中編5
13
昼ご飯の準備をして、童女妖怪を呼び出した。
「またあいつらが来たですね」
「お前、お社のなかにいても外のことがわかるのか?」
「寝てたらわからないです。起きてて意識を集中してたら、ぼんやりと感じるです。強い神気や妖気を持った人が近くに来ればわかるです」
「ふうん。呼びかけられたら聞こえてるよな」
「はいです」
「あれ? お前、食事ができると勝手に出てくるじゃないか。あれ、食事ができるのをみてるわけじゃないのか?」
「みてはいないのです。でも、油揚げの香りは特別なのです」
「ふうん? まあいいや。食事にしよう」
「いただきますです」
「いただきます」
食事が終わると、童女妖怪はしばらくごろごろしながら漫画を読んでいた。
ぽつぽつと来客があり、それから五軒ほど配達に回って帰ってくると、童女妖怪は消えていた。
今日はもともとなら天子さんが食事当番の日だけど、もう帰ってこないので、ぼくが作らないといけない。カレーうどんにしよう、油揚げの入ったカレーうどんというのも、なかなかおつなものだ。
タマネギを焦げ茶色にしんなりするまで炒め、水とブイヨンの素を入れ、揚げと人参と豚肉の薄切りとネギを入れてことこと煮立てる。ここで充分に時間をかけるのがうまみを引き出すこつだ。
電話がかかってきた。
「鈴太さぁん」
「あ、山口さんですね」
「そうよ。小豆島の醤油を一升瓶で六本、すぐに欲しいの。悪いんだけど、持って来てもらえないかしら」
ぼくは思わず時計をみた。
もう夕方といっていい時間だ。
こんな時間に配達の注文とは珍しい。
しかも一升瓶のお醤油が六本とは。いったい、一人暮らしの山口さんが、どうしていっぺんに六本もお醤油を買うんだろう。
「明日、父が来るの。お土産にしたいのよ」
それでわかった。うちが仕入れている小豆島醤油は、島の小さな醤油屋で作っている。独特の風味があって、ぼくはとても気に入っている。最近、小豆島のお醤油が、わりと人気を呼んでいて、その店の製品は特に評価が高い。ところが、生産量は急には増えない。だから、直接島に行って買うのでなければ、以前から取引のある店でしか買えない。幻の醤油なんて呼ばれているようだ。
お父さんということは、熊本から来るんだろう。あちらにももちろんおいしい醤油はあるだろうけど、お土産としてこの醤油は悪くない。
「わかりました。すぐに持っていきます」
「悪いわねえ」
ぼくは醤油を引っ張り出すと、自転車の荷台に取り付けた籠に入れて、太いゴムバンドでしっかり止めた。
最初のうちはゆるい下り坂だけど、最後はわりときつい登り坂だ。自転車は昔風のしっかりした造りで、一升瓶を六本載せてもびくともしないかわり、ペダルは重く、自転車そのものもかなり重い。ぼくは自転車から降りて、押して坂を登った。
もう夕陽は落ちかかっている。すぐに夜がやってくるだろう。
いつものように裏口に回った。
「こんにちはー」
「あら、早かったわね。ごめんなさいね」
山口さんが戸口を開けてくれた。
くらっとした。
女の人の香りが、こんなにも強烈なものだと、はじめて知ったような気がする。
そして目に映る山口さんの姿の何もかもが、ぼくの男の部分を直撃する。
べつに山口さんが、ことさら扇情的な服を着ていたというわけじゃない。
むしろいつも着てる服のほうが刺激的だ。
今日着ている白っぽい服は、下着が全然透けてみえない。
だけど、そんなことじゃないんだ。
少しとろんとした目つき。
上気したように色づく頬。
ほんのちょっと乱れた髪。
ピンク色のなまめかしい唇。
少しかすれた声。
そのすべてが、女であることを強烈に訴えている。
(い、いったい何があったんだろう)
「悪いんだけど、奧まで運んでもらえるかしら」
「あ、はい。もちろんいいですよ」
一升瓶が六本入ったケースは、正直ぼくでも重い。山口さんにはとても持ち上がらないだろう。ぼくはスニーカーを脱いで家に上がり、ケースをうんしょと持ち上げた。
「どこに運びましょう」
「こちらにお願い。帰りがけまで内緒だから、ちょっと秘密の場所に置いておきたいの」
サプライズということなのかな?
まあ、山口さんには山口さんの考えがあるんだろうから、ぼくがとやかく言うことじゃないけど。
(えっ? この部屋?)
「ここって寝室じゃないんですか?」
「うふふ。そうよ。ここならみつからないから」
そりゃみつからないよ。いくら娘の家でも、いきなり寝室をのぞき込んだりする男性はいない。
「うわっ」
「あら、どうしたの?」
「い、いえ。何でもないです」
部屋に一歩踏み込んだとたん、濃密な女の人の香りが鼻に飛び込んできて、思わず声を上げてしまった。
「そっちの隅に置いてほしいの」
「はい」
部屋の隅には、ちょうどケースを置けるくらいのスペースがあった。
そこにケースを置いて、手を放した、その瞬間だった。
かちりと音がした。
「え?」
(今の、ドアが閉まる音じゃ……)
振り返ったとき、部屋の電気が消えた。
完全に消えたんじゃなく、スモールライトがついている。だけど、明るい部屋が急に暗くなったから、一瞬視界が奪われた。
ぱさり、と音がした。
ぼくは、ごくりとつばを飲み込んだ。
山口さんは上着を脱ぎ捨てた。そこにあったのは、下着だけをまとった肉感的な肢体だった。スモールライトに照らされて、白い豊満な体が幻想的に浮き上がっている。
声を上げようとしたけれど、喉が詰まって声にならない。
ゆっくりと山口さんが近づいてくる。
何もできず立ちつくしているぼくの首筋に、やわらかな二本の腕が巻き付く。山口さんの顔が迫ってくる。思わずぼくは目を閉じた。
唇にやわらかいものが押し当てられた。ルージュだかリップクリームだか知らないけど、なめらかな感触だ。
ぬるっとしたものが、唇を割って入って来て、ぼくの舌にからみついた。
ぼくの脳髄はとろけてしまって、もう何も考えられない。意識のすべてを口と舌に集中して、この経験したことのない快感を味わい続けた。
いつのまにか山口さんの体を抱きしめていた両腕に力がこもる。山口さんも、身を揺すりながら強くぼくの頭をかき抱いた。
長い長い口づけのあと、唇と唇が離れた。
「ああン」
甘い声が耳朶に響く。その小さなうめき声は、じいん、と脳髄がしびれるような快感をぼくに与えてくれる。
山口さんの息が酒臭い。洋酒の香りだ。それも、飲んだばかりのお酒の香りだ。その呼気を胸深く吸い込みながら、ぼくも酔ったようにふらふらした。
山口さんが、体を押しつけてくる。ぼくは押されるままに数歩あとずさった。
と、膝の少し上の部分が弾力のある何かにぶつかる。
ベッドだ。
ぼくはそのままベッドに座り込んだ。
山口さんがしがみついてくる。ううん、ううんと、ねだるような鼻にかかった声を上げながら。
ぼくは山口さんを抱きしめて体を左にひねり、その女体をベッドに押し倒した。それから深くベッドの奧に上がり込み、右手を山口さんの腰に回して持ち上げ、その全身をベッドに横たえた。びっくりするほど軽々と持ち上がった。
今度はぼくのほうから唇を重ね、ぼくのほうから舌を挿し入れた。その感触にぼくは夢中になり、口の角度を変えながら、さんざんに山口さんの口中を蹂躙した。
ぼくの左手は山口さんの頭の下にあり、ぼくの右手は山口さんの腰の下にある。
左手をさらに深くベッドの下に滑り込ませて山口さんの顔の真下まで進め、右手は山口さんの肌の感触を味わいながら上に持ち上げ、左胸を捉えた。
その柔らかな胸をぐっとつかむ。
「ああっ」
山口さんが突然唇を離して痛みを訴えた。
「ご、ごめんなさい」
「うふふっ」
山口さんは妖艶な笑みを浮かべて、口を開いたままキスしてきた。
ぼくは強くなりすぎないよう気をつけながら、右手でその至高のふくらみを愛撫した。さすったり、やわらかくもんだり、つかんだままたゆんたゆんと左右にゆすった。
「ああ……ああ……ああん」
耐えきれず山口さんが声を上げる。なんて官能的な声なんだろう。
山口さんが下半身をよじり、ねだるように太ももをすりつけてくる。ぼくの興奮はたえきれないほど高まってゆく。
もう一度、ぼくは山口さんに深く深く口づけた。
どれほどそうしていたろうか。
山口さんは、左手をぼくの背中から離して、二人の重なった体のあいだに入れようとした。ぼくはその動作を助けるために、少し体を浮かせる。すると山口さんの左手は胸のあいだに滑り込んで何かをした。
小さな音が聞こえた。ぼくは下をみおろして、音の正体を知った。
ブラジャーのホックが外れた音だった。
山口さんが体を起こそうとする気配を感じて、ぼくも体を起こした。
起き上がった山口さんは、ブラジャーを脱いでベッドの下に落とした。
今ぼくの目の前に、上半身裸の山口さんがいる。
生まれてはじめてみた、女性の生の乳房だ。映像や画像ではみたことがある。でも実物はまったくちがった。
ぼくは、ごくり、とつばを飲み込んだ。
「もしかして女の人の裸をみるの、はじめて?」
「は、はい」
「ふふ。うれしいわ」
そういいながら、山口さんはぼくに身を寄せてきた。ぼくは山口さんの体を抱きしめた。その耳元で、山口さんがささやいた。
「あなたも脱いで」
ぼくは熱に浮かされたように、Tシャツとズボンを脱ぎ捨てた。
そして山口さんと肌を重ねた。
これが女の人の体なんだ。そう思いながら、胸で山口さんの胸の感触を味わった。
もう目が慣れてきたので、山口さんの表情がはっきりとみえる。
せつなそうな顔をしている。それでいて優しそうな顔だ。
その瞬間、山口さんの顔に、別の人の顔が重なった。
天子さんだ。
天子さんの顔が、オーバーラップした。
天子さんの静かな笑みが、ぼくの胸に突き刺さった。
はちきれんばかりにふくれ上がっていた欲望のかたまりが、急速にしぼんでゆく。
沸騰していた汗が冷めてゆく。
山口さんは、ちょっと不思議そうな顔をして、ぼくの体温を確かめるかのように、そっと身を寄せてきた。そのしぐさには、先ほどまでのなまめかしさはない。
「何を思い出したの?」
まっすぐな質問だ。だから、ぼくもまっすぐに答えた。
「天子さんを」
山口さんは、ほほえんだ。優しいほほ笑みだ。だけどなぜだか泣き顔にみえた。
「そうなんだ。それじゃ、しかたないわね」
そう言って、ベッドに寝転がり、くるりと転がってぼくに背を向けた。
ぼくは何も言わず服を着て、ドアの所に行き、ロックを外して部屋の外に出た。そして音をできるだけ立てないようにドアを閉め、勝手口から家を出た。
もうまっくらだ。なぜかぼくは泣いていた。どうして泣くのか、自分でもわからない。でもこの暗闇なら、誰もぼくの涙をみることはない。
家に帰ると急いでカレーうどんを仕上げ、飛び出してきた童女妖怪と一緒に食べた。
「女の匂いがするです」
「そこは気づかないふりをしておけ」
シャワーを浴びて寝床に入った。




