中編1
5
どんよりした天気だ。
今日は朝から一人もお客さんが来ない。
山口さんは、どうしているだろう。
もう一週間も顔をみせてない。
仕事が忙しいんだろうか。
山口さんは、小物入れとか布の手提げ袋とかのデザインをして、お金を稼いでいる。
ご主人が生きてたときからそうだったらしい。というか、ご主人の指導で技術を磨いて、ご主人の紹介した会社にデザインを売ってるということだ。
「天子さん。ちょっと出てくる」
「うむ」
ぼくは自転車に乗って、山口さんの家に向かった。
坂の下で自転車を降り、長い上り坂を自転車を押して上っていく。
雲が渦を巻くようにして、空を覆っている。
傘を持ってくればよかったかな、とふと思った。
みえた。
山口さんの家だ。
おしゃれな家なのに、なぜか今日は不気味にみえる。
新築といっていい新しさなのに、なぜか今日はひどく古びてみえる。
少し息をきらしながら、坂を上りきった。
勝手口に回る。
「こんにちはー」
しばらく待ったが、返事がない。
「まいどー」
少し大きな声を上げた。だけどやっぱり返事がない。
留守なんだろか、とは思わなかった。
ぼくは、山口さんが家にいることを確信していた。
息を大きく吸おうとして、胸がこわばっているのに気づいた。
どうしてぼくは、こんなにどきどきしているんだろう。
思いきって息を吸い込み、大声を出した。
「ごめんください!」
その大声は、ぼく自身の耳をじいんとしびれさせた。
そのしびれが消えるまで待ったけれど、返事はない。
意を決して、勝手口のドアノブに手をかけ、回した。
ノブは回った。
ドアを開けて、家のなかに足を踏み入れた。
いる。
確かに人がいる。
ダイニングルームに人のいる気配がする。
そのときだった。
「うっ!」
突然声がして、僕は心臓が止まるかと思うほど、びっくりした。
「うっ!」
また、同じような声がした。
山口さんの声だ。
だけど、何て言えばいいのかわからないけど、ふつうの声じゃない。
「うっ!」
まただ。またこの声だ。
「うっ!……うう……」
喉を詰まらせたような声が途切れ途切れに響き、その合間に、嗚咽するような、すすり泣くような声がする。
ごそごそというような、奇妙な音も聞こえてくる。
ふと思い出した。
野良犬がゴミ箱をひっくり返して、生ゴミを食べているのをみたことがある。どうしてそんなことを思い出すのかふしぎに思ったけれど、今聞こえてくる音は、あのとき聞いた音と、どこか似ている。
そっと靴を脱いで部屋に上がった。
何度も来たことから生まれる気安さに助けられ、ぼくは部屋を横切って、ダイニングルームをそっとのぞいた。
いた。
山口さんが、いた。
椅子に腰掛け、深く身を折って、まるでテーブルに突っ伏すような姿勢をとっている。
うつむいているから顔はみえないけれど、髪はぼさぼさだ。
いつも綺麗にしていた山口さんが、そんな髪をしているということが、ぼくに強い衝撃を与えた。
けれど、着ている服も、体全体の雰囲気も、確かに山口さんだ。
山口さん、と声をかけようとしたけれど、ぼくの喉はつぶれたようにちぢこまり、息を通そうとしてくれない。
「うっ!……うっ!……おええっ……うう……うっ!」
まるで悲鳴のようなうめき声をあげながら、山口さんはテーブルの上の何かをむさぼっている。
それを両手でつかんで口に運び、むしゃむしゃと咀嚼しては、無理やりに飲み込んでいる。
「ぐえっ……ぐえっ……ううっ……うっ!」
山口さんは、手を止めようとしない。
せき立てられるように、何かを口に運んでいる。
そのときぼくの鼻が、機能を取り戻した。
生臭い。
ひどくこの部屋は生臭い。
ゴミ箱には、何かの包装紙のようなものが乱雑に突っ込まれている。
山口さんが何かをむさぼっているそのテーブルの上には、ビニール袋と紙包みのようなものが散乱していて、そこから生臭い匂いが立ちのぼっている。
肉屋の紙包みだ、と気づいた。
紙包みに生肉のかけらが貼り付いていて、それが臭気を放っているんだ。
そのとき山口さんが、顔を上げて、こちらをみた。
あの美しい顔がみられる、と思ったぼくの期待は裏切られた。
白かった顔はどす黒く染まり、赤茶色の血管が顔中を網の目のように覆っている。
それは人ではない何かの顔だった。
ひび割れた口の周りは、赤く汚れている。
その何かは激しい勢いで立ち上がると、ぼくを突き飛ばして駆け出した。
ぼくは壁に頭を打ちつけ、ふうっと意識が遠くのを感じた。
6
目を覚ましたぼくは、ふらふらと立ち上がった。
たぶん意識を失っていたのは、ほんのわずかな時間だと思う。
後頭部がずきずきと痛むので、手を当ててみた。ひどく痛んだけれど、手をみるとべつに血も付いていない。
靴を履いて、首筋をさすりながら勝手口を出た。
いない。
みわたすかぎりの場所に、山口さんはいない。
ぼくは自転車に乗って、坂道を下りた。
そんなに急いだつもりじゃなかったけれど、たぶんだいぶスピードが出てた。そのせいで、坂を下りきった角から、ひょこりと出てきた人に、危うくぶつかるところだった。
急ブレーキをかけ、ハンドルを思いきり右に切って、どうにか衝突をのがれた。
「ありゃあまあ、あぶねえのお」
秀さんだった。
秀さんは、〈三婆〉と呼ばれる強烈な三人のおばあさんの一人で、この近くに住んでいる。
「年寄りを殺す気かあ。気をつけにゃおえんで」
「す、すいません」
「おめえ、山口んとこ、行っとったんか」
「え、ええ」
「留守じゃったろうがあ」
「え? ええ、まあ」
「今、美保さんに会うたけん」
「ええっ? どこでですか?」
「庚申口のとこじゃ。わからんか。樹恩の森の入口じゃあ。ほれ、柿の木がある地蔵さんの横の小道じゃ」
「あ、わかりました」
「後ろ姿をみて声をかけたけど、気づかんふうで、山のほうに入って行ったんじゃけどなあ。おめえ、ほんまに気をつけにゃおえんで」
「すいません。気をつけます」
秀さんに対しては、とにかく下手に出て礼儀正しくすることだ。それでも運が悪ければ小一時間説教をくらうけど、口答えしようものなら、お説教の時間が三倍になる。
この日は、機嫌がよかったのか、用事があったのか、幸いにもそれ以上お小言は続かず、秀さんは、腰の曲がった姿勢のまま、ひょこひょこと歩き去った。
どうしようかと思ったが、とにかく一度乾物屋に帰った。
そして、天子さんに事情を話した。
「ふうむ。転輪寺に行こうかの。これは、じゅごん和尚の領分じゃ」
7
「幽谷響、じゃろうなあ」
話を聞いたじゅごん和尚は、そう言った。
山彦がどうしたっていうんだろう。
それが山口さんに起きた異変に、どう関係するっていうんだろう。
ぼくの不審そうな顔つきに気づいたじゅごん和尚は、紙に文字を書きながら説明してくれた。
「やまびこは、〈山彦〉とも書くが、〈幽谷響〉とも書く。今は声の反響を差していうが、もとはといえば、山に生ずる怪異、要するに妖怪なのじゃ」
「よ、妖怪?」
「そうじゃわい。長い年月を深い山のなかですごした老木には、木の精が宿ることがある。これを〈木霊〉という」
「は、はあ」
「木霊が、人の強い想念にさらされると、その人間に乗り移ることがある。これが幽谷響じゃ」
「山口さんに、その木霊とかいうのが乗り移ったっていうんですか」
「たぶん、そうじゃ」
「じゃあ、どうすればいいんですか」
「祓えばええ。ちょっと待っとれよ」
ゆらりと立ち上がったじゅごん和尚は、のしのしとお寺の奧のほうに消えた。
しばらくすると、両手に何かを持って戻って来た。
「よいしょ、と」
巨体を丸い敷物の上に下ろすと、和尚は手に持った物を床においた。
細くて平べったい小さな木だ。
長さは十センチちょっとだろうか。
赤い判子のようなものが押してあり、その下に、ぼくには読めない字がびっしりと書き込んである。
その細い小さな木を十本ほどまとめて細い縄で縛ってある。
縛った塊は四つだ。
「護摩木は、一本あればそれでじゅうぶんなんじゃが、一本では遠くに投げられんからのう。縛ったまま持って行くがええ。それも四束じゃ。大サービスじゃ」
「あ、あの。これをどうしろと」
「投げつけるんじゃ」
「投げつける? 山口さんにですか?」
「そうじゃ。直接ぶつけてもええが、足元に落ちればそれでええ。とにかく山口美保の体の近くに護摩木を投げ込むことじゃ」
「そうすると、どうなるんですか」
「護摩木に封じられた法力を嫌がって、木霊が出て行く。木霊が出てゆけば、山口美保は、もとに戻る」
「もとに戻れるんですか!?」
「話を聞いたところ、まだ木霊に憑かれてそれほど時間はたっとらん。だいじょうぶ。戻れる」
正直言って、信じられない話だ。
妖怪が実在するということも、この妙ちきりんな木切れで妖怪が追い払えるということも。
けれどぼくは、山口さんの姿をみた。
信じられないような振る舞いをみた。
さっきみたあの光景は、あまりにも鮮明で、みまちがいだとか気のせいだとは思えない。
でも、気のせいでなかったとしたら、あれはいったい何だったのか。
妖怪。
そんなものがいるはずない。
ないけれど、この村にならいるかもしれない。
たぶん、都会にいたときのぼくだったら、本気にしなかったと思う。
けれどこの村に来て、この村の空気を吸い、この村の風景をみなれたあとなら、じゅごん和尚の奇妙奇天烈な説明が、それほど理不尽なことだと感じない。
「あの。じゅごん和尚さん」
「何かのう」
「もし、このままにしておいたら、美保さんはどうなるんでしょう」
「何か月もそのままにしておいたら、木霊が山口美保に同化してしもうて、切り離せんようになるじゃろうなあ」
「同化?」
「そして畜生道に堕ちる」
それを聞いて、ぼくの心は決まった。
畜生道っていうのがどういうものなのかわからないけど、もう説明を聞くまでもない。
美保さんを、このままほっておくことは絶対にできない。
助けられるかもしれない方法があるなら、それをやってみる。
「じゅごん和尚さん」
「ん? 何じゃな」
「駐在さんにも説明して、おとな何人かで手伝ってもらったほうがいいんじゃないでしょうか」
秀ばあさんの言葉によれば、山口さんは樹恩の森に入って行った。
ぼく一人では、とても見つけられない。
「うーん。本人のためを思えば、あまり騒ぎを大きくせんほうがええがのう。天子どの」
「うむ」
「鈴太について行ってくれんかのう」
「もとよりそのつもりであった。鈴太、参ろう」
「う、うん」
蓬莱山、白澤山、麒麟山を合わせて三山というそうだ。三山と、三山に囲まれた森、つまり樹恩の森は、羽振家の所有だという。だけどぼくは、まだ入ったことはないけどね。
そんなことを考えながら、ぼくは立ち上がった。
四束の護摩木を手に持って。