臆病者に戻ってしまった。
帰りの道は、ずいぶん遠く感じた。
ぼくは、晩ご飯も食べず、倒れるように寝た。
ずいぶん早く寝てしまったせいか、夜中に目が覚めた。
山口さんのことを考えた。
〈長い年月を深い山のなかですごした老木には、木の精が宿ることがある。これを〈木霊〉という。木霊が、人の強い想念にさらされると、その人間に乗り移ることがある。これが幽谷響じゃ」〉
そう和尚は言った。
〈木霊が、人の強い想念にさらされると、その人間に乗り移ることがある〉
木霊が勝手に山口さんに取り憑いたんじゃない。
山口さんの強い思いが、木霊を引き寄せたんだ。
山口さんの強い思い。
それはいったいなんだろう。
きっと、ご主人のことだ。
山口さんは、後悔してた。
〈思い出してみるとね、つらいの。本当は、私にも、キノコを食べてもらいたかったんじゃないかって。一緒に珍しいキノコを味わってほしかったんじゃないかって。どうして私は、食べてみようとしなかったんだろう。食べてみたら、好きになったかもしれないのに〉
キノコを食べてみようとしなかったことを、後悔してた。
たぶん、それだけじゃない。
ご主人の生きてるあいだに、あれをしてあげてたら、これをしてあげてたらと、後悔していた。
後悔というのは、寂しさだ。
ご主人を亡くして、寂しくて寂しくてたまらない、その心の隙間を、後悔で埋めてたんだ。
そうでもしないとしかたないくらい、心の隙間は大きかったんだ。
ぼくにはわかる。
ぼくも同じだから。
父さんと母さんを失ったことは、今でも埋めようがないほどの心の隙間になっている。
まてよ。
ぼくは山口さんを人間の世界に引き戻そうとしてるけど、それは正しいことなんだろうか。
今はもしかして、山口さんは、ご主人と一緒なんじゃないだろうか。
人間ではないものになって、ご主人の霊と一緒に、森で暮らしてるんじゃないだろうか。
一緒に幸せに暮らしてるんじゃないだろうか。
あの醜い姿は、森で生きていくなら必要な姿だ。
あの姿のままで、山口さんは幸せなんじゃないだろうか。
人間の世界に引き戻そうとするのは、ぼくの身勝手なんじゃないのか。
いや、ちがう。
あの哀しい叫び声。
あれはご主人を呼ぶ声だ。
満たされない思いを訴える声だ。
今の山口さんは、幸せじゃない。
だから人間の世界に呼び戻さなくちゃいけない。
生きてれば、幸せにだってなれるんだ。
心の隙間が完全に埋まることはないかもしれないけど、心の隙間を抱えたままでも、人間は幸せになれるんだから。