前編
1
テレビでは、台風15号が紀伊半島に上陸したというニュースを報じている。
岡山県の内陸部では夕方から夜中にかけて雨が降ったというが、この村にはまったく影響がなかったわけだ。
ただしわが家には別の種類の台風が上陸している。今のところ不気味なほど静かだけど。
その超大型台風、つまり天子さんは、ちゃんと朝やって来て食事を作ってくれた。ぼくはびくびくと天子さんの顔色をうかがいながら、朝食を口に運ぶ。味なんかわからない。天子さんは、いつも通り普通に朝のあいさつをしてくれた。そのいつも通りというのが怖い。
いつ暴風雨が吹くんだろう。こんな生殺しには耐えられない。いっそ今すぐ怒りを爆発させてほしい。神通力は使わないでね。
「そういえば天狐様」
大切りの油揚げの入った味噌汁を、ふうふう吹いて一口食べた童女妖怪が言葉を発した。
「なんじゃ」
天子さんの声の調子は普通だ。
「昨日、というか今朝、骸骨たちが大きな骸骨を運んできたときなのです」
「ふむ」
「大きな骨は、妖怪だとは表示されなかったのです」
ここでぼくは思わず質問をした。
「そういえば、前にも〈表示〉と言ってたな。名前が頭のなかに表示されるのか?」
「目をつぶって近くを探るときは、頭のなかに表示されるです。目で相手をみると、妖怪や妖気を帯びたものの上に、ぽわんとしたものが出てきて、名前があるものだったら名前が表示されるです」
便利な能力だな。
童女妖怪は天子さんに向き直って質問を続けた。
「ところが、右腕まで組み上がったとき、〈骨女〉と表示されたですよ」
「ほう?」
「あれはどういうことなのか、天弧様ならおわかりですか?」
「いや、わからん。そもそもなぜあのような強力な妖気を持つものが結界のなかに入れたのか、不思議でならぬ」
「あ」
「ん? どうした鈴太」
「同じだ」
「同じ? 何がじゃ?」
「溜石と」
「なに」
「溜石は強い妖気を持つけど、ただの石だ。それ自体は人格を持っていない」
「うむ」
「そして誰かに運んでもらえば、溜石は結界のなかに入れる」
「それはそうじゃ……ああ、そうか」
「骨女は、ばらばらになるとただの物体になるんじゃないかな」
「なるほど」
「ただし強い妖気を持ってるけどね」
「それなら溜石と同じじゃ。ならば結界を通ることもできよう」
「そしてなかで組み立てたら〈骨女〉に戻るんだ」
「そんな手があったか」
「同じ方法を使われたらほかの妖怪も結界に入って来られるね」
「自分の体をばらばらにできる妖怪など、ほかにはあるまい」
「それなら安心だ」
「うむ」
童女妖怪が、じっとぼくをみてる。
「お前、意外に頭いいです?」
頭を両側からぐりぐりしてやった。
天子さんと自然に会話させてくれたお礼だ。
そのあと、恒例の〈探妖〉タイムとなった。
今朝、天逆毎は村から一キロほどの地点にいた。妖気が残った溜石の数は四つで変わらない。童女妖怪はお社に帰った。
食後のお茶を吹いて冷ましながら、ぼくは覚悟を決めた。
(こちらからは山口さんの話題は一切出さないし、こちらからはあやまらない)
(天子さんが山口さんのことを言い始めたら)
(ただちに土下座する)
そう決断すると心がらくになった。
ぼくは天子さんに話しかけた。童女妖怪がいなくなると、こんな簡単なことをするにも、けっこう勇気が必要だった。
「お、和尚さんはどうなの?」
「今朝は無理やり起こしたからのう。寺に帰るなり倒れるように眠った。できれば十日か二十日はそっとしてやりたいのじゃが」
「そのあいだに妖怪が出なければいいんだけどね」
「うむ。それはそうと、法師殿を連れて参ったときには、骸骨どもが倒れておったのう」
「あ、スケルトンね」
「すけるとん?」
「下級の骸骨のモンスターのことを、そう呼ぶんだ。ファンタジー小説ではね」
「ほう? で、あれはもしや、おぬしの作ったお札で倒したのかえ?」
「うん。ぼくの偽物のお札でも、何とか効果があったみたいだ」
「効果があるのなら、もはやそれは偽物ではあるまい。火車との戦いの折にも、千の死体を火車の呪縛から解いたではないか」
「どうして、作り方を知らないぼくが作ったお札に、効果があったんだろう?」
「ふむ。わらわは長年〈はふり〉の者と過ごしてきたゆえ、お札にどのような文字を書くのかは知っておる。神事の手順や作法も知っておる。それを幣蔵にも教えてやった。しかし幣蔵の作るお札には効果がなかった」
「そうなんだ」
「お札の字を書いたあと、〈はふり〉の者は、左手を握って人さし指と中指を額に当て、右手のこぶしから人さし指と中指を、こんなふうにお札の上で振っておった」
天子さんは、動作をしてみせた。右手を高い所から振り下ろして空中を二回たたき、さらにちゃぶ台をたたく寸前まで振り下ろした。そして、左右を払いながら右手を振り上げた。
「この動作を九回繰り返すのじゃ。何か呪文を唱えておったが、それについて訊いたとき、呪文はあるにはあるがその文言が呪力を持つわけではなく、心の持ちようが大事なのだと言うておった」
「心の持ちよう」
「そうそう。それと、何かを禁ずるお札を書くときには、おぬしがやっておったように、下側の文字から書いておった。幣蔵がそのまねをしても何も起きなかったのじゃがのう」
「そうなんだ」
「おぬしには、陰陽師としての才があるのかもしれぬ」
「一族の血なのかなあ」
天子さんは、それには答えず何かを考えている。
「京か。京に行けば……」
そのつぶやきは小さな声だった。
「え? 京? 京都に行くって言ったの?」
「いや、何でもない。それより、お札を書きためておいてはどうじゃ」
「あ、そうだね。いつ何がいるようになるかわからないからね」
「どれ。一度お札を確認しておくか」
「え? 最初にみせてもらったので全部じゃないの?」
「あれは店頭に置いてあったものだけじゃ。お札の大部分は書斎の棚に入れてある」
天子さんとぼくは書斎に移動した。
書斎に入るとき、ぼくは入口の柱に掛けてある板を指さして訊いた。
「そういえば、前から気になってたんだけど、これは何?」
「ん? 読めぬか? 〈四宝堂〉と書いてある」
「いや、字は読めなくもないんだけど、意味がわからない」
「ふふ。なるほど。今ごろは、あまりこういうことは教わるまいのう」
「こういうことって?」
「むかし、北宋の蘇易簡という者が、自分の書斎を〈四宝堂〉と呼んでおった。それになぞらえたのじゃな」
「へえ?」
「わけがわからんという顔じゃな。〈文房四宝〉という言葉を知っておるか?」
「いや。知らない」
「文房とは、文章の文に女房の房と書く」
「文房具の文房?」
「そうじゃ。文房とは、書斎という意味なのじゃ。文房四宝とは、筆、墨、硯、紙を指す。その四宝を納めた小さな建物じゃから四宝堂じゃ」
「ふうん」
よくわからなかったけど、おじいちゃんがこの部屋を大事にしてたことは、よくわかる。部屋の空気というか、質感が、ほかの部屋とはまるでちがう。ここはほかの空間から切り離された別の小宇宙だ。天子さんも、この部屋は格別大切に掃除してくれている。
「こちらの棚にお札が入っておる。こちらには筆と硯と墨じゃな。そちらがわには紙がしまってある」
前にもざっとはみたつもりだったけど、こんなにお札があるとは気づかなかった。紙の量と種類もなかなかだ。
「こちらの押し入れには、歴代のご先祖が書いた書が入っておる。この上の一角が、幣蔵の書じゃな」
「おじいちゃん……字がうまかったんだ」
「そうじゃなあ。字を書くのは好きじゃったなあ」
「天子さんも字が上手だよね」
「まあ、たしなみ程度にはの」
「ぼくに教えてくれないかな」
「ほう。書をいたすか。よいぞ。教えてやる」
以前は習字なんて興味もなかったけど、なぜか急に書道をしてみたくなった。
「練習用の安い筆を取り寄せよう。わらわがみつくろって殿村に注文しておくから、少し待て」
「うん。筆なんか何でもいいよ」
「はは。安いから悪い筆というわけではない。自分に合った筆を使うのが一番よいのじゃ」
「〈弘法は筆を選ばず〉っていうけどね」
「その言い回しは、わらわは好かぬ」
「え? どうして?」
「かのおかたは、道具を大事になされた」
「かのおかたって、弘法大師様だよね」
「そうじゃ。かのおかたは、嵯峨天皇に〈狸毛筆奉献表〉を献じておられる。それには、書く文字によって筆の大小長短剛柔を吟味することが大切だと書かれてあるという。書きたい字に合わせて筆を選べということじゃな。かのおかたは、何をなさるにも、それにふさわしい道具を調えるよう心がけておられた」
「そうなんだ。なら、〈弘法は大いに筆を選ぶ〉というのが本当なのかな」
「はは。まさにそうじゃ。ただし、かのおかたは、どんな筆を手に取っても、その筆が生きるような字をお書きになられたにちがいないから、その意味では〈弘法は筆を選ばす〉という言葉も、まちがいというわけではない」
その後しばらく、天子さんによる弘法大師談義が続いた。
なんと弘法大師という人は、中国で筆の作り方もマスターしたらしい。ほんと万能の人だよね。チートだ。実は異世界から来た人なんじゃないだろうか。
2
日が変わって九月一日となった。
おじいちゃんの葬儀があったのが三月十八日で、ぼくが羽振村に移住してきたのが三月二十六日だった。もうあれから半年近くが過ぎたわけだ。
今朝神社を掃除に行ったとき、空気がひんやりしているのを感じた。こんな山の上では、秋の気配が忍び寄るのも早いんだろう。
今日も天逆毎は村から一キロほどの場所にいた。溜石の状況は変わらない。
天気はどんよりしている。午前中は五人ほどお客があった。
昼ご飯のあとラインに返信していると、天子さんが訊ねてきた。
「未完からの連絡かの?」
「うん。今日の昼ごはんは、自分で作ったお弁当だって」
「ほう」
足川未完さんが京都に帰ったのが八月十四日のことだった。
以来毎日一通、ラインが届く。
最初のうちは、わが家でたべたうどんがおいしかったとか、そうめんがおいしかったとかいう話題ばかりだった。
やがて、今日は京都で何を食べたかという話題がおもになった。
けっこう写真がついてくるんだけど、どれもなかなかおいしそうだ。
自分でお弁当を作ったというのは、はじめてだ。
「どんなお弁当だったのか書いてなかったし、写真もついてなかったんで、中身を訊いたよ」
「ほう。しかし、はじめて作ったお弁当とあらば、そうたいした中身でもあるまい。訊くのはかえって失礼ではないかの」
「そんなことないよ。一生懸命作ったんだろうから、そこは褒めてあげなくちゃ」
「ほう。どういうふうに褒めるのじゃ」
「そりゃあ、おいしそうだね、ぼくも食べたかった、とか何とか」
「ほう」
うん?
天子さんの目が、少し座ってないか?
「ずいぶん、女の心理に詳しいようじゃのう」
(しまったーーーっ!)
(地雷を踏んでしまったーーーー!)
(自分のほうからこんな話題を振るなんて、ぼくの、ばかやろーーっ!)
「どうした? 顔色が悪いようじゃが」
(く、来るなら来い!)
(いつでも土下座してやる!)
そのとき、誰かが玄関に来た。
(やったーーー)
(救いの神だーー)
「こんにちは。鈴太さあん」
(うわーーーーーっ!)
(なんでよりによって今来るんですかーー!)
サンダルを履いて店先に出た。
今日の山口さんは、珍しいことにスーツ姿だ。
「こ、こんにちは」
「あら? 顔色が悪いわよ。天子さんもこんにちは」
「うむ」
「あのね。今日はお別れのごあいさつに来たの」
「え?」
「熊本に帰ることになったの」
「そ、そうなんですか」
「鈴太さんにはお世話になったわ。天子さんにも」
「い、いや。そんなことは」
「本当にありがとうございました」
山口さんが深々と頭を下げた。
長い黒髪がばさりと垂れて、地面につきそうだ。
「じゃあ、さようなら」
そう言うと、くるりと振り向いて、歩き去っていった。
「熊本に……帰るんだ」
天子さんは無言で山口さんの後ろ姿をみつめていた。
3
午後にやってきた秀さんが、いろいろと話を聞かせてくれた。
秀さんはゴシップ好きで、芸能界の恋愛事情に詳しい。そして町内のいろんな人の事情に詳しい。
「ご主人の葬儀はご主人の実家であったんじゃけどな、そのあと山口はこの村に戻ってきたんよ。そうしたら、熊本のお父さんが来てなあ、三日ほど村で過ごしていきよった。そいでなあ、山口の籍を離れて実家に戻ってこいちゅうて、懇々と諭したんじゃ」
どうしてそんなことを知ってるんですかと訊こうかと思ったけど、やめた。
「ところがなあ、あの家と土地は亡くなったご主人が貯金のほとんどをつぎ込んで買うたもんやし、家の設計は二人でやったもんやしなあ。気が済むまでここに住ませてほしいいうて、お父さんを押し切ったんよ」
秀さんは、みてきたように説明を続けた。
「それからもお父さんは、時々来たんよ。そのたんびに山口は、もう少し待ってくれ、もう少し待ってくれ言うて、ここを引き払う日を先延ばしにしてきたんじゃ」
そうだったのか。
自宅で仕事もしていたし、生活は安定しているようにみえた。
だけど山口さんは、まだ若い。再婚や、新しい生活のことも考えていい年齢だ。
こんな村にいては再婚相手なんかみつからない。お父さんが帰って来いと言うのも当然だ。
「お父さんは熊本で、いくつか会社を経営しとる金持ちなんじゃ。じゃから実家に帰れば生活に不自由はせんのじゃがなあ。ここは空気もええし、景色もええ。傷心を癒すには悪くない場所じゃと、ご両親は思っとった」
秀さんが、ずずっと渋茶をすする。いい音立てるなあ。
「風向きが変わったのは、ほれ、虎騒動じゃ」
「あ」
水虎が出たのが、八月の十二日だった。
十三日には青年団の人が二人負傷し、十四日には猟友会の人が五人と警官が三人負傷した。そのあと、武装警官隊が村内や麒麟山を捜索する騒ぎになった。その騒動が新聞で報じられていたらしい。
秀さんによると、その記事を読んだ山口さんのお母さんがひどく心配して、とにかく娘さんを連れ帰るようにご主人、つまり山口さんのお父さんに強く要求した。それで、お父さんも仕事のつごうをつけて、立て続けに何度もやって来たんだという。
そういえば、八月二十五日には、山口さんの家の近くに熊本ナンバーの高級車が止まっていた。たぶん何度目かにお父さんがやって来てたんだろう。
「母親が泣いて心配して帰ってくるように言っちょると、繰り返し父親に言われてのう。山口もしぶしぶ帰郷する腹を決めたんじゃ。家は不動産屋に相談して売るための査定を頼んどるようじゃ」
どうしてそんなことまで知ってるのか不思議だけど、とにかく、山口さんのようすはわかった。
秀さんが帰ったあと、天子さんがぽつりと言った。
「山口がおぬしを誘惑したのは、賭のようなものじゃったのかもしれぬなあ」
誘惑という言葉が天子さんの口から出て、ぼくはどきりとした。
「賭?」
「本当は、この里に残りたかったのかもしれぬ。じゃが、両親は熊本に帰れと強く勧める。この里と自分をつなぐものはない。あるとすれば、おぬしじゃ」
「ぼく?」
「自分を人間の世界に引き留めてくれたおぬしなら、自分をこの里につなぎ留めてくれるかもしれぬ。そんなふうに期待したとしても不思議はない」
あのときの山口さんとの会話の内容が、完全に天子さんに知られている。
「おぬしが山口を抱いておったら、山口はこの里に残る道を選んだのじゃろうかのう」
「そうなのかな」
「わからん。逆にこの里の思い出を自分の体に刻みたかったのかもしれぬ」
ぼくは天子さんの顔をみた。天子さんは、遠くをみるような目つきをしている。
「天子さんにもわからないんだね」
天子さんが首をめぐらしてぼくをみた。
「わからん。千二百年も女をやっておるが、女の気持ちはわからぬ」
「天子さんにわからないんじゃ、ぼくにわかるわけないよね」
「そうじゃな。じゃが、わからずとも、おなごを慰めたり、励ましたりすることはできる」
「できるかな」
「うむ」
結局、この話題はそれきりになった。
それ以上追求はされず、責められず、この話題が蒸し返されることはなかった。
正直、ぼくはほっとした。
もしも山口さんが村を去る決心をせず、村にとどまっていたら、きっとこんな穏やかな結末にはならなかったろう。
だから山口さんが村からいなくなるのは寂しいけど、ぼくは一方で、事の成り行きに奇妙な安心を感じてもいた。




