中編1(地図あり)
4
翌日は雨だった。夜中から降り始めたらしい。
岡山は、〈晴れの国〉と呼ばれるほど、降雨日が少ないらしい。
実際、ぼくが引っ越してきてから、雨の降る日は数えるほどだ。
梅雨のときでも、七月の前半に雨の日が続いたのを除けば、これというほどの雨降りはなかった。
だから、こんな山の向こうまでずっと雨に煙っている風景ははじめてみる。
都会に降る雨とは、全然質がちがうような気がする。うまくいえないけど、神聖な水が天から降りてきて、山々を清めているみたいだ。
バケツをひっくり返したというほどの雨の量ではないけれど、それでもかなりの量の雨が絶え間なく落ちてくる。さえぎるものがないから、みわたすかぎりの雨空だ。
その雨空のなかに、三山のシルエットが、淡いパステル色でぼうっと浮き上がっている。
今日は神社の掃除は休みにした。配達の注文も断るつもりだ。一日外に出たくない。
こんな日だというのに、天子さんはいつも通りにやってきた。傘は差してたんだけど、着いたときにはびしょぬれだった。〈隠形〉を使っても雨にぬれないというわけにはいかないんだろうな。
わが家には、天子さん専用の衣装箪笥がある。
そこから乾いた服を出して、浴室で体を拭いて着替えをした。
そしてきちんと朝ご飯を作ってくれた。
千二百年ものあいだ、必要なときには、ご先祖さまたちにも同じように食事を作ってくれていたんだろうと思うと、不思議な気がする。
電気やガスがない時代に、土間でご飯を炊き、おかずを作る天子さんを想像してみる。
(似合ってる)
「何を思い出し笑いしておるのじゃ」
「むっつりすけべなのです」
なぜか今日は童女妖怪も、食事ができあがる前に出現して、漫画を読んでいる。
二人してぼくをからかっているが、そのからかい声も、どことなく湿っぽい。つまり、アンニュイでソフトだ。
溜石には変化がなかった。
この日は、一人の来客もなく、一本の電話もかかってこなかった。未完さんからのラインが届いただけだ。
だらだらとして一日を過ごした。
天子さんもだらだらとしていた。
童女妖怪もほとんど一日中出たままで、だらだらしていた。
たまには、こんなけだるい一日があってもいい。
5
翌日は朝から晴れだった。
からっと晴れて、空には雲一つない。
三山も、風呂上がりみたいにさっぱりしている。
この日、新たな妖怪が出現した。
「九つ目の溜石から妖気が抜けたです。妖怪が出現! 鵺です!」
「鵺じゃと。また厄介な」
「むかし御所の屋根に現れて、弓で退治された妖怪だよね?」
「うむ」
生返事をしながら、天子さんは何かを考え込んでいる。
「して長壁よ。場所はどこじゃ」
「妖気が抜けた溜石はここなのです。鵺の現在位置はここなのです」
童女妖怪が地図を指さす。
妖気が抜けた溜石は、雄氏地区南側の溜石だった。足川家の南西だ。
そして鵺の現在位置は足川家の東側にある小さな森のなかだ。この森は雄氏地区と有漢地区を隔てていて、この森があるために、雄氏地区と有漢地区は行き来の便が悪い。
「鈴太」
「うん」
「おぬしは転輪寺に行き、法師どのを起こして連れてきてくれ」
「えっ? う、うん。わかった」
「わらわは、ただちに鵺のもとに行き、結界に閉じ込める」
「えっ! き、危険じゃないかな」
「鵺はのう、移動速度が速い。そして森や屋根の上を素早く移動するので、目に止まりにくい。とにかく神出鬼没のあやかしでな。もしかすると〈隠形〉持ちかもしれぬ。取り逃がすとあとが面倒なのじゃ」
「う、うん」
「わらわでは倒しきることはできまい。じゃが足止めならできる。法師どのを起こすのは一苦労じゃろうが、よろしゅう頼む」
「わかった」
あわただしく天子さんは出ていった。
「おさかべ。お守りに入ってくれるか」
「わかったです」
ぼくは童女妖怪の入ったお守りを首にかけると、自転車に乗って転輪寺に急いだ。
転輪寺に登る坂の入口で、自転車を止めて、そのまま走って坂を登った。荷物を積んでないんだから、自転車を押して登る必要はない。
「こんにちはー!」
大声であいさつしたけど、もちろん返事はない。
「上がりますよー!」
と言いつつ、スニーカーを脱ぎ捨て、寝室を目指した。
「入りますね」
障子を開けてなかに入ると、和尚さんが布団に寝ていた。
「和尚さん! 起きてください!」
和尚さんは、ごうごうといびきをかくばかりで、ぼくの声など聞こえたようすもない。
「和尚さん! 和尚さん!」
一段階声量のギアを上げて呼びかけた。だが、何の反応もない。
体を揺すってみた。
それでも反応がないので、布団を少しめくって、じかに体を揺さぶった。
「和尚さん! 和尚さん!」
ぼくの声は、もう悲鳴に近い。
和尚さんの体は大きく、重い。渾身の力をこめて、強く押し、そして引いた。
「和尚さーーん!!」
耳元で、力のかぎり怒鳴った。
でも、だめだ。
それからしばらくぼくは、和尚さんを揺さぶり、声をかけた。
「これはだめですね。意識が全然沈んでますです」
「そんな。それじゃ、どうすればいいんだ。天子さんが待ってるのに」
「一度張った結界は、かなり長い時間維持できるはずです。とにかくここは、一度天狐さまのところに行って、報告と状況確認をするです」
それはもっともな意見だった。
ぼくは役割が果たせなかった無念さを抱えながら、寺を出て、自転車をこいだ。童女妖怪を荷台の籠に乗せて。
6
鵺がここにいる、と先ほど童女妖怪が示した場所は、わが家からならかなり近い。
転輪寺までのほうが倍以上の距離があるし、高低差もある。
つまり、天子さんが敵と遭遇してから、もうだいぶ時間がたってるはずだ。
焦る心のまま、しゃにむにペダルをこいで、ぼくは現場に向かった。
雄氏地区と有漢地区を隔てる森がみえてきた。
静かだ。
戦いの気配はない。
自転車を止めた。ここからどこに行けばいいのか。
「あそこなのです!」
童女妖怪が南側を指さした。
ぼくは自転車でそこに向かう。
白いものが地面に落ちている。
(天子さんだ!)
自転車を止めて駆け寄った。
「天子さん!」
天子さんがうつぶせに倒れている。
ぼくは天子さんのそばにひざまずいて、恐る恐る頬にさわった。
少し冷えてるけど、死体の温度じゃない。
「生きてる。よかった」
「毒状態です」
「なにっ」
「鵺は、頭は猿のような姿で、胴体は虎のような姿で、尻尾は毒蛇です。たぶん、尻尾の蛇にかまれたです」
「い、医者に、医者にみせないと」
「落ち着くです。あちしらの体には、人間の薬は効かないです」
「えっ」
「とにかく家に連れて帰るです。布団に寝かせるです」
「わかった!」
ぼくは天子さんを抱き上げ、そのまま家に向かって走りだした。
しばらく走ってしんどくなり、少し立ち止まって呼吸を調えた。
そこからは小走りで急いだ。
玄関を上がるときにも天子さんを抱いたまま、スニーカーを脱ぎ捨てた。
客間に入り、そっと天子さんを畳に横たえると、急いで客用の布団を敷き、天子さんを寝かせた。
湿り気のある草の上に倒れていたから、服の前のほうが湿っている。バスタオルで上からそっと服の湿り気を取ってから、薄い掛け布団をかけた。
何かできることはないだろうか。
運んでくるとき思ったのは、体温が下がっているということだ。
ぼくは、布団のなかに手を突っ込み、天子さんの手をさすった。さすってさすって、さすり続けた。
その成果なのかどうかわからないけど、死んだ人のように白かった顔に、少し赤みがさしてきたような気がする。
「添い寝するです」
「え? お前がか?」
いつのまにか童女妖怪が座っている。
そういえば、こいつをほったらかしにして帰ってきたんだった。前に、ある程度の距離が離れたら自動的にお守りに戻るようなことを言っていたから、今あらためて出現したんだろう。
「何をばかなことを言ってるですか。へなちょこが添い寝するです」
「ええええっ! な、何を、何を」
「口をぱくぱくするのをやめるです」
「そ、そんな。こんな状態の天子さんに、そんなことをするなんて」
「妄想はやめるです。天狐さまは、へなちょこ一族の守護を続けて神格を得たです」
「う、うん」
「つまりそれは、加護を与え続けたということです」
「加護を……」
「加護を与える者と、加護を与えられる者は、補い合う関係にあるです」
「補い合う関係……」
「つまり、加護対象が近くにいると、いろいろな能力が上がるです」
「え」
「だから、へなちょこがぴったりくっついていれば、天狐さまの体力も回復力も底上げされるはずなのです」
「そう、なんだ」
「ほかに効果的な方法は思いつかないです」
「添い寝。……天子さんに、添い寝」
「早くするです! 一刻を争うですよ! 天狐さまの生命力は相当弱ってるです!」
「は、はいぃぃ」
手負いのゴブリンのごとく荒れ狂う童女妖怪にせき立てられ、ぼくは下着姿になって布団に滑り込んだ。
冷たい。
それに、湿り気がある。バスタオルでは充分に湿り気を取り切れなかったようだ。
ぼくは自分の体に、熱くなれ、と念じた。熱くなって、天子さんの服を、体を、温めるんだ。
もう恥ずかしがっている場合じゃない。
ぼくは、天子さんにぴったりと寄り添った。
ふわん、といい香りがする。
化粧品の匂いじゃない。作り物の匂いじゃない。
天子さんの体からあふれ出る、天子さんそのものの匂いだ。
あの夜のことを思い出した。
〈砂持ち祭り〉の夜のことを。
ぼくは天子さんとともに進むと誓った。天子さんとともに戦うと誓った。
天子さんのために生きると誓った。
その気持ちは、今も変わらない。
「死ぬな」
ぼくは天子さんを抱きしめ、耳元にささやいた。
「生きろ」
やがてぼくは眠りに落ちた。
7
目を覚ましたときには、真夜中だった。
ぼくの右腕は、天子さんの頭の下にある。そして天子さんの右腕は、ぼくの胸に絡みついている。
温かい。
天子さんの体が温かい。
助かったんだ。
少し身をよじって、体の姿勢を整えた。すると天子さんも体を動かして、より深く、より強く、ぼくにしがみついてきた。
星明かりのなかで、腕のなかの天子さんをみた。
天子さんは、ゆっくりと目を開けた。
「だいじょうぶ?」
「鵺のやつを、いったんは結界に閉じ込めたのじゃ」
ぼくの質問に答えず、天子さんは鵺との戦いのことを話し始めた。
「鵺の体は大きい。前足の破壊力はすさまじい。しかしわらわは恐れなかった」
いつもの凛とした声じゃない。
か細く、弱い声だ。
甘えるような声だ。
「うん」
「鵺のやつは、結界に閉じ込められて、あわてておった」
「うん」
「あとは、おぬしが法師どのを連れてくるのを待つだけだと思うた」
「うん」
「けれど、法師どのは目覚めぬかもしれぬ、とも思うておった」
「うん」
「そのときにはどうするか、と考えた」
「うん」
「一度張った結界を維持するのに、さほど力は使わぬ。〈隠形〉をかけて人目から鵺を隠し、法師どのが目覚めるまで何日でも待てばよいと思うた」
「うん」
「おぬしが来たら、一度結界の外から爪で攻撃してみようかとも思うた」
「うん」
「考え事をして、気が緩んでおったのじゃなあ」
「うん」
「鵺が何度も攻撃を繰り返しておるのは気づいておったが、結界が壊れかけておるのに気づかなんだ」
「うん」
「気づいたときには遅かった」
「うん」
「結界は、人の耳には聞こえぬ音を立てて砕け散り、鵺の尾が伸びてきて、わらわの右足にかみついた」
「うん」
「知らなんだが、あれの毒には神通力を封じる力があるのじゃな。わらわの体は高熱にさらされたように熱くなり、全身がしびれ、一切の力が使えなくなった」
「うん」
「死ぬのか、と思うた」
「……うん」
「そのとき、何を思うたと思う?」
「わからない」
「おぬしのことじゃ」
「うん」
「もう、おぬしに会えぬ。そう思うた」
「うん」
「思うたとたん、いやじゃ、と思うた」
「うん」
「会いたい、また会いたい、会わねばならぬ、とそう思うた」
「うん」
「気がつけば、わらわは倒れており、鵺のやつがとどめをさそうと飛びかかるところじゃった」
「うん」
「そのとき、右手の人さし指がの、少しだけ動いたのじゃ」
「うん」
「わらわは、その指に神通力を集めた。爪が伸びて、鵺の左目に突き刺さった」
「うん」
「鵺は驚いて逃げていった。じゃが、わらわも動くことはできず、麻痺したまま意識を失うた」
「うん」
「……目が覚めたとき、おぬしの匂いがした」
「うん」
「おぬしに包まれておった」
「うん」
「そのことが、わらわをなんとも幸せにした」
「うん」
「千二百年……」
「うん?」
「千二百年のあいだ、わらわは守る者であり、教える者であり、導く者であった」
「うん」
「じゃが、今はちがう」
「うん」
「今わらわは、守られる者であり、支えられる者であり、愛される者なのじゃ」
「うん」
「わらわを離すでない」
「うん」
「きつく抱きしめよ」
「うん」
「……わらわは思い上がっておった」
「うん」
「鉄鼠も、火車も、あの水虎さえも、わらわの結界は破れぬ。そう思い上がっておった」
「うん」
「じゃが、それは誤りであった」
「うん」
「おぬしがくれた力だったのじゃ」
「うん」
「おぬしがそばにいてくれたら、わらわは負けぬ」
「うん」
「おぬしがそばにいてくれたら、わらわはくじけぬ」
「うん」
「おぬしがそばにいてくれたら、わらわの力は無限にふくれ上がる」
「うん」
「そばに……」
「うん?」
「そばにいておくれ」
答える代わりに、ぼくは口づけをした。
深く深く、口づけをした。
天子さんは、やさしく応えてくれた。
口付けたまま、ぼくたちは眠りに落ちた。
幸せな、満ち足りた眠りに。




